あたしが大黒柱

七瀬渚

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第2章/恋人時代はこんなんで

6.親子の距離感

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「身体の傷以上に精神が不安定で何をするかわからなかったので、退院したのは3ヶ月後です。“はい”か“いいえ”くらいの最低限の反応なら出来るようになりました。1年ほどかけて徐々に徐々に、声が戻っていって……」

 しなやかな指先が完成度の高いマドレーヌに伸びる。小さく啄ばんだ蓮の母親が、首を傾げる仕草と柔らかい視線で“貴女も召し上がれ”と言っている。程々に息抜きさせようとしてくれる、本当に行き届いた気配りの出来る人だ。

(蓮、さっき食ってなかったけど、あたしらがまだ手を出さなかったから遠慮したのかな。それとも焼き菓子はあんま食わねぇのか?)

 でも一応残しておいてやりたいな。せっかく母さんの手作りなんだし、などと考えながらあたしは1つ手に取った。蓮ママほど品良くは出来ねぇけど、カツサンドみたいな食い方はしないようにと気を付けた。ゆっくり口へ運んでみると……

「……! 凄く美味しいです」

「お口に合って良かったわ」

 完成度の高さが見た目以上だったもんだから、思わずテンション上がっちまったよ。滑らかな舌触りに程よく薫るラム酒。これ売りモンに出来るだろ! どんだけ器用なんだ。


「精神科の診断って結構難しいことが多いみたいなのよ。当時は統合失調症やPTSDの疑いもあったんですけどね……」

 ハーブティーを嗜みながらも、蓮ママはさらりと話を戻す。

「声はいくらか戻ったとは言っても以前のようには喋れなくて、病院も変えたりしてみたのよ。次のところではなかなか診断が降りなかったんだけど、筆談を用いた診察を続けるうち、蓮に聴覚過敏があることがわかったの。それでやっと、発達障害の可能性に辿り着いたんです」

「自閉症スペクトラム障害でしたよね」

「ええ。極端に雑音を怖がっていたのもその影響である可能性が高いと言われました。でも……わかるのが遅すぎたんです、何もかも」

 ティーカップをそっと置いた彼女が、おもむろに自身の左腕に触れた。そこに傷があるのだろうか。

「高校も中退させました。いじめなんて中学の頃にはもう始まってたんですって。あの子髪色薄いでしょう? 生徒会役員のくせに調子に乗るなって因縁つけられたのがきっかけだそうよ」

「やっぱり生まれつきあの色なんですか? どうりで生え際が自然だなって」

「ええ。学校に届け出も出してあったんですけど、生徒たちには理解が行き届いてなかったみたい。しかも蓮は強く問い詰めれると萎縮してまともに説明が出来なくなってしまうのよ。高校では同じ中学出身の子が蓮の悪評をばら撒いたそうで……きっとインフルエンザで休んでいる間に学校へ戻るのが怖くなったのね」

 ずっと腕をさすり続けている。やっぱりそうなんだと思った。彼女は腕の傷を通して息子の痛みに思いを馳せているんだ。


「そんなことも知らずに、いじめられてる子を助けてあげなさいだなんて……酷い母親よね」

「そんな、今のいじめっ子って上手くやるんですよ。見るからに悪そうな子が少ないから」

「……そうね。だからこそ、誰よりも私が蓮の心の声を聞いてあげなければならなかったのに」

「お母様……」


「聴きたくても、もう、聴こえないわ」


 どれほど悔やんだのだろう。どれほど泣いたのだろう。儚く美しい夫人の顔には今でも懺悔の色が残っている。



――ねぇ、葉月さん。


 しばらく経った頃に呼びかけられた。うつむいていた顔を上げると、彼女がまた興味深げに身を乗り出していた。

「最近の蓮はどうかしら? 声はどのくらい出てる?」

「声、ですか」

 そこやっぱり大事なんだろうなと察してあたしは思い返す。だけど、う~ん……残念なことに。


「正直、声を通しての会話はあまり出来ていません。表情とか仕草ではなんとなくわかるんですけど、すみません、私あまり役に立ててな……」

「良かったわ」


「え」



 思いがけない返答にあたしは呆気にとられ、目をぱちくりさせる。

 いい、のか? だって、母さんとしては蓮がまた話せるようになってほしいんじゃあ……?

