16 / 36
【Lesson.3】
過去の男2
しおりを挟む
付き合い始めたのは、多希が二十歳を過ぎた頃だったからもう十年以上も前のことだ。多希がアルバイトをしていたのは、所謂ゲイバーと呼ばれる店だった。
多希の地元では身近に性事情を相談できる相手がいなかったため、上京してから客として通い始めたのがきっかけだった。調理師の専門学校に通っていることを話したら、そこのママに手伝いを頼まれたのだ。
まだ二十歳になったばかりの多希は、言わずもがなゲイバーの常連の中では最年少だった。「若いねー」と言われるのは嫌ではなかった。
菅原という男と出会ったのは、多希が働き始めて数週間経ったときだった。
ママが数十分ほど、用事で外に出ていたときだ。「本当は多希ちゃん一人にしたくないんだけどごめんね」と謝られたが、多希は大丈夫ですと答えた。常連客もいたし、少しくらい粗相をしても笑ってくれるだろうという甘えもあったからだ。
ママが出て行くと、常連客の一人が多希にしつこく絡み始めたのだ。他の客もそこそこに酔っていて、嫌がっているのを分かっているはずなのに、わざと囃し立てられた。
ママなら上手くあしらって窘められただろうが、多希にはそういうスキルはない。「すみません」と泣きそうになりながら縮こまる多希を助けたのが、菅原だった。菅原は多希が始めて告白して、始めて付き合った男だった。
菅原はそのとき三十歳で多希とは十も離れていたけれど、堅苦しさはなかった。都会に来たばかりの多希の初な反応を見るのが楽しいと、菅原はいつも口にしていた。生涯で好きになるのも、添い遂げるのもきっとこの人だ。多希だけは、そう信じていた。
「今はもう別れました」
「……え」
「家族がいたんです。奥さんと、小さな子供が」
彼は仕事の関係でアパートに住んでいると言っていた。合鍵を渡されていた多希は、菅原の忘れ物を届けようとアパートまで行ったときだった。
アパートの廊下には女性と小さな子供がいて、菅原と玄関口で談笑している。すぐに二人を部屋に招き入れると、鍵を回した音がした。
「最低ですね」
「彼には開き直られました。問い詰めたら、聞かれなかったから答えなかっただけって。そのうえで、俺とも付き合いたいって」
裏切られたことにも傷付いたが、何よりも彼がヘテロであることが一番のショックだった。そういう人も世の中にはいると知っていたし、別に否定するつもりもない。けれど、男しか好きになれない自分とは、交わることはないと、多希は安心しきっていたのだ。
妻子がいることが分かっても、彼への恋愛感情はなかなか消えてはくれなかった。多希に向けられた笑顔も、優しくしてくれたことも、二人の時間を過ごしたことも、全て間違いだったと割り切れなかった。十年経った今でも、連絡先はずっと消せずに眠ったままだ。
「すみません。こんな話を。どうか忘れてください」
「由衣濱先生……」
「あの、俺。もう行きますね……」
どう考えても久住に話す内容ではなかった。今さらながら多希は身勝手なことをしてしまったと反省する。立ち去ろうとすると、手首を強く握られた。
「俺は女性を好きになったことがありません。男も特に気になるような人はいませんでした」
「は、はあ」
「由衣濱先生が俺の初恋です」
「……慰めてくれて、ありがとうございます」
多希は笑い泣きの顔で冗談を言うと、久住は少し赤らんだ顔にむっとした表情を足した。久住の言葉を全く信じていない訳ではないが、多希は一度相手を信用して大失恋しているのだ。真っ直ぐな思いは重すぎて答えられない。
まだ何か言いたげな顔をしている久住の腕を振り切り、多希は講義室へ戻った。そして、スマホから菅原の連絡先を検索すると、ひと思いに消去した。心を雁字搦めにしていた鎖がぼろぼろと崩れたみたいな音が、脳の奥で響いたような気がした。
……────。
どうしてあんな話を久住にしてしまったのか。初めて失恋話を人に話して、心が軽くなったのは確かだが、久住は多希の生徒だ。もちろん、久住が軽薄に言いふらさないとは多希も承知している。
過去の恋愛の傷を埋めるには、新しい恋が必要だと頭では分かっている。けれど、深く溺れるような恋愛をするのが、怖い。人を好きになることに、すっかり臆病になってしまっていた。
「あっ。先生お疲れさまです! 本日もありがとうございました。ふふ、早速先生に教わった料理、家でつくってみたんです。旦那も娘もすっごく褒めてくれて……」
「……そうなんですか。お役に立ててよかったです」
菅原 美月という女性は、先月から多希の講義に参加してからというもの、毎週顔を合わせている。美月には一切悪気がないことは分かってはいるが、通りかかっただけで何分も引き止められてしまうと、内心で面倒だとつい思ってしまう。
