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少女と魔物と点字の手紙
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ある森の中に、魔物が住んでいました。
その魔物の体は真っ黒で、ぎょろりと動く大きな丸い目は、血のように真っ赤でした。
体と同じ色の黒い手から伸びるのは、紫色の爪です。
とてもするどく、長い形をしています。
そんな姿をしているからか、魔物は森の動物たちから不気味がられ、おそれられ、そして、嫌われていました。
それでも魔物は、森の動物たちをおどしたり、暴力を振るったりなどは一切しませんでした。
本当は魔物も森の動物たちがしているように「おはよう」とあいさつをしたり、お喋りをしたり、仲良くなりたいと思っていたのです。
でも、魔物は動物たちに声をかけることができないでいました。
魔物は、とてもおくびょうだったからです。
ある日、魔物は少し遠出の散歩をしました。
魔物は薄暗い森の中を、大きな足でずんずんと歩き続けます。
森の動物たちはその魔物の姿を見て、慌てて木の後ろに隠れました。
魔物は少しさびしく思いながらも、ただ無言で歩き続けます。
やがて魔物は、森の入り口までやってきました。
森の入り口には、一軒の小さな丸太小屋が建っていました。
魔物は首をかしげました。
百年ほど前にここに来た時は、こんな小屋など建っていなかったからです。
魔物は小屋の中がどうなっているのか、すごく気になりました。
でも、魔物はとてもおくびょうです。
中を確かめる勇気など、水一滴ほどもわいてはきません。
魔物はその小屋を、少し離れた場所からじっと見つめることしかできませんでした。
その時、小屋のドアが開きました。
魔物はビクリと体を震わせ、木の影に隠れて様子をうかがいます。
小屋の中から出てきたのは、くり色の髪をした少女でした。
少女は片手に小さなお皿を持っています。
すぐに少女の周りに、小鳥たちがたくさん集まってきました。
少女はその小鳥たちに向けて、お皿の中の物をばらまきました。
どうやらパンくずを小鳥たちに与えているようです。
小鳥たちは一粒でも多く食べようと、押し合いへし合いしながらパンくずをつつきます。
ふと、少女が魔物の方へと顔を向けました。
「こんにちは。そこにいるのはどなたですか?」
そしてあろうことか、魔物に向けてあいさつまでしてきました。
魔物はとてもとまどいました。
だってこのようにあいさつをされたことなど、今まで一度もなかったのですから。
何も言えず、そして少女の前に姿も現すこともできず、魔物は木の影に隠れたまま立ちすくみます。
さらに、少女は魔物に声をかけてきました。
「少しだけでもいいので、私とお話しませんか?」
魔物は、本当に悩みました。
どうして少女がこんなことを魔物に言ってくるのか、さっぱり理解できなかったからです。
でも、このまま黙ったままでいるのも、それは何だか悪い気がしました。
魔物は勇気をふりしぼり、木の影から少しだけ姿を出しました。
夜の空よりも黒い魔物の姿を見た瞬間、パンくずをつついていた小鳥たちは、いっせいに羽ばたいて逃げてしまいました。
でも、少女は魔物の姿を見ても、悲鳴一つ上げません。
魔物は不思議で仕方がありませんでした。
あの小鳥たちのように、森の動物たちは魔物の姿を見た瞬間、背を向けて逃げていくのに。
でも、少女は魔物を怖がっている様子はありません。
恐怖以外の感情を向けてくる少女が、魔物は不思議で仕方がありませんでした。
魔物はおそるおそる、少女の方へと近付いていきます。
そして「怖くないのか?」と、気付いたら魔物はそう少女に聞いていました。
「どうして? だってあなたからは、全然怖い気配を感じないですよ」
少女はほほえみながら魔物に答えました。
魔物は、そこでようやく気付きました。
少女の視線が、自分の顔から少しずれてしまっていることに。
少女の青い目は、まるで霞がかったようにぼやけていたのです。
