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ゲームと旧友
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「お先します」
十八時ちょうどにパソコンをシャットダウンし、デスクに置いたままの書類をクリアファイルに入れ、鞄に詰めた。
「最近帰るの早くなりましたね。もしや、彼女ですか?」
隣の工藤が体を近付けて、声を潜める。期限内に納品するめどが立ってからというもの、彼は機嫌よく仕事に励んでいる。今日はヒナちゃんがメンテナンスで不在だと朝から嘆いていて、暇を持て余すのが嫌なのか、普段進んでやらない係の仕事を片付ける為居残っている。
「だったらいいんだけどな。家にも働かないやつがいるんで、新人教育だよ」
「ああ、返品しなかったヒューマノイドの。しかし不思議ですよね。本当に何も出来ないんですか?」
「家事は全く。介護施設なんかに設置するコミュニケーションタイプの線も考えたが、それにしては愛想も可愛げもない」
工藤は「手厳しいなあ」と苦笑いをした。
「お前のとこのヒナちゃんは明日だっけか?帰ってくるの」
「そうなんですよう。早く会いたいなあ」
恍惚とし始めた工藤を半目で見ていると、歩いてきた事務の若い女性職員が工藤の名を呼び、それに気付かず妄想に浸る広い肩に手を置いて、再び声を掛けた。
途端に工藤は、過剰に体を跳ねさせ、勢いよく彼女を振り返った。
「あ、いきなりすみません。ちょっと書類に不備があって」
その反応に困惑した表情を浮かべた事務の女性が、密かに一歩後ろに下がる。俺に背を向けた工藤の顔は見えないが、背中が呼吸に合わせて大きく上下していた。
「気付かずすみません。直したら持って行きますね」
工藤はよそゆきの声で返した。女性は書類を渡して足早に部室を出て行く。彼女も残業か、事務も大変な時期なのかもしれない。
「驚かせちゃったかなあ。やっぱり駄目ですね」
振り返った工藤の顔をじっくり見ると、引きつった笑みを浮かべて「大丈夫ですよ」とこめかみを拭った。
「相変わらず女性は苦手なんだな」
「苦手ですねえ。なかなか治らない」
「まあ仕方ないんじゃねえの。ヒナちゃんがいれば幸せなんだろ?」
ヒナちゃん、という言葉に反応して工藤は表情を明るくした。「そうなんですよ!」と始まったヒナちゃん自慢大会を遮るように腰を上げる。
「じゃあ帰るわ。お前も早く帰れよ」
残念そうに眉を下げた後すぐに、犬が尻尾を振るように手を振った工藤の後ろを通り過ぎ、木野の鋭い視線が工藤の首の辺りに刺さっていることに気付いた。騒がしかったか。相変わらず手厳しい。女性の視線に敏感なくせに、木野の攻撃に鈍いのはある意味救いなのかもしれないと思った。
作業着を脱ぎながら、今日はスーパーで弁当を買って帰ることに決めた。しかし、近頃になってコハクが、「毎日揚げ物で胃がおかしくならないの?野菜は食べない決まりなの?」と箸の行く末を観察しながら、無邪気な問いを投げてきたことを思い出す。忙しい、時間がない、疲れている、を理由に切り抜けてきたが、よく考えれば余分なものを引き、足りないものを補うだけでもいいのだ。何も自炊まで考える必要は無いし、どうせ買うなら万人うけするおかずばかりが詰められた弁当で無くてもいい。
スーパーの総菜コーナーで白米、塩サバ焼き、揚げ出し豆腐、コールスローサラダを買い帰宅すると、室内の照明は消えたままで、しかしその中で一部、蛍の尻のように煌々としていた。照明のスイッチを押し、全ての輪郭が露わになると、ソファーの上にうつ伏せで寝転がり、携帯型ゲーム機を両手で握っているコハクと目が合った。
「ただいま。暗くなったら電気つけろって言ってんだろ」
「おかえり。ゲームの画面は見えるから気にならなくてさ」
律儀に挨拶を返されると、実はいまだに擽ったい。人と生活を共にするのは二十代前半に付き合った彼女と同棲したきりだから、会社以外で挨拶をし合うことなんて滅多にない。特に帰宅時の挨拶などは、とても密やかでこくみのあるものだと思う。自宅で待っている誰かがいないと成り立たない言葉の交わし合い、というのは控えめな色気さえある、と思う。
よって思いのほか嬉しがっている自分がいて、多少のことならそれだけで許してしまいそうになる。例え、溜まった衣類を洗濯しておいて欲しいという願いが果たされていなくても。立ち尽くしたまま溜息が漏れる。
「洗濯機に入れるくらいは出来るんじゃねえの?」
スーパーの袋を座卓に置いて、地図に描かれた大陸のように床に散らばる衣服を広い集める。再びゲーム機の画面を見つめるコハクは抑揚のない声で「どのボタン押すか分からなくなってさ」と、それだけで許されると思っているような余裕の浮かんだ顔で答えた。
「そうか。じゃあ、また教えるから今度からはちゃんとやれよ、頼むから」
叱る教育はしたくないが、褒める教育も出来ない。何せ褒めるところがない。
「面倒見がいいよね」
「職場にも手の掛かる後輩がいるんでな」
脱衣所に持てるだけの衣服を持って行き、洗濯機に放り投げた。覚えられないなら手順を紙に書いて張っておくか。ゲームの中の台詞や説明は理解しているようだから識字は問題ないのだろうし。
洗濯機の蓋を閉め、ザブザブと水が流れる音を背中で聞きながら戻り、座卓に向かって胡坐をかいた。床を覆っていたポリ袋がほとんど無くなったお陰で、見通しがいい。キッチンや座卓の上に築かれていた空き缶の山も崩壊し、平面が平面として機能するようになった。と言ってもそれらはコハクの仕事の成果ではなく、コハクに掃除を教えながら積極的に片付けてしまった、俺の苦労の賜物だ。コハクは俺の所作をよく見てはいたが、それを記憶しているかどうかは分からない。また付き添って確かめるしかないだろう。
「今日はお弁当じゃないんだ」
レジ袋から取り出した様々な色彩のプラスチックトレーに目を留めて、コハクがぬっと起き上がった。興味深そうに見つめて、「これ好きだよ」と指差した先には揚げ出し豆腐があった。
「食べたことあるのか?」
「いや。形が」
「四角い?」
「上に掛かってるやつ。このとろっとした、茶色い」
あんかけの形が好き、という感覚は全く分からなかった。ヒューマノイドにも、プログラムされている個体の好みがあるのか。割り箸で豆腐を崩しても、コハクは何も言わなかった。
空になったトレーを袋に入れる前に、底に忍ばせていたプリンを取り出した。
「何それ。今日はお酒飲まないの?」
首を傾げるコハクに、「休肝日」と返し、蓋のフィルムを捲った。
「疲れてるの?」
「いや、何でそう思う?」
「疲れてる時に食べるんでしょ?甘いものって」
蓋を空けたままのプリンに紙スプーンを差し、口に入れる、とうっとりするような角のない甘みが口の中に広がった。一口目を時間をかけて堪能した後、力加減を間違えないように慎重に、カップの中にスプーンの先を埋めた。コハクはスプーンの描く軌跡を目で追っていた。
「まあ、いつも疲れてはいるけど。甘いもの食うとさ、ご褒美貰ったみたいな気持ちになるよな。ケーキとかさ」
「へえ、そう。よく分からない。じゃあ僕もご褒美欲しいな。あなただけずるいよ」
