あたしが大黒柱

七瀬渚

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第2章/恋人時代はこんなんで

4.出来ないなんて決めないでくれ

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 えぇと……

 はい、その……


わたくしの働いている職場なんですが、結構神経を使う職種でもあり、それなりに規模が大きいので社員もそれなりに多く、大変慌ただしいときもあり……」

 この喋り方。言うまでもないかも知れないけど、あたしは相当しどろもどろで答え始めていた。

「一人だと、モチベーションを保つのも大変でした」

「あら、しっかりしてそうなのに」

「そ、そんなことないんです」

 こんな言葉で何が伝わるんだと自分でも思うよ。唯一何か伝わるとしたら、緊張MAXキャパオーバー状態だということくらいだろう。


「なので、蓮さんの穏やかな性格に大変安らぎを感じておりまして……!」

「貴女にとって蓮は癒し系なのね」


「は、はい」


 癒し系。うん、まぁ、そういうことになるかな。思いのほかカジュアルに受け止められた感があるけど……


 あたしの背筋は相変わらずガッチガチだ。

 だって状況は全くカジュアルじゃねぇ。


 あたしが何に対してビビってるかって? さっきからやたら穏やかな顔をしている蓮ママだよ。時々声に抑揚をつけてるみたいだけど、表情は大きく変化しない。隙が無いんだ。

 “目が笑ってない”っていうのとも違うんだな、コレが。間違いなく笑ってる。笑ってるんだけど、もはや“貼り付いてる”状態にさえ見えてくる。

 それはもう真っ白で美しい、よく完成された仮面みてぇな。相槌のタイミングまでもが完璧過ぎて正直怖い。あたしの声も気持ちも、確かに届いているとは思うよ。だけどな……


 どうもこっちが思う以上に見透かされてる気がするんだ。

「…………っ」

 時折声が詰まってしまう。今思ったけど、人間ってやっぱ我儘かも。わかってほしいと願う割に、あまりにも伝わり過ぎるとそれはそれでビビるんだからな。


「……貴女には蓮がそう見えているのね」


 気まずくてうつむいていたあたしの向かいで、彼女がぽつりと呟いた。品の良い声色があたしの耳に届き奥へと伝っていく。雫のようだけど少し凍ってる、みぞれの滴りみたいな冷たさを感じた。

 顔を上げてあたしは硬直した。冷たさはやはり気のせいではなかった。目の前にある彼女の表情も、もう微笑みなんかじゃない。


 そして思わぬことを告げられたんだ。氷のような真顔で。


「だったら尚更、覚悟しておいた方がいいわ、葉月さん」

「え」



「いずれあの子の破壊的な面を見ることになるわよ」



 あたしはしばらく呆然とした。言葉を無くしていた。


(蓮が、破壊的?)


 あたしの知る彼とはあまりにイメージが駆け離れていたからだ。今まで見てきた彼の顔がいくつも脳裏で蘇る。


 ここへ来る途中、紫陽花の前で振り返った。小動物を思わせるか弱い微笑み。

 二人っきりの部屋で恋人らしいことをしたとき。痛々しい傷痕を晒しながらも、あたしを悦ばせようとしていた健気な瞳。

 初めてキスしたときのウサギみたいな涙目も、魚たちの楽園を見せてくれたときの嬉しそうな仕草も……


 色素の薄いサラサラの髪、女の子みたいに長い睫毛、如何にも草食系らしい小ぶりな唇。

 そう、あたしの知っている彼は、性格から容姿、雰囲気に至るまで何もかもが優しいはずだ。


 優しい、はず……



 ……タン……トン


 ガタン、ゴトン


 そのとき、思い出の中に聞き覚えのある規則的な音が混じり出した。それは徐々に音量を増し、加速してくる。脳内は初夏の夜に染め上げれていく。


 ガタンゴトン

 ガタンゴトン

 ガタンゴトンガタンゴトン


 プァーーーーーーーーッ!!


 暗闇からこちらへ流れ込んできた車体と警笛の音。

 大きく見開いた瞼の奥で、ぎゅっと収縮した彼の瞳。狂乱の気配。


――うあ、あ――


――あぁぁぁぁ…………ッ!!――



「…………っ!」



 現在の思考回路をも貫く絶叫によって、あたしは思い出した。


 深夜のホームで命を断とうとした彼。それはすなわち自分を“破壊”しようとする行為だ。

 そうだ。あたしはもう見ていたんだ、あのときに。2人の間で育っていく恋に夢中になって、心ふやけて実感が薄れていただけ。

 運命的な出逢いなんて、いつの間にか美化してしまっていた。だけどそんな綺麗事だけじゃなかったんだ。


 あたしが最初に出逢ったのは、破壊的な蓮だったんだ。



「失礼ですけど、葉月さんはご年齢おいくつなのかしら?」

「えっ」

 唐突な質問を投げかけられたように感じた。回想から引き戻されたあたしは思わず素っ頓狂な声まで上げてしまう。

 白薔薇夫人の完璧な微笑、奥深くまで見通すような静かな目は、あたしから一瞬たりとも視線を外す様子は無い。

(何ビビってんだ、あたし。悪びれることなんて無ぇだろ)

 おのずと沸いてきてしまう罪悪感を振り払うようにしてあたしは口を開く。


「あ……えっと、現在29歳で……もうすぐ30になります」

「あら、お若いのね」

「い、いえ」


 予想はついてたけど返ってきたのはお決まりの社交辞令だ。あたしは愛想笑いを浮かべつつティーカップに口を付ける。放置しすぎて冷めちまってるけど、喉カラッカラで早急に水分を補給したい今のあたしにはちょうどいい。

 ところがそんな矢先。


「やっぱり結婚したら子どもが欲しいと思っていらっしゃるの?」


 ぶッッ!!