――あぁ、この少女は目が見えないのだ。自分の姿がわからないから、人間だと思っているから、怖がらないのだ。
魔物は納得しました。
そして、思いました。
――人間だと思ってくれているのなら、もしかしたら友達になれるかもしれない――。
魔物は、急に嬉しくなってきました。
はじめて友達ができるかもしれないのです。
少女はそんな魔物を、「どうぞ」と小屋の中に案内してくれました。
目が見えていないはずなのに、小屋の中を歩き回る少女の動きは、まるで見えているかのように自然でした。
イスにぶつかったり、つまずいたりなど全然しません。
どうしてこんな場所に住んでいるのかと、魔物は少女に聞きました。
「私、病気で目が見えなくなってしまったんです」
少女は魔物にお茶を出しながら答えます。
「見えなくなってから、周りの音がとてもよく聞こえるようになりました。そんな私に、あの町はにぎやかすぎたのです」
色々な音がひっきりなしに聞こえてきて、頭がおかしくなってしまいそうだった、と少女は苦笑いしながら答えます。
「だから、別荘としてずっと放置していたここに、一人で移住することにしたんです。最初はお父さんも反対していたけれど、でも私、どうしても一人になりたかったの」
私の家は、結構お金持ちなのよ、と少女は少し寂しげに笑いながら呟きました。
少女には何か色々と事情があるようですが、しかし魔物はそれを聞くようなことはしませんでした。
「これでも私、町では自分のことは自分でやって生活していたんです」
最初のうちは町からお手伝いさんがやってきて、少女の生活を手伝っていたそうです。
でも少女が家具の配置や物の感触を完全に覚えた頃、もう大丈夫だから、とお手伝いさんを町に帰したそうです。
「それでも食べ物だけは、一週間に一度、お父さんが送ってきてくれるのですけど」
少女は魔物にお茶を差し出しました。
「お口に合うかはわからないけれど、どうぞ」
そう言ってティーカップを差し出してきた少女の手を見て、魔物は目を丸くしました。
少女の手には、たくさんの傷あとがついていたのです。
きっと一人で生活をする練習をしているうちに、傷付いてしまったのでしょう。
魔物は出されたお茶を、おそるおそる口に運びました。
初めて飲むそのお茶は、とても不思議な味がしました。
にがいような、甘いような。
でも口の中に広がるその不思議な味は、何だかとても優しくて、温かくて――。
魔物はあっという間に、お茶を飲み干してしまいました。
それから、魔物は少女とたくさんお話をしました。
少女が話すことは魔物にとってはすべてが新鮮で、興味深いものでした。
長い間ずっと森の中で暮らしてきた魔物は、人間がたくさん住んでいる町のことなど、全然知らなかったのです。
町の話が終わったころ、魔物は少女に、なぜ自分の存在に気付いたのか、なぜ自分に話しかけてきたのか、と少女に聞きました。
「目は見えなくなってしまったけれど、その分、良い人なのか悪い人なのかは、何となくわかるようになったのです。今までに感じたことがないほど温かくて優しい気配がしたから、ついつい話しかけてしまいました」
そう言うと、少女は少し照れくさそうに笑いました。
魔物はそれを聞いて、とてもうれしくなりました。
「今日は私とお話をしてくれて、どうもありがとう。久しぶりにお父さん以外の人とお話ができて、嬉しかったです。あの、よろしければ明日も来てくれますか?」
魔物はうん、と返事をします。魔物も、またこの少女と話をしてみたいと思ったからです。
次の日も、魔物は少女の住む丸太小屋に行きました。
少女は笑顔で魔物を中へと招きいれます。
そして少女と魔物は、またたくさんのお話をしました。
少女の話を聞きながら、魔物はある物が気になりました。
それは、大きな本棚です。
本棚には、たくさんの本が並んでいました。
魔物は不思議に思い、少女に聞きました。
少女は目が見えないのに、どうして本があんなにたくさんあるのか、と。
「あの本は全部、点字の本なのですよ」
点字――。
聞いたことのない言葉に、魔物は思わずきょとんとします。