コハクが小さな頭を垂れるので、何となく急いでプリンを平らげた。空になったトレーとカップを袋に詰めて、一息つく。
「ご褒美って食い物?でも味覚センサはついてないんだろ?」
「食べられないものなんて欲しくないよ。そうだ、一緒にゲームしようよ。ムキムキが戦うやつ、あれがいい」
テレビボードの中にまとめていた据え置き型ゲーム機を見つけたのか。プレイする時間が取れず手つかずだったものを所望され、過去作のコマンドを思い出そうとしたが、ほとんど思い出せなかった。コハクが軽い足取りで、コントローラを取りに行く。
「ほら」
その一つを手渡され、逡巡する間のなく受け取ってしまった。コハクが「早くつけてよ」とソファーから下ろした足をばたつかせる。
「一時間だけだからな」
電源を入れると、コハクの中から聞こえる起動音と同じ音が聞こえた。
料理長に小言を言われながら、豚骨ラーメンが乗るトレーに、ごはん茶碗を乗せ、窓際の席に腰掛ける。食堂内に漂う料理の匂いに唾液の分泌量が増す。職員の丸まった背中を見ながら割り箸を割り、油の浮いたスープに箸の先を沈ませた。
ゲームというご褒美の味を占めたコハクに、格闘競技をせがまれる日々が続いている。放っておくとコハクは自分に充電ケーブルを繋ぎながら何時間でもやるので、零時になるまでと決まりをつくったのだが、昔同じルールを母親に約束させられたことを思い出し、親と子の気持ちの狭間で板挟みになった。
「早く帰って来て」
幼子のように健気に帰りを待つ姿は正直悪くない。
コハクは勝負に負けても表情を変えない。しかし負け試合の後、急くようにリプレイボタンを押し、試合中一つでも多く攻撃を繰り出す為、騒がしくコントローラーを扱うようなところは、見た目相応だと微笑ましく思える。大人としか関わりのない生活をする身としては懐かしく、また新鮮で、帰宅するのを楽しみに思う自分がいるのも恥ずかしながら事実だった。
しかしコハクは相変わらず、家事に対しては消極的な上、作業のどこかで大切な何かを忘れ失敗する。家事音痴と言うのだろうか。仕方なく暇を見つけては俺が片付けているのだが、その成果として清潔で健康的な生活が送れるようになったので、結果としてコハクのお陰でクオリティ・オブ・ライフが向上したということになる。
しかしコハクはというとゲームをしながら所構わず寝転がるので、ファンに埃が詰まりやすく、溜めた洗濯物を持つだけで充電を食う。自分の健康の為と言うよりかは寧ろ、コハクの体に悪影響を及ぼさないように家事をしていると言ってもか過言ではないのだ。
コハクとてボタンを押すだけの洗濯機の操作や、衣類をハンガーに掛けるなどの簡単な作業は、気まぐれを起こしてやることはある。しかし日中は、暇つぶしという名目でテレビを見るか、ロールプレイングゲームをしながら過ごしており、本人曰く退屈であるらしい。だから「早く帰って来て」と乞う。
実は友人タイプのヒューマノイドなのだろうかと疑いもしている。幼稚園児の甥っ子に譲った方が適切な使い方をしてくれそうな気がするが、数日後には妹に鬼の形相を向けられそうなので止しておこう。
ラーメンの味を確かめて、ごはんを掬おうという時に、胸ポケットの携帯が震えた。取り出し、画面を見ると、大学の友人である平野惠介からラインがきていた。一番最後の会話履歴から三週間が経っていた。
『土曜日飲みに行かない?』
休日だというのに六時半に体を揺さぶられ、エレベーターが高速で上昇していくように意識が浮上した。寝返りを打って背を向けようとすると、小さな硬い手で二の腕を叩かれる。
「ねえ起きてよ。僕を外に連れて行く代わりにゲームしてくれるって言ってたじゃん」
ベッドの端がぎしっと軋む。目を瞑っていても、顔の上が陰ったのが分かり、仕方なく目を開けると、僅かに唇を尖らせたコハクが、のし掛からんばかりに迫っていた。俺の顔面の上に天蓋のように垂れてくる色素の薄い髪が、窓から注ぐ光を浴びてきらきらと光っている。
平日、六時半にカーテンを空けて起こして欲しいと頼んだのは紛れもない俺だが、休日は寝かせておいて欲しいと加えた筈だ。先週は確かにそうしてくれた。
「流石に早くないか」
乾いた口からは、擦り切れたテープを再生したような声が出た。
「早く始めた方が沢山出来るじゃん」
いよいよ本格的な夏に足を突っ込んできた日々の早朝は、「まだ手始めだ」と嘲笑うように暑さを抑えてはいるが、それでも閃光のような日差しは、じりじりと皮膚を温めていく。足首に纏わりついているタオルケットを蹴る俺を、太陽とは正反対の温度で見つめるコハクの水を湛えたような瞳が、冷え冷えと俺を見つめる。
コハクと見つめ合っていると、ギアが周り出すようにぎこちなく脳が動き出した、簡単な時間の計算をして、導き出された答えに顔を歪める。
「おいおい十時間もやるってのか」
「もう九時間四十五分しかないよ。ほら、準備してるんだから」
小鳥の囀りのようにこの部に馴染んでいた、パンチの利いた音楽に気付き、足の延長線上を見ると、テレビに格闘ゲームのオープニング画面が映っており、その手前の座卓には焦げ色のついた食パンと、マグカップが置かれていた。コハクに起こしてもらうようになってから朝食を摂るようになり、定番となったメニューだ。密かに俺が準備する手順を記憶していたのかと思うと、心がじんわりと温かくなる。ここまでされて起きないわけにはいかない。腕を突っ張り上体を起こした。
「そうだな、約束したもんな。顔洗って飯食ったらやるか」
コハクが着ている俺のTシャツの襟がずり落ち、白い肩が露わになっていいるのを直してやり、床につけた足に全体重を乗せた。
コハクが充電ケーブルを引き摺りながらソファーに座り、コントローラーを操作する。ボタンを押す音が続き、キャラクター選択画面に切り変わったのを確認してから洗面所へ向かった。冷たい水を顔に浴びせ、洗濯かごに積んだままだったフェイスタオルを押し当てると、蜘蛛の巣を払ったように視界が清々とした。
今日は勝てる気がする。起きたてで体の隅々まで冴え渡った今なら、最近の負けを回収できるとと信じられた。
出がけにコハクは、聞き分けよくゲーム機をスタンバイモードにして、用意した外出着に着替えた。
オーバーサイズの薄桃色の半袖シャツと、黒のチノパン姿のコハクがマンションを出ると、まるで親戚の子どものような生々しさがあった。歩きながら物珍しそうにあちこちを見渡し、助手席に収まっても窓の外ばかり見ている様子に、今度は父になった気分になる。「危ないから窓から手出すなよ、コハク」と家庭向けの微笑みを浮かべそうになって、ぐっと堪えた。
赤信号に捕まっている間、歩道を散歩する黄色いワンピースの女の子と、耳の垂れた大型犬に視線を向けるコハクの項が緑色に点灯していることを確認し、鞄の中に入れてきたモバイルバッテリーを数えた。多めに持ってきたつもりだが足りるだろうか。足りなければコンビニで買い足そう。
大通りから一本外れたコインパーキングに車を停め、コハクに下りるように促す。待ち合わせの居酒屋を目指す俺の背中から離れず、コハクは目だけを忙しなく動かしていた。
「あの煩いのは何?」
「パチンコ屋だよ。ギャンブル、知ってるか?でも子どもは入れないぞ」
「この下には何があるの?」
「ゲームセンター。小銭入れてアームでぬいぐるみ取ったり、太鼓叩いたりすんの。いつか行ってみるか」