 って、ハーブティーを吹き出しそうになったのは内緒だ。最近レモンティーで散々むせたけど、さすがに彼氏の母親の前で同じ失敗はしたくない。

 正直ちょっと照れちまったんだけど、それってまだ頭ん中恋愛モードってことなのかな? ここまでの展開がすげぇ早かったから無理もない気がする。

 でもそんなの蓮ママには関係ねぇはずだ。しっかりしなきゃ!

 内心で気合いを入れ、顔では平静を装ってあたしは答えた。


「はい、授かることが出来たならそれは嬉しいです」


 当たり障りなく、だけど本心だった。

 確かに蓮と出会う前までは、結婚どころか恋愛にすら興味無かったんだ。当然ながら自分が母親になるなんて想像も出来なかった。

 だけど好きな人との間にって、やっぱ素敵だよな。そんな未来にもし辿り着くことが出来たなら……


 あたしは希望を見始めた。頭ん中はフワフワ軽やかなお花畑みたいになってて、目の前の相手がどんな様子かさえ気付かなかった。

「そう……だけどね、葉月さん」

 そう、前々から自覚してはいたんだけど、あたしって本当におめでたい奴。


「蓮は小さい子どもの声も駄目なのよ」


 哀しげな声色だけどはっきりしていた。こんなことを言われてもなお、しばらくはピンと来なかったんだから、あたしって、本当に……


「…………あっ」


 馬鹿かも知れない。


 蓮の母親は続けて語った。ずっとあたしを見つめていた静かな眼差しが、ここに来て初めて下向き加減になった。

「葉月さんが外で働く役割を担って下さるつもりなのよね? 蓮は子どもと満足なコミュニケーションが取れないと思うわ。託児所にお願いしたとしても貴女の負担は大きい」

「小さいうちは大変ですよね。その場合、もちろん育児休暇は利用します。貯金も今のうちに……」

「ある程度大きくなってからも大変よ。勉強を見てあげたりなんて蓮には出来ない。学習障害もあるってお話しましたっけ?」

「……はい」

「足し算、引き算も二桁以上はままならない。九九は七の段から先を覚えてない。計算が極端に出来ないの、あの子は」


 計算だったのか、とあたしは今更ながら驚く。ほとんど喋れないからてっきり言語に難があるのかと思ってた。

 だけど言われてみりゃ確かにと思える。あいつ筆談だとちゃんと言いたいこと書き表せるし、こっちの言葉も理解してるもんな。あたしとの会話はまだ少ないけど、母親と話すときなんて割としっかりした口調だったし。


「貴女が普通に出来ることも蓮は出来ないから」

「…………」

「負担が偏らないようにした方がいいと思うの」


 ああ、わかる。わかるよ。さすがのあたしでももう理解出来る。オブラートに包んだその言葉が脳内でしっかり翻訳されてる。


 “子どもは諦めて”


 そう言いたいんですよね?


 意味するところは理解していても、あたしの中ではふつふつとやるせなさが込み上げていた。膝の上でぎゅっと拳を握って呻きを押し殺す。


 蓮には駄目、蓮には出来ない、貴女何回それを言うんだ。

 あたしはいいよ? 三十路みそじ手前だから焦って結婚しようとしてんだろって疑われても構わねぇ。子どもも授かればそりゃありがたいけど、絶対いなきゃいけないとは考えてない。

 だけど……だけどさ、なんでわざわざ息子の可能性を否定するようなことばかり言うんだよ。なんでマイナスなイメージばかり押し出してくるんだ。悲しすぎんだろ。障害があるからって、なんもかんも出来ないって決めつけるのはどうなんだ。

 蓮だって本当は外で働きたいかも知れない、テーマパークやレジャーを楽しみたいかも知れない、父親にだってなりたいかも知れない。

 現状それが難しい訳だけど、なんとかしたいと思ってるかも知れない。


 まだまだこれからってことが沢山あるんじゃねぇのか? 可能性を失ってなんかいないはずだ。


――ごめんなさいね。


 悶々としていたところへあの気品溢れる声が届いた。申し訳なさそうな声色に聞こえる。

「蓮が3歳のときに弟が生まれたんですけど、そのときもあの子大変だったから。弟が泣く度に癇癪起こしたり、クローゼットに逃げ込んだり」

「そう、だったんですか」


「蓮には傷痕があるの、知ってるかしら」

「はい」


 沈黙が訪れてしばらく経ったとき、あたしの胸がどきりと音を立てた。

(あ、やべ)

 傷痕。知ってるって即答しちまったけど、首なら相当接近しなきゃ見えねぇし、胸なら脱がなきゃわかんねぇじゃん! そういうことしたって言ってるのと同じなんじゃ……いや、考え過ぎか? 考え過ぎだよな。本人から話を聞いたってふうにも受け取れるもんな、うん。


「そう、なら話は早いわね」


 蓮の母親は少し顎を上に向けて、優しい微笑みを送ってくる。

(うぅっ、やっぱバレてる……!!)

 さすがに確信した。嗚呼、恐ろしや白薔薇の棘。もうアルマジロにでもなりたい気分だ。


 しかし重要なのはもちろん、あたしらがどんだけイチャついてたかなんて話じゃない。本題がちゃんとあたしを待っていた。

 蓮にそっくりの長い睫毛が頰へ影を落とす。笑顔の消えた彼女が沈んだ声で切り出した。


「あの子は自分の喉を潰そうとしたの」


 あまりにも重苦しい本題を。

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