人間が文字を使っているのは知っていましたが、そんな字のことなど聞いたことがなかったからです。
少女は本棚から一冊の本を取り出して、魔物の前に広げてくれました。
しかし、本には何も文字が書いてありません。全てのページが真っ白です。
魔物はますます意味がわからなくなりました。
少女は小さく笑うと、魔物の大きな手に触れてきました。
魔物は少女が鋭い爪に触れないよう、とっさに軽く指を折り曲げます。
少女は魔物の爪には気付かないまま、本の上に魔物の指を置きました。
「ボコボコしているでしょ? これが点字なんです」
魔物は本の上を軽く指でなぞってみました。
確かに、ボコボコとした感触が指先に当たります。
「点字は、目の見えない人のための文字なのよ」
それを聞いた魔物は、深く感心しました。人間とは、何て知恵のある生き物なんだと思いました。
この本を、読んでみたい――。
魔物は少女に点字を教えてくれと頼みました。
少女が見ている世界を、魔物も知りたくなったのです。
少女は魔物のお願いに、笑顔で答えました。
「いいですよ」
魔物は右手のするどい爪を、全てペキリと折りました。
そして誰も傷つけることのなくなった指を、少女のてのひらにそっと置きます。
指で点を描きながら、この形は何て読むのだ、と魔物は少女に聞きました。
少女は魔物の指の感触がくすぐったかったのか、少し笑いながら答えます。
「これは『アイ』と読むのよ」
少女は一文字ずつ丁寧に、魔物に点字を教えていきます。
そして魔物は一生けんめいに、点字を覚えていきました。
しばらくの間、魔物は少女に点字を教わり続けました。
そして一生けんめいに覚えた魔物は、少女に点字の本を読んで聞かせてあげられるほどになりました。
少女はとても喜びました。
「すごい」と、魔物のことをほめてもくれました。
魔物は少女と会うのが、ますます楽しくなっていました。
でも少女と会うたびに、魔物の心の中にもやもやとしたものが広がっていきます。
きれいなキャンパスの上に垂らされた黒いしみのようなそれは、魔物を心を苦しめました。
魔物は少女に、自分が人間ではないということを、言えないでいたからです。
そんなある日、魔物は覚えた点字を使って、少女に宛てた手紙を書くことにしました。
魔物は残っていた左手のするどい爪で、紙に穴を空けていきます。
そして自分が人間ではない、本当は恐ろしい姿をした魔物なのだと、その手紙に書きました。
魔物は、自分の正体を少女に明かす決心をしたのです。
手紙という手段を選んだのは、自分の口で少女に真実を告げる勇気がなかったからです。
次の日、魔物はいつものように少女に会いに行きました。
でも少女の顔を見た途端、手紙を渡すのが怖くなってしまいました。
――せっかくできた友達を、失ってしまうかもしれない――。
魔物はこのまま、少女に嘘をつき続けたくありません。
でもそれ以上に、魔物は少女に嫌われてしまうことを怖れていたのです。
少女という友達ができても、魔物はおくびょうなままでした。
それから一年、二年、三年と、少女と魔物は一緒に時を過ごしました。
けれど、魔物は少女にあの点字の手紙を渡すことができないでいました。
さらに月日が流れました。
少女と魔物は、たくさんお話をして、本を読んで、いっしょに料理を作って、花をつみに行って――。
そんな穏やかで、楽しい毎日を過ごしていました。
それでも、魔物は少女に手紙を渡すことができないままでした。
いつでも渡せるように持っていたけれど、渡すことはできなかったのです。
そんなある日、別れは急に訪れました。
少女は病気に倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのです。
魔物が少女の家に行った時、既に少女は帰らぬ人となっていました。
少女の父親が彼女の亡骸を引き取りにきて、小屋は空っぽになりました。
魔物は少女の父親に見つからないよう、木の陰から彼女が運ばれていくのを、ただ見つめていました。
森を抜けた先にある小さな丘の上で、魔物は手紙を焼きました。
手紙はあっという間に灰となり、高く高く、空へと舞い上がっていきました。
