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第2部

51話 彼女の決意と見守る俺(前編)

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 俺はティアラを抱えたまま、人気ひとけのない細い裏路地を疾走し続けていた。

 この辺りは、城からかなり離れた開発区の一角。
 俺の周囲は橙の屋根をした建物が多く明るい雰囲気なのだが、視線の先は灰色一色だ。
 色同様の重い空気が、否応にも身体にまとわりついてくる。

 あの灰色の街並みは、貧民街――。

 俺はとある裏路地の片隅で足を止め、目の前の家の窓を覗き込む。

 窓に鍵は掛かっておらず、中には誰もいない。
 四角い木製のテーブルと二脚の椅子、そして薄汚いベッドが一つという、必要最低限の家具しか揃っていなかった。
 水回りにも何も物は置かれていない。

 俺はティアラを一度下ろし、そのまま静かに窓を開けた。

「あ、あの――」
「大丈夫。俺の家だから」

 他所の家に勝手に侵入しようと思っていたらしいティアラに短く答えると、俺はそのまま窓枠を飛び越えて家の中に入る。
 しかし着地した瞬間白い埃が舞い上がり、思わず咳き込んでしまった。

 くそ……。この様子じゃ当分帰っていないな。
 まぁいいや。今はその方が好都合だ。

「こっちへ」

 俺はティアラの脇に手を滑り込ませ抱き上げると、そのまま家の中に招き入れる。
 そしてすぐさま窓に鍵を掛け、紺のカーテンを閉めた。
 室内はたちまち薄暗くなる。

「汚くてごめん。でもしばらくは身を隠せると思う」
「う、うん」

 ティアラはそわそわと落ち着かない様子だ。

 正直に言うとこんな状態の家に彼女を連れてきたくはなかったのだが、今は状況が状況だけに仕方がない。
 他に身を隠せる場所を知らないわけだし。

 俺は何とか彼女が座れる場所を確保するため、木製の椅子の上に積もった埃を手で払い除ける。

「あ、あの……」

 またしても埃で咳き込む俺にティアラが静かに近寄り、赤面しながら俺に話しかけてきた。

「マティウスに、お願いがあるの。その、背中の紐を、ほどいて欲しいの……」
「えっ?」

 彼女の唐突なお願いに、俺は思わず全身を硬直させてしまった。

 ……つまりアレか。このドレスを脱がして欲しいと。今から俺に脱がして欲しいと。
 彼氏の家でウェディングドレスプレイとか、ティアラ……。俺の知らない内にそんな上級者嗜好に――!?

「ちちちち違うの! へ、変な意味じゃなくて。タニヤが私の着替えを渡してくれたから、その、着替えたくて――」

 ティアラはタニヤから受け取った紙袋を俺に突き出しながら、必死に弁明する。

 なんだ。別に上級者嗜好に目覚めたわけではなかったのか……。ちょっぴり残念。

 でも確かに、この格好のままでは目立ちまくるもんな。
 俺は彼女の要求通り、硬く結ばれていたドレスの紐をするりと解いた。

「ありがとう」

 彼女の白い背中が、ドレスの間からチラリと覗く。
 こんな時に何ですが、すんません。ちょっとムラムラしてきました……。

「え、ええと……」

 ティアラは恥ずかしそうに振り返ると、上目遣いで何か言いたそうにしている。
 うん、久々に見たこの上目遣い、やはり可愛い。

「どうした?」
「あ、あっち向いてて……」

「やだ」
「はうぅ」

 というのはまぁ冗談で、ちゃんとティアラに背を向けたけどな? 俺、(自称)紳士ですから。





 着替えたティアラを椅子に座らせ、俺は窓から外の様子を伺っていた。
 まだ追っ手が来る気配はない。
 アレクが上手く立ち回っているのだろうが、いくらあいつが強いからといっても、全く不安がないわけではない。 

