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Episode2. 不眠症と珈琲とあなた【先輩×後輩】
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適当に待ち合わせに選んだ喫茶店の窓際の席に、貴方はいた。
柔らかな春の日差しが、窓硝子から差し込む穏やかな休日の昼下がり。
長ったらしい名前の小洒落た珈琲なんか頼んじゃって、まだ若そうな青年と何やら楽しそうに談笑なんかしちゃってさ。
それ……。絶対、恋人でしょ?
お揃いの指輪までつけちゃって。わーお、なんて大胆なんでしょう。
『悩み事があればいつでも相談に乗るよ』
低くて優しい声が。柔らかく微笑んでくれた温かい姿が、頭の片隅に弾けて消えた。
僕は、勿論制服なんて着てないけど、バレないようにキャプを深く被り直した。
『成績優秀、内申点も問題なし。まだ先だけど、このままいけば大学推薦も間違いなしだね。この調子で頑張りなさい』
そんな言葉も、目の前のクリームソーダに溶けて消えてゆく。汗をかいたグラスを指でなぞっていると、右肩に温もりが一つ落とされる。それは、大人の掌だった。
「ごめんね。待った?」
さぁ、仕事の始まりだ。
「ううん!全然」
そう言って、席を立ち上がる。
声を掛けてきた男の腕を引いて、さっさと店から飛び出した。
「いいの?クリームソーダ。飲みかけだったんじゃない?」
尋ねてくる男を、笑顔で見上げる。
「いいの。そんなことよりもさ」
そう言いながら、自分よりも太い腕に躊躇いもなく腕を絡ませた。
そして、少し背伸びをして、耳元で囁く。
「早く……、ホテル行こ?」
ねぇ、先生。
大好きな、先生。
僕は、本当は内申点最悪ですよ。
そんな言葉は、誰にも届かない。
*
友達にドタキャンされて、当てもなく適当にブラついていた街の中にお前はいた。
柔らかな春の日差しが降り注ぐ、穏やかな休日の昼下がり。
見慣れないキャプ姿に、小洒落た服なんか着ちゃって、知らねーオッサンと何やら楽しそうに腕なんか組んじゃってさ。
それ……。絶対、恋人だろ?
背伸びまでして、耳元に唇寄せて囁いちゃってさ。わーお、なんて大胆な野郎だぜ。
『先輩!サボってばかりいないで、たまには風紀委員の仕事してくださいよ!』
少し高くて幼い声が。チビのくせに怯まず睨みつけてくる勝気な姿が、頭の片隅に弾けて消えた。
俺は、勿論制服なんて着てないけど、バレないようにパーカーのフードを被って顔を隠した。ついでに、胸に掛けていたサングラスを外して目元に掛ける。
『また制服の違反ですか?風紀委員のくせに、風紀乱さないでくれません!?』
そんな言葉も、目の前を歩く二人の後ろ姿に呑まれて消えてゆく。汗をかいた額を指で拭って、その細い右肩に温もりを一つ落とす。それは、俺の掌だった。
「おい!パシリ!」
さぁ、こっちを向きやがれ。
驚きで見開く瞳に、自然と口角が上がる。
「行くぞ!!」
掛け声と共に、さっさとその腕を引いて走り出す。慌てて声を掛けてきたオッサンの声なんか無視して、街のド真ん中を疾走した。
「先輩!?はっ!?なんで、急に……」
そう尋ねてくるチビを、サングラス越しに笑顔で見下ろす。
「パシリが一丁前に何してんだよ」
そう言って、自分よりも細い腕に躊躇いもなく腕を絡ませた。
そして、だいぶ屈んで、耳元で囁く。
「話……、詳しく聞かせろや?」
なぁ、パシリ。
可哀想な、後輩くん。
俺は、本当はお前が好きなんだよ。
そんな言葉は、誰にも届かない。
**
「は?ソフレだぁ!?」
平和な憩いの場である筈の公園に、不穏な声が響き渡った。
「ちょ、先輩。声デカすぎなんだけど。声帯まで馬鹿なんですか?」
目の前のサングラスを掛けた先輩は、派手なピンク色のパーカーなんて着てるし、いかにも柄が悪い。
「おい、なんだそりゃあ。援交か?」
おまけに、口も態度も悪い。
外見だけは真面目な僕と並べば、百人中百人が僕が不良に絡まれていると思うだろう。
現に、遠巻きに見ていた子供を遊ばせているママさん達が、此方を見てヒソヒソ話を始めていた。
僕は、溜息を一つ吐き出しながら、目の前の馬鹿……もとい先輩が落ち着くように、ベンチの隣に座らせた。
「添い寝フレンドって奴ですよ。僕、不眠症なんで」
その言葉に首を傾げまくっているピュア野郎に、仕方なく説明を続けた。
「ホテルには行きますが、言葉通り『添い寝』をするだけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
「金貰ってんだろ?セックスしねーの?」
「せっ……!する訳ないでしょ馬鹿!」
慌てて否定すれば、先輩は考え込むように腕を組んで空を見上げた。
あっという間に夕暮れが近づいた空は、赤く染まり始めている。
現実逃避のために、遠くで鴉が鳴く声に耳を傾けていれば、突然隣の男は立ち上がる。
そして、その奇行に驚く僕を見下ろして叫んだ。
「じゃあ、俺がお前のソフレになってやるよ!!!」
此奴は……、何を言っている?