魔物は蝶のようにひらひらと舞うその灰を、ただじっと見つめていました。
やがて手紙は全て灰になり、風に運ばれて散り散りになりました。
それらを全て見届けたあと、魔物は声をあげて泣きました。
大きな声でわあわあと、空に向かって泣き続けました。
その後、魔物は丘の上でずっと泣いていました。
数日間泣き続けたあと、とうとう魔物は泣き疲れて眠ってしまいました。
* * * * * *
魔物は、夢を見ました。
夢の中で、魔物は少女と会いました。
夢の中で少女は、魔物のするどい爪をなでながら言いました。
あなたに何も言わないまま、いなくなってしまって、ごめんね。
本当はもっと、あなたのそばにいたかった。
ずっとずっと、一緒にいたかった。
あなたが大好きだった。
あなたの本当の心を、優しい心を、私は知っていたから。
もう、直接お話をすることはできないけれど。
でも、目を閉じたら、私とあなたはいつでも会えるよ。
だからね、もう、泣かないで。
泣かないで。
* * * * * *
朝、魔物が目を覚ますと、空に大きな虹が現れていました。
空と空をつなぐ橋のような、大きな虹です。
魔物はその虹を見て、まるで少女の笑顔のようだと思いました。
色とりどりの美しい曲線は、少女が笑った時の目に似ていると、魔物は思ったのです。
少女の笑顔に似た虹を見上げたまま、魔物の大きくて赤い目から、また涙がこぼれ落ちました。
夢の中で少女に「泣かないで」と言われたけれど。
でも、魔物は我慢することができませんでした。
魔物は、ようやく理解したのです。
あの少女は、すべてわかっていたのだと。
魔物が人間ではないことなど、とっくに少女は知っていたのだと。
点字の手紙を使って真実を告げる必要など、なかったのだと――。
森の中を歩きながら、魔物は動物たちに「おはよう」とあいさつをします。
動物たちは最初はとまどっていましたが、やがて小さな声でおはよう、と魔物にあいさつを返してくれました。
そして魔物は目を閉じて、少女にも「おはよう」とあいさつをしました。
おくびょうだった魔物は、少しだけ、強くなることができました。
Fin
その魔物の体は真っ黒で、ぎょろりと動く大きな丸い目は、血のように真っ赤でした。
体と同じ色の黒い手から伸びるのは、紫色の爪です。
とてもするどく、長い形をしています。
そんな姿をしているからか、魔物は森の動物たちから不気味がられ、おそれられ、そして、嫌われていました。
それでも魔物は、森の動物たちをおどしたり、暴力を振るったりなどは一切しませんでした。
本当は魔物も森の動物たちがしているように「おはよう」とあいさつをしたり、お喋りをしたり、仲良くなりたいと思っていたのです。
でも、魔物は動物たちに声をかけることができないでいました。
魔物は、とてもおくびょうだったからです。
ある日、魔物は少し遠出の散歩をしました。
魔物は薄暗い森の中を、大きな足でずんずんと歩き続けます。
森の動物たちはその魔物の姿を見て、慌てて木の後ろに隠れました。
魔物は少しさびしく思いながらも、ただ無言で歩き続けます。
やがて魔物は、森の入り口までやってきました。
森の入り口には、一軒の小さな丸太小屋が建っていました。
魔物は首をかしげました。
百年ほど前にここに来た時は、こんな小屋など建っていなかったからです。
魔物は小屋の中がどうなっているのか、すごく気になりました。
でも、魔物はとてもおくびょうです。
中を確かめる勇気など、水一滴ほどもわいてはきません。
魔物はその小屋を、少し離れた場所からじっと見つめることしかできませんでした。
その時、小屋のドアが開きました。
魔物はビクリと体を震わせ、木の影に隠れて様子をうかがいます。
小屋の中から出てきたのは、くり色の髪をした少女でした。
少女は片手に小さなお皿を持っています。
すぐに少女の周りに、小鳥たちがたくさん集まってきました。
少女はその小鳥たちに向けて、お皿の中の物をばらまきました。
どうやらパンくずを小鳥たちに与えているようです。
小鳥たちは一粒でも多く食べようと、押し合いへし合いしながらパンくずをつつきます。
