ふた

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おっぱいだって触り合った仲じゃない。

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「今日で最後だね」
 私の首に腕を絡ませたまま耳元で声を潜める。彼女の腕を掴んで引き離そうとするも、逆に引き寄せられ、胸同士が密着する。ベッドに片膝だけを乗せた姿勢で固められ、耳元にあった彼女の唇が私の唇の真正面に来た時、思わず目を瞑ると、笑い声が聞こえた。
「キスしていいの?」
 蠱惑的な笑みを浮かべて、彼女のほっそりとした指が私の頬を滑らかに撫でる。途端に肌が粟立った。
「佐倉さん、からかわないで」
 私が顔を背けると、彼女も同じ方に傾け、やはり正面に私を見据える。
「彼方って呼んでよ、彩ちゃん」
「名前で呼ばないで。あなたは患者で、私は看護師」
「でも、キスしたでしょ?私と。おっぱいだって触り合った仲じゃない。他の看護師さんに言っちゃってもいいの?」
 笑みを崩さない小憎たらしい少女に視線の行き場を奪われながら、彼方が集中治療室からこの病棟に戻り、最後のドレーンが抜けた日の夜に、頭が痛いと病室に呼ばれた夜のことを思い出していた。
 状態が安定した患者が留まっている4床の病室。入って右奥、窓際のベッドが彼方の巣で、本当に巣と言う表現が適している程、彼女のベッドは私物で埋め尽くされていた。ぬいぐるみやタブレット、漫画、化粧品、色とりどりのカーディガン。来る場所を間違えたのではと疑いたくなるような有様に、スタッフの間では「佐倉さんのところだけ小児病棟」と話題になっていた。
 深夜一時、懐中電灯で照らしながら彼女のもとに訪れた私は、腕を引かれ、前のめりに体勢を崩した。予想外の出来事だったが、仰向けに寝そべる彼方だけは潰さないようにという意識は働き、両腕を彼女の頭の横で突っ張ることで体を支えた。療養中の体を潰さなかったことに安堵しながら謝り、彼女の様子を窺うと、口角を上げて「えっち」と顔を近付けられた。迫っていると間違われても仕方ないような体勢を整え直したくて仰け反ろうとした。
 その時、唇に求肥のようなものが触れた。下唇を優しく挟まれ、ぺろぺろと湿った舌ででなぞられる。猫が前足を清めるような舌使いから、意思を持って唇を割ろうとする動きに堪えられず、瞼を閉じると、彼方の吐息が顔にあたった。
「まだこのままでいてね」
 顔が熱い。頭部に血が上っていく感覚がこうも鮮明に感じられるなんていつ振りだろうか。彼方の言葉に反して逃れようとすると、背に両腕を回された。
 身動きを封じられ、目を瞠る。彼女はやはり笑っていた。
「何するんですか」
「敬語やだな。私のことは彼方って呼んで、彩さん」
 じじじじっと金属が擦れるような音が聞こえて、音の方を見ると、上衣の前がはだけていた。白衣の中に着ている黒のキャミソールが露わになって抗議のつもりでも彼女を睨むも、まるでどこ吹く風で、彼女は黒い布の裾をするするとズボンから引き抜いた。
「ちょっと、ふざけないで。やめて」
 他の患者に気取られぬように顰めた声を発する唇に人差し指を当て、彼方は露わになった私の腹部に指先を這わせた。
「……んんっ」
 爪先から頭頂部までが心電図の波形のように跳ね、漏れた声が囲われたカーテンの外に漏れていないか心配だった。私の気も知らず、彼方はメイクブラシで彩りを乗せるようにわき腹を撫でる。くすぐったさだけでない感覚に、思わず彼方の胸元に顔を押し付けた。
「痛……。ほら、やっぱりえっちじゃん。我慢しないと聞こえちゃうね」
 彼方の正常な呼吸音も鼓動もはっきりと確認でき、長い黒髪が埋めた顔の横でしゃらしゃらと滑る音も聞こえた。彼女の体温も肌理の細かい皮膚の感触も、熱くなった体は敏感に受け入れてしまう。静かに体を震わせる私の背を撫で、そのまま胸部に下りてくる指先に嫌な予感がした。