夕日に照らされたピンクが眩しい。
サングラスの奥の目は、真っ直ぐだった。
そうして、僕はこの日を境に、全く理解なんてできぬまま『パシリ』から『ソフレ』へと呼び名が変わったのだった。
***
「は?ソフレだぁ!?」
平和な憩いの場である筈の公園に、不穏な声が響き渡った。
「ちょ、先輩。声デカすぎなんだけど。声帯まで馬鹿なんですか?」
目の前の真面目な筈だった後輩くんは、マジで訳分かんねぇ事言ってるくせに、いかにも自分が正しいと俺を叱ってくる。
「おい、なんだそりゃあ。援交か?」
そう言えば、軽蔑の眼差しを向けられた。
外見だけは派手な俺と並べば、百人中百人が俺が此奴に絡んでいるだけと思うだろう。
現に、遠巻きに見ていた子供を遊ばせている母親達が、此方を見てヒソヒソ話を始めやがった。
俺は、溜息を一つ吐かれながら、目の前のパシリ……もとい後輩くんに落ち着くようにベンチの隣に座らされた。
「添い寝フレンドって奴ですよ。僕、不眠症なんで」
その言葉に首を傾げまくっていると、仕方ないとでも言いたげに説明を続けられた。
「ホテルには行きますが、言葉通り『添い寝』をするだけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
「金貰ってんだろ?セックスしねーの?」
「せっ……!する訳ないでしょ馬鹿!」
慌てて否定する姿に、頭の理解が限界を超えて空を見上げた。
あっという間に夕暮れが近づいた空は、赤く染まり始めている。
現実逃避のために、遠くで鴉が鳴く声に耳を傾けていれば、俺は突然閃いた。
そして、勢いのままに立ち上がり叫ぶ。
「じゃあ、俺がお前のソフレになってやるよ!!!」
此奴は……、俺が守らねぇと。
夕日に照らされた黒髪が眩しい。
サングラス越しの後輩くんは、ただでさえ大きな目を丸くして小動物のようだった。
そうして、俺はこの日を境に、全く理解なんてさせぬまま『パシリ』から『ソフレ』へと呼び名を変えてやったのだった。
****
悔しいことに、最近は体の調子が良い……気がする。よく眠れているおかげだ。
カーテンから差し込んだ朝日に照らされて、未だに重い瞼を開く。
枕元に置いていたスマホで時間を確認しようするが、それは隣で眠る男の腕によって拒まれた。背後から回されるようにして、体に絡み付いた逞しい腕。運動部にも入っていないくせに、鍛えられているその体は、正直言って少し羨ましい。
身じろぎして隣をみれば、日常の彼とは違う、穏やかに瞳を閉じる姿があった。
安心しきったその顔に、なぜだか僕の体温は一度跳ね上がった気がした。
気恥ずかしくなり、俯いて布団に潜る。
すっぽりと抱え込まれてしまう自分の小さい体も、細い腕も、なんだか全部が情けなく見えて虚しくなった。
そして、変化はもう一つあった。
「おはよう。ホームルーム始めるぞ」
毎朝聞く、大好きな声。呼名をする時だけ交じり合う、愛しい瞳。授業の間だけは見つめることを許される、大切な先生。
そんな不眠症の原因となっていた彼を見ても、近頃の僕の心は乱されなくなっていた。
でも時折、教科書の文章をなぞるその唇を見つめては想いをはせる。
(その唇で、あの恋人にキスなんてしたりするのかなぁ)
きっちりとネクタイを締めた禁欲的な胸元が、大人の色気を醸し出していて酷く狡い。
それに比べて………、
「おい!ソフレ!購買でパン買ってこいよ。一緒に食べよーぜ」
乱れたワイシャツに、緩んだネクタイが目の前で揺れ動く。
「は?なんで僕が買ってこなきゃいけないんですか?朝のジャンケンで負けたのは先輩ですよね?僕、焼きそばパンで」
そう言えば、ブーブーと文句を垂れ流す男は、全くもって色気がない。
わざわざ教室まで迎えに来て『ソフレ』なんて爆弾発言をする先輩にイライラしながら、早々に教室から追い出した。
油断も隙もないその背中を睨みながら見送れば、今度は廊下の向こうでスカートの短い派手な女子達とイチャつき始めた。
会話は聞こえないけど、何やら楽しそうだ。
全く!風紀委員のくせに風紀を乱して!!