ふと、少女が魔物の方へと顔を向けました。
「こんにちは。そこにいるのはどなたですか?」
そしてあろうことか、魔物に向けてあいさつまでしてきました。
魔物はとてもとまどいました。
だってこのようにあいさつをされたことなど、今まで一度もなかったのですから。
何も言えず、そして少女の前に姿も現すこともできず、魔物は木の影に隠れたまま立ちすくみます。
さらに、少女は魔物に声をかけてきました。
「少しだけでもいいので、私とお話しませんか?」
魔物は、本当に悩みました。
どうして少女がこんなことを魔物に言ってくるのか、さっぱり理解できなかったからです。
でも、このまま黙ったままでいるのも、それは何だか悪い気がしました。
魔物は勇気をふりしぼり、木の影から少しだけ姿を出しました。
夜の空よりも黒い魔物の姿を見た瞬間、パンくずをつついていた小鳥たちは、いっせいに羽ばたいて逃げてしまいました。
でも、少女は魔物の姿を見ても、悲鳴一つ上げません。
魔物は不思議で仕方がありませんでした。
あの小鳥たちのように、森の動物たちは魔物の姿を見た瞬間、背を向けて逃げていくのに。
でも、少女は魔物を怖がっている様子はありません。
恐怖以外の感情を向けてくる少女が、魔物は不思議で仕方がありませんでした。
魔物はおそるおそる、少女の方へと近付いていきます。
そして「怖くないのか?」と、気付いたら魔物はそう少女に聞いていました。
「どうして? だってあなたからは、全然怖い気配を感じないですよ」
少女はほほえみながら魔物に答えました。
魔物は、そこでようやく気付きました。
少女の視線が、自分の顔から少しずれてしまっていることに。
少女の青い目は、まるで霞がかったようにぼやけていたのです。
――あぁ、この少女は目が見えないのだ。自分の姿がわからないから、人間だと思っているから、怖がらないのだ。
魔物は納得しました。
そして、思いました。
――人間だと思ってくれているのなら、もしかしたら友達になれるかもしれない――。
魔物は、急に嬉しくなってきました。
はじめて友達ができるかもしれないのです。
少女はそんな魔物を、「どうぞ」と小屋の中に案内してくれました。
目が見えていないはずなのに、小屋の中を歩き回る少女の動きは、まるで見えているかのように自然でした。
イスにぶつかったり、つまずいたりなど全然しません。
どうしてこんな場所に住んでいるのかと、魔物は少女に聞きました。
「私、病気で目が見えなくなってしまったんです」
少女は魔物にお茶を出しながら答えます。
「見えなくなってから、周りの音がとてもよく聞こえるようになりました。そんな私に、あの町はにぎやかすぎたのです」
色々な音がひっきりなしに聞こえてきて、頭がおかしくなってしまいそうだった、と少女は苦笑いしながら答えます。
「だから、別荘としてずっと放置していたここに、一人で移住することにしたんです。最初はお父さんも反対していたけれど、でも私、どうしても一人になりたかったの」
私の家は、結構お金持ちなのよ、と少女は少し寂しげに笑いながら呟きました。
少女には何か色々と事情があるようですが、しかし魔物はそれを聞くようなことはしませんでした。
「これでも私、町では自分のことは自分でやって生活していたんです」
最初のうちは町からお手伝いさんがやってきて、少女の生活を手伝っていたそうです。
でも少女が家具の配置や物の感触を完全に覚えた頃、もう大丈夫だから、とお手伝いさんを町に帰したそうです。
「それでも食べ物だけは、一週間に一度、お父さんが送ってきてくれるのですけど」
少女は魔物にお茶を差し出しました。
「お口に合うかはわからないけれど、どうぞ」
そう言ってティーカップを差し出してきた少女の手を見て、魔物は目を丸くしました。
少女の手には、たくさんの傷あとがついていたのです。
きっと一人で生活をする練習をしているうちに、傷付いてしまったのでしょう。
魔物は出されたお茶を、おそるおそる口に運びました。
初めて飲むそのお茶は、とても不思議な味がしました。