そして、久住ならきっとそんなことを思わないだろうな、とも。
多希の地元では身近に性事情を相談できる相手がいなかったため、上京してから客として通い始めたのがきっかけだった。調理師の専門学校に通っていることを話したら、そこのママに手伝いを頼まれたのだ。
まだ二十歳になったばかりの多希は、言わずもがなゲイバーの常連の中では最年少だった。「若いねー」と言われるのは嫌ではなかった。
菅原という男と出会ったのは、多希が働き始めて数週間経ったときだった。
ママが数十分ほど、用事で外に出ていたときだ。「本当は多希ちゃん一人にしたくないんだけどごめんね」と謝られたが、多希は大丈夫ですと答えた。常連客もいたし、少しくらい粗相をしても笑ってくれるだろうという甘えもあったからだ。
ママが出て行くと、常連客の一人が多希にしつこく絡み始めたのだ。他の客もそこそこに酔っていて、嫌がっているのを分かっているはずなのに、わざと囃し立てられた。
ママなら上手くあしらって窘められただろうが、多希にはそういうスキルはない。「すみません」と泣きそうになりながら縮こまる多希を助けたのが、菅原だった。菅原は多希が始めて告白して、始めて付き合った男だった。
菅原はそのとき三十歳で多希とは十も離れていたけれど、堅苦しさはなかった。都会に来たばかりの多希の初な反応を見るのが楽しいと、菅原はいつも口にしていた。生涯で好きになるのも、添い遂げるのもきっとこの人だ。多希だけは、そう信じていた。
「今はもう別れました」
「……え」
「家族がいたんです。奥さんと、小さな子供が」
彼は仕事の関係でアパートに住んでいると言っていた。合鍵を渡されていた多希は、菅原の忘れ物を届けようとアパートまで行ったときだった。
アパートの廊下には女性と小さな子供がいて、菅原と玄関口で談笑している。すぐに二人を部屋に招き入れると、鍵を回した音がした。
「最低ですね」
「彼には開き直られました。問い詰めたら、聞かれなかったから答えなかっただけって。そのうえで、俺とも付き合いたいって」
裏切られたことにも傷付いたが、何よりも彼がヘテロであることが一番のショックだった。そういう人も世の中にはいると知っていたし、別に否定するつもりもない。けれど、男しか好きになれない自分とは、交わることはないと、多希は安心しきっていたのだ。
妻子がいることが分かっても、彼への恋愛感情はなかなか消えてはくれなかった。多希に向けられた笑顔も、優しくしてくれたことも、二人の時間を過ごしたことも、全て間違いだったと割り切れなかった。十年経った今でも、連絡先はずっと消せずに眠ったままだ。
「すみません。こんな話を。どうか忘れてください」
「由衣濱先生……」
「あの、俺。もう行きますね……」
どう考えても久住に話す内容ではなかった。今さらながら多希は身勝手なことをしてしまったと反省する。立ち去ろうとすると、手首を強く握られた。
「俺は女性を好きになったことがありません。男も特に気になるような人はいませんでした」
「は、はあ」
「由衣濱先生が俺の初恋です」
「……慰めてくれて、ありがとうございます」
多希は笑い泣きの顔で冗談を言うと、久住は少し赤らんだ顔にむっとした表情を足した。久住の言葉を全く信じていない訳ではないが、多希は一度相手を信用して大失恋しているのだ。真っ直ぐな思いは重すぎて答えられない。
まだ何か言いたげな顔をしている久住の腕を振り切り、多希は講義室へ戻った。そして、スマホから菅原の連絡先を検索すると、ひと思いに消去した。心を雁字搦めにしていた鎖がぼろぼろと崩れたみたいな音が、脳の奥で響いたような気がした。
……────。
どうしてあんな話を久住にしてしまったのか。初めて失恋話を人に話して、心が軽くなったのは確かだが、久住は多希の生徒だ。もちろん、久住が軽薄に言いふらさないとは多希も承知している。
過去の恋愛の傷を埋めるには、新しい恋が必要だと頭では分かっている。けれど、深く溺れるような恋愛をするのが、怖い。人を好きになることに、すっかり臆病になってしまっていた。
「あっ。先生お疲れさまです! 本日もありがとうございました。ふふ、早速先生に教わった料理、家でつくってみたんです。旦那も娘もすっごく褒めてくれて……」
「……そうなんですか。お役に立ててよかったです」
菅原 美月という女性は、先月から多希の講義に参加してからというもの、毎週顔を合わせている。美月には一切悪気がないことは分かってはいるが、通りかかっただけで何分も引き止められてしまうと、内心で面倒だとつい思ってしまう。