苛立ちが限界を超えたのか、なんだか教室の酸素が薄くなった気がした。胸が苦しくなって、抑えたワイシャツに皺が寄る。
息をゆっくり吸った時、ズボンのポケットに入れていたスマホが鳴った。
メッセージを開けば、あの日以来、随分とご無沙汰になっていたソフレからだった。
『久しぶり。元気にしてる?以前、君から借りていた漫画が手元にあったことを、今更思い出したんだ。ずっと借りたままでごめんね。返したいから、今夜会えないかな?』
先輩と違って、落ち着いた大人の文章。
社会人だと言っていた彼と、そう言えば珍しく漫画の話で盛り上がって何冊か貸していたことを思い出す。
だが、先輩とソフレになった時、他のソフレとは縁を切れと約束させられた。
『間違っても連絡とかすんなよ』
その言葉を思い出して、一瞬返信しようとしていた指先が止まってしまう。
けれど、先輩と女子達の後ろ姿が頭を過れば、そんな約束は隅へと追いやられた。
気がつけば、僕はメッセージを返信して会う約束を取り付けていた。
胸が、チリチリと痛む。
相変わらず、教室の空気は薄かった。
*****
悔しいことに、最近は体の調子が悪い……確実に。よく眠れていないせいだ。
カーテンから差し込んだ朝日に照らされて、今日も眠れなかった瞼を開く。
枕元に置いていたスマホで時間を確認しようするが、それは隣で眠るチビの腕によって拒まれた。背後から回していた俺の腕に、絡みつく細い腕。女子でもないくせに、いい匂いまでするその体は、正直言って狡い。
身じろぎして顔を覗けば、日常の彼とは違う、だらしない寝顔がそこにあった。
安心しきったその顔に、必死に耐えている理性なんてすぐに揺らぐ。
だが燻る本能は押し殺して、すっかり得意になった寝たふりをキメ込み布団に潜る。
すっぽりと抱え込んだ自分より小さい体も、細い腕も、なんだか全部が愛おしく見えて仕方がなかった。
そして、変化はもう一つあった。
「おはよう先輩。早く離れてくれません?」
毎朝聞く、大好きな声。睨まれる時だけ交じり合う、愛しい瞳。寝ている間だけは見つめることを許される、大切な後輩。
近頃は、不眠症の原因となっている彼を見るだけで、俺の心は掻き乱された。
そして時折、遠くを見つめるその横顔を見ては想いをはせる。
(その瞳で、あんなクソ教師なんか見つめてんじゃねぇよ)
熱っぽいその瞳が。きっちりとネクタイを締めた禁欲的な胸元が。チビのくせに色気を醸し出していて酷く焦る。
お前の気持ちに気づきもしない大馬鹿野郎なんか、早く忘れてしまえ。
「おい!ソフレ!購買でパン買ってこいよ。一緒に食べよーぜ」
そう声をかければ、やっと此方に向いた瞳は、嫌そうに歪められる。
「は?なんで僕が買ってこなきゃいけないんですか?朝のジャンケンで負けたのは先輩ですよね?僕、焼きそばパンで」
文句を言いながら見上げるチビは、嫌悪感を隠さない。その顔に、満足する。
わざわざ教室まで迎えに行って『ソフレ』なんて爆弾発言をする俺を、嫌ってたっていいんだ。少しでも、短い時間でも、その瞳に映れるならそれでいい。
睨んでくる顔まで愛してる。
なんて阿保なことを考えていれば、廊下で面倒な女子共に絡まれた。
「なにニヤついてんのー?」
「やらしーこと考えてたんでしょ!」
両脇からの質問攻めに、笑顔で答える。
「いや、好きな子のこと考えてた」
その返事に、絶句する女子共は無視して歩き出す。自分の気持ちを言葉にしたせいか、なんだか胸が軽くなった気がした。
気分も良く、息もゆっくり吸い込める。
柄にもなくパシリなんか引き受けた俺は、焼きそばパンを買うために購買へと急いだ。