にがいような、甘いような。
でも口の中に広がるその不思議な味は、何だかとても優しくて、温かくて――。
魔物はあっという間に、お茶を飲み干してしまいました。
それから、魔物は少女とたくさんお話をしました。
少女が話すことは魔物にとってはすべてが新鮮で、興味深いものでした。
長い間ずっと森の中で暮らしてきた魔物は、人間がたくさん住んでいる町のことなど、全然知らなかったのです。
町の話が終わったころ、魔物は少女に、なぜ自分の存在に気付いたのか、なぜ自分に話しかけてきたのか、と少女に聞きました。
「目は見えなくなってしまったけれど、その分、良い人なのか悪い人なのかは、何となくわかるようになったのです。今までに感じたことがないほど温かくて優しい気配がしたから、ついつい話しかけてしまいました」
そう言うと、少女は少し照れくさそうに笑いました。
魔物はそれを聞いて、とてもうれしくなりました。
「今日は私とお話をしてくれて、どうもありがとう。久しぶりにお父さん以外の人とお話ができて、嬉しかったです。あの、よろしければ明日も来てくれますか?」
魔物はうん、と返事をします。魔物も、またこの少女と話をしてみたいと思ったからです。
次の日も、魔物は少女の住む丸太小屋に行きました。
少女は笑顔で魔物を中へと招きいれます。
そして少女と魔物は、またたくさんのお話をしました。
少女の話を聞きながら、魔物はある物が気になりました。
それは、大きな本棚です。
本棚には、たくさんの本が並んでいました。
魔物は不思議に思い、少女に聞きました。
少女は目が見えないのに、どうして本があんなにたくさんあるのか、と。
「あの本は全部、点字の本なのですよ」
点字――。
聞いたことのない言葉に、魔物は思わずきょとんとします。
人間が文字を使っているのは知っていましたが、そんな字のことなど聞いたことがなかったからです。
少女は本棚から一冊の本を取り出して、魔物の前に広げてくれました。
しかし、本には何も文字が書いてありません。全てのページが真っ白です。
魔物はますます意味がわからなくなりました。
少女は小さく笑うと、魔物の大きな手に触れてきました。
魔物は少女が鋭い爪に触れないよう、とっさに軽く指を折り曲げます。
少女は魔物の爪には気付かないまま、本の上に魔物の指を置きました。
「ボコボコしているでしょ? これが点字なんです」
魔物は本の上を軽く指でなぞってみました。
確かに、ボコボコとした感触が指先に当たります。
「点字は、目の見えない人のための文字なのよ」
それを聞いた魔物は、深く感心しました。人間とは、何て知恵のある生き物なんだと思いました。
この本を、読んでみたい――。
魔物は少女に点字を教えてくれと頼みました。
少女が見ている世界を、魔物も知りたくなったのです。
少女は魔物のお願いに、笑顔で答えました。
「いいですよ」
魔物は右手のするどい爪を、全てペキリと折りました。
そして誰も傷つけることのなくなった指を、少女のてのひらにそっと置きます。
指で点を描きながら、この形は何て読むのだ、と魔物は少女に聞きました。
少女は魔物の指の感触がくすぐったかったのか、少し笑いながら答えます。
「これは『アイ』と読むのよ」
少女は一文字ずつ丁寧に、魔物に点字を教えていきます。
そして魔物は一生けんめいに、点字を覚えていきました。
しばらくの間、魔物は少女に点字を教わり続けました。
そして一生けんめいに覚えた魔物は、少女に点字の本を読んで聞かせてあげられるほどになりました。
少女はとても喜びました。
「すごい」と、魔物のことをほめてもくれました。
魔物は少女と会うのが、ますます楽しくなっていました。
でも少女と会うたびに、魔物の心の中にもやもやとしたものが広がっていきます。
きれいなキャンパスの上に垂らされた黒いしみのようなそれは、魔物を心を苦しめました。
魔物は少女に、自分が人間ではないということを、言えないでいたからです。
そんなある日、魔物は覚えた点字を使って、少女に宛てた手紙を書くことにしました。
魔物は残っていた左手のするどい爪で、紙に穴を空けていきます。