ふうん、と涼しい返事をしているが、夕陽が当たっているせいか否か、コハクの頬が上気しているように見えた。
コハクの問いに答えながら歩いているうちに、携帯ショップとコンビニに挟まれた居酒屋の提灯と暖簾が見えてきた。
「ここ。大学の時よく来たんだ」
店の前で立ち止まると、コハクが隣で「だるま」と書かれた暖簾を仰ぎ見た。一呼吸おいて引き戸に手を掛けると。がらがらと大仰な音を立てて開いていく。
一番奥の小上がりの四人席で、大学の友人である平野惠介と朝倉仁が腰を落ち着けていた。仁の隣には豊満な胸をシフォン生地のブラウスに包んだ髪の長い女性が、惠介の左後ろには、青い風の流れの中にいそうな少年が微笑みを浮かべている。
「久しぶり」
近寄って声を掛けると、上座に座っていた仁がウェーブの掛かった前髪を指先で払って、「久しぶり。それが噂のヒューマノイドちゃん?」と値踏みするように俺の背後を覗いた。
「随分可愛らしいなあ」
テーブルの端の、所謂お誕生日席で胡坐をかく惠介も、俺の腰の辺りで視線を止めた。注目されていることに気付いたコハクが、俺のジーパンのポケットを引っ張るので、面倒見のいいふりをしてコハクを横に並べた。
「こいつが一緒に暮らしてるコハク。中古で買ったから何タイプか分からんけど、出来ることはしてもらってる」
視線だけで、俺の友人とそのお供のヒューマノイドの姿を確認して、コハクは「どうも」と間近にしか聞こえないような声で、三文字のみ丁寧に挨拶した。その短い挨拶が終わる前に、惠介の傍の少年、ハルが惠介の耳元に秘密話をするように言葉を囁く。
「よし、じゃあ座って」
仁が歓迎するというように両手を広げ、濃いが整備された眉を上げる。俺が惠介の対角、仁の向かいに座ると、コハクは壁に沿って走るハムスターのように、急いで壁側の座布団の上に正座した。ラミネート過去された飲み物のメニューを回し合い、仁と惠介と俺は生ビールを、仁の隣で上品に口角を上げる女性、サユリさんはウイスキーのロックを注文する。
「コハク君?ちゃん?」
尋ねながら仁が、総柄シャツの胸ポケットからジッポライターと小箱を取り出し、最近では珍しい紙巻き煙草に火をつけた。吐いた紫煙が染みだらけの天井に上っていく。
「気になるだろ?それがどこもつるっつるで分かんねえんだよ。古い型だとそういうもんなの?」
惠介に顔を向けると、彼は人差し指の第二関節で眼鏡のブリッジを押し上げてコハクを珍しい動物を観察するような目で見た。
「外見をカスタマイズ出来る現行型と違って、昔のヒューマノイドは機能の向上が優先され、不要なものは付属されない時代が長かった。様々なサービスを搭載した上で、外見も変えられるようになったのはここ十年くらいの話だ。コハクもその時代のものであれば体に特徴が無くても不思議じゃない。顔だけなら女の子に見えるけどねえ」
「どっちでもいいかあ。どうせガキだし」
出されたお冷やを口に含み、コハクを盗み見ると、正面にいるサユリの胸元に吸いつかんばかりの視線を注いでいたので、思わず肘で小突いてしまった。コハクは非難するように俺を見上げ、不貞腐れたように俯いた。
そうしてる間に、アイドルグループの二番手のような風貌の女性店員が飲み物とお通しを運んできた。テーブルに置かれたそれらを各々に配り、手軽な乾杯の儀式をして、弾ける炭酸をぐつぐつと飲み下す。既にアルコールを摂取し、テンションの高い客たちとチャンネルが合っていくのが分かる。グラスを置いた友人たちは、息を整え勝手にくつろぎ始めた。
二か月ぶりの近況報告会は俺がコハクを買ったということ以外、目新しい話題もなく幕を閉じた。
「サユリさんとハルは?」
俺の言葉にサユリが両手で持ったグラスを置きながら、赤い唇をゆったりと動かし、「変わりありませんよ」と淑やかに答えた。マシュマロのような肌と女体らしい柔らかな曲線、髪の艶と実際に美容院で施行しているというパーマの加減を見ると、現行型のヒューマノイドの仕上がりに感嘆の念を抱く。目が合うと自然な様子で微笑んでくれるところなど人間よりも好感が持てる。一方、男子中学生のような外見をしているハルは、人気アニメの主人公のように爽やかで礼儀正しく人懐っこい。物憂げな美人のコハクとは対照的に、ハルは朝の陽ざしを全身に受けたような清々しい美形だ。声変りをしたばかりのような声が滑らかに言葉を紡ぐ。
「僕も特には。惠介は自分の状況を変わりないと言うけど、最近はクライアントが増えててんてこまいなんですよ」
ね?と惠介の顔を覗き込む笑顔が眩しい。ハルの背後に水彩絵の具で塗りたくったような青空が見えた。
「コハク。そっちはサユリさん、仁の恋人タイプのヒューマノイド。こっちはハル、惠介の聴覚支援タイプのヒューマノイド」
「……ふうん」
頬杖をついたコハクが、興味無さそうに壁を向く。外見年齢の近そうなハルと比べると、言動の幼稚さが目立つと思った。
焼きそば、チャーハン、出汁巻き卵、麻婆豆腐をつつきながら、アルコールをちゃんぽんし、その間、職場の愚痴や芸能人のニュース、大学時代の思い出話など、毎度お決まりの話題を三人で転がし続けた。サユリは頷きながら耳を傾け、ハルは右耳の聞こえない惠介に会話を伝えながら、機嫌良さそうに微笑んでいた。
ふと、心臓の片隅を噛んでいたホチキスの針を思い出した。
「ああ、そういえばさ。レトロ派の知り合いってお前らいる?」
「レトロ派?そんな奴……ああ、お得意様にいるわ」
仁がサユリの太腿を甘えるように一定のリズムで叩く。
「そういう人らってさ、病気の時どうしてんの?」
「普通に病院通ってるみたいよ。でも、MRIなんかはしないって言ってたな。でかい手術もビミョーだってさ。エホバの証人と同じだろ。何で?」
仁は片方の口の端だけを持ち上げて笑った。俺も同じような顔をしているかもしれんと思った。
「上司がそういうのでさ。息子が病気で手術すりゃ治る筈なのに、古臭い治療だけ受けさせてて、気の毒になってな」
ああなるほど、と惠介が肩をすくめ、溜息のような声を出した。
「まあでも、その息子さんもレトロ派ならそれ以上の治療は望まないだろう。医者も他人も強制は出来ないんじゃないかな」
「生きられる道があるのに、見ないふり出来る程大人には見えなかったけどなあ、俺には」
畳の隅を見ると子どもの用の小さい椅子が二脚重ねられていた。大学生の頃からここで子どもを見たことはなかったが、酒を飲みたい親が連れてきて、お茶漬けやおでんを食べさせていることもあるのかもしれない。この煙草臭い居酒屋で、子どもは美味い飯を食えるのだろうか。楽しく遊んでいられるのだろうか。
「どっちにしろ燈一に出来ることなんて無いんだろ?」
仁が芯の通った声を上げ、降参するように両手を広げた。
「無いね。無いけど、慕われていると思うと、情も沸くもんだ」
「思い通りにならないことの方が多いもんさ。それこそ見て見ぬふりがベストだね」
そんなもんか、呟くと、心臓に刺さったホチキスの針が抜けて、玉のような血が膨れ出る生々しい感触がした。止血するには時間が掛かりそうだ。小さな傷なのに厄介で、面倒だ。