「おうち、誰も使っていないの?」

 ティアラがどこか遠慮がちに小さく呟く。
 まあ、ここまで埃が積もっていたら気になるよな。

「この様子だとしばらくは使っていないみたいだな。鍵は開いてたけれど」

 どこか他人の家のように話す俺に疑問を抱いたのか、ティアラの細い眉が僅かに内に寄った。

「俺はもう十年くらい家に帰っていなかったんだ。それに親も商人だから忙しいんじゃね? まぁ、闇市の商人なんだけどさ」
「…………!」

 鍵が開いていたのに、室内は特に荒らされた形跡がない。
 この辺の人間も、そして貧民街の奴らも、この家に何もないことがわかっているからだろう。
 母親は別の場所に拠点を持っているからだ。

 俺の存在は一時いっときの過ちだったんだと、あの男に騙されたのだと、何度母親に言われたのかはわからない。
 あの男と同じ、その目と髪の色を見るだけで吐き気がすると、毎日のように罵声を浴びせられていた。

 だが、俺を直接殺してしまうほどの鬼畜でもなかったらしい。
 毎日テーブルの上に置かれていただけの食糧が、それを物語っていた。

 わかったところで、虚しさと嫌悪感が増したばかりだったが。

「怪しいモンの仕入れと販売に常に忙しそうでさ。物心ついた時には、既にほとんど家には帰っていなかったな。何度か着いて行こうともしたんだが、その度にすげー剣幕で怒鳴られてさ。まぁ、いわゆる放置子ってやつ?」

 重くならないように軽めに言ってみたが、ティアラはそこで俯いてしまった。
 膝の上で握られた拳が僅かに震えている。

「ご……ごめんなさい……」
「ティアラが謝る必要なんて微塵もないだろ。今は別にそれで良かったとも思ってるし」

「そんなこと――」
「そんなサビシー思いしかしていなかった俺に、生まれて初めて優しい笑顔を向けてくれたのが、ティアラだったんだ」

 ティアラの琥珀色の目が大きく見開く。

 俺は彼女の前まで移動し、床に膝をつく。
 ほぼ彼女と同じ高さの目線になったところで、俺はさらに続けた。

「だから俺、ティアラを好きになった。単純すぎるって笑われるかもしれねーけどさ……。それでも俺、あの時本気で嬉しかったんだ……」

 ティアラの瞳が揺らめき始める。
 俺も大概だけど、やっぱりティアラはそれ以上に涙腺が緩いな。
 俺は失笑を洩らしつつ、彼女の小さな頭をくしゃりと撫でた。

「で、今さらこんなこと聞くのもアレなんだけど……。本当に、俺で良かったのか?」
「嫌だったら、あの場で断ってるよ」

 ティアラはそこで頭に置かれていた俺の手を取り、そっと両手で包み込んだ。

「来てくれて、ありがとう。本当に、ありがとう……」

 瞼を閉じながら静かに、でもはっきりとした口調でティアラは告げる。

 改めて彼女の意志を知ることができた。
 俺の胸の中はかつてない幸福感で満たされていく。

 彼女に選んでもらえるなんて、本当に俺、幸せ者だ……。

「それにしてもお父様のネコ耳、ちょっと可愛かったな」

 そこでティアラはいたずらっぽく思い出し笑いをする。
 俺もそれにつられてちょっと笑ってしまった。

 確かに荘厳な雰囲気の陛下にあの可愛いネコ耳は、そのアンバランスさも手伝って妙に面白い絵づらだった。不謹慎極まりないけど。

「でも、これからどうしようか……。ぶっちゃけると、今後のこととか何も考えていないんだけど」

 全て今日決めただけの、勢い任せの行動――。
 だがこれからその考えなしの行動に、責任をとらなければならない。

「どうなんのかな。俺達……」
「マティウス……」

「俺ら式をめちゃめちゃにしてしまったし……。それに冷静に考えたら、これからアクアラルーン国にどんな要求をされ――」

 俺の喋りが中途半端に止まったのは、ティアラが俺の口に指を一本押し当てたからだ。

 相変わらず彼女の仕草は全てが可愛いと言えるものなのだが、実は俺、この仕草に特に弱かったりする……。
 彼女に惚れた日のことを思い出してしまうからだ。
 心臓の脈打つ速度が、一気に跳ね上がった。

