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第1章/馴れ初めはこんなんで
2.生きろ、若者
しおりを挟む停車した快速電車からはほんの数人の乗客が降りてきた。そりゃあ見られたさ。ジロジロと怪訝な目つきでね。
だけどこんな場面に居合わせちまったあたしは、じゃあ気を付けて帰れよ~なんて言って乗る気にもなれなかった訳でね。そもそも死のうとしてた奴が大人しく言うことを聞くとも思えねぇ。そこ信用しちゃいけねぇだろ。まだ終電じゃないんだから、油断したらこいつまたやるぜ?
そんな判断でとりあえずは泣きじゃくってるそいつをベンチに座らせた。説教の1つでもしてやりたいところだったのに、そいつときたらわなわな震える手で再びあのヘッドフォンを装着しやがる。あたしはげんなり呆れ顔でため息をついた。
あぁ、もう好きにしろ。どっちにしたって落ち着かなきゃ話にならねぇ。それともとっとと駅員に引き渡すか……あれやこれや思考していたそのとき。
――静か……だった。
「は?」
消え入りそうな声に呆然とする。少年みたいな高い声色だった。だけどとてつもなく小せぇ。
「あぁ? なんつった?」
耳を寄せるとそいつはビクッと跳ね上がってヘッドフォンを両手で押し当てる。こりゃ相当やべぇな。無理矢理引っ張って駅員のとこに連れていくなんて多分無理だぞ。暴れて何やらかすかもわかんねぇ。
(あぁ、さっきはタイミング逃しちまったけど、誰か通りかかってくれねぇかな)
過ぎ去っていく列車の音が虚しく感じられる。しかし再び訪れた静寂があたしに新たな気付きを持ってきた。
(音が……しねぇ)
「お前、音楽聴いてたんじゃなかったのか?」
「…………」
「もしかして喋れねぇのか、お前」
あたしにしてはなかなか優しい仕草だったんじゃないだろうか。触れる訳でもなくそっとそいつの顔を除き込んだ。
こんなときになんだけど、こいつ、大人しくしてりゃあなかなか綺麗な顔をしている。男にしちゃあ痩せ過ぎだとは思うけど、細い顎にぱっちりとした二重瞼。頰へ影を落とす長い睫毛。うん、イマドキのイケメンなんじゃね? 読モとかブロガーとか、余裕で通用しそうに見えるんだけど。
奴はちょっと返答に困ったのか、貧弱な首を1度縦に動かした後、今度は2回横に振る。
「……少し、だけ。あと……聴こえます」
うん、まぁ、なんとなくわかる。ちょっとだけなら喋れるし、耳が聴こえない訳じゃないと言いたいんだろうなとあたしは察した。
それから少し推測してみた。ヘッドフォンを外した瞬間、狂ったように叫んだこと。もしや、これって……
「お前、うるさいの駄目なのか」
こく、と小さく頷いたのが見えると、居心地の悪さがじわじわと胸を占めていく。あたしもやっとわかった。これ、ヘッドフォンじゃなくて防音イヤーマフだ。
「……悪かったな。あたしの声、うるさかったろ」
事情も知らず、酔っ払いながら音楽聴いてるだのって勝手に予想した自分がなんだか情けなかった。ましてや電車が迫り来る中でこれを外されて、一体どんだけ怖かっただろうって。
だけどそいつは随分遅れて首を振った。また横に2回。
「お姉さん……声、聴きやすい。お姉さん、怪我、しなくて……良かった……で……」
「はは、マジか」
「また、僕を……見かけ、ても、触っちゃ……だめ」
「馬鹿野郎! 触るよ!! おめぇ死のうとしてたのは本当なんだろ!?」
(あ、やべ)
ひゃっと、か細い悲鳴を上げて縮こまったそいつを見てちょっと焦った。静かに喋るのってこんなに難しかったのかと実感する。
「これ、してると……静かで。さっき……とても、静かだった、から……今なら、いけるって……」
下手したら自分より10は年下であろう若者の、こんな悲しい言葉を聞きながら平静を保つことの難しさを実感する。
“いける”だと? それはやはり逝けるということなのか?
