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不具合と熱暴走
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月のない空に食べカスのような星が散らばっている。脱力したままの小型ヒューマノイドを横抱きに、車の鍵を閉め、一歩踏み出す。大学に入ってすぐに付き合った彼女はふくよかだった。ある日、酔ってお姫様抱っこをせがまれた俺は、意気揚々と持ち上げて見せ、ものの五秒で、結婚を約束した恋人を落下させた。そんな苦い思い出が頭を過り、しかしこの精密機器は落とすと尻が赤くなるどころでは済まなそうなので、過去の恋人よりも慎重に運ぶことを心に決める。
一歩一歩踏ん張りながら歩き、エレベーターに乗せる。三階に上昇するのを待っている間に、酔っぱらいを引き摺る要領で脇の下に体を入れて歩けばいいのではと考えたが、如何せん身長が開き過ぎていて妙案ではないことに気付き、溜息をついた。いや、そうか。子どもを運ぶと言えば、おんぶだ。漸く負担の少ない運び方を思いつき、ぐらぐら揺れる小型ヒューマノイドを背に乗せる。外見に見合わない重量のせいで腰が折れてしまうが、背中全体に重さが分散される分、横炊きより随分楽だ。チン、と安っぽい音がして扉が開き、エレベータを出てすぐのドアの前で立ち止まる。ジーンズのバックポケットに入れたままの鍵を取り出し、開錠してすぐに、車にかつ丼とビールを忘れてきたことを思い出した。
「よいしょっと。はー、重」
小型ヒューマノイドを玄関に残して一人車に走り、スーパーでの戦利品を手に戻った俺は、あちこちに転がるゴミの詰め込まれたポリ袋と、洗濯をしていない衣服の山を避けたり蹴ったりしながら前進し、定位置のであるソファーに腰を下ろした。
来た道を視線で辿った先に、小さな体が死体のように横たわっている。埃塗れの床に顔をつけていると思うと気の毒で、放っておくと根の生えそうな体に鞭を打つ。大股歩きで小型ヒューマノイドに近付き、仰向けに起こして体の下に腕を入れる。定位置を譲るのは惜しいが、ソファーに横たえさせた。
仕方なくラグの上に落ち着き、座卓に積み上がった書類を腕で押し除け、空いたスペースに購入品を並べる。真っ先に缶ビールのプルタブを開けた。半分の重さになるまで一気に飲み下し一息つくと、空きっ腹に炭酸が溜まり、気泡が跳ね上がるよう感覚が何とも言えなかった。かつ丼に箸をつけながら、自分の咀嚼音しかしない蒸し暑い室内を見回す。お世辞にも掃除と整理整頓が行き届いた部屋とは言い難い。最後に掃除をしたのは去年の年末だったか。この頼りない体型のヒューマノイドが、本当に部屋を整えてくれるのか。疑念ばかりが募っていく。胡散臭い笑みを浮かべる、リサイクルショップの店長に騙された気分になりつつ、小型ヒューマノイドの二の腕に張り付けてある小さなビニール袋を外す。中には付属している充電ケーブルが入っており、それを取り出して、横向きの小型ヒューマノイドの全身を見渡した。見当をつけていたところに目当てのものはなく、心を落ち着けながら長い後ろ髪をかき上げると、漸く、電源スイッチと充電ケーブルの差し込み口を見つけた。手に持っていたものを項に繋げ、もう一方はコンセントからとぐろを巻き伸びる延長コードへ差し込む。ブン、と耳元で虫が羽ばたくような音がして、小型ヒューマノイドの目が半分開いた。小学5年生の時に博物館見学で見た、琥珀のような瞳の色をしていた。おお、と思わず声が漏れる。
「お前そういう顔してたんだな」
深い二重の線、上向きの長い睫毛と、その中心で艶めく甘い彩りに、とろりとからめとられてしまいそうになる。
「いや、目、というかレンズだよな」
独り言を垂れながら、たれの染みた白米の上にふやけたかつと紅ショウガを適量乗せて口に運ぶ。肉の弾性と白米の柔らかさを噛みしめながら、何となしに小型ヒューマノイドのTシャツの裾を持ち上げると、平らな胸腹部が露わになった。
「まっ平かよ……」
遠慮のない感想が漏れてしまう程の平面を目の当たりにし、僅かに抱いていた期待感が消失する。清々する程に何の飾りもついていないことを確認し、白紙のように蛍光灯を反射するそこを、再び布で覆った。小学生並みの大きさとは言え、性別は存在するものだと想像していた。工藤のところのヒナちゃんは女児型で、木野のところのコタローは成人男性型、と各々に筐体の特徴があるようだから。意を決して、くたびれた半ズボンウエストゴムを引っ張り中身を確認する。
「なるほどなるほど」
頷きながら、アルコールに浮かされた脳が冷却されていくのを感じていた。最初から期待すること自体が可笑しな話だったのかもしれない。相手はロボット、何もなくて当然だ。恋愛や性欲処理、ビジュアルに特化したタイプであれば性別が明確化されているのかもしれないが、恐らくこの小型ヒューマノイドはそういったタイプのものではないのだろう。この潔いくらい無駄の無い姿かたちがその証拠だ。
気を取り直して、型番を探るべく、体のあちこち見たが、それらしいものはどこにも記載していなかった。筐体の特徴をネットで検索しても、現行型のヒューマノイドの情報ばかりが引っかかり、目ぼしい情報は得られなかった。
ま、起動してみればどんな機能があるか分かるか。
弁当の空容器とビールの缶をレジ袋に詰め、代わりに新しい缶を取り出した。それを手に、続き間の寝室に踏み入り、部屋の中で最も綺麗な空間であるベッドに横になる。携帯で社用のメールを確認しながら飲んでいると、すぐに意識が遠くなり始め、慌てて開けたばかりの新鮮な炭酸を飲み干し、空き缶をサイドテーブルに置き目を閉じた。
一晩も充電していれば朝には起動できるだろう。遠足の前日のように胸を高鳴らせながら眠りについた。
駅のある通りに佇む喫茶店でボンゴレパスタを食べ、六月にしては高い気温の中、図書館を目指して歩いている。昼飯時に目覚め、真っ先に、ソファーに横たわったままの小型ヒューマノイドの元へ向かった。昨晩見つけた項の電源スイッチを長押しする。何度も試したがそれは指先一つ動かさなかった。舌打ちをしてから家を出て、まだ温い程度だった風を切って歩いた。
駅まで十五分。道が狭く入り組んでいるので車よりも歩いた方が早い。
食欲が満たされ、足取りが軽くなる。向かいから家族連れが横並びに近付いてきても、颯爽と車道側に避けることが出来る。やはり空腹は人の思考や行動を鈍らせるのだ。だから機能、不良品かもしれないヒューマノイドなんて買ってしまった。満腹であれば正しい判断をして、あの場で踏みとどまれた筈だ。金の無駄遣いを心から悔やむ。しかし、未使用品を廃棄する選択肢は無い程には貧乏性だった。出来ることならば八万円分の働きはしてもらいたい。
駅の近くの小さな公園に隣接して、図書館は佇んでいる。入口を潜り、二階へ上がるとカウンターがあり、職員に利用したことが無い旨を伝えた。手早く利用に必要なカードを作り、文献を探し始めた。
電子機器・機械のコーナーを見つけ、ロボット関連の本を何冊が抜き出し、広いテーブルの端で内容を確認する。勉強に勤しむ若者の走らせるペンの音が懐かしさを呼び寄せる。大学受験の際に、地元の古い図書館に通いつめたことを思い出した。
仕事でも回路設計や配線弄りをやっているのに、今度はロボットの勉強か。心が陰りそうになる。
何冊かページを捲り、旧型のサービス(非産業用)ロボットについての項目を読み込んだが、三十年前の小型と似た形で普及していたのは、やはりコミュニケーションや家事支援タイプのロボットだけのようだった。トラブルシューティングと修理については、基本的に各メーカーへの問い合わせによって対応している、とどの書籍にも記載されてある。全く役に立たない。肩を落として図書館を後にした。
