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【5章】二度目の恋
新しい命2
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「このまま俺も眠っていいか」
「は……はい」
穏やかで一番幸せな時間。身体は休まっているのに、気持ちは焦っている。しばらくすると、背後で小さな寝息が聞こえ始めた。起こさないよう、千歳は最小限の動きで向きを変えた。すぐ近くに、レグルシュの端正な顔があり、見つめているだけでドキドキする。薄明かりの下、伏せられた金色の長い睫毛が輝いている。
ずっとレグルシュの側にいたい。そう口にできたら、できるのなら──。産まれてくる子も、レグルシュやユキのような、御伽噺に出てくるような容姿をしているのだろうか。オメガだとしたら、千歳にそっくりかもしれない。
レグルシュの規則正しい寝息に誘われて、千歳も目を閉じた。
……────。
何とかお腹の子供のためにも、千歳は食事の量を少しずつ増やした。戻してしまうが、それ以上に食べるように努力した。La・Rucheの仕事中もトイレに籠もる時間が長くなり、当然、宇野木からは心配された。
「和泉さん……大丈夫? 顔色も悪いよ」
「すみません。ご迷惑をおかけして」
宇野木に妊娠していることを言えば、レグルシュの耳にも入るだろう。千歳は誰にも言えないでいた。定期的にバース科を受診し、赤ちゃんは今のところ何の異常もなく育ってくれている。今の千歳にとって、それだけが唯一の生きがいだった。
店を閉め、売り上げ金を数え終わると、千歳は宇野木に話しかけた。
「宇野木さん。突然で申し訳ないのですが」
千歳は白い封筒を差し出した。宇野木の顔はみるみるうちに曇っていく。
「……え、どうして」
こうするしかなかった。子供を産むためには、彼らと離れなければいけない。退職願と書かれた封筒を片手に、宇野木は近くの椅子に座るよう千歳に言った。
「……理由を聞いてもいいかな」
「オメガの僕を雇ってくれたレグルシュさんや宇野木さんには感謝しています。でも、やっぱり、これからお金が必要で」
この子を育てるためにも、安定した職を探したい。ギリギリまで悩み、出した答えだった。
「後出しでこんなことを言うのはずるいと思ったんだけど。引き止めるために言うね。今、レグと和泉さんを正社員に登用しないかって、話をしているんだ。まだ決定じゃないから、レグには内緒にしてて」
ユキのシッターが終わり、収入が減ったことをレグルシュは気にかけてくれていた。目頭がかっと熱くなった。そして、宇野木も機密事項を千歳にこうして話してくれている。彼らの信頼を裏切るのは、心苦しかった。
正社員登用の話を聞いても、千歳は俯いたままだった。仕事の見つからない千歳に、住む場所と働く場所を提供してくれたのに、何も返さないままここを去ろうとしている。怒鳴られたり、恨まれたりしても文句は言えない。
「そっか……うん。和泉さんはまだまだ若いし、資格だってあるんだから、こんなところじゃもったいないよね」
「そ、そういうわけでは」
「え、あっ。ごめん! 嫌味みたいに聞こえちゃったかな……そんな気は全くなくて! ……レグにはもう言った?」
千歳は首を横に振った。
「俺から言ったほうがいい? それとも」
「レグルシュさんには、僕から言います」
店を辞めるということは、レグルシュとの同居も解消するのだと、宇野木も悟ったのだろう。千歳は再度頭を下げた。
La・Rucheで働くのはあと一ヶ月だ。それまでにレグルシュに別れを告げ、新しい生活のためにいろいろと準備を整えなければならない。一息つく暇だってない。先の見えない未来に不安になる度に、千歳は我が子のいる腹を撫でる。そうすると、元気がもらえるような気がした。
ここに来たときに持っていたトランクに、少しずつ必需品を詰めていく。荷物を整理していると、一冊のファイルを見つけた。
「ユキくんの……」
ユキが毎日、千歳にマヌルネコを描いてくれたのだった。ユキとの楽しかった思い出が溢れ、千歳は涙ぐんだ。画用紙にたくさんのマヌルネコ。そして、最後のほうは千歳とレグルシュの名前も、拙い字で書いてある。
悩んだ挙句、千歳はファイルを家に置いていくことに決めた。もう会えないかもしれないのに、千歳が持っていくのは狡いと思ったからだ。
レグルシュに退職の件を言えないまま、一週間、二週間と過ぎた。面と向かって切り出せる勇気はなく、千歳は置き手紙をすることにした。最後の最後まで、レグルシュには不義理をしてしまった。それでも。
──子供がいると知ったら、レグは……。
失望させてしまうのが、千歳のことをいらないと言われるのが、一番辛い。だったら、レグルシュが何も知らないまま、消えてしまいたい。
トランクを引く音でレグルシュを起こしてしまわないよう、千歳は私物の入ったそれを、少しずつ音を立てないように玄関まで運んだ。
家の外まで出たところで、一度だけ後ろを振り返った。すぐに前を向いて歩き出す。
──ごめんなさい。レグルシュさん。宇野木さん。ユキくん。