俺の隣で、コハクは店内の様子を見回したり、人の表情を窺うように目だけを忙しなく動かしていた。ヒューマノイドたちは積極的に話したり、関わり合おうとはしないようだった。コミュニケーション能力の高いサユリもハルも、コハクにピントは合わせても、話し掛けようとはしない。ロボットが人間の為に作られたもの、という意味を思い知って、背筋がうすら寒くなった。
「ちょっとトイレ」
「あ、俺も」
俺が立ち上がろうとすると、仁が煙草をもみ消した。コハクを置いていくことは心配だったが、尿意には抗えず、ゴム製のサンダルをつっかけ仁と連れ立って厨房の手前のトイレに向かった。
「お前もそういう趣味があったとはねえ」
仁が排尿後に陰茎をしまいながらニヤニヤ笑う。
「だから違うっつーの。小さい方が邪魔になんねえだろ」
手を洗いながら応戦すると、仁はやはり、「ああそうへー」といやらしい眼差しを向け、適当な返事をした。
戻ると、俺のいた場所には惠介が座っていて、コハクに向かって柔らかな笑みを浮かべ唇を動かしていた。反対にコハクの表情は固いままだったが、呟くくらいの声で何か応えているようだった。俺が近付くとと、惠介はすぐに席を空けた。
「コハクは賢いな」
棒立ちの俺に微笑みかける惠介の顔は、ハルの心地よさに似てきている。コハクは何か言いたそうに瞬きをして、俺を見上げた。
「何だよ、どんな話だ?」
「クイズに答えてもらってただけだよ」
「遊んでたのか」
「そうそう。コハクは自分の体のことをよく知ってる。偉い偉い」
頭を撫で出しそうな惠介の賛辞に、コハクは照れているのか煩わしく思っているのか、どちらとも取れるような顔をして、テーブルに毛先が散らばるくらい下を向いた。
酔いが回ってくると仁はますます饒舌になり、何番目か前の彼女がストーカー化していることや、スパイスを混ぜて作るサユリのカレーが美味いということを、本業の医療機器の営業トークのように順序立てて淀みなく話し、惠介は時折ハルに介助されながら、機嫌良さそうに相槌を打っていた。
話の途中でコハクの項のランプがオレンジ色に光っていることに気付き、モバイルバッテリーをくっつけてやった。コハクはされるががま大人しかった。
支払いを済ませて温い風を受けながら大通りを闊歩していると、惠介が俺の右側に並び声を潜めた。
「燈一、人間の役に立たないロボットはいないんだからな」
「コハクのことか?いや、あんなでもいないよりはましだと思ってるよ」
「悪いことされないように気を付けろってこと」
「ああ、まあ心配ないと思うけどな。あいつ良いこともしないけど悪いこともしないから」
惠介は吹き出して笑った。サユリと前を歩いていた仁が振り返り「何だ?楽しそうだな」と赤く染まった頬を持ち上げた。
「燈一の世話焼きは変わらないなと思ってさ」
「自分の世話は出来ないくせになー」
「仁、お前は恋人の世話焼いた挙句、すぐに飽きて突き放すんだから俺より質悪いぞ。惠介、バナナと青汁ばかり食事にするお前に言われたくない」
じっとりと溢れて滴るような言い返しに、二人は満面の笑顔を固まらせて視線を外した。
向かいから歩いてくる、寄り添う男女のどちらかはヒューマノイドかもしれない。キャバクラの呼び込みをしているスーツの男性も、道路端の黒づくめの占い師も、人間と姿かたちは変わらないけれど、自立したロボットかもしれない。あちこちで動くロボットは、人間の為に存在する。
家事も炊事も得意でないコハクは、本当に何かの役に立つロボットなのだろうか。ユーザーとして使いこなさなければと思うが、このままでもデメリットはないと評価すると、つい甘やかし、放っておいてしまう。サユリもハルも、本物と見紛う程馴染んでいるが、ああ見えて己のプログラムを忠実に実行しているのだ。それを存在価値とするならば、コハクの存在価値は何だというのだ。探して見つかるものだろうか。
目線を上げると細い月がの光が、周りの雲を照らしていた。
角に地方銀行の支店のある交差点で立ち止まる。俺の後ろを歩いていたコハクが、突然立ち呆けた俺の背中に額をぶつけた感触がしたが、振り返らなかったし、コハクも何も言わなかった。
「じゃあ俺こっちだから」
手を上げると、「ああ、じゃあまた来月」と仁と惠介が、反対の通りに向かって歩いて行った。
学生の頃は翌日が休みだと朝まで飲んだのに、三十路を過ぎるとそんな体力もなくなり、気持ちよく飲んでさっさと帰るのが安牌な体になってしまった。負担を掛けると体調を戻すのに三日は掛かる。俺だけではないようで安心する。
忙しない足音が聞こえ、コハクが俺の歩幅に追いつく。
「友達多いんだね」
コハクは前を向いたまま独り言のように囁いた。車道の向こうのパチンコ屋の出入口が開閉する度に、重い玉が景気よくぶつかり合う音が漏れてくる。
「そうでもない。気兼ねなく誘えるのはあいつらくらいだ」
「お酒は美味しいの?煙草は?」
「酒も煙草も美味しいよ。子どもには分からんだろうけど。興味あるのか?」
「ううん。どうせ飲めないし、吸えないし」
居酒屋の喧騒で気にならなかったが、コハクが動く度、各関節のモーター音が薄暗闇を震わせる。外見は子どもなので失念しがちだが、筐体は性能が低い上に老朽化が進んでいるのだ。過度な使用による負担がバッテリーの寿命を縮めてしまわないか、今更ながら心配になった。
コインパーキングで車に乗り、助手席に座ったコハクにシートベルトを付けてやった。郊外に向かって大橋を渡る。飲酒時の運転に、自動運転機能は便利だ。目的を設定するだけで、ハンドルを握らなくても安全に走行してくれる。俺が幼い頃の自動運転は、高速道路のみに限られていた筈だが、時代は変わるものだと感心する。
「お酒飲んでない時も自動で運転すればいいのに」
コハクの横顔を見ると、ウイスキーを溜め込んだような瞳に、テールランプの色が混ざっていた。手が胸ポケットを探って、煙草を家に置いてきたことを思い出した。
「人間にはな、選択したい時や迷いたい時があるんだよ。特に大人にはな」
前のジムニーの運転席から腕が出て、煙草が上下に揺らされるのを見ながら、世間を知ったような台詞を吐く。他人のことは分からないが、俺はそうなんだ。
「わざわざ遠回りするの?何で?」
コハクがこちらを向いて、首を傾げる。
「一種の冒険と気晴らしなんだろうな。ロボットは最短で正解を導き出すようにプログラムされてるから分からんかもしれんが」
「すすんで間違えるんだ。そういうこともあるんだ。ふうん」
顎に手を当てて考える素振りをするコハクは、数学のテストの最終問題で立ち止まる学生のようだった。どうしても分からなかったら鉛筆でも転がしておけ。運に任せるというのも、人間らしいと言えば人間らしい解決方法なのかもしれないと思った。
暫くして助手席がやけに静かになり、視線をやると、コハクの瞼が下がっていた。電源が落ちたのかと、後ろ髪を持ち上げ項のランプを確認すると、黄色く点灯していた。
「バッテリー三つでもきついか」
自動的リープモードに入ったコハクの動作音は、寝息のように小さかった。小学生のような顔がますます幼く見えて、こんな夜中に連れ回していることに犯罪の匂いを感じた。
十八時ちょうどにパソコンをシャットダウンし、デスクに置いたままの書類をクリアファイルに入れ、鞄に詰めた。
「最近帰るの早くなりましたね。もしや、彼女ですか?」