帰宅して、電源スイッチの上にあるランプが赤色のまま、変化のない小型ヒューマノイドを見る。祈るような気持ちで再びスイッチを押すも、結果は変わらなかった。そこら中のゴミを蹴とばしながら冷蔵庫に近付き、ハイボールの缶を開ける。昼の飲酒は活動の幅を否応なく狭めるが、家でだらける言い訳には丁度いい。翌日も隅々まで青い空を見ながら、べランで煙草を片手にアルコールを摂取して過ごした。
ヒューマノイドは明日返品しよう、と心に決める。
廃棄するより金がかからないし、ジャンク品として買う人がいるかもしれないと思うと心が軽くなる。とにかく故障品を置いておける程この部屋に余裕はない。僅かに見える瞳が日差しを受けて瑞々しく光っている。人間を支援出来ないロボットはロボットと定義されない。金属とプラスチックの塊としてリサイクル、あるいは廃棄される。この澄んだ瞳も同じように処理される。このゴミ溜めのような部屋も道連れに心中してほしいと思った。
驚いた工藤が発した大声が、二グループのデスクの上で波のように押し広がるので、思わずその頭頂部を叩いた。
「ええ、だって芳賀先輩。故障なら仕方ないかもですけど、本当にメーカーは分からないんすか?」
工藤がひそひそと声を潜めるのを、傾けた耳で拾いながら、今しがた書いた付箋をパソコン画面の縁に執拗に押し付けた。
「随分昔の型だからな。メーカーも型番も消えちまっててもおかしくないだろ。使えないもんは使えない、仕方ない」
「でも、子どもなんでしょ?ああ、可哀想そうだなあ」
お願いするように両手を絡めて眉を下げる工藤を一瞥してから、マウスを動かした。工藤の後ろで木野が、五歳年上の情けない先輩を睨んでいる。そうだ、今は仕事中だぞ、工藤。
「しかし先輩、どういう風の吹き回しですか。家に他人がいるのは嫌だって言ってたのに」
突き刺さる視線に気付かない能天気さは、唯一見習いたいところでもある。デスクに向かわず俺に椅子を向けてくる工藤を、正面の画面に映した図面を見ながらあしらう。
「小さいのなら大丈夫だと思ったんだよ。部屋の隅にいれば存在感もないだろ」
「それは、まあ……え?大きさの問題っすかあ?」
ひっくり返った声を出すので、再び二グループのメンバーが作業の手を止め、工藤に視線を向けた。工藤が慌てて両手で口元を覆う。
「本当に実用的というか、色気がないというか」
思い出したかのように声のボリュームを下げる工藤の手の甲を徐に抓ると、顔を顰めて引っ込めた。思わず口角が上がる。
「お前みたいに変態じゃないんでな。ほら、木野がこっち見てるからいい加減仕事しろ」
まだ何か言いたそうな瞳を無視して、線と数字だらけの画面を見つめた。
車の後部座席に返品予定の小型ヒューマノイドがが横たわっている。一応周りから見え難いように積んだのだが、他にもヒューマノイドをスリープモードにして乗せている車がいくつかあることを、最近になって知った。今朝は、木野の車に残されていたコタローに、すれ違いざま会釈をされた。
ヒューマノイドのバッテリー持続時間は長くて三時間程度なのだという。その中でスリープ機能とモバイルバッテリーを駆使し、共に外出して活動するのは逆に面倒なのではと思ってしまうのだが、ヒューマノイドに愛
着を持つ人々からすれば、少しでも時間を共有したい、あるいはその能力を活用したい、と外に連れ出すのはごく自然なことなのかもしれない。
木野に注意を受けた工藤が謝っている声が聞こえる。どちらが先輩か分からない。
「あ、部長」
再びこちらを振り向いた工藤の声に顔を上げると、デスクの横に鈴村部長が笑みを浮かべながら立っていた。 立ち上がり、用件を聞くべく口を開くと、「ああ、座ってていいよ」と制された。
「芳賀君に用があるんだ。いや、大した話じゃないんだけどね。以前話したうちの息子のこと覚えてる?」
「はい。ご病気の、ですよね?」
「そうそう。最近調子が良くてね。動けるようになったから、実は今日社会科見学に来ているんだ。ほとんど製造部にいるらしいんだがね」
「そうなんですか」
話の意図が分からず、部長のYシャツの襟から垣間見える銀色のチェーンを見つめていると、「ほら、うちの息子、君の話をすると喜ぶから」と続けた。
「はあ」
「やっぱり男ってのは自分より出来る奴に憧れるんだな。技術部を見に来たらどうだと誘ったんだが、親子で一緒にいるのは恥ずかしいと断られてさ。もし暇があったら会ってやってくれないか。本館にいる筈だから。午前で帰らせる予定だから、その間に頼むよ」
鈴村部長は終始穏やかな笑顔で話しながらほとんど命令のような案件を残し、資料を小脇に携えて部室を出て行った。工藤の同情するような視線を背中に感じながら溜息を吐く。
鈴村部長の息子のことは、一度話を聞いたことがあった。
拡張型心筋症を患っており、内服治療をしているということ。行動制限があり、調子のいい日でないと外出が出来ないこと。そしてこの時世に、人工心臓置換手術はおろかペースメーカの植え込みも行っていないということ。時代遅れと嘲笑したい気持ちになるが、個人の思想は尊重されるべきなのだそうだ。
鈴村夫妻は、世間で言うレトロ派の人間だった。レトロ派というのはロボットが一般に普及した世で、電磁波の有害性を主張し、それら機器のの使用を最小限に抑えた生活を体現する人々の呼称である。
そして鈴村部長も例にもれず、息子の病気の発症を、電磁波の影響だと説いていた。同じくレトロ派の医者にそう説明されたのだという。何十年前までは寛解すら難しいとされてきた病が、医療機器の発展でほとんどが完治するようになった。発症原因も既に解明されているというのに、親の思想のせいで適切な治療が受けられないその子に、心から同情したことを思い出す。
しかし上司に対して、あんたのせいで息子は長く生きられないですよ、とは言えない。やるせなさはあったが、話の後に製品の発注についての電話を受け、便器を清浄するようにさっぱりと忘れたのだ。以来その話を思い出すことは今の今までなかった。
仕方ない。きりのいいところまでやったら本館に行ってみるか。
引き出しから市販の眼精疲労用の目薬を取り出して上を向く。一滴が沁みていく爽快感で己を奮い立たせ、デスクトップのファイルを一つクリックした。
技術部のある別棟から一階に下り、渡り廊下を通って本館に着くと、製造部の入口ドアの横に、やたら大きなグレーのパーカーを着た人影が見えた。俯いている顔に長い黒髪が掛かり、その造形は見えない。作業着を着ていないから職員ではないだろう。ふとくっきりと浮いている鎖骨の間に、一円玉が三つ縦に並んだようなネックレストップが見え、彼が例の息子だということに気付いた。
「突然すみません。初めまして、技術部の芳賀燈一です。お父さんにはいつもお世話になっています」
近付いて、出来る限り穏やかに声を掛けた。彼は敵に気付いた小動物のように肩を跳ねさせ、観察するように俺を見た。そして小さく唇を動かし、蚊の鳴くような声を出した。
「鈴村の息子の、美月です。芳賀さん、父からよく、聞いてます」
「体調は大丈夫ですか?」
「はい、今日は、比較的」
彼の勢いのない声に、昨年亡くなった入院中の祖母の姿を思い出した。声を出そうにも吐息しか出ず、どうにか聞き取れた「来てくれてありがとう」がいまだに耳に残っている。
クーラーの入ってない工場の中でも、涼しい顔で纏っているパーカーの袖から伸びる手には、骨も血管も無遠慮に浮かび上がっている。頬も唇も血色がなく、出張先で見た舞妓の顔に似ていた。
