あたしが大黒柱

七瀬渚

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第2章/恋人時代はこんなんで

5.届かなかった声(☆)

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 彼女の語り口調そのものは淡々としてたんだけど、わかりやすく明確で、臨場感もハンパなくて、あたしはあっという間に時を遡った。あたしの見たことのない過去へ。


――蓮――

――蓮……?――

――もう、またそんなところに隠れて――


『ごめんなさい、お母さん』


 クローゼットの扉が母親の手で優しく開かれる。暗闇に身を隠した少年へ差し込む光。

 これは蓮がまだ声に不自由していなかった頃だ。


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 生まれたばかりの弟を当時3歳の蓮はなかなか受け入れらなかった。対して2つ上の兄は率先して面倒を見ようとした。2人の少年の行動、成長には大きな差が見られた。

 蓮も成長するに連れて、自分から弟に近付くことがあったらしい。兄らしくしなければと思ったのか。

 だけど長くは続かなかった。弟は長男の方に懐き、蓮とは距離が開いていった。

 一人離れたところで水槽の金魚ばかり眺めている蓮に、面倒見のいい長男もさすがに困り果てていた。


 そして蓮が小学5年生の頃、ついに弟がこんなことを言ったのだ。


――蓮が神経質なせいでゲームも出来ないし友達も呼べない! あいつは好きな魚買ってもらってるのに、なんで俺ばっか我慢しなきゃなんないんだよ!!――


 まさか本人が近くで聞いているとは思わなかったらしい。リビングの向こう側で走り去る足音がしたそうだ。それで気付いたものの、弟はへそを曲げたままだったという。


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「私はこのとき自分の子育てを見直さなければと思いました。3人兄弟の中でも蓮は特に扱いが難しかった。物をねだったりする訳じゃないんですよ。我儘もほとんど言いません。時々1人でパニックになっていたんですけど、嫌とか怖いとか言うばかりで具体的な理由がわからなかったんです。私はそんな蓮が心配で、少しでも元気付けたくて水槽を増やしたり魚の本を買ってあげていたんです」

「弟さんは寂しかったんでしょうか」

「ええ、きっと。末っ子はりくと言うんですけどね、幼い頃から相手の顔色や場の空気をよく感知できる子なんですよ。そして公平さを大切にしています。蓮はあの通り顔も女の子みたいで、ご近所さんや親戚にも可愛い可愛いと言われることが多かったから、尚更ちやほやされているように見えたんでしょうね」


 蓮が小5のときなら陸くんは小2か。まぁ、無理もねぇだろうな。ちょうど遊びたい盛りだし、表面上は強がっててもまだまだ甘えたい年頃だったろう。

 事あるごとにお姉ちゃんなんだから~って言われてたあたしからすると、そういうパターンもあるのかってびっくりなんだけど。本当、家族っていろいろあんのな。


「だから私も考えたんです。魚たちの世話をするというのは蓮にとって欠かせない習慣になっていた。それはそれで良いのですが、この子はもっと外の世界を知らなければならない。協調性を覚えなければならない。陸が自由に遊べる時間も作ってあげなきゃ。悩んだ結果、蓮を子ども会に入会させました。小5からなので周りの子よりちょっと遅いんじゃないかとためらいはしたのですが……」


 子ども会、か。もちろん声には出してないけど、正直なかなかハードルの高いことをしたなと思った。

 だけどそれは現在の蓮しか知らないあたしだからこその感想なんだろうな、きっと。他に2人も息子を抱えているんだ。実際兄弟の間で摩擦も起きてるとあっちゃ、調和を優先する判断になってもおかしくない。

 集団行動なんて蓮には辛かっただろうけど、もしあたしが親の立場だったら? 何が適切か一発で見抜く自信なんてさすがに無ぇよ。


 だけど意外な言葉が後に続く。


「それから蓮は随分変わりました。子ども会では低学年の子の面倒を見るいいお兄ちゃん役でした。中学に上がってからは時々OBとして顔を出してましたし、学校では生徒会役員も務めるようになったんです」

「えっ、そうなんですか……良かったですね!」

「私もそう思いました。この子もちゃんと協調性を持って生きていけるんだと安心しました」


 そーかそーか、苦手を克服できたんだな。良かったな、蓮!



 ……って。


 そんな都合のいい話じゃないだろうってことはさすがに予感してたよ。


 だって本当に克服したんなら、今の状況と合わない。今のあいつは怯えるようにして生きているんだから。


「そして私は更に選択を誤ったんです。勉強は得意不得意が激しいけど、人から好かれる才はあるはずと期待しました。人の役に立つことが蓮の自信にもなると思ったから、あの子を立派な人格者に育てようとしたんです」

 あたしの予感は的中した。彼女が肩にぎゅっと力を入れたように見えた。多分拳を握ってたんだろう。

「もっとみんなの役に立ちなさい、困っている人がいたら手を貸してあげなさい、いじめられてる子がいたら助けてあげなさいって、そう、教えて……きたの……」


――――!


 彼女の声色の変化にあたしは目を見張る。白く美しい顔は今、下を向いててよく見えない。かと言って覗き込むわけにもいかない。

 だけどあたしにはわかった。


「馬鹿な母親よね、私。助けてほしかったのは蓮の方だったのに」


 硝子のテーブルを覆う繊細なレースの上へ、小さな光が舞い降りた。彼女が泣いているってわかった。


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 それまで順調にやってきたように思われていた蓮がついに限界を迎えた。高校2年の冬のこと。

 蓮はインフルエンザで学校を休んでいた。やけに治りが遅いと母親は思ったらしい。熱は下がってきても頭痛や吐き気、胃腸の痛みなどなんらかの不調が続いていた。

 そして休み始めてから2週間程経った頃に事件が起きた。


 家族みんなが寝静まった深夜2時頃。トイレに起きた母親はキッチンの照明がついていることに気付いた。最初は消し忘れかと思ったけど違った。


――蓮?