隣の工藤が体を近付けて、声を潜める。期限内に納品するめどが立ってからというもの、彼は機嫌よく仕事に励んでいる。今日はヒナちゃんがメンテナンスで不在だと朝から嘆いていて、暇を持て余すのが嫌なのか、普段進んでやらない係の仕事を片付ける為居残っている。
「だったらいいんだけどな。家にも働かないやつがいるんで、新人教育だよ」
「ああ、返品しなかったヒューマノイドの。しかし不思議ですよね。本当に何も出来ないんですか?」
「家事は全く。介護施設なんかに設置するコミュニケーションタイプの線も考えたが、それにしては愛想も可愛げもない」
工藤は「手厳しいなあ」と苦笑いをした。
「お前のとこのヒナちゃんは明日だっけか?帰ってくるの」
「そうなんですよう。早く会いたいなあ」
恍惚とし始めた工藤を半目で見ていると、歩いてきた事務の若い女性職員が工藤の名を呼び、それに気付かず妄想に浸る広い肩に手を置いて、再び声を掛けた。
途端に工藤は、過剰に体を跳ねさせ、勢いよく彼女を振り返った。
「あ、いきなりすみません。ちょっと書類に不備があって」
その反応に困惑した表情を浮かべた事務の女性が、密かに一歩後ろに下がる。俺に背を向けた工藤の顔は見えないが、背中が呼吸に合わせて大きく上下していた。
「気付かずすみません。直したら持って行きますね」
工藤はよそゆきの声で返した。女性は書類を渡して足早に部室を出て行く。彼女も残業か、事務も大変な時期なのかもしれない。
「驚かせちゃったかなあ。やっぱり駄目ですね」
振り返った工藤の顔をじっくり見ると、引きつった笑みを浮かべて「大丈夫ですよ」とこめかみを拭った。
「相変わらず女性は苦手なんだな」
「苦手ですねえ。なかなか治らない」
「まあ仕方ないんじゃねえの。ヒナちゃんがいれば幸せなんだろ?」
ヒナちゃん、という言葉に反応して工藤は表情を明るくした。「そうなんですよ!」と始まったヒナちゃん自慢大会を遮るように腰を上げる。
「じゃあ帰るわ。お前も早く帰れよ」
残念そうに眉を下げた後すぐに、犬が尻尾を振るように手を振った工藤の後ろを通り過ぎ、木野の鋭い視線が工藤の首の辺りに刺さっていることに気付いた。騒がしかったか。相変わらず手厳しい。女性の視線に敏感なくせに、木野の攻撃に鈍いのはある意味救いなのかもしれないと思った。
作業着を脱ぎながら、今日はスーパーで弁当を買って帰ることに決めた。しかし、近頃になってコハクが、「毎日揚げ物で胃がおかしくならないの?野菜は食べない決まりなの?」と箸の行く末を観察しながら、無邪気な問いを投げてきたことを思い出す。忙しい、時間がない、疲れている、を理由に切り抜けてきたが、よく考えれば余分なものを引き、足りないものを補うだけでもいいのだ。何も自炊まで考える必要は無いし、どうせ買うなら万人うけするおかずばかりが詰められた弁当で無くてもいい。
スーパーの総菜コーナーで白米、塩サバ焼き、揚げ出し豆腐、コールスローサラダを買い帰宅すると、室内の照明は消えたままで、しかしその中で一部、蛍の尻のように煌々としていた。照明のスイッチを押し、全ての輪郭が露わになると、ソファーの上にうつ伏せで寝転がり、携帯型ゲーム機を両手で握っているコハクと目が合った。
「ただいま。暗くなったら電気つけろって言ってんだろ」
「おかえり。ゲームの画面は見えるから気にならなくてさ」
律儀に挨拶を返されると、実はいまだに擽ったい。人と生活を共にするのは二十代前半に付き合った彼女と同棲したきりだから、会社以外で挨拶をし合うことなんて滅多にない。特に帰宅時の挨拶などは、とても密やかでこくみのあるものだと思う。自宅で待っている誰かがいないと成り立たない言葉の交わし合い、というのは控えめな色気さえある、と思う。
よって思いのほか嬉しがっている自分がいて、多少のことならそれだけで許してしまいそうになる。例え、溜まった衣類を洗濯しておいて欲しいという願いが果たされていなくても。立ち尽くしたまま溜息が漏れる。
「洗濯機に入れるくらいは出来るんじゃねえの?」
スーパーの袋を座卓に置いて、地図に描かれた大陸のように床に散らばる衣服を広い集める。再びゲーム機の画面を見つめるコハクは抑揚のない声で「どのボタン押すか分からなくなってさ」と、それだけで許されると思っているような余裕の浮かんだ顔で答えた。
「そうか。じゃあ、また教えるから今度からはちゃんとやれよ、頼むから」
叱る教育はしたくないが、褒める教育も出来ない。何せ褒めるところがない。
「面倒見がいいよね」
「職場にも手の掛かる後輩がいるんでな」
脱衣所に持てるだけの衣服を持って行き、洗濯機に放り投げた。覚えられないなら手順を紙に書いて張っておくか。ゲームの中の台詞や説明は理解しているようだから識字は問題ないのだろうし。
洗濯機の蓋を閉め、ザブザブと水が流れる音を背中で聞きながら戻り、座卓に向かって胡坐をかいた。床を覆っていたポリ袋がほとんど無くなったお陰で、見通しがいい。キッチンや座卓の上に築かれていた空き缶の山も崩壊し、平面が平面として機能するようになった。と言ってもそれらはコハクの仕事の成果ではなく、コハクに掃除を教えながら積極的に片付けてしまった、俺の苦労の賜物だ。コハクは俺の所作をよく見てはいたが、それを記憶しているかどうかは分からない。また付き添って確かめるしかないだろう。
「今日はお弁当じゃないんだ」
レジ袋から取り出した様々な色彩のプラスチックトレーに目を留めて、コハクがぬっと起き上がった。興味深そうに見つめて、「これ好きだよ」と指差した先には揚げ出し豆腐があった。
「食べたことあるのか?」
「いや。形が」
「四角い?」
「上に掛かってるやつ。このとろっとした、茶色い」
あんかけの形が好き、という感覚は全く分からなかった。ヒューマノイドにも、プログラムされている個体の好みがあるのか。割り箸で豆腐を崩しても、コハクは何も言わなかった。
空になったトレーを袋に入れる前に、底に忍ばせていたプリンを取り出した。
「何それ。今日はお酒飲まないの?」
首を傾げるコハクに、「休肝日」と返し、蓋のフィルムを捲った。
「疲れてるの?」
「いや、何でそう思う?」
「疲れてる時に食べるんでしょ?甘いものって」
蓋を空けたままのプリンに紙スプーンを差し、口に入れる、とうっとりするような角のない甘みが口の中に広がった。一口目を時間をかけて堪能した後、力加減を間違えないように慎重に、カップの中にスプーンの先を埋めた。コハクはスプーンの描く軌跡を目で追っていた。
「まあ、いつも疲れてはいるけど。甘いもの食うとさ、ご褒美貰ったみたいな気持ちになるよな。ケーキとかさ」
「へえ、そう。よく分からない。じゃあ僕もご褒美欲しいな。あなただけずるいよ」
コハクが小さな頭を垂れるので、何となく急いでプリンを平らげた。空になったトレーとカップを袋に詰めて、一息つく。
「ご褒美って食い物?でも味覚センサはついてないんだろ?」
「食べられないものなんて欲しくないよ。そうだ、一緒にゲームしようよ。ムキムキが戦うやつ、あれがいい」
テレビボードの中にまとめていた据え置き型ゲーム機を見つけたのか。プレイする時間が取れず手つかずだったものを所望され、過去作のコマンドを思い出そうとしたが、ほとんど思い出せなかった。コハクが軽い足取りで、コントローラを取りに行く。
「ほら」