「機械が好きなんですか?」
沈黙が気まずくて質問を投げ掛ける。
「はい、でも、親は好んでいないので。父は仕事と割り切ってここで働いていますけど、僕は、なかなかそういうの、許してもらえないので」
だから、社会科見学と言う名目で付いてきました、彼は時々大きく息継ぎをしながら、ゆっくり言葉を紡いだ。真っ黒い瞳が熱心に見上げてくる。まるで煩悩の無さそうな眼差し向けてくるこの若者が、ひどく尊い存在に感じられ、治療を妨げる鈴村部長をはっきりと軽蔑してしまいそうになった。そんな感情を隠すように笑みを深め、額に手を当てる。
「何かお土産でも渡せればいいんですけど、図面データ渡すわけにもいかないしなあ」
「気にしないで下さい。技術部一優秀な方とお話し出来ただけで、僕は嬉しいです」
彼の言う「技術部一優秀」が認識している自己像とそぐわず、思わず吹き出しそうになって、手で口を覆った。
「僕なんかまだまだですよ。よかったらまた見に来てください。今度はぜひ技術部に」
手を伸ばすと、彼は両手でそれを包んだ。骨ばってひんやりとしていた。
「ありがとうございます。また、来ることが出来たら」
目を細める若者の無邪気さに目を奪われた。しかし気持ちは、彼の言葉に引っ張られるように、水底に沈んでいく。彼の言葉は重い。
製造部のドアから様々な音が聞こえる。事務室へ繋がる窓口には、藍の釉薬がとろりと掛かった陶器に、赤いポピーが活けられていた。花弁の端がじわじわと茶色くなっているのが目に入り、ふと木野に悪態をつかれているであろう工藤の顔を思い出した。視線を戻し、僅かに頭を下げる。
「では、戻りますので。どうかお元気で」
「はい、芳賀さんも」
なかなか逸らされない視線を遮るように、背を向けた。彼は悄然と微笑んでいた。
渡り廊下に出ると、駐車場から熱風が吹いてきた。車の中に閉じ込めた小型ヒューマノイドのバッテリーが発火していないことを祈った。
今頃、工藤はひいひい言いながら残業しているに違いない。
「そういうわけで、今日は故障しているヒューマノイドの返品作業があるから先に帰る。真面目にやれよ」
工藤は、退社の準備をしている職員を一人一人眺めて、あからさまに肩を落としていた。その隣で木野が舌打ちをしたのは幻聴では無かった筈だ。明後日提出のものがまだ仕上がってない、と小声で打ち明けた彼女もまた居残りだろうから、騒がしい先輩に負けず頑張ってほしい。応援の意を込めて自動販売機で買ったミルクティーを預けて来たが、気休めにもならないだろう。
西日の眩しさに目を細めながら車まで歩を進め、窓から後部座席を覗いて瞬きが止まった。
ビー玉のような瞳と目が合った。
白い手の平が窓ガラスにぴたりとくっつく。幼い顔面にあるサクランボ色の唇が微かに動いた。
思わず後退ってその様子を観察する。ガラスに遮られて声は聞こえないが、小さな口が同じ言葉を繰り返しているのは分かった。再び近付いて静かに耳を澄ます。小鳥の雛が鳴くような声が呟いていたのは、「あけて」の三文字だった。
「……あけて?}
疑いながら復唱すると、小型は小さく頷いた。慌ててドアを引く。それはこじんまりとシートに腰掛けていた。
「電源落ちるよ。こんな暑いところに置いたら」
しっかり聞き取ると、少女か少年か判断できないような中途半端な声音だった。慌てる素振りも見せず、発熱しているというわりに涼し気な顔をしている。
「その缶貸して。少しでも冷やすから。ほら、早くエアコンつけて」
言われるがままに持っていたブラックコーヒーの缶を差し出すと、小型ヒューマノイドは淑やかにそれを受け取り抱き締めた。その様子を見届けて、そそくさと運手席へ足を踏み入れる。
返品するつもりで乗せて来たものが動いている。
毎クールドラマで見る子役よりも整った顔立ちをして、知らない世界へ惑うような声で囁き、しかし敬いも愛想も無い態度を取って動く。外見は綺麗に作りこまれているのに、言動は想像したより刺々しい。近しい人間にはいないタイプに思えて少しだけ身構えた。
「涼しくなってきたか?」
とりあえず調子を確認する。山道を普段よりゆっくりと下りながら、ルームミラーを見ると、小型ヒューマノイドはシートに凭れながら、窓の外に視線を向けていた。
「いくらかいいよ。エラーは落ち着いた」
俺の方を見もしないで、抑揚のない声を出す。
「そうか」
動揺が伝わらないよう何度も速度計に視線を向け、冷房で冷えた額から滲んでくる汗を手の甲で拭った。ロボットと会話が成立するという事実に、初めてラジコンを操作した子どもに似た衝撃を受けた。髪や皮膚の質感に違和感はあれど、紡ぐ言葉は自律した人間そのものだった。
車内の温度が、エアコンの吐く冷気によってますます冷やされていく。しかし、心拍数が多いせいか全身に勢いよく血液が回り、指先まで火照って寒さは感じない。
国道に出る手前の赤信号で、後ろから缶を渡された。筐体の熱が伝わって温くなったコーヒーをつっかえながら飲み、「リサイクルショップ ラッキー」を通り過ぎる。今日ここに寄る用事はなくなってしまった。店長の悲しそうな顔が遠ざかっていく。思い立ち、僅かに振り返って後部座席の様子を窺う。
「何か必要なものはあるか?」
「いや、別に」
相変わらず何にも興味無さそうな顔で答える。
「服、俺の着れるかな」
「これでいいよ。裸でもいいし」
薄汚れた首元の緩い半袖シャツに短パン姿で過ごすというのか。それ以前に裸なんて論外だ。こういう無頓着さはロボットらしいような気がした。
車は着々と我が家へ向かっている。夕食のことなど失念して、川沿いを進み、数多の住宅の間を抜けた。駐車した頃には目頭が鈍く痛んで、すかさず指で揉んだ。
「着いたぞ。覚えてるか?」
顔を向け、小型ヒューマノイドに問うと、「ううん」とマンションを見上げた。車を下りても、エントランスに入っても、不思議そうに辺りを見回している小型ヒューマノイドに合わせてゆっくりと歩く。エレベーターに乗ると、「結構揺れる」と隅の方で壁に手をついていた。
「ここ、俺んち」
部屋のドアを開け、入るように促す。素直に叩きに踏み入る小型の足が、何にも包まれていないことに気付き、目を見開いた。小型は気にすることもなく上がり框に足を掛けようというところだった。
「お前、待て。タオル持ってくるから」
「何で?」
無感情な声を聞き流し、慌てて脱衣所のかごからフェイスタオルを引っ掴んだ。洗面台でタオルを濡らし、大人しく待っていた小型の前にしゃがみ込んで足を掬い上げる。
「何?ああ、靴履いてないね」
薄っぺらい足の汚れを入念に拭い、されるがままの小型を見上げた。
「俺が世話してどうすんだよ。お前本当に働けるんだろうな」
疑いの眼差しを向けると、俺に足を預けたままの小型ヒューマノイドは顔色一つ変えずに、「努力してみるよ」と呟いた。汚れの取れた足を自由にしてやると、ずんずん奥へ進んで、十二畳のワンルームに入っていった。
「何これ汚い」
後をついていくと、小型がほのかに顔を顰めて立ちすくんでいた。膨れたポリ袋と皺だらけの衣服、空になった缶と書類の山を見下ろしてから、不審者を目撃したように俺を見る。あからさまに軽蔑した眼差しを向けてくるので、ゆっくりと視線を外した。
「な、こんなだからお前を買ったんだよ」
「そうなの。あ、また発熱してきた。これ、ほこりがファンに詰まって冷却できないよ」
他人事のように言うので、溜息と共に本音が漏れた。
「貧弱だな」
「僕じゃなくてこの部屋がひどいんだと思うよ」
言いながら書類と弁当の空をどけてソファーに座る小型ヒューマノイドに続いた。