 そこにはパジャマを着た華奢な少年の姿があった。母の方へ背を向けて佇んでいた。

 顔の前で何かを構えるような体勢、すぐに嫌な予感がしたそうだ。

 足早に息子の元へ歩み寄った。そこで母親は目にしたんだ。ギラリと光る、鋭利な銀色の塊を。



――なに……してるの……?――


――やめなさい、蓮!!――






 蓮が震える手で握っていた果物ナイフは、真っ直ぐ自分自身の喉に向けられていた。今まさに突き刺そうとした瞬間に母親が無我夢中で腕を押さえつけた。それは若干間に合わなくて数ミリほど刺さってしまった。まずこれが1つ目の傷。


『うあぁぁぁぁッッ!!』


 母に止められたことに気付いた蓮は、首から血を流しながらも再び同じところを刺そうとした。普段の穏やかな声からは想像もつかない、荒れ狂う獣のような叫びが響き渡った。


――やめて、蓮! お願い、馬鹿なことしないで!!――


 揉み合ううちに手元が狂って、蓮はパジャマごと自分の右胸を大きく切った。これが2つ目の傷だ。

 必死にナイフを払い落とした母親も腕に切り傷を負ったけれど、彼女は自分の怪我を気に止める余裕も無かった。蓮が気を失って倒れたからだ。パジャマの胸元は大量の血で染まっている。致命傷を負ったと思った彼女はいよいよ錯乱状態に陥って叫んだ。


――嫌、嫌ぁ……ッ! 蓮、目を開けて……!!――


 これ程の騒ぎに他の家族が気付かないはずもなかった。父親も兄弟も2階の寝室から駆け下りてきた。真っ先に悲鳴を上げたのは陸くんだ。


――な、なんだよこれ、嘘だろ!?――


――京香、蓮、2人ともしっかりするんだ! 何故こんな……――


――あなた、私はいいから……蓮を助けて……!――


 血塗れの床に崩れた血塗れの母子。父と兄弟たちにとって地獄絵図以外の何ものでもなかっただろう。

――待ってて、今救急車を呼ぶ。陸、大丈夫だからな。母さんも蓮も必ず助かるから――

 冷静な長男は、恐怖のあまり泣き出した陸くんを抱き寄せながら、ちょうど近くにあった子機に手を伸ばした。


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 こんな話、聞いているだけで戦慄する。あたしの視界はゆらゆらと滲み出す。

 あの傷痕を見たときにまさかと思った。出会った日の夜みたいに、蓮自身が何か危ないことをした可能性を思い浮かべた。覚悟はしているつもりだった。

 だけど今、あたしは、“覚悟”の意味そのものに疑問を感じている。いざ詳細を耳にすると、やるせなさの方が圧倒的に強いんだ。


「幸い、蓮の怪我は命に関わるものじゃありませんでした。胸の切り傷は肋骨に達していたけれど肺を傷付ける程ではなかったし、首の方も比較的浅い傷で喉の内部は無事でした」

「助かって本当に良かったです。蓮さんも、お母様も」

「ありがとう、葉月さん。私は大丈夫よ。今ではそんなに痕も目立たないし」


 哀しげに微笑んだ彼女が無言で何かこちらに押しやってきた。手作りだろうか? 生成りの布にレースがあしらわれたティッシュボックスだ。

「ずびまぜん……っ」

 そうか、あたし泣いてたのか。情けねぇな。あたしなんかよりよほど辛い思いをした人が目の前に居るってのに。

 ティッシュを取ろうとしてとき、ようやく自分がハンカチを持っていることを思い出した。慌ててふところから取り出そうとしたんだけど、彼女は構わずに使ってくれと言った。


「声帯も食道も無事だった。だけどあの子は声を失ったの。総合病院に搬送されてそのまま入院したんだけど、しばらくは誰とも口をきかなかった」

 あたしが涙を拭い終えたところで彼女は言った。暴れている最中、蓮は何やら不思議なことを叫んでいたんだと。それはあたしにとっても予想外の内容だった。


「うるさい、うるさい、って何度も。最初は私に言ってるんだと思ったわ。でも違ったの。この声がうるさい、気持ち悪い、だから止める、もう要らないって、そう言っていたのよ」

「そん、な」


 予想外だった。蓮はどうやら死のうとしていたのとは違うらしい。母親が止めなかったら死んでただろうけど、そんな判断もつかなくなるくらい何かに追い詰められていたんだ。


「いくらか落ち着いた頃に精神科の先生がおっしゃったの。筆談で聞き出した内容から分析をして下さった」


――今までどれだけの言葉を用いても正しく伝わったことがないそうです。だから蓮くんは自分の声を聞くのが嫌になった――

――お母さん、蓮くんが学校でどう過ごしていたか聞いていますか?――

――どうやらいじめがあったようですが――

――蓮くんは確かに大人しく見えるかも知れません。口数も少ないように思えたかも知れません。だけど本来は素直な子だ。自分を隠しておける性格でもないみたいなんです――


――彼は精一杯、助けを求めていたと思いますよ――



『届かない声なんて要らない』



 高校時代の蓮が呟いた気がした。虚ろな瞳からは涙が零れ、切り裂かれた身体からは鮮血が溢れ、暗闇の中で仰向けになっている、そんなあまりにも哀しい幻想を見た。

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