忘れ去られてしまうことよりも、レグルシュを裏切ることが一番辛い。レグルシュとは、運命の恋じゃない。だって、彼は──。
「は……はい」
穏やかで一番幸せな時間。身体は休まっているのに、気持ちは焦っている。しばらくすると、背後で小さな寝息が聞こえ始めた。起こさないよう、千歳は最小限の動きで向きを変えた。すぐ近くに、レグルシュの端正な顔があり、見つめているだけでドキドキする。薄明かりの下、伏せられた金色の長い睫毛が輝いている。
ずっとレグルシュの側にいたい。そう口にできたら、できるのなら──。産まれてくる子も、レグルシュやユキのような、御伽噺に出てくるような容姿をしているのだろうか。オメガだとしたら、千歳にそっくりかもしれない。
レグルシュの規則正しい寝息に誘われて、千歳も目を閉じた。
……────。
何とかお腹の子供のためにも、千歳は食事の量を少しずつ増やした。戻してしまうが、それ以上に食べるように努力した。La・Rucheの仕事中もトイレに籠もる時間が長くなり、当然、宇野木からは心配された。
「和泉さん……大丈夫? 顔色も悪いよ」
「すみません。ご迷惑をおかけして」
宇野木に妊娠していることを言えば、レグルシュの耳にも入るだろう。千歳は誰にも言えないでいた。定期的にバース科を受診し、赤ちゃんは今のところ何の異常もなく育ってくれている。今の千歳にとって、それだけが唯一の生きがいだった。
店を閉め、売り上げ金を数え終わると、千歳は宇野木に話しかけた。
「宇野木さん。突然で申し訳ないのですが」
千歳は白い封筒を差し出した。宇野木の顔はみるみるうちに曇っていく。
「……え、どうして」
こうするしかなかった。子供を産むためには、彼らと離れなければいけない。退職願と書かれた封筒を片手に、宇野木は近くの椅子に座るよう千歳に言った。
「……理由を聞いてもいいかな」
「オメガの僕を雇ってくれたレグルシュさんや宇野木さんには感謝しています。でも、やっぱり、これからお金が必要で」
この子を育てるためにも、安定した職を探したい。ギリギリまで悩み、出した答えだった。
「後出しでこんなことを言うのはずるいと思ったんだけど。引き止めるために言うね。今、レグと和泉さんを正社員に登用しないかって、話をしているんだ。まだ決定じゃないから、レグには内緒にしてて」
ユキのシッターが終わり、収入が減ったことをレグルシュは気にかけてくれていた。目頭がかっと熱くなった。そして、宇野木も機密事項を千歳にこうして話してくれている。彼らの信頼を裏切るのは、心苦しかった。
正社員登用の話を聞いても、千歳は俯いたままだった。仕事の見つからない千歳に、住む場所と働く場所を提供してくれたのに、何も返さないままここを去ろうとしている。怒鳴られたり、恨まれたりしても文句は言えない。
「そっか……うん。和泉さんはまだまだ若いし、資格だってあるんだから、こんなところじゃもったいないよね」
「そ、そういうわけでは」
「え、あっ。ごめん! 嫌味みたいに聞こえちゃったかな……そんな気は全くなくて! ……レグにはもう言った?」
千歳は首を横に振った。
「俺から言ったほうがいい? それとも」
「レグルシュさんには、僕から言います」
店を辞めるということは、レグルシュとの同居も解消するのだと、宇野木も悟ったのだろう。千歳は再度頭を下げた。
La・Rucheで働くのはあと一ヶ月だ。それまでにレグルシュに別れを告げ、新しい生活のためにいろいろと準備を整えなければならない。一息つく暇だってない。先の見えない未来に不安になる度に、千歳は我が子のいる腹を撫でる。そうすると、元気がもらえるような気がした。
ここに来たときに持っていたトランクに、少しずつ必需品を詰めていく。荷物を整理していると、一冊のファイルを見つけた。
「ユキくんの……」
ユキが毎日、千歳にマヌルネコを描いてくれたのだった。ユキとの楽しかった思い出が溢れ、千歳は涙ぐんだ。画用紙にたくさんのマヌルネコ。そして、最後のほうは千歳とレグルシュの名前も、拙い字で書いてある。
悩んだ挙句、千歳はファイルを家に置いていくことに決めた。もう会えないかもしれないのに、千歳が持っていくのは狡いと思ったからだ。
レグルシュに退職の件を言えないまま、一週間、二週間と過ぎた。面と向かって切り出せる勇気はなく、千歳は置き手紙をすることにした。最後の最後まで、レグルシュには不義理をしてしまった。それでも。
──子供がいると知ったら、レグは……。
失望させてしまうのが、千歳のことをいらないと言われるのが、一番辛い。だったら、レグルシュが何も知らないまま、消えてしまいたい。
トランクを引く音でレグルシュを起こしてしまわないよう、千歳は私物の入ったそれを、少しずつ音を立てないように玄関まで運んだ。
家の外まで出たところで、一度だけ後ろを振り返った。すぐに前を向いて歩き出す。
──ごめんなさい。レグルシュさん。宇野木さん。ユキくん。
忘れ去られてしまうことよりも、レグルシュを裏切ることが一番辛い。レグルシュとは、運命の恋じゃない。だって、彼は──。
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