一人称が「僕」ということは男なのか。いやしかし「僕」を使う女の子もいるらしいし。性別に関わりのある支援を求めて購入した訳ではないから、あまり気にするところではないかもしれないが。
二人用なのに、実際に二人で座ると窮屈だ。ソファーを軋ませながら向かい合う。瞳孔の奥のレンズが、俺にフォーカスを当てているのが分かった。
「お前どこ産?」
「分からない。記憶装置には何も記録されていない」
「じゃあ名前は?」
小型は髪を揺らしながら首を傾げた。
「名前なんてないよ。それはユーザーが決めるものだろ」
確かに現行型でも好みの名前を設定することは可能らしいが、型ごとに初期設定された名前が存在する筈だ。それが分かれば、販売元を検索出来るかもしれない。粘り強く尋ねる。
「元々のお前の名前だよ。初めに設定された名前があるだろ?」
「ないよ。勝手につけてよ」
淡々と喋る小生意気なヒューマノイドを前に、肩を落として鼻から息を吐いた。座卓からエアコンのリモコンを取り、冷房をつける。埒が明かない。発熱しそうなのはこっちだ。まるで職場にいる感覚に襲われ、残業中の工藤と木野を思い浮かべた。せめて工藤よりは要領よくやってくれたらいい。
「名前、名前か……」
積み上がった書類の一枚を摘まんで興味なさそうに眺めている小型ヒューマノイドをよそに、何も書かれていない天井を見上げて思案する。実家は農家だったので広大な庭があり、飼っていた柴犬と二匹の猫が駆け回っていた。犬の名前はチャチャ、猫はスミとクロだった。ぶっきらぼうな祖父が「そういう色してるべ」と即興で付けたわりに、、見た目から連想できる簡単な名なので、すぐに家族中に浸透していった。
改めて小型ヒューマノイドの姿かたちを見る。小さいからチビ?いや何か悪意がある。髪がミルクティーのような色だからミルク?アラサーの男が付けたと知れたら恥ずかしい。視線を感じて顔を下げると、大きな双眸がじっとこちらを見ていた。蜂蜜か、いや。ふとランプが灯る。
「コハク、はどうだ?目が琥珀みたいな色だから。べっ甲でも、蜂蜜でもいいぞ?」
小型ヒューマノイドは鳩が豆鉄砲を食ったよう顔をしてから、顎に手を当てて考える仕草をした。華奢な肩から薄い布が落ちて剥き出しになる。すかさず直してやった。
「べっ甲はやだな」
考えた末に出した答えは一致していたようだった。
「じゃあコハク。お前は今日からコハクだ」
いい案が思いついたことが嬉しくて笑みをこぼすと、コハクは「人ってそうやって笑うんだ」と感慨深そうな様子で呟いた。
ヒューマノイドがリサイクルされる場合、ソフトは初期化されると工藤は言っていたが、人間の生体や生活についての知識、特化した事項の作業内容などは元々プログラムされている筈だ。しかしコハクにはそういった本能のようなものが感じられない。この短時間の関わりの中での話だが。
そもそも筐体が小さく、生活分野以外で役に立たなそうなヒューマノイドに、人間らしさをアピール出来る筈の表情の変化がないなんてことがあるのか。過去のヒューマノイド研究は特に、人間らしい感情表現の再現に力を入れていたのだという。だとすればそれが欠落しているコハクは、廃棄になった上リサイクルに出されたプロトタイプだろうか。そうであれば桁違いに安価なのも頷ける。
「難しい顔。何考えてるの?」
「いや、大したことじゃない」
コハクの細い指にカーディガンの裾を摘ままれ、我に返った。コハクの体内から鳴る動作音が、部屋の中で主張する。
「お前音煩いな」
無理に踏ん張っているような苦しい音だった。
「旧型だから情報処理の負荷が大きいか、ファンが汚れているか。まあ、どっちもだろうな。ファンはどこに付いてる?」
背中を見ようとして仰け反ると、「ここだよ」とコハクが小さな口を開けた。赤い塗装の奥を覗くと、突き当りに、いくつもの小さな穴が見えた。予想通り、埃のようなものが付着し、汚れている。
「掃除してやりたいところだが、使えそうなものが何も無いから後でやるか」
「うん、何も無さそうだもんね、この部屋。ていうか皆こんなに汚くしてるの?それともここが特殊なの?」
一度口を閉じてからキッチンを見つめて、言葉に反して無関心そうに言う。
「そこら中の袋の中身も必要なものなの?それとも弁当の空を集める趣味があるの?服は絨毯の変わり?空き缶は何かに使うの?」
一つ一つ丁寧に指差しながら「ねえ?」と最後に俺の顔を覗き込む。澄んだ瞳に人間性を責められている気がして、思わずその両頬を片手で摘まみ上げた。
「それをお前が片付けるんだよ」
眉を寄せると、コハクは突き出たままの唇でくぐもった声を出した。
「見ての通り、僕の身体は小さい。アクチュエーター(運動発生装置)もモーターも古いから大した力は出ない。あなたは僕に何を期待してる?家事の仕方だってプログラムされていない」
表情は変わらないが、膝の上に置かれた拳をぎゅうっと握ったのを見て、何かがコハクの癇に触れたことが分かった。触れ合っている肩が微かに震えている、気がする。それだけで弱いものいじめをしている気分になって、心の靄を誤魔化すように舌打ちをした、
「お前が家事支援タイプのロボットじゃないことは分かった。じゃあ何が出来るんだ?分からないんだろ?これから生活していけば得意なことも見つかるさ。別に食うのは電力だけだ。ゆっくりでいいから少しは役に立てよ」
諭すように語りかけると、コハクは身の置き所が無さそうに身動ぎをした。長い髪を指先で弄り、俯きがちに「でもさ」と呟く。
「もし役に立たなかったら廃棄にするんでしょ?」
コハクが真っ当なことを考えられるようで安心した。室内の照明が乾燥している目に痛い。
「どうだろうな。別にそんな未来のこと考えなくてもいいだろ。俺だって分からん」
「……そう」
両手で包んで地面に置くような、頼りない声色で呟く。コハクは表情ではなく、視線の動きや声の調子で感情の機微を表現しているのだと気付いた。表情の変化だけがプログラムされていないか、破損しているのかもしれない。そもそも家事さえしてくれれば表情などどうでもいい筈だ。それ以上何を求めているというのだ。
俺は立ち上がり、ソファーを離れた。
「そういうものだ。そろそろ飯食うから、お前も充電してろ。出来そうな家事は教える。ここにいる以上、働いてもらうぞ」
何も応えないコハクに背を向けて、かやくの小袋や透明なフィルムに埋もれて作業スペースのないシステムキッチンに向かった。シンク下の扉を探って香辛料の効いたカップラーメンを取り出す。ケトルに水を入れようとして蛇口レバーに手の乗せた時、背後からガサガサと音がして振り向くと、ポリ袋を両手いっぱいに持ったコハクが玄関の方に歩いて行くところだった。
戻ってきては同じように袋を抱えて運び出す。床板が露わになっていくのと比例して、コハクの喉からブーンと苦しそうな音が高まっていくにつれ、俺の心臓は静かに冷えていった。
隣で寝ている喘息持ちの妹が、突然苦しそうに呼吸を乱し、慌てて母親を呼びに行くことが度々あった。冷汗をかいて丸まる姿を見て、ひどく可哀想だと思った。コハクは人間ではないから、そういった症状があっても痛みも苦しみも感じないのだろう。現に表情は変わらない。ただプログラムされたようにリビングと玄関を往復している。
「おい、熱暴走するぞ」
コハクが足を止めて俺を見て、再び歩き出す。
「ほら、そっちに積んだらな……玄関出られなくなるだろ」
コハクが再び動作を止めた。無表情で両手の袋をその場に落とし、鈍い音を立てて膝から崩れ落ちた。
意識のない子どもと錯覚するような、電源の落ちたコハクをベッドに連れて行き、充電ケーブルを差し込んだ。