何故こいつはそこまで追い詰められなきゃならなかったんだ。何故、誰も気付けなかったんだ。
そうやってどうしようもない“何故”を繰り返していたんだけど、本当はすでに少しだけ見え始めていた。
おそらくだけど、最近よく耳にするようになった『感覚過敏』。彼の場合はその中でも聴覚過敏にあたるんじゃないだろうか。
ありとあらゆる音が耳に刺さって脳を揺さぶるような感覚だとか聞いたことがある。相当辛いものらしいってことも。
あたしがこの可能性に辿り着いたのは、ちょうど身近にそんな人間が居たから。あたしの妹だ。こいつと同じケースかはわからねぇが、過労で自律神経やられちまって一時期声も出せない状態になってた。
「辛かったんだな」
気の利いた言葉なんて言えねぇ。いくら妹と似てるからって、あたしが体験したことじゃねぇ。親身になって聞いてやるなんてたいそうなことは出来ねぇだろうよと、無力を噛み締めた上でのこの一言だ。
しかしここで会ったのも何かの縁だ。尤もこれ以上の関わりは無いだろうけどな。見たところ未成年って可能性も考えられるし、帰りならタクシーでなんとかなる。あたしはこいつを送り届けてやることに決めた。
細い両肩を支え、改札まで歩く道のりでそいつの名前を訊いた。
「ハヤマ……レ……」
やっぱすっげぇ聞き取りづらい。だけどハヤマって言ったな。葉山でいいのか? あたしもよく間違えられるけど地名なんてオチじゃねぇだろうな。
とりあえず改札は通ったものの、まだちょっと疑わしいから今度は家の電話番号を訊いてみる。
「親に……言う……?」
「まぁ、あんなことしたからな。お前一人暮らしか?」
こく、と頷いたハヤマがおずおずとあたしを見上げて。
「僕……にじゅ……さ……」
「20……あ、23歳か。ってマジ? 案外いってんだな」
アラサーが何を言う、ってな突っ込みが聞こえてきそうだけどな。でもびっくりしたんだよ。もっと幼く見えたもんだから。
「あ~、でもなぁ。成人してるったって、状況が状況だし……実家に連絡くらいは入れさせてくれ、な?」
うう、と今にも泣き出しそうな呻き声を漏らすハヤマはとりあえず無視。あたしは奴のスマホを取り上げ、既に開きかけてた電話帳の中から『実家』の文字を見つけ出した。
一応従おうとはしたけどためらってたんだろうな。だけどあたしは容赦なく自分のスマホから奴の実家に電話をかける。これは優先すべきことだ、ハヤマ。恨みたきゃ恨め。
市外局番からしてなんとなく察してはいたけれど、実家は県外。そう簡単に迎えに来てもらえそうにはなかった。出たのは母親だった。ハヤマって名乗ったからそこは間違いなかったらしい。
ハヤマの母親は何度も何度もあたしに詫びた。その途中にいくつかを話してくれた。
「今日はこれから夜勤で……人員不足だからシフトに穴は開けられないんです。明日の朝必ず息子の様子を見に行きます。貴女にもタクシー代をお支払いします。お名前とお電話番号を教えて頂いても……?」
憔悴した声。それだけで簡単ではない事情があるんだと察することが出来た。タクシー代はとりあえず断った。でも払うってまた言うんだろうな。
ともかくあたしはそのままハヤマをアパートまで送ることにした。
あたしはもう腹を括ってる。だから今更文句とか言うつもりは無い。
だけど……
タクシーの中。行き交う車のライトに照らされるそいつの長い睫毛を見ながら思い出していた。子どもみたいな寝顔を見つめながら。
――息子は発達障害なんです。自閉症スペクトラム、それから学習障害もあります。わかったのが19歳の頃でした。もっと早く気付いてあげられたら良かったんですが……――
――凄くこだわりが強くて、周りから見たら無駄なものでも無くてはならない環境があります。反対に必要なものを受け入れられなかったり……私たちも理解してあげたいと思って手を尽くしてきたつもりです――
――だけどあまりにも音を受け付けないものだから、同じ空間に居ることすら出来なくて……――
――兄弟たちも、夫も……私も、正直困り果てていたんです。あの子は自分で満足にお金を稼ぐことも出来ない。どんな職場に行っても続かないんです。私たちが出来るのはほんの僅かな仕送りくらい……――
――ごめんなさいね、貴女にこんな話。本当にごめんなさい――
「謝られる立場じゃねぇよ。妹さえ助けてやれなかったあたしに一体何が出来るってんだ」
あたしは寄りかかってきたハヤマの頭をそっと撫でた。そう、あたしに出来ることなんてせいぜいこれくらい。
✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎✴︎
◇ハヤマが言った「聞こえます」の意味・・・「あなたの声はちゃんと聞こえます」の意味。上手く喋れない状態の中、葉月の話を聞く姿勢であることをハヤマは示そうとしました。
ノイズキャンセリング付きの防音イヤーマフなら雑音を軽減しつつ人の声は聞き取りやすいよう出来ています。シンプルに耳を覆うタイプのイヤーマフだと音全般が軽減されますが、目の前の人の声くらいなら大体聞き取れると思います(※製品による違いや個人差はあります)
著者は複数の人の話し声が聞こえる環境を苦痛と感じやすいので、防音イヤーマフを着用することが多いです。
ちなみに耳を塞いだその状態で会話が成り立つのかと心配されたことは著者もあるのですが、たまたま聞き返しをしたときにも耳を塞いでるせいと思われてしまっては困るので、実際に「声は届いていますよ」とそのときは説明しました。
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