その一つを手渡され、逡巡する間のなく受け取ってしまった。コハクが「早くつけてよ」とソファーから下ろした足をばたつかせる。
「一時間だけだからな」
電源を入れると、コハクの中から聞こえる起動音と同じ音が聞こえた。
料理長に小言を言われながら、豚骨ラーメンが乗るトレーに、ごはん茶碗を乗せ、窓際の席に腰掛ける。食堂内に漂う料理の匂いに唾液の分泌量が増す。職員の丸まった背中を見ながら割り箸を割り、油の浮いたスープに箸の先を沈ませた。
ゲームというご褒美の味を占めたコハクに、格闘競技をせがまれる日々が続いている。放っておくとコハクは自分に充電ケーブルを繋ぎながら何時間でもやるので、零時になるまでと決まりをつくったのだが、昔同じルールを母親に約束させられたことを思い出し、親と子の気持ちの狭間で板挟みになった。
「早く帰って来て」
幼子のように健気に帰りを待つ姿は正直悪くない。
コハクは勝負に負けても表情を変えない。しかし負け試合の後、急くようにリプレイボタンを押し、試合中一つでも多く攻撃を繰り出す為、騒がしくコントローラーを扱うようなところは、見た目相応だと微笑ましく思える。大人としか関わりのない生活をする身としては懐かしく、また新鮮で、帰宅するのを楽しみに思う自分がいるのも恥ずかしながら事実だった。
しかしコハクは相変わらず、家事に対しては消極的な上、作業のどこかで大切な何かを忘れ失敗する。家事音痴と言うのだろうか。仕方なく暇を見つけては俺が片付けているのだが、その成果として清潔で健康的な生活が送れるようになったので、結果としてコハクのお陰でクオリティ・オブ・ライフが向上したということになる。
しかしコハクはというとゲームをしながら所構わず寝転がるので、ファンに埃が詰まりやすく、溜めた洗濯物を持つだけで充電を食う。自分の健康の為と言うよりかは寧ろ、コハクの体に悪影響を及ぼさないように家事をしていると言ってもか過言ではないのだ。
コハクとてボタンを押すだけの洗濯機の操作や、衣類をハンガーに掛けるなどの簡単な作業は、気まぐれを起こしてやることはある。しかし日中は、暇つぶしという名目でテレビを見るか、ロールプレイングゲームをしながら過ごしており、本人曰く退屈であるらしい。だから「早く帰って来て」と乞う。
実は友人タイプのヒューマノイドなのだろうかと疑いもしている。幼稚園児の甥っ子に譲った方が適切な使い方をしてくれそうな気がするが、数日後には妹に鬼の形相を向けられそうなので止しておこう。
ラーメンの味を確かめて、ごはんを掬おうという時に、胸ポケットの携帯が震えた。取り出し、画面を見ると、大学の友人である平野惠介からラインがきていた。一番最後の会話履歴から三週間が経っていた。
『土曜日飲みに行かない?』
休日だというのに六時半に体を揺さぶられ、エレベーターが高速で上昇していくように意識が浮上した。寝返りを打って背を向けようとすると、小さな硬い手で二の腕を叩かれる。
「ねえ起きてよ。僕を外に連れて行く代わりにゲームしてくれるって言ってたじゃん」
ベッドの端がぎしっと軋む。目を瞑っていても、顔の上が陰ったのが分かり、仕方なく目を開けると、僅かに唇を尖らせたコハクが、のし掛からんばかりに迫っていた。俺の顔面の上に天蓋のように垂れてくる色素の薄い髪が、窓から注ぐ光を浴びてきらきらと光っている。
平日、六時半にカーテンを空けて起こして欲しいと頼んだのは紛れもない俺だが、休日は寝かせておいて欲しいと加えた筈だ。先週は確かにそうしてくれた。
「流石に早くないか」
乾いた口からは、擦り切れたテープを再生したような声が出た。
「早く始めた方が沢山出来るじゃん」
いよいよ本格的な夏に足を突っ込んできた日々の早朝は、「まだ手始めだ」と嘲笑うように暑さを抑えてはいるが、それでも閃光のような日差しは、じりじりと皮膚を温めていく。足首に纏わりついているタオルケットを蹴る俺を、太陽とは正反対の温度で見つめるコハクの水を湛えたような瞳が、冷え冷えと俺を見つめる。
コハクと見つめ合っていると、ギアが周り出すようにぎこちなく脳が動き出した、簡単な時間の計算をして、導き出された答えに顔を歪める。
「おいおい十時間もやるってのか」
「もう九時間四十五分しかないよ。ほら、準備してるんだから」
小鳥の囀りのようにこの部に馴染んでいた、パンチの利いた音楽に気付き、足の延長線上を見ると、テレビに格闘ゲームのオープニング画面が映っており、その手前の座卓には焦げ色のついた食パンと、マグカップが置かれていた。コハクに起こしてもらうようになってから朝食を摂るようになり、定番となったメニューだ。密かに俺が準備する手順を記憶していたのかと思うと、心がじんわりと温かくなる。ここまでされて起きないわけにはいかない。腕を突っ張り上体を起こした。
「そうだな、約束したもんな。顔洗って飯食ったらやるか」
コハクが着ている俺のTシャツの襟がずり落ち、白い肩が露わになっていいるのを直してやり、床につけた足に全体重を乗せた。
コハクが充電ケーブルを引き摺りながらソファーに座り、コントローラーを操作する。ボタンを押す音が続き、キャラクター選択画面に切り変わったのを確認してから洗面所へ向かった。冷たい水を顔に浴びせ、洗濯かごに積んだままだったフェイスタオルを押し当てると、蜘蛛の巣を払ったように視界が清々とした。
今日は勝てる気がする。起きたてで体の隅々まで冴え渡った今なら、最近の負けを回収できるとと信じられた。
出がけにコハクは、聞き分けよくゲーム機をスタンバイモードにして、用意した外出着に着替えた。
オーバーサイズの薄桃色の半袖シャツと、黒のチノパン姿のコハクがマンションを出ると、まるで親戚の子どものような生々しさがあった。歩きながら物珍しそうにあちこちを見渡し、助手席に収まっても窓の外ばかり見ている様子に、今度は父になった気分になる。「危ないから窓から手出すなよ、コハク」と家庭向けの微笑みを浮かべそうになって、ぐっと堪えた。
赤信号に捕まっている間、歩道を散歩する黄色いワンピースの女の子と、耳の垂れた大型犬に視線を向けるコハクの項が緑色に点灯していることを確認し、鞄の中に入れてきたモバイルバッテリーを数えた。多めに持ってきたつもりだが足りるだろうか。足りなければコンビニで買い足そう。
大通りから一本外れたコインパーキングに車を停め、コハクに下りるように促す。待ち合わせの居酒屋を目指す俺の背中から離れず、コハクは目だけを忙しなく動かしていた。
「あの煩いのは何?」
「パチンコ屋だよ。ギャンブル、知ってるか?でも子どもは入れないぞ」
「この下には何があるの?」
「ゲームセンター。小銭入れてアームでぬいぐるみ取ったり、太鼓叩いたりすんの。いつか行ってみるか」
ふうん、と涼しい返事をしているが、夕陽が当たっているせいか否か、コハクの頬が上気しているように見えた。
コハクの問いに答えながら歩いているうちに、携帯ショップとコンビニに挟まれた居酒屋の提灯と暖簾が見えてきた。
「ここ。大学の時よく来たんだ」
店の前で立ち止まると、コハクが隣で「だるま」と書かれた暖簾を仰ぎ見た。一呼吸おいて引き戸に手を掛けると。がらがらと大仰な音を立てて開いていく。