黒いパレットに室内の様子が映っている窓ガラスを、カーテンで覆い、キッチンに戻る。ケトルに水を入れ、湯が沸くまでの間に、玄関に無造作に置かれたポリ袋を端に寄せた。廃棄されたくない、というのもヒューマノイドの本能なのだろうか。そうだとしたら、何て厄介な感情を植えたのだろう。
換気扇の下で煙草に火をつけたのと同時に、ケトルがカチッと音を立てて沸騰を知らせた。
一歩一歩踏ん張りながら歩き、エレベーターに乗せる。三階に上昇するのを待っている間に、酔っぱらいを引き摺る要領で脇の下に体を入れて歩けばいいのではと考えたが、如何せん身長が開き過ぎていて妙案ではないことに気付き、溜息をついた。いや、そうか。子どもを運ぶと言えば、おんぶだ。漸く負担の少ない運び方を思いつき、ぐらぐら揺れる小型ヒューマノイドを背に乗せる。外見に見合わない重量のせいで腰が折れてしまうが、背中全体に重さが分散される分、横炊きより随分楽だ。チン、と安っぽい音がして扉が開き、エレベータを出てすぐのドアの前で立ち止まる。ジーンズのバックポケットに入れたままの鍵を取り出し、開錠してすぐに、車にかつ丼とビールを忘れてきたことを思い出した。
「よいしょっと。はー、重」
小型ヒューマノイドを玄関に残して一人車に走り、スーパーでの戦利品を手に戻った俺は、あちこちに転がるゴミの詰め込まれたポリ袋と、洗濯をしていない衣服の山を避けたり蹴ったりしながら前進し、定位置のであるソファーに腰を下ろした。
来た道を視線で辿った先に、小さな体が死体のように横たわっている。埃塗れの床に顔をつけていると思うと気の毒で、放っておくと根の生えそうな体に鞭を打つ。大股歩きで小型ヒューマノイドに近付き、仰向けに起こして体の下に腕を入れる。定位置を譲るのは惜しいが、ソファーに横たえさせた。
仕方なくラグの上に落ち着き、座卓に積み上がった書類を腕で押し除け、空いたスペースに購入品を並べる。真っ先に缶ビールのプルタブを開けた。半分の重さになるまで一気に飲み下し一息つくと、空きっ腹に炭酸が溜まり、気泡が跳ね上がるよう感覚が何とも言えなかった。かつ丼に箸をつけながら、自分の咀嚼音しかしない蒸し暑い室内を見回す。お世辞にも掃除と整理整頓が行き届いた部屋とは言い難い。最後に掃除をしたのは去年の年末だったか。この頼りない体型のヒューマノイドが、本当に部屋を整えてくれるのか。疑念ばかりが募っていく。胡散臭い笑みを浮かべる、リサイクルショップの店長に騙された気分になりつつ、小型ヒューマノイドの二の腕に張り付けてある小さなビニール袋を外す。中には付属している充電ケーブルが入っており、それを取り出して、横向きの小型ヒューマノイドの全身を見渡した。見当をつけていたところに目当てのものはなく、心を落ち着けながら長い後ろ髪をかき上げると、漸く、電源スイッチと充電ケーブルの差し込み口を見つけた。手に持っていたものを項に繋げ、もう一方はコンセントからとぐろを巻き伸びる延長コードへ差し込む。ブン、と耳元で虫が羽ばたくような音がして、小型ヒューマノイドの目が半分開いた。小学5年生の時に博物館見学で見た、琥珀のような瞳の色をしていた。おお、と思わず声が漏れる。
「お前そういう顔してたんだな」
深い二重の線、上向きの長い睫毛と、その中心で艶めく甘い彩りに、とろりとからめとられてしまいそうになる。
「いや、目、というかレンズだよな」
独り言を垂れながら、たれの染みた白米の上にふやけたかつと紅ショウガを適量乗せて口に運ぶ。肉の弾性と白米の柔らかさを噛みしめながら、何となしに小型ヒューマノイドのTシャツの裾を持ち上げると、平らな胸腹部が露わになった。
「まっ平かよ……」
遠慮のない感想が漏れてしまう程の平面を目の当たりにし、僅かに抱いていた期待感が消失する。清々する程に何の飾りもついていないことを確認し、白紙のように蛍光灯を反射するそこを、再び布で覆った。小学生並みの大きさとは言え、性別は存在するものだと想像していた。工藤のところのヒナちゃんは女児型で、木野のところのコタローは成人男性型、と各々に筐体の特徴があるようだから。意を決して、くたびれた半ズボンウエストゴムを引っ張り中身を確認する。
「なるほどなるほど」
頷きながら、アルコールに浮かされた脳が冷却されていくのを感じていた。最初から期待すること自体が可笑しな話だったのかもしれない。相手はロボット、何もなくて当然だ。恋愛や性欲処理、ビジュアルに特化したタイプであれば性別が明確化されているのかもしれないが、恐らくこの小型ヒューマノイドはそういったタイプのものではないのだろう。この潔いくらい無駄の無い姿かたちがその証拠だ。
気を取り直して、型番を探るべく、体のあちこち見たが、それらしいものはどこにも記載していなかった。筐体の特徴をネットで検索しても、現行型のヒューマノイドの情報ばかりが引っかかり、目ぼしい情報は得られなかった。
ま、起動してみればどんな機能があるか分かるか。
弁当の空容器とビールの缶をレジ袋に詰め、代わりに新しい缶を取り出した。それを手に、続き間の寝室に踏み入り、部屋の中で最も綺麗な空間であるベッドに横になる。携帯で社用のメールを確認しながら飲んでいると、すぐに意識が遠くなり始め、慌てて開けたばかりの新鮮な炭酸を飲み干し、空き缶をサイドテーブルに置き目を閉じた。
一晩も充電していれば朝には起動できるだろう。遠足の前日のように胸を高鳴らせながら眠りについた。
駅のある通りに佇む喫茶店でボンゴレパスタを食べ、六月にしては高い気温の中、図書館を目指して歩いている。昼飯時に目覚め、真っ先に、ソファーに横たわったままの小型ヒューマノイドの元へ向かった。昨晩見つけた項の電源スイッチを長押しする。何度も試したがそれは指先一つ動かさなかった。舌打ちをしてから家を出て、まだ温い程度だった風を切って歩いた。
駅まで十五分。道が狭く入り組んでいるので車よりも歩いた方が早い。
食欲が満たされ、足取りが軽くなる。向かいから家族連れが横並びに近付いてきても、颯爽と車道側に避けることが出来る。やはり空腹は人の思考や行動を鈍らせるのだ。だから機能、不良品かもしれないヒューマノイドなんて買ってしまった。満腹であれば正しい判断をして、あの場で踏みとどまれた筈だ。金の無駄遣いを心から悔やむ。しかし、未使用品を廃棄する選択肢は無い程には貧乏性だった。出来ることならば八万円分の働きはしてもらいたい。
駅の近くの小さな公園に隣接して、図書館は佇んでいる。入口を潜り、二階へ上がるとカウンターがあり、職員に利用したことが無い旨を伝えた。手早く利用に必要なカードを作り、文献を探し始めた。
電子機器・機械のコーナーを見つけ、ロボット関連の本を何冊が抜き出し、広いテーブルの端で内容を確認する。勉強に勤しむ若者の走らせるペンの音が懐かしさを呼び寄せる。大学受験の際に、地元の古い図書館に通いつめたことを思い出した。
仕事でも回路設計や配線弄りをやっているのに、今度はロボットの勉強か。心が陰りそうになる。
何冊かページを捲り、旧型のサービス(非産業用)ロボットについての項目を読み込んだが、三十年前の小型と似た形で普及していたのは、やはりコミュニケーションや家事支援タイプのロボットだけのようだった。トラブルシューティングと修理については、基本的に各メーカーへの問い合わせによって対応している、とどの書籍にも記載されてある。全く役に立たない。肩を落として図書館を後にした。
帰宅して、電源スイッチの上にあるランプが赤色のまま、変化のない小型ヒューマノイドを見る。祈るような気持ちで再びスイッチを押すも、結果は変わらなかった。そこら中のゴミを蹴とばしながら冷蔵庫に近付き、ハイボールの缶を開ける。昼の飲酒は活動の幅を否応なく狭めるが、家でだらける言い訳には丁度いい。翌日も隅々まで青い空を見ながら、べランで煙草を片手にアルコールを摂取して過ごした。