そして、久住ならきっとそんなことを思わないだろうな、とも。
34
お気に入りに追加
60
あなたにおすすめの小説
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
兄が届けてくれたのは
くすのき伶
BL
海の見える宿にやってきたハル(29)。そこでタカ(31)という男と出会います。タカは、ある目的があってこの地にやってきました。
話が進むにつれ分かってくるハルとタカの意外な共通点、そしてハルの兄が届けてくれたもの。それは、決して良いものだけではありませんでした。
ハルの過去や兄の過去、複雑な人間関係や感情が良くも悪くも絡み合います。
ハルのいまの苦しみに影響を与えていること、そしてハルの兄が遺したものとタカに見せたもの。
ハルは知らなかった真実を次々と知り、そしてハルとタカは互いに苦しみもがきます。己の複雑な感情に押しつぶされそうにもなります。
でも、そこには確かな愛がちゃんと存在しています。
-----------
シリアスで重めの人間ドラマですが、霊能など不思議な要素も含まれます。メインの2人はともに社会人です。
BLとしていますが、前半はラブ要素ゼロです。この先も現時点ではキスや抱擁はあっても過激な描写を描く予定はありません。家族や女性(元カノ)も登場します。
人間の複雑な関係や心情を書きたいと思ってます。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
45歳のおっさん、異世界召喚に巻き込まれる
よっしぃ
ファンタジー
2月26日から29日現在まで4日間、アルファポリスのファンタジー部門1位達成!感謝です!
小説家になろうでも10位獲得しました!
そして、カクヨムでもランクイン中です!
●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
スキルを強奪する為に異世界召喚を実行した欲望まみれの権力者から逃げるおっさん。
いつものように電車通勤をしていたわけだが、気が付けばまさかの異世界召喚に巻き込まれる。
欲望者から逃げ切って反撃をするか、隠れて地味に暮らすか・・・・
●●●●●●●●●●●●●●●
小説家になろうで執筆中の作品です。
アルファポリス、、カクヨムでも公開中です。
現在見直し作業中です。
変換ミス、打ちミス等が多い作品です。申し訳ありません。
いっぱい命じて〜無自覚SubはヤンキーDomに甘えたい〜
きよひ
BL
無愛想な高一Domヤンキー×Subの自覚がない高三サッカー部員
Normalの諏訪大輝は近頃、謎の体調不良に悩まされていた。
そんな折に出会った金髪の一年生、甘井呂翔。
初めて会った瞬間から甘井呂に惹かれるものがあった諏訪は、Domである彼がPlayする様子を覗き見てしまう。
甘井呂に優しく支配されるSubに自分を重ねて胸を熱くしたことに戸惑う諏訪だが……。
第二性に振り回されながらも、互いだけを求め合うようになる青春の物語。
※現代ベースのDom/Subユニバースの世界観(独自解釈・オリジナル要素あり)
※不良の喧嘩描写、イジメ描写有り
初日は5話更新、翌日からは2話ずつ更新の予定です。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
平凡なSubの俺はスパダリDomに愛されて幸せです
おもち
BL
スパダリDom(いつもの)× 平凡Sub(いつもの)
BDSM要素はほぼ無し。
甘やかすのが好きなDomが好きなので、安定にイチャイチャ溺愛しています。
順次スケベパートも追加していきます
もう人気者とは付き合っていられません
花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。
モテるのは当然だ。でも――。
『たまには二人だけで過ごしたい』
そう願うのは、贅沢なのだろうか。
いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。
「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。
ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。
生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。
※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる