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番外編/僕と音〜REN〜
始まりの音(2)☆
しおりを挟む定時制高校を卒業した後、6月の頃、花鈴ちゃんが一人暮らししていた隣県のアパートに僕も住むことになりました。僕はこのとき22歳です。お誕生日の早い花鈴ちゃんは4月で23歳になっていました。
花鈴ちゃんは既に化粧品のお店で美容部員の仕事をしていて、時々読者モデルをやったり芸能事務所のオーディションを受けたりしていました。時々ガールズバーでも仕事をしていました。同級生なのにこんなにどんどん仕事をこなして、夢も諦めないことを凄いと思いました。それともこれが本来の23歳の姿なのかなって。どうして僕はこんなに違うんだろうと思いました。
それに花鈴ちゃんが心配でした。昼も忙しいのに夜まで働くことがあるから。それも僕が働けないせいだ。だから花鈴ちゃんが頑張らなくちゃいけなくなってるんだと思いました。
僕も何か仕事をしなくちゃ。何か役に立たなくちゃと焦るようになりました。最初は職業安定所に行っていたんだけど……
「もうその辺の求人広告見てさ、とりあえず応募しちゃえば? 蓮は障害者手帳持ってるけど3級でしょ? 一番軽いやつじゃん。見た感じも全然普通だし。出来ないって思うから出来ないんだよ。いい? 気の持ちようだから。やってみれば通用する場所は絶対にあるから大丈夫!」
花鈴ちゃんは強い口調で僕にそう促しました。わかってもらえないのなんて当たり前。何処もそんなものだとも言っていました。
「ごめん……花鈴ちゃん……僕の、せいで」
僕が謝ると花鈴ちゃんは少し怒ったような顔しました。そして僕に言いました。
「別に頑張ってればいいだけだから。蓮は自分を責めすぎよ。僕のせいとか言わないで。一生言わないで!」
その口調は投げやりで面倒くさそうにさえ聞こえたから、僕の胸はズキズキしました。
花鈴ちゃん、やっぱり早く仕事に就いてほしいんだ。僕の生活まで支えるのは大変だから。そうだよね……。
急がなきゃ。早く見つけなきゃ。
早く、早く……
そうやって僕の気持ちが逸っていきました。
でも花鈴ちゃんはやっぱり優しいところがありました。
最初に僕は求人広告で見つけた近場のコンビニで働いたけど、2週間でもう来なくていい、要らないと言われました。お客様の顔を見れなかったり、簡単な計算をするときにうっかり指を使ったからかも知れません。凄く呆れた目で見られた感じがしました。最後の方なんて誰も口をきいてくれなかったし、最終日になってやっと「お疲れ」の一言でした。みんなとは仲がいいのに僕にだけ無表情なオーナーが怖かったです。
それでも花鈴ちゃんは僕を許してくれました。次の仕事も体調崩して1ヶ月しか持たなかったけど、仕方ない、また探せばいいと言ってくれました。
僕が胃が痛いと言って寝込むと看病してくれました。疲れているみたいで苛立ってる日もあったけど、ご飯もたまに手作りしてくれました。僕を元気付ける為に水槽を1つ、グッピーを2匹買ってくれました。
そうやって一緒に住み始めて約3ヶ月が経ちました。気温が涼しく秋めいてきた9月の日のこと。
――ねぇ、蓮は大人になりたいと思う?
グッピーに餌をあげていた僕は唐突な問いかけにポカンとなって振り返りました。ゆっくり部屋に入ってきた花鈴ちゃんも休みの日でした。
言葉の意味はよくわからないのに身体の距離だけ近付いていく。
なんだか不思議でした。
だって僕たちはもう大人のはずなのに。
未だ定職にも就けないこんな情けない男でも身体は大人になっているのに。もしかしてまだ子どもと思われてるんじゃないかと不安になりました。僕だけを置いて花鈴ちゃんや同級生のみんながどんどん大人として育っていく。そういう意味かと思って怖くなりました。
「花鈴ちゃ……」
僕の声は掠れて消えました。黙って見下ろしてくる花鈴ちゃんがたまらなく怖かったです。
だって僕と暮らし始めてからの彼女は、ほとんど笑わないから。いつも何処か不満そうだったから。見捨てられもおかしくないと思ったんです。
夕焼けが赤みを増して、彼女の形を濃く示す。でも顔は逆光になってよく見えないから僕は泣きたくなりました。
思わず震える手で花鈴ちゃんの服の裾を掴んでしまいました。顔を伏せ、見上げることも出来ないまま願いを込めました。涙がいくつも溢れ落ちました。ごめんなさい。行かないで。そんな思いでした。
花鈴ちゃんがそっと僕に合わせて屈んだのがわかりました。僕の頰を温かい手が撫でました。
「何怖がってるの。言ったでしょ。蓮の欲しいものならあげるって」
涙を指先が掬い取りました。いくらかはっきり見えた彼女の顔は悲しげでした。そのまま顔が近付いてきて唇同士が軽く触れました。
「私が欲しい?」
「え……」
「……あげてもいいよ。蓮になら」
魔法というものがあるのならこんな感覚なのかなと思いました。自分の中が何か変わっていくみたいで怖くて、だけど応えなくちゃ花鈴ちゃんが何処かに行ってしまうような気がしました。しかもあんな悲しい顔をしたままだなんて嫌だったから。
僕はか細い声で何度も謝ったような気がします。元に戻りかけていた声がまた掠れて小さくなりました。だけど変な恥ずかしい声だけ大きく出てきて、僕は自分で自分を気持ち悪いと思いました。こんな声を浴びても花鈴ちゃんは全く嫌がってるように見えませんでした。
やがて僕たちは見つめ合って、お互いの名前ばかりを呼び合う時間になっていきました。
大人になったのかな……僕。
そう思うと同時に壊れる音が聞こえました。
友達同士でこんなことするって聞いたことが無かったから、僕たちはきっともう友達じゃいられないんだとわかってまた涙が出ました。
だけど僕の間違いはここからだったのかも知れません。
一線を越えた後、もっと仲良くなっていければ何も問題なかったのかも知れません。
同じような雰囲気になることがまたありました。10月半ばまで何度かありました。
だけど僕から求めるようなことはどうしても出来ませんでした。何か違う気がしていたから。何か悪いことをしている気がしてならなかったから。
触れ合う度に痛みを覚え、ヒビが大きくなっていく感じさえしたんです。
そしてその感覚は気のせいじゃなかった。
――あのね、蓮。話があるの。
11月に入ったばかりの頃、花鈴ちゃんが言いました。2人きりのアパートの中、木枯らしがかすかに鳴いてる夜でした。
「私の親父、会社経営してるの知ってるよね? 今かなり厳しい状況なんだって。実家にお金入れなきゃなんないかも知れなくてさ、そうなると今の生活も……」
ベッドの淵に座っていた僕は、正直ぼんやりしていました。花鈴ちゃんと関係を持ってからなんだか現実味の湧かない日々が続いてたし、気まずくて花鈴ちゃんの顔もまともに見れなくなっていたんです。
でもこのときの花鈴ちゃんは、きっと凄く弱ってた。
「ねぇ……蓮……」
強い子だと過信してしまっていた。そんな僕の大失敗でした。
「聞いてるのッッ!? 私たちの生活に関係してることなんだよ!?」
「!!」
強く怒鳴られた僕は思わず飛び上がりました。すくめた肩に首が埋まりそうになりました。
静かな夜が突如ひっくり返って僕の頭はパニックになりました。だけど状況は僕を待ってくれません。
大きなつり目をいっぱいに見開き、唇を震わせた花鈴ちゃんが僕に詰め寄りました。肉食獣みたいな迫力でした。いつも綺麗に整えられている髪が珍しく乱れていました。
「このままじゃ一緒に暮らせなくなるって言ってんの!! なんでそんな無関心なの? どうでもいいって訳?」
「花鈴ちゃ……まって」
「私だって本当はこんなこと言いたくないのに……!」
お願い、待って。この耳が、この頭が、落ち着くまで待って。もう少しだけ。僕はそう伝えたかった。
だって花鈴ちゃんの言葉がちゃんと飲み込めないから。大声出されると内容が何もわからなくなってくる。言葉であるはずのものが音の洪水になって押し寄せる。怖くて、怖くて、動悸が激しくなって、嫌な汗が出る。脳が締め付けられる。目が回りそうになる。何故かこのタイミングで強くなった木枯らしが雨戸をガタガタ鳴らす。吐きそうなる。
だけど悲しさだけは確かに伝わってくる。
そして僕は何も出来ない。
悔しくてやるせなくて泣いていたんだけど、花鈴ちゃんはそれさえも気に入らないといった風に僕を至近距離から睨みつけました。彼女は泣きながら笑っていました。
「やっぱりそうなんだ。知ってたわよ! 本当は知ってた! 蓮と私の気持ちは同じじゃないって……馬鹿みたい、私ばっかり……!」
「ひっ……!」
胸ぐらを両手で掴まれた僕はぎゅっと目をつぶりました。ぶたれると思ったからです。
だけど花鈴ちゃんは……
「……叩ける訳ないじゃん。蓮はずるいよ」
僕を掴んだまま、顔を伏せました。肩を震わせて僕に訊きました。
「蓮が本当に欲しいものって、なんなの? 本気で人を好きになったことって無いの? 人じゃ駄目なの? 女じゃ駄目なの? 魚じゃないと駄目なの?」
腰を抜かしたまま答えられない僕からゆっくり手を離した花鈴ちゃんは、膝の上で拳を握っていました。顔を合わせないまま僕に叫びました。
「だったら期待させないでよ! もういい! 一生誰も好きにならなければいいわ!!」
「花鈴ちゃ……」
「蓮の馬鹿!!」
わかっていたのに。もう戻れないって“大人になった”あのときにはもうわかっていたはずなのに。
どうしてこんなことになったんだろうって、何故か思ってしまいました。
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