「心配しないで」

 ティアラは俺の口に指を当てたまま小さく笑い、そして続けた。

「この国の次期女王として――。絶対に、何とかしてみせる」

 そう宣言したティアラの表情は、今までに見たことがないほど力強く、そして美しかった。
 彼女のその凛とした顔を見つめたまま、俺はある一つの確信を抱く。

 ……あぁ確実に俺、ヒモになるな……。





 追っ手が来ないと判断した俺は、ティアラを連れてまた大聖堂に戻ることにした。

 駆け落ち同然の、当てのない逃避行を続けるつもりは最初からなかったし。
 とりあえず彼女と話をすることができたので充分だ。

 後はティアラの言葉を信じて、彼女に何とかしてもらうしかない。
 ……その点はかなり情けねぇけど。

「アレクとタニヤ、大丈夫かな……」

 人気ひとけのない、メイン通りから外れた細い路地。
 視線を少し下に落として歩きながら、ティアラが小さく呟く。

「大丈夫だろ、たぶん……。何せアレクの強さは色々と反則気味だからな。それにタニヤも何をしでかすかわからないという、別の意味での怖さがあるし」
「確かにそうだよね……」

 お互いにそこで小さく笑い合う。
 あいつらの存在が、今日ほど頼もしいと思ったことはない。
 俺は二人に感謝しつつ、ティアラの小さな手を握る。

「へっ!?」

 ティアラは俺の行動に肩を震わせた後、真っ赤になってしまった。
 予想通りの彼女の反応に苦笑しつつも、俺はさらに指を絡ませていく。

「こうして町の裏路地を手を繋いで歩いていると、デートしているみたいだよな?」
「い、今はそんなことを言っている場合じゃないでしょ……」

 顔を真っ赤に染めて俯きながらも、ティアラは俺の手を離す気配はない。

 この小さな手をこれからも握っていきたい。ずっと――。
 俺の中で彼女に対する気持ちが、さらに膨れていくのがわかった。



 それからしばらくは、お互い無言のまま歩き続けた。

『手を繋ぐ』という、普通の恋人達なら当たり前のようにやっているであろう行為に、俺はどうしようもないほどの感動を覚えていた。
 今は浮かれた気分になるべき時ではないとわかっていても、その心だけはどうしようもなかった。
 こうやって肩を並べて歩けている現実が、本当に、ただ嬉しかった。

 しかし突然ティアラが発した小さな声に、そのふわふわした気持ちは一瞬で霧散することになる。

「私ね、お母様のこと、知らないの。何も……」
「…………」

「わかっているのは肖像画で見た外見だけ。どんな人だったのか、本当に全然知らないの」
「聞かなかったのか?」

 俺の問いに、ティアラはすぐさま答えることはなかった。
 二人の足音だけが狭い路地裏に響き続ける。

 話したくないんだなと判断した俺は、それ以上追及することはしなかった。


 それからかなり歩いた後――。
 大聖堂まであと少し、という距離になった所で、俺の中では終わっていたさっきの話の続きを、突然彼女は語り始めた。

「お城にいる人達からお母様についての話が出ることは、一度もなかった。もしかしたら、お父様がそういう命令を出していたのかもしれない。でも私から聞かなくても……お父様の気持ちに区切りがついたら、いつかは話してくれるだろうと思っていたの。だから、聞けなかった」

 ティアラはそこで寂しげに小さく笑うと、再び口を結んだ。

 その目は真っ直ぐと前を向いていた。
 前方に小さく見え始めた大聖堂の屋根へと、真っ直ぐに。
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