 やがて、あたしの混乱に見透かしたように彼女は微笑んだ。あたしに答えを告げた。


「蓮が大人しいのは安心している証拠。きっと本来のあの子はそうなの」


 これにはまたびっくりした。はっきり喋っているときほど精神も安定してるモンだと思い込んでた。

 だからあたしは、母さんと喋る蓮を見たときにちょっと不安だったんだ。あたしはまだまだ蓮の心を開けてないのかって、ちと寂しかった。


 でも、そうか……そうか……!

 安心してくれてるのか、蓮!


 あたしの心はほっこりと温まり始めていた。でも途中で全身をチクチク刺されるような感覚を覚えて硬直する。

 恐る恐る視線を前方に戻すと、向かいの白薔薇夫人が既に棘を出している、ように感じた。


「そう、先月貴女に助けてもらった後も、あの子ははっきり“大丈夫”と言って、見舞いに来たあたしを追い返したわ」

「し、心配かけたくなかったんですね! きっと蓮さんはお母様を悲しませたくなくて……!」


「心配かけてでも一緒に居たいと思える相手に、貴女が選ばれたということよ」


「…………!!」



 こ…………っ


(怖ッッ!!)


 あたしは思わず震え上がった。顔には多分、出てないと思うけど……多分な。

 出来れば意味なんて知りたくないところなのに、あたしの頭ん中の翻訳機がやたら仕事してくれやがる。


『訳:出会ってたかだか1ヶ月程度の貴女が、どんな手を使って息子をたぶらかしたのか知りたいものだわ』

 って、もしやこんな感じの意味なんじゃ……!?



「仲が良さそうで何よりだわ」

 うう、やっぱりこの人怖い。完璧な笑顔を浮かべながら棘を出してくるところがマジで怖い!!

「条件はいくつか出させて頂きますけど、貴女のような人と一緒になってほしいと思います」

 あれ? でも……


「短くてもあと1年交際して下さい。蓮は18のときに改めて定時制高校に入学しています。実はまだ社会に出て間もないんです。ですからもうちょっと慣れてからがいいと思うんです。社会にも、貴女にも」


「え、それじゃあ」


「1年後もやっていけそうでしたら、是非」



 ゆ……

 許された……? マジで。


 元より説得する気で来たにも関わらず、あたしはすぐに実感が湧かずにいた。

 学生の頃はヤンキーで、大人になってからはバリキャリで、あたし修羅場に慣れ過ぎたのかもな。こうもすんなり話が通ると逆に怖くなってきちまうなんて。


 ともかく礼を言わねばと思い出してあたしは立ち上がった。深々と頭を下げようとした瞬間に気付いた。

「?」

 彼女は今、向かいに居るあたしではなく、別の方向に目を奪われている。

 それは廊下とこちらを隔てるドア。ほんの小さな隙間から覗いている小さな人影。


(蓮……?)


 あたしが身体ごとドアへ向いた瞬間、人影がサッと引っ込んだ。それを見て蓮の母親がくすりと笑う。

「蓮に席を外してもらったのは今回だけじゃないの。あの子は情報を抱え込み過ぎて混乱してしまうから、難しい話をするときはいつもこうしてた」

 横顔もやっぱり整っている、しなやかさと凛々しさを併せ持つ人。泣いているときでさえ完璧に見えた彼女の様子が変わっていく。

 瞬きを忘れた目が血走っている。薄く笑んだ唇は半開きのまま震えている。少し……いや、だいぶ怖い。これで乱れ髪だったら完全にホラーだ。でも……


「初めてだわ、あの子が言い付けを破って覗き見に来るだなんて。よほど貴女のことが気になるのね」


 あたしも初めてだと思った。やっとこの人の人間らしい顔を見たような気がした。


「葉月さん、もう一つ条件を聞いてもらえるかしら」

「はい」


 だからあたしも受け入れる姿勢を作ることが出来たよ。もうヤワな覚悟なんかじゃないつもりだ。

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