上 下
39 / 49
【5章】二度目の恋

新しい命2

しおりを挟む
「このまま俺も眠っていいか」
「は……はい」

穏やかで一番幸せな時間。身体は休まっているのに、気持ちは焦っている。しばらくすると、背後で小さな寝息が聞こえ始めた。起こさないよう、千歳は最小限の動きで向きを変えた。すぐ近くに、レグルシュの端正な顔があり、見つめているだけでドキドキする。薄明かりの下、伏せられた金色の長い睫毛が輝いている。

ずっとレグルシュの側にいたい。そう口にできたら、できるのなら──。産まれてくる子も、レグルシュやユキのような、御伽噺に出てくるような容姿をしているのだろうか。オメガだとしたら、千歳にそっくりかもしれない。

レグルシュの規則正しい寝息に誘われて、千歳も目を閉じた。


……────。


何とかお腹の子供のためにも、千歳は食事の量を少しずつ増やした。戻してしまうが、それ以上に食べるように努力した。La・Rucheの仕事中もトイレに籠もる時間が長くなり、当然、宇野木からは心配された。

「和泉さん……大丈夫? 顔色も悪いよ」
「すみません。ご迷惑をおかけして」

宇野木に妊娠していることを言えば、レグルシュの耳にも入るだろう。千歳は誰にも言えないでいた。定期的にバース科を受診し、赤ちゃんは今のところ何の異常もなく育ってくれている。今の千歳にとって、それだけが唯一の生きがいだった。

店を閉め、売り上げ金を数え終わると、千歳は宇野木に話しかけた。

「宇野木さん。突然で申し訳ないのですが」

千歳は白い封筒を差し出した。宇野木の顔はみるみるうちに曇っていく。

「……え、どうして」

こうするしかなかった。子供を産むためには、彼らと離れなければいけない。退職願と書かれた封筒を片手に、宇野木は近くの椅子に座るよう千歳に言った。

「……理由を聞いてもいいかな」
「オメガの僕を雇ってくれたレグルシュさんや宇野木さんには感謝しています。でも、やっぱり、これからお金が必要で」

この子を育てるためにも、安定した職を探したい。ギリギリまで悩み、出した答えだった。

「後出しでこんなことを言うのはずるいと思ったんだけど。引き止めるために言うね。今、レグと和泉さんを正社員に登用しないかって、話をしているんだ。まだ決定じゃないから、レグには内緒にしてて」

ユキのシッターが終わり、収入が減ったことをレグルシュは気にかけてくれていた。目頭がかっと熱くなった。そして、宇野木も機密事項を千歳にこうして話してくれている。彼らの信頼を裏切るのは、心苦しかった。

正社員登用の話を聞いても、千歳は俯いたままだった。仕事の見つからない千歳に、住む場所と働く場所を提供してくれたのに、何も返さないままここを去ろうとしている。怒鳴られたり、恨まれたりしても文句は言えない。

「そっか……うん。和泉さんはまだまだ若いし、資格だってあるんだから、こんなところじゃもったいないよね」
「そ、そういうわけでは」
「え、あっ。ごめん! 嫌味みたいに聞こえちゃったかな……そんな気は全くなくて! ……レグにはもう言った?」

千歳は首を横に振った。

「俺から言ったほうがいい? それとも」
「レグルシュさんには、僕から言います」

店を辞めるということは、レグルシュとの同居も解消するのだと、宇野木も悟ったのだろう。千歳は再度頭を下げた。

La・Rucheで働くのはあと一ヶ月だ。それまでにレグルシュに別れを告げ、新しい生活のためにいろいろと準備を整えなければならない。一息つく暇だってない。先の見えない未来に不安になる度に、千歳は我が子のいる腹を撫でる。そうすると、元気がもらえるような気がした。

ここに来たときに持っていたトランクに、少しずつ必需品を詰めていく。荷物を整理していると、一冊のファイルを見つけた。

「ユキくんの……」

ユキが毎日、千歳にマヌルネコを描いてくれたのだった。ユキとの楽しかった思い出が溢れ、千歳は涙ぐんだ。画用紙にたくさんのマヌルネコ。そして、最後のほうは千歳とレグルシュの名前も、拙い字で書いてある。

悩んだ挙句、千歳はファイルを家に置いていくことに決めた。もう会えないかもしれないのに、千歳が持っていくのは狡いと思ったからだ。

レグルシュに退職の件を言えないまま、一週間、二週間と過ぎた。面と向かって切り出せる勇気はなく、千歳は置き手紙をすることにした。最後の最後まで、レグルシュには不義理をしてしまった。それでも。