一番奥の小上がりの四人席で、大学の友人である平野惠介と朝倉仁が腰を落ち着けていた。仁の隣には豊満な胸をシフォン生地のブラウスに包んだ髪の長い女性が、惠介の左後ろには、青い風の流れの中にいそうな少年が微笑みを浮かべている。
「久しぶり」
近寄って声を掛けると、上座に座っていた仁がウェーブの掛かった前髪を指先で払って、「久しぶり。それが噂のヒューマノイドちゃん?」と値踏みするように俺の背後を覗いた。
「随分可愛らしいなあ」
テーブルの端の、所謂お誕生日席で胡坐をかく惠介も、俺の腰の辺りで視線を止めた。注目されていることに気付いたコハクが、俺のジーパンのポケットを引っ張るので、面倒見のいいふりをしてコハクを横に並べた。
「こいつが一緒に暮らしてるコハク。中古で買ったから何タイプか分からんけど、出来ることはしてもらってる」
視線だけで、俺の友人とそのお供のヒューマノイドの姿を確認して、コハクは「どうも」と間近にしか聞こえないような声で、三文字のみ丁寧に挨拶した。その短い挨拶が終わる前に、惠介の傍の少年、ハルが惠介の耳元に秘密話をするように言葉を囁く。
「よし、じゃあ座って」
仁が歓迎するというように両手を広げ、濃いが整備された眉を上げる。俺が惠介の対角、仁の向かいに座ると、コハクは壁に沿って走るハムスターのように、急いで壁側の座布団の上に正座した。ラミネート過去された飲み物のメニューを回し合い、仁と惠介と俺は生ビールを、仁の隣で上品に口角を上げる女性、サユリさんはウイスキーのロックを注文する。
「コハク君?ちゃん?」
尋ねながら仁が、総柄シャツの胸ポケットからジッポライターと小箱を取り出し、最近では珍しい紙巻き煙草に火をつけた。吐いた紫煙が染みだらけの天井に上っていく。
「気になるだろ?それがどこもつるっつるで分かんねえんだよ。古い型だとそういうもんなの?」
惠介に顔を向けると、彼は人差し指の第二関節で眼鏡のブリッジを押し上げてコハクを珍しい動物を観察するような目で見た。
「外見をカスタマイズ出来る現行型と違って、昔のヒューマノイドは機能の向上が優先され、不要なものは付属されない時代が長かった。様々なサービスを搭載した上で、外見も変えられるようになったのはここ十年くらいの話だ。コハクもその時代のものであれば体に特徴が無くても不思議じゃない。顔だけなら女の子に見えるけどねえ」
「どっちでもいいかあ。どうせガキだし」
出されたお冷やを口に含み、コハクを盗み見ると、正面にいるサユリの胸元に吸いつかんばかりの視線を注いでいたので、思わず肘で小突いてしまった。コハクは非難するように俺を見上げ、不貞腐れたように俯いた。
そうしてる間に、アイドルグループの二番手のような風貌の女性店員が飲み物とお通しを運んできた。テーブルに置かれたそれらを各々に配り、手軽な乾杯の儀式をして、弾ける炭酸をぐつぐつと飲み下す。既にアルコールを摂取し、テンションの高い客たちとチャンネルが合っていくのが分かる。グラスを置いた友人たちは、息を整え勝手にくつろぎ始めた。
二か月ぶりの近況報告会は俺がコハクを買ったということ以外、目新しい話題もなく幕を閉じた。
「サユリさんとハルは?」
俺の言葉にサユリが両手で持ったグラスを置きながら、赤い唇をゆったりと動かし、「変わりありませんよ」と淑やかに答えた。マシュマロのような肌と女体らしい柔らかな曲線、髪の艶と実際に美容院で施行しているというパーマの加減を見ると、現行型のヒューマノイドの仕上がりに感嘆の念を抱く。目が合うと自然な様子で微笑んでくれるところなど人間よりも好感が持てる。一方、男子中学生のような外見をしているハルは、人気アニメの主人公のように爽やかで礼儀正しく人懐っこい。物憂げな美人のコハクとは対照的に、ハルは朝の陽ざしを全身に受けたような清々しい美形だ。声変りをしたばかりのような声が滑らかに言葉を紡ぐ。
「僕も特には。惠介は自分の状況を変わりないと言うけど、最近はクライアントが増えててんてこまいなんですよ」
ね?と惠介の顔を覗き込む笑顔が眩しい。ハルの背後に水彩絵の具で塗りたくったような青空が見えた。
「コハク。そっちはサユリさん、仁の恋人タイプのヒューマノイド。こっちはハル、惠介の聴覚支援タイプのヒューマノイド」
「……ふうん」
頬杖をついたコハクが、興味無さそうに壁を向く。外見年齢の近そうなハルと比べると、言動の幼稚さが目立つと思った。
焼きそば、チャーハン、出汁巻き卵、麻婆豆腐をつつきながら、アルコールをちゃんぽんし、その間、職場の愚痴や芸能人のニュース、大学時代の思い出話など、毎度お決まりの話題を三人で転がし続けた。サユリは頷きながら耳を傾け、ハルは右耳の聞こえない惠介に会話を伝えながら、機嫌良さそうに微笑んでいた。
ふと、心臓の片隅を噛んでいたホチキスの針を思い出した。
「ああ、そういえばさ。レトロ派の知り合いってお前らいる?」
「レトロ派?そんな奴……ああ、お得意様にいるわ」
仁がサユリの太腿を甘えるように一定のリズムで叩く。
「そういう人らってさ、病気の時どうしてんの?」
「普通に病院通ってるみたいよ。でも、MRIなんかはしないって言ってたな。でかい手術もビミョーだってさ。エホバの証人と同じだろ。何で?」
仁は片方の口の端だけを持ち上げて笑った。俺も同じような顔をしているかもしれんと思った。
「上司がそういうのでさ。息子が病気で手術すりゃ治る筈なのに、古臭い治療だけ受けさせてて、気の毒になってな」
ああなるほど、と惠介が肩をすくめ、溜息のような声を出した。
「まあでも、その息子さんもレトロ派ならそれ以上の治療は望まないだろう。医者も他人も強制は出来ないんじゃないかな」
「生きられる道があるのに、見ないふり出来る程大人には見えなかったけどなあ、俺には」
畳の隅を見ると子どもの用の小さい椅子が二脚重ねられていた。大学生の頃からここで子どもを見たことはなかったが、酒を飲みたい親が連れてきて、お茶漬けやおでんを食べさせていることもあるのかもしれない。この煙草臭い居酒屋で、子どもは美味い飯を食えるのだろうか。楽しく遊んでいられるのだろうか。
「どっちにしろ燈一に出来ることなんて無いんだろ?」
仁が芯の通った声を上げ、降参するように両手を広げた。
「無いね。無いけど、慕われていると思うと、情も沸くもんだ」
「思い通りにならないことの方が多いもんさ。それこそ見て見ぬふりがベストだね」
そんなもんか、呟くと、心臓に刺さったホチキスの針が抜けて、玉のような血が膨れ出る生々しい感触がした。止血するには時間が掛かりそうだ。小さな傷なのに厄介で、面倒だ。
俺の隣で、コハクは店内の様子を見回したり、人の表情を窺うように目だけを忙しなく動かしていた。ヒューマノイドたちは積極的に話したり、関わり合おうとはしないようだった。コミュニケーション能力の高いサユリもハルも、コハクにピントは合わせても、話し掛けようとはしない。ロボットが人間の為に作られたもの、という意味を思い知って、背筋がうすら寒くなった。
「ちょっとトイレ」
「あ、俺も」
俺が立ち上がろうとすると、仁が煙草をもみ消した。コハクを置いていくことは心配だったが、尿意には抗えず、ゴム製のサンダルをつっかけ仁と連れ立って厨房の手前のトイレに向かった。
「お前もそういう趣味があったとはねえ」