そして自分が人間ではない、本当は恐ろしい姿をした魔物なのだと、その手紙に書きました。
魔物は、自分の正体を少女に明かす決心をしたのです。
手紙という手段を選んだのは、自分の口で少女に真実を告げる勇気がなかったからです。
次の日、魔物はいつものように少女に会いに行きました。
でも少女の顔を見た途端、手紙を渡すのが怖くなってしまいました。
――せっかくできた友達を、失ってしまうかもしれない――。
魔物はこのまま、少女に嘘をつき続けたくありません。
でもそれ以上に、魔物は少女に嫌われてしまうことを怖れていたのです。
少女という友達ができても、魔物はおくびょうなままでした。
それから一年、二年、三年と、少女と魔物は一緒に時を過ごしました。
けれど、魔物は少女にあの点字の手紙を渡すことができないでいました。
さらに月日が流れました。
少女と魔物は、たくさんお話をして、本を読んで、いっしょに料理を作って、花をつみに行って――。
そんな穏やかで、楽しい毎日を過ごしていました。
それでも、魔物は少女に手紙を渡すことができないままでした。
いつでも渡せるように持っていたけれど、渡すことはできなかったのです。
そんなある日、別れは急に訪れました。
少女は病気に倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのです。
魔物が少女の家に行った時、既に少女は帰らぬ人となっていました。
少女の父親が彼女の亡骸を引き取りにきて、小屋は空っぽになりました。
魔物は少女の父親に見つからないよう、木の陰から彼女が運ばれていくのを、ただ見つめていました。
森を抜けた先にある小さな丘の上で、魔物は手紙を焼きました。
手紙はあっという間に灰となり、高く高く、空へと舞い上がっていきました。
魔物は蝶のようにひらひらと舞うその灰を、ただじっと見つめていました。
やがて手紙は全て灰になり、風に運ばれて散り散りになりました。
それらを全て見届けたあと、魔物は声をあげて泣きました。
大きな声でわあわあと、空に向かって泣き続けました。
その後、魔物は丘の上でずっと泣いていました。
数日間泣き続けたあと、とうとう魔物は泣き疲れて眠ってしまいました。
* * * * * *
魔物は、夢を見ました。
夢の中で、魔物は少女と会いました。
夢の中で少女は、魔物のするどい爪をなでながら言いました。
あなたに何も言わないまま、いなくなってしまって、ごめんね。
本当はもっと、あなたのそばにいたかった。
ずっとずっと、一緒にいたかった。
あなたが大好きだった。
あなたの本当の心を、優しい心を、私は知っていたから。
もう、直接お話をすることはできないけれど。
でも、目を閉じたら、私とあなたはいつでも会えるよ。
だからね、もう、泣かないで。
泣かないで。
* * * * * *
朝、魔物が目を覚ますと、空に大きな虹が現れていました。
空と空をつなぐ橋のような、大きな虹です。
魔物はその虹を見て、まるで少女の笑顔のようだと思いました。
色とりどりの美しい曲線は、少女が笑った時の目に似ていると、魔物は思ったのです。
少女の笑顔に似た虹を見上げたまま、魔物の大きくて赤い目から、また涙がこぼれ落ちました。
夢の中で少女に「泣かないで」と言われたけれど。
でも、魔物は我慢することができませんでした。
魔物は、ようやく理解したのです。
あの少女は、すべてわかっていたのだと。
魔物が人間ではないことなど、とっくに少女は知っていたのだと。
点字の手紙を使って真実を告げる必要など、なかったのだと――。
森の中を歩きながら、魔物は動物たちに「おはよう」とあいさつをします。
動物たちは最初はとまどっていましたが、やがて小さな声でおはよう、と魔物にあいさつを返してくれました。
そして魔物は目を閉じて、少女にも「おはよう」とあいさつをしました。
おくびょうだった魔物は、少しだけ、強くなることができました。
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