──子供がいると知ったら、レグは……。

失望させてしまうのが、千歳のことをいらないと言われるのが、一番辛い。だったら、レグルシュが何も知らないまま、消えてしまいたい。

トランクを引く音でレグルシュを起こしてしまわないよう、千歳は私物の入ったそれを、少しずつ音を立てないように玄関まで運んだ。

家の外まで出たところで、一度だけ後ろを振り返った。すぐに前を向いて歩き出す。

──ごめんなさい。レグルシュさん。宇野木さん。ユキくん。

忘れ去られてしまうことよりも、レグルシュを裏切ることが一番辛い。レグルシュとは、運命の恋じゃない。だって、彼は──。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

もう人気者とは付き合っていられません

花果唯
BL
僕の恋人は頭も良くて、顔も良くておまけに優しい。 モテるのは当然だ。でも――。 『たまには二人だけで過ごしたい』 そう願うのは、贅沢なのだろうか。 いや、そんな人を好きになった僕の方が間違っていたのだ。 「好きなのは君だ」なんて言葉に縋って耐えてきたけど、それが間違いだったってことに、ようやく気がついた。さようなら。 ちょうど生徒会の補佐をしないかと誘われたし、そっちの方に専念します。 生徒会長が格好いいから見ていて癒やされるし、一石二鳥です。 ※ライトBL学園モノ ※2024再公開・改稿中

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

【完結】幼馴染から離れたい。

June
BL
隣に立つのは運命の番なんだ。 βの谷口優希にはαである幼馴染の伊賀崎朔がいる。だが、ある日の出来事をきっかけに、幼馴染以上に大切な存在だったのだと気づいてしまう。 番外編 伊賀崎朔視点もあります。 (12月:改正版)

【完結】あなたの恋人(Ω)になれますか?〜後天性オメガの僕〜

MEIKO
BL
この世界には3つの性がある。アルファ、ベータ、オメガ。その中でもオメガは希少な存在で。そのオメガで更に希少なのは┉僕、後天性オメガだ。ある瞬間、僕は恋をした!その人はアルファでオメガに対して強い拒否感を抱いている┉そんな人だった。もちろん僕をあなたの恋人(Ω)になんてしてくれませんよね? 前作「あなたの妻(Ω)辞めます!」スピンオフ作品です。こちら単独でも内容的には大丈夫です。でも両方読む方がより楽しんでいただけると思いますので、未読の方はそちらも読んでいただけると嬉しいです! 後天性オメガの平凡受け✕心に傷ありアルファの恋愛 ※独自のオメガバース設定有り

オメガ転生。

BL
残業三昧でヘトヘトになりながらの帰宅途中。乗り合わせたバスがまさかのトンネル内の火災事故に遭ってしまう。 そして………… 気がつけば、男児の姿に… 双子の妹は、まさかの悪役令嬢?それって一家破滅フラグだよね! 破滅回避の奮闘劇の幕開けだ!!

孕めないオメガでもいいですか?

月夜野レオン
BL
病院で子供を孕めない体といきなり診断された俺は、どうして良いのか判らず大好きな幼馴染の前から消える選択をした。不完全なオメガはお前に相応しくないから…… オメガバース作品です。

両片思いのI LOVE YOU

大波小波
BL
 相沢 瑠衣(あいざわ るい)は、18歳のオメガ少年だ。  両親に家を追い出され、バイトを掛け持ちしながら毎日を何とか暮らしている。  そんなある日、大学生のアルファ青年・楠 寿士(くすのき ひさし)と出会う。  洋菓子店でミニスカサンタのコスプレで頑張っていた瑠衣から、売れ残りのクリスマスケーキを全部買ってくれた寿士。  お礼に彼のマンションまでケーキを運ぶ瑠衣だが、そのまま寿士と関係を持ってしまった。  富豪の御曹司である寿士は、一ヶ月100万円で愛人にならないか、と瑠衣に持ち掛ける。  少々性格に難ありの寿士なのだが、金銭に苦労している瑠衣は、ついつい応じてしまった……。

巣作りΩと優しいα

伊達きよ
BL
αとΩの結婚が国によって推奨されている時代。Ωの進は自分の夢を叶えるために、流行りの「愛なしお見合い結婚」をする事にした。相手は、穏やかで優しい杵崎というαの男。好きになるつもりなんてなかったのに、気が付けば杵崎に惹かれていた進。しかし「愛なし結婚」ゆえにその気持ちを伝えられない。 そんなある日、Ωの本能行為である「巣作り」を杵崎に見られてしまい……

処理中です...