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第2章/恋人時代はこんなんで
10.波乱の幕開けは唐突に
しおりを挟むポチャ、ポチャと時折滴りの音がする。浴槽の中で濡れたアッシュブラウンの髪を優しく掻き分けたあたしは、ちらりと覗いた赤みに目を凝らす。
「蓮、お前耳朶荒れてねぇか?」
「……ん?」
濡れた手で耳を触った蓮はちょっと首をくらくらさせる。あたしから見えるのは後頭部だからどんな顔してっかはわからねぇけど。
「ちょっと……かゆ……」
「やっぱりか。お前肌弱そうなのに耳圧迫し過ぎたんじゃねぇか? 掻いちゃ駄目だぞ」
シャンプーの泡も念入りに洗い流して炎症が悪化しないようにと考えた。治りが悪いようなら皮膚科への通院を勧めよう。
そう、今夜は一緒に風呂に入ってるんだけど、そんな色っぽいモンでもねぇぞ?
最近の蓮はシャワーの音すら辛いと聞いた。夏バテの影響もあるかも知れない。だから浴槽に湯を張って掛け湯で洗ってやったんだ。連続的に水音が鳴り続けるのを防ぐ為。少しは楽になってるといいんだけどな。
今日あたしは仕事帰り。最近じゃいつでも泊まれるようにと、蓮の部屋にはあたしのパジャマやら歯ブラシやら一式置かせてもらってる。すっかり半同棲状態だ。
ママさんは……まぁ、ここまでしてるなんて知らねぇ訳だけど。いや、薄々気付いてはいるかな?
でも言わない方がいいと思う。
ただ蓮の生活費、本人が在宅ワーク(データ入力)ですこ~しだけ稼いではいるけど、実家の仕送りもあってやっと成り立ってる状態だ。そこにあたしまで乗っかる訳にはいかねぇ。だからせめてもの足しになればと思って、食費や生活用品をあたしが出していたりする。
これを知ったらママさんは逆にあたしに対して気を使うだろうからな。好きでしていることだ。職場に近いからって居座ってる訳でもないんだし、出来るだけ貸し借りは発生しないように調整している。
風呂を出た後、蓮の髪はタオルで十分に水気を拭き取ってから手早くドライヤーをかける。
そんで今日は一つ、試してもらいたいモンがあった。
「これ、ちょっとつけてみ? スイッチはここ」
一見すると音楽プレイヤーに繋がったイヤホンのようなものを蓮に渡した。不思議そうな顔をする彼に教えてやる。
「デジタル耳栓だ。雑音を軽減して人の声は聞き取りやすくする。全体的な音のシャットアウト効果はイヤーマフや普通の耳栓の方があるだろうけど、話をするときはこっちの方が便利かも知れねぇし、耳朶に対する負担も少ない」
「葉月ちゃ、これ……いくら」
「気にすんな、お前にやるよ。便利グッズはいろいろ出てるけど、どれが快適かはお前が確かめて選べばいい」
申し訳なさそうにあたしを見ていた蓮だけど、やがて頰を染めて小さく頷いた。耳にはめてスイッチを入れると早速効果が実感できたのか大きな目をはっと見張る。
実はあたしもちょっと借りてみたんだけどな、エアコンの音がぴたりと静まってこれはすげぇと思ったよ。
猛暑の日にエアコンつけずにいたらぶっ倒れちまうからな。でも聴覚過敏の人でエアコンの音が辛いという人は少なくないと聞いた。それでもしやと思ったんだ。何気に室内でもストレスが多いんじゃないかって。
「あたしの声は聞こえるか?」
「ん……!」
蓮はこくりと大きく頷いた。表情薄いけど瞳がキラキラしてる。なんだか嬉しそうだ。
デジタル耳栓自体、蓮は知らなかったみたいだな。耳朶かぶれても手離さなかったイヤーマフは相当愛着のあるものなんだろう。
でもまだちょっと諦め気味っていうか。自分を守る為の具体的な努力をしないんだよな、こいつは。だからこそ今日一つ、知ってもらえて良かったと思うよ。
あたしが洗面所で髪を乾かして部屋に戻ると、蓮はデジタル耳栓の機械が入った袋を手首に下げ、魚たちの居る水槽を渡り歩いていた。あたしは思わず魅入ってしまう。
魚たちを見ているときの蓮は本当に優しい目をしている。視線だけで会話をしているような雰囲気、声に出さずとも成り立つ会話もあるんだなって見る度に思うんだよ。
タイミングを見計らってあたしは呼びかけた。
「なぁ、蓮。来週また実家に顔見せに行かないか?」
「…………」
「また様子見て、お前の体調が大丈夫そうだったらだけど。無理して喋らなくてもいいと思うぞ。母さんはお前の顔見るだけでいくらか安心するみてぇだし」
ベッドの端っこへゆっくりと腰掛けた蓮がしばらく経った後に頷いた。何か覚悟を決めるみたいに、膝の上でぎゅっと拳を握った。
「……んっ」
「よし。もっかい言うけど、頑張らなくていいからな」
この時のあたしはまだ、蓮の覚悟の意味をわかっていなかった。単に実家へ対する恐れだと思ってた。
ふいと逸らした視線が何を見つめていたのかも特に気に留めていなかった。
約一週間後の土曜日。
蓮の体調はまずまずといったところ。本人も行けると言うから、またレンタカーを借りて向かうことにした。
愛用のイヤーマフはやっぱり着けてた方が落ち着くらしい。時々は外して風通し良くしとけって言っといた。
天気もおおむね良好。真夏の青空の下へあたしたちは踏み出していく。
蓮の実家に着いたのは昼過ぎだ。初対面のときよりか柔らかい表情で出迎えてくれる白薔薇夫人にほっと胸を撫で下ろす。あたしの信頼度も少しは上がってんのかな?
「暑かったでしょう。どうぞ召し上がれ」
ママさん、今度は夏みかんをトッピングしたムースを用意していた。涼しげな水色の器が蓮へ、薄いオレンジの器があたしへ、添えられた小さな木のスプーンが可愛らしい。
『いただきます』
蓮の小さな声も重なってきた。二人揃って口に運んだ。程よい酸味と冷たさと、すっと溶ける舌触りがたまらない!
あたしお世辞は得意じゃねぇけど、ママさんの出してくるモンには素直に感動しちまう。
「美味しいです!」
「ありがとう、葉月さん」
「器も素敵ですね。この木のスプーンも」
「まぁ、気に入ってもらえた? 良かったわ」
味を褒めたときよりも器とスプーンを褒めたときの方がママさんのテンションが上がったように見えた。ちょっと驚いていたところ、ママさんがティッシュケースよりやや高さのある木製の箱を持ってきて言う。
「同じものを二人分買ってあるのよ。この組み合わせなら音も優しいでしょう? 是非使って」
あたしはやっと合点がいった。なるほど、それで木のスプーン。離れて住んでいてもママさんはやっぱり蓮の身体を気遣っているんだ。
「ありがとうございます……! 良かったな、蓮! これアパートに置かせてもらおう。スープにもちょうど良さそうな大きさだなっ」
「あとこちら、良かったら葉月さんに」
「え」
今度は透明のラッピング袋に入ったバスソルトセットの登場だ。なんでこんな洒落たモンをあたしに?
「お名前が葉月さんだから、今月がお誕生日かと思ったのだけど」
「あっ……すっ、すみません! そうです。ありがとうございます!」
「…………!」
あたしが包みを受け取り頭を下げたとき、きゅっと横からブラウスの裾を掴まれた。
「……っ、…………っ」
蓮のやつが口をぱくぱくさせて「なんで教えてくれなかったの」って顔してんだけど、ママさんの言う通りこの名前の人は結構な割合でそうだと思うぞ。ちなみに妹は5月生まれだから『皐月』だ。
「蓮もありがとな」
「もう、過ぎちゃ……?」
「ああ、8日だった。でも大丈夫だぞ」
そうだ。大体三十路の誕生日とかおめでたいんだか微妙だしな。気持ちだけで十分だぞ、蓮。
あたしが彼の襟足をそっと撫でたとき
「ふふ」
白薔薇夫人の美しい含み笑いが綻ぶ。
「あっ、し、失礼しました……!」
あたしは真っ赤になって手をどけた。咳払いとかじゃなく笑顔なのが却って怖いぞ、ママさん!
16時半頃。実家を後にしたあたしたちはレンタカーで帰路を辿る。空の色はもういくらか落ち着いている。
「蓮、気分はどうだ?」
あたしはハンドルを握りつつ後部座席の彼に問いかけた。少し苦しそうな呻きが返ってきたから大体察することが出来たよ。まだ出発して10分程度だけど、実家出る時点で結構疲れてるように見えたからな。
「ごめ……」
「大丈夫だ。どっかで休もう」
時折カーナビへ視線を送り、何処か適当な休憩場所を探した。コンビニとかカフェでもいいんだけど、出来るだけゴミゴミしてなさそうな場所……
「この辺にも公園があるんだな。河川敷の。駐車場も広いし多分自販機もあるだろう」
外の空気を吸って冷たいものでも飲めば少しは気分が楽になるかも知れない。そう考えてあたしは目的地を定めた。
駐車場近くに自販機があって、まずは水のペットボトルを一本買った。少しずつ飲んでいった後、物憂げな遠い目をした蓮に気付いてあたしは提案してみる。
「見晴らしのいい公園だな。少しだけ歩いてみるか? 気分転換になるぞ」
「……ん」
本当に少しだけのつもりだった。蓮は地元に居たくないから。誰かに会うことを恐れているから。
でも怖がるばかりじゃ蓮の自由が制限されてしまう。少しは慣れてほしいという気持ちもあった。
夕方の河川敷には学校帰りの子どもたちやランニングをする人、犬の散歩をする人の姿が増えてくる。蓮の手を引いて出来るだけ空いている川沿いへ移動していく。
どうだ。そんなに怖いもんでもないだろ? 様子を伺うついでに細めた目で彼に伝えた。彼の表情も柔らかいものに見えた。だから安心していたんだけど……
――蓮?
背後から声がした。
繋いだ手が解けた。
ゆっくりと振り返った彼の表情はあたしからじゃ見えなかったけど、彼と向かい合う人物の姿に驚いた。
(誰だこの美人!!)
そう、まさに美人。それもハンパねぇやつだ。ランニングでもしてたんだろうか、上下ともジャージ姿なんだけど、プライベート丸出しな装いが却って中身の良さを際立てている。
髪色はやや青みがかったアッシュ。透明感があるから多分ブリーチしてる。アシンメトリーのショートボブという個性的なカット。ポイントメイクくらいはしてるんだろうけど、それにしたってパーツがくっきりしている。大きな目は猫のように吊り上っていて気の強そうな印象だ。
細長い手足、蓮やあたしよりも背が高い。誰かに似ているような気もする。年齢は20歳くらいに見えるけど……?
「へぇ、帰ってきてたんだ。珍しいじゃん。こんなとこ歩いてるなんて」
腕組みをした彼女が言う。にこりともせず、じっと蓮を見下ろしている。
蓮の背中はカタカタと震え出した。ただならぬ雰囲気、だけどあたしは自分の立ち位置がどうあるべきか全くわからない。
「……また喋れなくなっちゃったんだね。まぁ、お大事に」
彼女は静かに瞳を伏せたかと思うと、立ち尽くしている蓮の横をすり抜けた。傍らから取り出したイヤホンを耳に装着しようとしていた。
「まっ……て」
最初、蓮は背を向けたまま呟いた。だけど次の瞬間、思い切ったように彼女の方へ振り返った。
怯えた表情のまま、それでも精一杯声を張り上げた。
「待って! 花鈴、ちゃ……! これ……!」
蓮は彼女の背中へ小走りで寄り、ポケットから透明の袋を取り出した。中でキラリと光ってる。説明されなくてもそれでわかった。
この子が蓮の幼馴染なのだと。
「なにそれ」
だけど彼女の反応は。
見下ろすその目は恐ろしく冷たいものだった。
蓮の手のひらに乗ったそれを無言で引ったくり、さもつまらなそうに低い声で呟く。
「遅いのよ」
そして大きく腕を振った。
二つの貝殻を抱いた袋が川の中へ消えた。音もしなかった。
空がすすり泣くみたいに、くすんだ薄紫色へと染まっていく。烏の声だけが遠くで響いていて。
蓮は……
川の方向を向いたっきり、微動だにしなくなった。泣く訳でもなくただ呆然としている。
もしかしたら、先月この地元に戻ってきたときにも持っていたのかも知れない。あのピアス。何処かで会えたときはって、彼なりに考えていたのかも知れない。
これは彼と幼馴染の問題。あたしが入り込む余地なんて無いと思ってた。今でも頭ではわかっているんだけど。
「……おい、アンタ……それは無ぇだろ」
どうしても我慢出来なかった。自然と口から零れてしまった。
「何。おねーさん、今カノ?」
あたしと彼女との間に火花が散った。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
◇防音グッズについて・・・イヤーマフ、耳栓、デジタル耳栓など、聴覚過敏の人のサポートとなるいろんなグッズが出ています。著者は肌が弱いので、夏はデジタル耳栓の方をよく使っていました。
就寝時はぎゅっと縮めて詰めるタイプの柔らかい耳栓を使用しています。イヤーマフは手軽に装着できて、人の声は割と聞こえるところが便利です。デジタル耳栓はコンパクトなので外出時も荷物を最小限に抑えられます。人によって快適と思えるもの、状況によって便利と思えるものが違うと思うので、まずは試してみることをお勧めします。
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