ヒューマノイドは明日返品しよう、と心に決める。
廃棄するより金がかからないし、ジャンク品として買う人がいるかもしれないと思うと心が軽くなる。とにかく故障品を置いておける程この部屋に余裕はない。僅かに見える瞳が日差しを受けて瑞々しく光っている。人間を支援出来ないロボットはロボットと定義されない。金属とプラスチックの塊としてリサイクル、あるいは廃棄される。この澄んだ瞳も同じように処理される。このゴミ溜めのような部屋も道連れに心中してほしいと思った。
驚いた工藤が発した大声が、二グループのデスクの上で波のように押し広がるので、思わずその頭頂部を叩いた。
「ええ、だって芳賀先輩。故障なら仕方ないかもですけど、本当にメーカーは分からないんすか?」
工藤がひそひそと声を潜めるのを、傾けた耳で拾いながら、今しがた書いた付箋をパソコン画面の縁に執拗に押し付けた。
「随分昔の型だからな。メーカーも型番も消えちまっててもおかしくないだろ。使えないもんは使えない、仕方ない」
「でも、子どもなんでしょ?ああ、可哀想そうだなあ」
お願いするように両手を絡めて眉を下げる工藤を一瞥してから、マウスを動かした。工藤の後ろで木野が、五歳年上の情けない先輩を睨んでいる。そうだ、今は仕事中だぞ、工藤。
「しかし先輩、どういう風の吹き回しですか。家に他人がいるのは嫌だって言ってたのに」
突き刺さる視線に気付かない能天気さは、唯一見習いたいところでもある。デスクに向かわず俺に椅子を向けてくる工藤を、正面の画面に映した図面を見ながらあしらう。
「小さいのなら大丈夫だと思ったんだよ。部屋の隅にいれば存在感もないだろ」
「それは、まあ……え?大きさの問題っすかあ?」
ひっくり返った声を出すので、再び二グループのメンバーが作業の手を止め、工藤に視線を向けた。工藤が慌てて両手で口元を覆う。
「本当に実用的というか、色気がないというか」
思い出したかのように声のボリュームを下げる工藤の手の甲を徐に抓ると、顔を顰めて引っ込めた。思わず口角が上がる。
「お前みたいに変態じゃないんでな。ほら、木野がこっち見てるからいい加減仕事しろ」
まだ何か言いたそうな瞳を無視して、線と数字だらけの画面を見つめた。
車の後部座席に返品予定の小型ヒューマノイドがが横たわっている。一応周りから見え難いように積んだのだが、他にもヒューマノイドをスリープモードにして乗せている車がいくつかあることを、最近になって知った。今朝は、木野の車に残されていたコタローに、すれ違いざま会釈をされた。
ヒューマノイドのバッテリー持続時間は長くて三時間程度なのだという。その中でスリープ機能とモバイルバッテリーを駆使し、共に外出して活動するのは逆に面倒なのではと思ってしまうのだが、ヒューマノイドに愛
着を持つ人々からすれば、少しでも時間を共有したい、あるいはその能力を活用したい、と外に連れ出すのはごく自然なことなのかもしれない。
木野に注意を受けた工藤が謝っている声が聞こえる。どちらが先輩か分からない。
「あ、部長」
再びこちらを振り向いた工藤の声に顔を上げると、デスクの横に鈴村部長が笑みを浮かべながら立っていた。 立ち上がり、用件を聞くべく口を開くと、「ああ、座ってていいよ」と制された。
「芳賀君に用があるんだ。いや、大した話じゃないんだけどね。以前話したうちの息子のこと覚えてる?」
「はい。ご病気の、ですよね?」
「そうそう。最近調子が良くてね。動けるようになったから、実は今日社会科見学に来ているんだ。ほとんど製造部にいるらしいんだがね」
「そうなんですか」
話の意図が分からず、部長のYシャツの襟から垣間見える銀色のチェーンを見つめていると、「ほら、うちの息子、君の話をすると喜ぶから」と続けた。
「はあ」
「やっぱり男ってのは自分より出来る奴に憧れるんだな。技術部を見に来たらどうだと誘ったんだが、親子で一緒にいるのは恥ずかしいと断られてさ。もし暇があったら会ってやってくれないか。本館にいる筈だから。午前で帰らせる予定だから、その間に頼むよ」
鈴村部長は終始穏やかな笑顔で話しながらほとんど命令のような案件を残し、資料を小脇に携えて部室を出て行った。工藤の同情するような視線を背中に感じながら溜息を吐く。
鈴村部長の息子のことは、一度話を聞いたことがあった。
拡張型心筋症を患っており、内服治療をしているということ。行動制限があり、調子のいい日でないと外出が出来ないこと。そしてこの時世に、人工心臓置換手術はおろかペースメーカの植え込みも行っていないということ。時代遅れと嘲笑したい気持ちになるが、個人の思想は尊重されるべきなのだそうだ。
鈴村夫妻は、世間で言うレトロ派の人間だった。レトロ派というのはロボットが一般に普及した世で、電磁波の有害性を主張し、それら機器のの使用を最小限に抑えた生活を体現する人々の呼称である。
そして鈴村部長も例にもれず、息子の病気の発症を、電磁波の影響だと説いていた。同じくレトロ派の医者にそう説明されたのだという。何十年前までは寛解すら難しいとされてきた病が、医療機器の発展でほとんどが完治するようになった。発症原因も既に解明されているというのに、親の思想のせいで適切な治療が受けられないその子に、心から同情したことを思い出す。
しかし上司に対して、あんたのせいで息子は長く生きられないですよ、とは言えない。やるせなさはあったが、話の後に製品の発注についての電話を受け、便器を清浄するようにさっぱりと忘れたのだ。以来その話を思い出すことは今の今までなかった。
仕方ない。きりのいいところまでやったら本館に行ってみるか。
引き出しから市販の眼精疲労用の目薬を取り出して上を向く。一滴が沁みていく爽快感で己を奮い立たせ、デスクトップのファイルを一つクリックした。
技術部のある別棟から一階に下り、渡り廊下を通って本館に着くと、製造部の入口ドアの横に、やたら大きなグレーのパーカーを着た人影が見えた。俯いている顔に長い黒髪が掛かり、その造形は見えない。作業着を着ていないから職員ではないだろう。ふとくっきりと浮いている鎖骨の間に、一円玉が三つ縦に並んだようなネックレストップが見え、彼が例の息子だということに気付いた。
「突然すみません。初めまして、技術部の芳賀燈一です。お父さんにはいつもお世話になっています」
近付いて、出来る限り穏やかに声を掛けた。彼は敵に気付いた小動物のように肩を跳ねさせ、観察するように俺を見た。そして小さく唇を動かし、蚊の鳴くような声を出した。
「鈴村の息子の、美月です。芳賀さん、父からよく、聞いてます」
「体調は大丈夫ですか?」
「はい、今日は、比較的」
彼の勢いのない声に、昨年亡くなった入院中の祖母の姿を思い出した。声を出そうにも吐息しか出ず、どうにか聞き取れた「来てくれてありがとう」がいまだに耳に残っている。
クーラーの入ってない工場の中でも、涼しい顔で纏っているパーカーの袖から伸びる手には、骨も血管も無遠慮に浮かび上がっている。頬も唇も血色がなく、出張先で見た舞妓の顔に似ていた。
「機械が好きなんですか?」
沈黙が気まずくて質問を投げ掛ける。
「はい、でも、親は好んでいないので。父は仕事と割り切ってここで働いていますけど、僕は、なかなかそういうの、許してもらえないので」
だから、社会科見学と言う名目で付いてきました、彼は時々大きく息継ぎをしながら、ゆっくり言葉を紡いだ。真っ黒い瞳が熱心に見上げてくる。まるで煩悩の無さそうな眼差し向けてくるこの若者が、ひどく尊い存在に感じられ、治療を妨げる鈴村部長をはっきりと軽蔑してしまいそうになった。そんな感情を隠すように笑みを深め、額に手を当てる。