仁が排尿後に陰茎をしまいながらニヤニヤ笑う。
「だから違うっつーの。小さい方が邪魔になんねえだろ」
手を洗いながら応戦すると、仁はやはり、「ああそうへー」といやらしい眼差しを向け、適当な返事をした。
戻ると、俺のいた場所には惠介が座っていて、コハクに向かって柔らかな笑みを浮かべ唇を動かしていた。反対にコハクの表情は固いままだったが、呟くくらいの声で何か応えているようだった。俺が近付くとと、惠介はすぐに席を空けた。
「コハクは賢いな」
棒立ちの俺に微笑みかける惠介の顔は、ハルの心地よさに似てきている。コハクは何か言いたそうに瞬きをして、俺を見上げた。
「何だよ、どんな話だ?」
「クイズに答えてもらってただけだよ」
「遊んでたのか」
「そうそう。コハクは自分の体のことをよく知ってる。偉い偉い」
頭を撫で出しそうな惠介の賛辞に、コハクは照れているのか煩わしく思っているのか、どちらとも取れるような顔をして、テーブルに毛先が散らばるくらい下を向いた。
酔いが回ってくると仁はますます饒舌になり、何番目か前の彼女がストーカー化していることや、スパイスを混ぜて作るサユリのカレーが美味いということを、本業の医療機器の営業トークのように順序立てて淀みなく話し、惠介は時折ハルに介助されながら、機嫌良さそうに相槌を打っていた。
話の途中でコハクの項のランプがオレンジ色に光っていることに気付き、モバイルバッテリーをくっつけてやった。コハクはされるががま大人しかった。
支払いを済ませて温い風を受けながら大通りを闊歩していると、惠介が俺の右側に並び声を潜めた。
「燈一、人間の役に立たないロボットはいないんだからな」
「コハクのことか?いや、あんなでもいないよりはましだと思ってるよ」
「悪いことされないように気を付けろってこと」
「ああ、まあ心配ないと思うけどな。あいつ良いこともしないけど悪いこともしないから」
惠介は吹き出して笑った。サユリと前を歩いていた仁が振り返り「何だ?楽しそうだな」と赤く染まった頬を持ち上げた。
「燈一の世話焼きは変わらないなと思ってさ」
「自分の世話は出来ないくせになー」
「仁、お前は恋人の世話焼いた挙句、すぐに飽きて突き放すんだから俺より質悪いぞ。惠介、バナナと青汁ばかり食事にするお前に言われたくない」
じっとりと溢れて滴るような言い返しに、二人は満面の笑顔を固まらせて視線を外した。
向かいから歩いてくる、寄り添う男女のどちらかはヒューマノイドかもしれない。キャバクラの呼び込みをしているスーツの男性も、道路端の黒づくめの占い師も、人間と姿かたちは変わらないけれど、自立したロボットかもしれない。あちこちで動くロボットは、人間の為に存在する。
家事も炊事も得意でないコハクは、本当に何かの役に立つロボットなのだろうか。ユーザーとして使いこなさなければと思うが、このままでもデメリットはないと評価すると、つい甘やかし、放っておいてしまう。サユリもハルも、本物と見紛う程馴染んでいるが、ああ見えて己のプログラムを忠実に実行しているのだ。それを存在価値とするならば、コハクの存在価値は何だというのだ。探して見つかるものだろうか。
目線を上げると細い月がの光が、周りの雲を照らしていた。
角に地方銀行の支店のある交差点で立ち止まる。俺の後ろを歩いていたコハクが、突然立ち呆けた俺の背中に額をぶつけた感触がしたが、振り返らなかったし、コハクも何も言わなかった。
「じゃあ俺こっちだから」
手を上げると、「ああ、じゃあまた来月」と仁と惠介が、反対の通りに向かって歩いて行った。
学生の頃は翌日が休みだと朝まで飲んだのに、三十路を過ぎるとそんな体力もなくなり、気持ちよく飲んでさっさと帰るのが安牌な体になってしまった。負担を掛けると体調を戻すのに三日は掛かる。俺だけではないようで安心する。
忙しない足音が聞こえ、コハクが俺の歩幅に追いつく。
「友達多いんだね」
コハクは前を向いたまま独り言のように囁いた。車道の向こうのパチンコ屋の出入口が開閉する度に、重い玉が景気よくぶつかり合う音が漏れてくる。
「そうでもない。気兼ねなく誘えるのはあいつらくらいだ」
「お酒は美味しいの?煙草は?」
「酒も煙草も美味しいよ。子どもには分からんだろうけど。興味あるのか?」
「ううん。どうせ飲めないし、吸えないし」
居酒屋の喧騒で気にならなかったが、コハクが動く度、各関節のモーター音が薄暗闇を震わせる。外見は子どもなので失念しがちだが、筐体は性能が低い上に老朽化が進んでいるのだ。過度な使用による負担がバッテリーの寿命を縮めてしまわないか、今更ながら心配になった。
コインパーキングで車に乗り、助手席に座ったコハクにシートベルトを付けてやった。郊外に向かって大橋を渡る。飲酒時の運転に、自動運転機能は便利だ。目的を設定するだけで、ハンドルを握らなくても安全に走行してくれる。俺が幼い頃の自動運転は、高速道路のみに限られていた筈だが、時代は変わるものだと感心する。
「お酒飲んでない時も自動で運転すればいいのに」
コハクの横顔を見ると、ウイスキーを溜め込んだような瞳に、テールランプの色が混ざっていた。手が胸ポケットを探って、煙草を家に置いてきたことを思い出した。
「人間にはな、選択したい時や迷いたい時があるんだよ。特に大人にはな」
前のジムニーの運転席から腕が出て、煙草が上下に揺らされるのを見ながら、世間を知ったような台詞を吐く。他人のことは分からないが、俺はそうなんだ。
「わざわざ遠回りするの?何で?」
コハクがこちらを向いて、首を傾げる。
「一種の冒険と気晴らしなんだろうな。ロボットは最短で正解を導き出すようにプログラムされてるから分からんかもしれんが」
「すすんで間違えるんだ。そういうこともあるんだ。ふうん」
顎に手を当てて考える素振りをするコハクは、数学のテストの最終問題で立ち止まる学生のようだった。どうしても分からなかったら鉛筆でも転がしておけ。運に任せるというのも、人間らしいと言えば人間らしい解決方法なのかもしれないと思った。
暫くして助手席がやけに静かになり、視線をやると、コハクの瞼が下がっていた。電源が落ちたのかと、後ろ髪を持ち上げ項のランプを確認すると、黄色く点灯していた。
「バッテリー三つでもきついか」
自動的リープモードに入ったコハクの動作音は、寝息のように小さかった。小学生のような顔がますます幼く見えて、こんな夜中に連れ回していることに犯罪の匂いを感じた。
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SF
地球人類の永久不滅計画が実施されていた
それは長きにわたる資本主義の終焉に伴う技術進化の到来であった
そのオカルトティックと言われていた現象を現実のものとしたのは
博士号を持った博士たちであった
そしてそんな中の一人の博士は
技術的特異点など未来観測について肯定的であり楽観主義者であった
そんな中
人々の中で技術的特異点についての討論が成されていた
ドローン監視社会となった世界で人間の為の変革を成される
正にそのタイミングで
皮肉な研究成果を生み出す事実を博士も人類も今だ知らなかった
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