「だめっ」
 叫びたいのを吐息に込めた声は、やはり彼女には届かなかった。いや、彼方は聞く気がなかった。
 聞き慣れた開錠音と共に、胸の締め付けが無くなり、心地のよい開放感が生まれる。顔面に集まっていた血液が、ウォータースライダーを下るように引いていったのが分かった。
「わあ大きい。ここも、ぴんくで可愛いね」
 外気に曝された乳房が彼方の目の前に垂れる。その中央の突起に、彼女は綿毛を摘まむように触れ、あろうことかそれを乳児がするように口に含んだ。
「ひっ」
 絞るように上顎と舌で潰され、嬌声を押し殺す為に下唇を噛む。やがて満足したように解放すると、労わるように先端を優しく舐めた。その間、もう片方の乳頭は彼女の指の腹で器用に摘ままれ弄ばれていた。
「やめて、やめて」
 私が首を横に振ると、彼方は手を止め、片頬を上げた。
「やめてほしいの?じゃあ、私のも舐めて」
「え?」
 彼女の要求に目が点になった。
「同じようにして」
 そう言うと、早急に彼方は上衣の紐を引く。目の前に白身魚の開きのように、肌が露わになった。白い胸の中央に引かれた隆起した赤い線が、白いテープで横断歩道のように隠されている。高齢者の体は見慣れているが、高校生の張りのある体と瑞々しい手術痕は、それよりもっと生々しく生命を感じられて戸惑った。その傷を挟むようにそびえる乳房を確認して唾を飲む。罪悪感と焦燥感を感じながら、鮮やかな色の乳頭に口元を近付け、舌を伸ばすと、後頭部を強い力で引っ張られた。
「あは、ぬるぬる」
 楽しそうな声は、闇に上手く溶けるような響きで、カーテンに囲まれた巣の中に留まる。
 唐突に舌を這わせてしまった勢いのまま、犬のようにぺろぺろと舐め、時折吸ったり、乳輪をなぞったりしていると、だんだん彼女の吐息の間隔が狭まっていくのが分かった。床頭台に伏せて置いていた懐中電灯から漏れる光で、唾液で濡れた胸がてらてら光っているのが見えた。
「もう、いいよ。ありがとう」
 彼方がきつく抱き締めていた私の背を離すので、やっと上体を起こす。無理な姿勢でいた為に鈍痛を帯びた腰を擦りたいのを我慢して、すぐさま衣服を整えた。
「どうだった?」
 急く私とは反対に、肌を隠そうとしない彼方の上にベッドの端にあったカーディガンを掛けてやりながら、まるで初夜のような問いを投げる。私は同性同士でこういった行為をしたことがない。火照った心身が冷えてしまう前に、突飛で奇妙な体験を共有した相手との気持ちの差異を確認してみたいと思った。そう思えるくらいには歳を取っていて、諦めてしまえる余裕があった、ということに自分でも少々驚いた。
「不思議な感じ。これを気持ちいいっていうのかな」
「初めてだったの?」
「うん。処女奪われちゃった」
 本当に嬉しそうに言うので、彼女の度を越した恐いもの知らずにおかしさが込み上げた。
 ようやく病衣の紐に手を伸ばすのを、何となしに眺めていると、その指先が小刻みに揺れているのを見つけてしまい、条件反射のようにその役目を代行した。
「ねえ、次の夜勤いつ?」
 彼方の大きな瞳が私を刺す。
「何で?」
 私が表情を作らないまま返したことを確認しながらも、彼方は何も見なかったように「また頭痛くなりそう」と嘯いた。
「ねえ、いつ?」
 首を傾げるとシャンプーの香りが揺らいだ。
 室内より窓の方が明るいから、月が出ているのかもしれない。彼方が再びこちらに手を伸ばすので、すぐに口を開いた。
「来週の月曜日。ナースコールしても私が来るかどうか分からないからね」
「えー彩ちゃんにまた来てほしいなあ」
 調子よく言う彼方に布団を掛けて、懐中電灯を掴んだ。
「寝なさいね」
 それだけ声を掛けて、何事もなかったようにナースステーションに戻った。他の夜勤者も集まっており、休憩も順調に回せているようだったので、安心した。
 朝9時に勤務が終わり、自宅へ帰って布団にうつ伏せに倒れたついでにジーパンのボタンを外して手を入れた。自慰なんて久しぶりだ。ぬるぬると蠢く舌の感触を思い出す。疲労も相まってすぐに達した。


 彼方は明日退院する。
 リハビリは順調に進み、傷の状態もよく、予定通りの日取りとなった。
「最後にもう一回しようよ」
 上体を起こした彼方は、薄暗闇でいつもの屈託のない笑顔で誘う。ベッド脇に立つ私の白衣の胸元を掴むので、「聞きたいことがあるの」と制した。
「どうしてこういうことするの?」
 私の問いに、彼方は心底驚いたような顔をした。
「えー、そんなこと聞く?」
 長い睫毛が何度か瞬きで揺れて、思案するように瞳が彷徨う。そして真っ直ぐに私を捉えて、彼方は砂を指先で一つまみ落とすように言った。
「……誰とも出来ない気がしたからだよ」
 頷く私を見ながら、心細さを隠すような不自然な声色で彼方は話を続ける。
「この傷、意外と目立つじゃん?もし裸になって、彼氏に『気持ち悪い』『出来ない』って言われたら、ショックだなって思って。看護師さんなら見慣れてるから平気でしょ?折角だからそういう経験、しておきたいじゃない」
 今まで見てきた中で一番真剣で正直な表情を浮かべた彼女の告白を、私は恐らく正しい看護師の相貌で聞いていた。
「そう……。じゃあ、どうして私だったの?」
「病棟に戻って来てすぐの時、『よく頑張ったね』って言ってくれた。あれ、すごく嬉しかったの」
 そんなことで、と言いそうになって堪えた。人が救われるきっかけや出来事はそれぞれ違っていいのだ。彼女の気持ちは尊重されなくてはいけない。私は彼方の頬を撫でた。
「私も聞いてほしいことがあるの」
 欠けた月がカーテンを照らして、彼方の不安そうな顔が良く見える。
「私もね、小学生の時に同じ手術を受けてるの。傷の位置が違うし、いつも私が影になるような姿勢だったから、見えなかったかもしれないけど」
 彼方ははっとして自分の手の平を見た。手術痕かどうかは判断がつかなくても、触れた感触はあったのかもしれない。縮こまった華奢な体をぎゅっと抱き締める。
「実は結婚もしてるのよ?勿論、夫とそういうこともしてる。夫はね、この傷を『頑張った証拠だね』って言ってくれるの。彼方ちゃんも、そういってくれる人はちゃんといるんじゃないかな」
 言い終わる前に、縫い合わさっている彼方の体が上下に揺れ、首筋に生温いものが落ちてきた。
「怒られるよ……?旦那さんに」
 震える声の合間にしゃくり上げるので、呼吸が苦しくないか、傷が痛まないか気になった。子どもにするように後頭部を撫でながら、出来得る限りの優しい声色で囁く。
「大丈夫。秘密にするから」
「ねえ、私、これ、嫌われないかな。だってビキニだって着れないよ」
 涙で濡れた声で呟き、彼女は私の肩に目元を擦りつけた。
「ホルターネックなんてどう?似合うと思うな。大丈夫、あなたは十分魅力的だよ」
「もしさあ、私がこれで失恋したら慰めてくれる?彩ちゃんライン教えてよ」
 顔を上げて私を見る双眸に向けて、首を横に振った。彼方が「何でえ?」と情けない声を出す。
「私たちは患者と看護師だから」
「今更じゃない」
「今更だけど、プライベートで関わり合うのはやっぱりよくないと思うの。あなたの為にも」
 彼方は言葉を詰まらせて、涙を下瞼に溜めながら、ベッド上に横になって頭まで布団を被った。
「分かった、もういい。ありがとう。今までごめんね」
 くぐもった声の聞こえたところに、顔を寄せる。
「どうか体に気を付けて。彼方ちゃんに会えてよかった」
 布団の向こうに聞こえているかどうかは気にしなかった。膨らんだ掛け布団に唇をあてる。清潔な感触と香りがした。
 柔らかな日差しを受けながら自宅への道を進む。彼女は昼前には病棟を後にするだろう。
 きっともう会うことはない。
 しかし彼女の肌と傷痕と消毒液の匂いは、あの部屋の窓際に赴く度思い出すような気がした。
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