「何かお土産でも渡せればいいんですけど、図面データ渡すわけにもいかないしなあ」
「気にしないで下さい。技術部一優秀な方とお話し出来ただけで、僕は嬉しいです」
彼の言う「技術部一優秀」が認識している自己像とそぐわず、思わず吹き出しそうになって、手で口を覆った。
「僕なんかまだまだですよ。よかったらまた見に来てください。今度はぜひ技術部に」
手を伸ばすと、彼は両手でそれを包んだ。骨ばってひんやりとしていた。
「ありがとうございます。また、来ることが出来たら」
目を細める若者の無邪気さに目を奪われた。しかし気持ちは、彼の言葉に引っ張られるように、水底に沈んでいく。彼の言葉は重い。
製造部のドアから様々な音が聞こえる。事務室へ繋がる窓口には、藍の釉薬がとろりと掛かった陶器に、赤いポピーが活けられていた。花弁の端がじわじわと茶色くなっているのが目に入り、ふと木野に悪態をつかれているであろう工藤の顔を思い出した。視線を戻し、僅かに頭を下げる。
「では、戻りますので。どうかお元気で」
「はい、芳賀さんも」
なかなか逸らされない視線を遮るように、背を向けた。彼は悄然と微笑んでいた。
渡り廊下に出ると、駐車場から熱風が吹いてきた。車の中に閉じ込めた小型ヒューマノイドのバッテリーが発火していないことを祈った。
今頃、工藤はひいひい言いながら残業しているに違いない。
「そういうわけで、今日は故障しているヒューマノイドの返品作業があるから先に帰る。真面目にやれよ」
工藤は、退社の準備をしている職員を一人一人眺めて、あからさまに肩を落としていた。その隣で木野が舌打ちをしたのは幻聴では無かった筈だ。明後日提出のものがまだ仕上がってない、と小声で打ち明けた彼女もまた居残りだろうから、騒がしい先輩に負けず頑張ってほしい。応援の意を込めて自動販売機で買ったミルクティーを預けて来たが、気休めにもならないだろう。
西日の眩しさに目を細めながら車まで歩を進め、窓から後部座席を覗いて瞬きが止まった。
ビー玉のような瞳と目が合った。
白い手の平が窓ガラスにぴたりとくっつく。幼い顔面にあるサクランボ色の唇が微かに動いた。
思わず後退ってその様子を観察する。ガラスに遮られて声は聞こえないが、小さな口が同じ言葉を繰り返しているのは分かった。再び近付いて静かに耳を澄ます。小鳥の雛が鳴くような声が呟いていたのは、「あけて」の三文字だった。
「……あけて?}
疑いながら復唱すると、小型は小さく頷いた。慌ててドアを引く。それはこじんまりとシートに腰掛けていた。
「電源落ちるよ。こんな暑いところに置いたら」
しっかり聞き取ると、少女か少年か判断できないような中途半端な声音だった。慌てる素振りも見せず、発熱しているというわりに涼し気な顔をしている。
「その缶貸して。少しでも冷やすから。ほら、早くエアコンつけて」
言われるがままに持っていたブラックコーヒーの缶を差し出すと、小型ヒューマノイドは淑やかにそれを受け取り抱き締めた。その様子を見届けて、そそくさと運手席へ足を踏み入れる。
返品するつもりで乗せて来たものが動いている。
毎クールドラマで見る子役よりも整った顔立ちをして、知らない世界へ惑うような声で囁き、しかし敬いも愛想も無い態度を取って動く。外見は綺麗に作りこまれているのに、言動は想像したより刺々しい。近しい人間にはいないタイプに思えて少しだけ身構えた。
「涼しくなってきたか?」
とりあえず調子を確認する。山道を普段よりゆっくりと下りながら、ルームミラーを見ると、小型ヒューマノイドはシートに凭れながら、窓の外に視線を向けていた。
「いくらかいいよ。エラーは落ち着いた」
俺の方を見もしないで、抑揚のない声を出す。
「そうか」
動揺が伝わらないよう何度も速度計に視線を向け、冷房で冷えた額から滲んでくる汗を手の甲で拭った。ロボットと会話が成立するという事実に、初めてラジコンを操作した子どもに似た衝撃を受けた。髪や皮膚の質感に違和感はあれど、紡ぐ言葉は自律した人間そのものだった。
車内の温度が、エアコンの吐く冷気によってますます冷やされていく。しかし、心拍数が多いせいか全身に勢いよく血液が回り、指先まで火照って寒さは感じない。
国道に出る手前の赤信号で、後ろから缶を渡された。筐体の熱が伝わって温くなったコーヒーをつっかえながら飲み、「リサイクルショップ ラッキー」を通り過ぎる。今日ここに寄る用事はなくなってしまった。店長の悲しそうな顔が遠ざかっていく。思い立ち、僅かに振り返って後部座席の様子を窺う。
「何か必要なものはあるか?」
「いや、別に」
相変わらず何にも興味無さそうな顔で答える。
「服、俺の着れるかな」
「これでいいよ。裸でもいいし」
薄汚れた首元の緩い半袖シャツに短パン姿で過ごすというのか。それ以前に裸なんて論外だ。こういう無頓着さはロボットらしいような気がした。
車は着々と我が家へ向かっている。夕食のことなど失念して、川沿いを進み、数多の住宅の間を抜けた。駐車した頃には目頭が鈍く痛んで、すかさず指で揉んだ。
「着いたぞ。覚えてるか?」
顔を向け、小型ヒューマノイドに問うと、「ううん」とマンションを見上げた。車を下りても、エントランスに入っても、不思議そうに辺りを見回している小型ヒューマノイドに合わせてゆっくりと歩く。エレベーターに乗ると、「結構揺れる」と隅の方で壁に手をついていた。
「ここ、俺んち」
部屋のドアを開け、入るように促す。素直に叩きに踏み入る小型の足が、何にも包まれていないことに気付き、目を見開いた。小型は気にすることもなく上がり框に足を掛けようというところだった。
「お前、待て。タオル持ってくるから」
「何で?」
無感情な声を聞き流し、慌てて脱衣所のかごからフェイスタオルを引っ掴んだ。洗面台でタオルを濡らし、大人しく待っていた小型の前にしゃがみ込んで足を掬い上げる。
「何?ああ、靴履いてないね」
薄っぺらい足の汚れを入念に拭い、されるがままの小型を見上げた。
「俺が世話してどうすんだよ。お前本当に働けるんだろうな」
疑いの眼差しを向けると、俺に足を預けたままの小型ヒューマノイドは顔色一つ変えずに、「努力してみるよ」と呟いた。汚れの取れた足を自由にしてやると、ずんずん奥へ進んで、十二畳のワンルームに入っていった。
「何これ汚い」
後をついていくと、小型がほのかに顔を顰めて立ちすくんでいた。膨れたポリ袋と皺だらけの衣服、空になった缶と書類の山を見下ろしてから、不審者を目撃したように俺を見る。あからさまに軽蔑した眼差しを向けてくるので、ゆっくりと視線を外した。
「な、こんなだからお前を買ったんだよ」
「そうなの。あ、また発熱してきた。これ、ほこりがファンに詰まって冷却できないよ」
他人事のように言うので、溜息と共に本音が漏れた。
「貧弱だな」
「僕じゃなくてこの部屋がひどいんだと思うよ」
言いながら書類と弁当の空をどけてソファーに座る小型ヒューマノイドに続いた。
一人称が「僕」ということは男なのか。いやしかし「僕」を使う女の子もいるらしいし。性別に関わりのある支援を求めて購入した訳ではないから、あまり気にするところではないかもしれないが。
二人用なのに、実際に二人で座ると窮屈だ。ソファーを軋ませながら向かい合う。瞳孔の奥のレンズが、俺にフォーカスを当てているのが分かった。
「お前どこ産?」
「分からない。記憶装置には何も記録されていない」
「じゃあ名前は?」
小型は髪を揺らしながら首を傾げた。
「名前なんてないよ。それはユーザーが決めるものだろ」
確かに現行型でも好みの名前を設定することは可能らしいが、型ごとに初期設定された名前が存在する筈だ。それが分かれば、販売元を検索出来るかもしれない。粘り強く尋ねる。
「元々のお前の名前だよ。初めに設定された名前があるだろ?」
「ないよ。勝手につけてよ」
淡々と喋る小生意気なヒューマノイドを前に、肩を落として鼻から息を吐いた。座卓からエアコンのリモコンを取り、冷房をつける。埒が明かない。発熱しそうなのはこっちだ。まるで職場にいる感覚に襲われ、残業中の工藤と木野を思い浮かべた。せめて工藤よりは要領よくやってくれたらいい。
「名前、名前か……」
積み上がった書類の一枚を摘まんで興味なさそうに眺めている小型ヒューマノイドをよそに、何も書かれていない天井を見上げて思案する。実家は農家だったので広大な庭があり、飼っていた柴犬と二匹の猫が駆け回っていた。犬の名前はチャチャ、猫はスミとクロだった。ぶっきらぼうな祖父が「そういう色してるべ」と即興で付けたわりに、、見た目から連想できる簡単な名なので、すぐに家族中に浸透していった。
改めて小型ヒューマノイドの姿かたちを見る。小さいからチビ?いや何か悪意がある。髪がミルクティーのような色だからミルク?アラサーの男が付けたと知れたら恥ずかしい。視線を感じて顔を下げると、大きな双眸がじっとこちらを見ていた。蜂蜜か、いや。ふとランプが灯る。
「コハク、はどうだ?目が琥珀みたいな色だから。べっ甲でも、蜂蜜でもいいぞ?」
小型ヒューマノイドは鳩が豆鉄砲を食ったよう顔をしてから、顎に手を当てて考える仕草をした。華奢な肩から薄い布が落ちて剥き出しになる。すかさず直してやった。
「べっ甲はやだな」
考えた末に出した答えは一致していたようだった。
「じゃあコハク。お前は今日からコハクだ」
いい案が思いついたことが嬉しくて笑みをこぼすと、コハクは「人ってそうやって笑うんだ」と感慨深そうな様子で呟いた。
ヒューマノイドがリサイクルされる場合、ソフトは初期化されると工藤は言っていたが、人間の生体や生活についての知識、特化した事項の作業内容などは元々プログラムされている筈だ。しかしコハクにはそういった本能のようなものが感じられない。この短時間の関わりの中での話だが。
そもそも筐体が小さく、生活分野以外で役に立たなそうなヒューマノイドに、人間らしさをアピール出来る筈の表情の変化がないなんてことがあるのか。過去のヒューマノイド研究は特に、人間らしい感情表現の再現に力を入れていたのだという。だとすればそれが欠落しているコハクは、廃棄になった上リサイクルに出されたプロトタイプだろうか。そうであれば桁違いに安価なのも頷ける。
「難しい顔。何考えてるの?」
「いや、大したことじゃない」
コハクの細い指にカーディガンの裾を摘ままれ、我に返った。コハクの体内から鳴る動作音が、部屋の中で主張する。
「お前音煩いな」
無理に踏ん張っているような苦しい音だった。
「旧型だから情報処理の負荷が大きいか、ファンが汚れているか。まあ、どっちもだろうな。ファンはどこに付いてる?」
背中を見ようとして仰け反ると、「ここだよ」とコハクが小さな口を開けた。赤い塗装の奥を覗くと、突き当りに、いくつもの小さな穴が見えた。予想通り、埃のようなものが付着し、汚れている。
「掃除してやりたいところだが、使えそうなものが何も無いから後でやるか」
「うん、何も無さそうだもんね、この部屋。ていうか皆こんなに汚くしてるの?それともここが特殊なの?」
一度口を閉じてからキッチンを見つめて、言葉に反して無関心そうに言う。
「そこら中の袋の中身も必要なものなの?それとも弁当の空を集める趣味があるの?服は絨毯の変わり?空き缶は何かに使うの?」
一つ一つ丁寧に指差しながら「ねえ?」と最後に俺の顔を覗き込む。澄んだ瞳に人間性を責められている気がして、思わずその両頬を片手で摘まみ上げた。
「それをお前が片付けるんだよ」
眉を寄せると、コハクは突き出たままの唇でくぐもった声を出した。
「見ての通り、僕の身体は小さい。アクチュエーター(運動発生装置)もモーターも古いから大した力は出ない。あなたは僕に何を期待してる?家事の仕方だってプログラムされていない」
表情は変わらないが、膝の上に置かれた拳をぎゅうっと握ったのを見て、何かがコハクの癇に触れたことが分かった。触れ合っている肩が微かに震えている、気がする。それだけで弱いものいじめをしている気分になって、心の靄を誤魔化すように舌打ちをした、
「お前が家事支援タイプのロボットじゃないことは分かった。じゃあ何が出来るんだ?分からないんだろ?これから生活していけば得意なことも見つかるさ。別に食うのは電力だけだ。ゆっくりでいいから少しは役に立てよ」
諭すように語りかけると、コハクは身の置き所が無さそうに身動ぎをした。長い髪を指先で弄り、俯きがちに「でもさ」と呟く。
「もし役に立たなかったら廃棄にするんでしょ?」
コハクが真っ当なことを考えられるようで安心した。室内の照明が乾燥している目に痛い。
「どうだろうな。別にそんな未来のこと考えなくてもいいだろ。俺だって分からん」
「……そう」
両手で包んで地面に置くような、頼りない声色で呟く。コハクは表情ではなく、視線の動きや声の調子で感情の機微を表現しているのだと気付いた。表情の変化だけがプログラムされていないか、破損しているのかもしれない。そもそも家事さえしてくれれば表情などどうでもいい筈だ。それ以上何を求めているというのだ。
俺は立ち上がり、ソファーを離れた。
「そういうものだ。そろそろ飯食うから、お前も充電してろ。出来そうな家事は教える。ここにいる以上、働いてもらうぞ」
何も応えないコハクに背を向けて、かやくの小袋や透明なフィルムに埋もれて作業スペースのないシステムキッチンに向かった。シンク下の扉を探って香辛料の効いたカップラーメンを取り出す。ケトルに水を入れようとして蛇口レバーに手の乗せた時、背後からガサガサと音がして振り向くと、ポリ袋を両手いっぱいに持ったコハクが玄関の方に歩いて行くところだった。
戻ってきては同じように袋を抱えて運び出す。床板が露わになっていくのと比例して、コハクの喉からブーンと苦しそうな音が高まっていくにつれ、俺の心臓は静かに冷えていった。
隣で寝ている喘息持ちの妹が、突然苦しそうに呼吸を乱し、慌てて母親を呼びに行くことが度々あった。冷汗をかいて丸まる姿を見て、ひどく可哀想だと思った。コハクは人間ではないから、そういった症状があっても痛みも苦しみも感じないのだろう。現に表情は変わらない。ただプログラムされたようにリビングと玄関を往復している。
「おい、熱暴走するぞ」
コハクが足を止めて俺を見て、再び歩き出す。
「ほら、そっちに積んだらな……玄関出られなくなるだろ」
コハクが再び動作を止めた。無表情で両手の袋をその場に落とし、鈍い音を立てて膝から崩れ落ちた。
意識のない子どもと錯覚するような、電源の落ちたコハクをベッドに連れて行き、充電ケーブルを差し込んだ。
黒いパレットに室内の様子が映っている窓ガラスを、カーテンで覆い、キッチンに戻る。ケトルに水を入れ、湯が沸くまでの間に、玄関に無造作に置かれたポリ袋を端に寄せた。廃棄されたくない、というのもヒューマノイドの本能なのだろうか。そうだとしたら、何て厄介な感情を植えたのだろう。
換気扇の下で煙草に火をつけたのと同時に、ケトルがカチッと音を立てて沸騰を知らせた。
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