俺は、あいつのたった一人のソフレ。
それだけで、十分幸せだ。
だから、その幸せに油断していたのだ。
「たすけて……!せんぱぃっ!」
バイト終わりに、いつも近道として通る寂れたホテル街の片隅で聞こえた震える声。
いつかのオッサンに腕を引かれながら、泣きそうな顔で俺を呼ぶアイツを見た時、目の前が赤く染まった。
*****
油断していたのだ。
まさに、その言葉通りだと思う。
何度か添い寝をした相手で、好きな話題で一緒に盛り上がった相手。何より"社会人"という大人の仮面が、僕を油断させていたのだと思う。
駅前の待ち合わせ場所で、漫画を受け取ってすぐのことだった。
いつも紳士的で優しかった男が、まさか僕の腕を引き摺ってホテルへ連れ込もうとするなんて、思いもしなかったのだ。
「ねぇ、いくら払えばセックスまでしてくれんの?いい加減、添い寝だけじゃ飽きたんだけど。早くホテル行こうぜ」
聞いたことのない低い声色と、見たこともない冷たい眼差しに足の震えが止まらない。
「は?何言ってんの?僕達、ただのソフレじゃん。ヤる訳ないでしょ?」
そう言えば、パン!と乾いた音が狭い路地に鳴り響いた。一拍遅れて届いた頬の痛みに、自分が平手で打たれたのだと気がつく。
「は?は、こっちの台詞なんだけど。どうせあの不良ともヤリまくってんだろ、このビッチが。勿体ぶってんじゃねーよ」
頬の痛みが、ジンジンと熱を持つ。
乱暴に掴まれた手首は、痛んでとうに感覚を失っていた。
胸が、またチリチリと苦しい。
息が、できない。
「や、だ。や、めて……、ぃっ!」
震える声で抵抗すれば、もう一度頬を叩かれた。唇の端が切れたのか、血の味が口に広がる。それでも僕は抵抗した。いる筈もないのに、彼を呼ばずにはいられなかった。
「たすけて……!せんぱぃっ!」
何かが、すごい勢いで駆け抜けた。
あの日見た、鮮やかなピンク色のパーカーが目の前に広がった。
「なんだよお前!どうせこいつのセフレだろ!?少しくらい俺にも貸し……っ」
「黙れよ。ぶっ殺してやる」
聞き慣れている筈の声は、まるで別人のように路地に響く。彼は、あっという間に男を抑え込んだかと思えば、振り上げた拳で容赦なくその顔面を殴った。
ゴリッ!バキッ!
何度も何度も、拳と顔面の骨がぶつかり合う音が鳴る。呆気にとられていた僕は、数発目の音で我に返った。
(早く、先輩を止めなくちゃ……っ)
両手を伸ばし、再度振り上げられた腕に縋りつく。
「せんぱっ!やめて!もういいから!その人が死んじゃう!せんぱい!」
けれど、いくら叫んでも、僕の声は先輩に届かなかった。尚も殴る拳は止まらない。
いつもは温かい筈の手も、優しく抱きしめてくれる筈の腕も、どこか遠い存在にすら思えた。それが、とても恐ろしかった。
恐怖心をなんとか振り払い、縋る腕に力を込めながら精一杯叫んだ。
「先輩っ!!」
その呼びかけに、ようやく先輩は動きを止めた。緩んだ掌から逃げるように、血塗れの男はヨロヨロと走り出して消えていった。
それでも、いつまでも動かない先輩に、不安になってもう一度声をかける。
「……先輩?」
途端に、視界はピンク色に染まった。
大きな腕の中に、抱き込まれる。すっかり馴染んでしまった香りが鼻を擽れば、体の力が抜けて安堵と嬉しさが込み上げた。
けれど次の瞬間、そんな気持ちは先輩の言葉によって握りつぶされる。
突然、長い指先が僕の顎を掴んだかと思えば、無理矢理顔を上に向かされた。
「なぁ、なんでまたこんな所に来てんだよ。ソフレの次は、セフレか?」
お互いの視線が絡み合う。目の前にある瞳は熱を孕んでいるくせに、紡がれる言葉はぞっとする程冷えきっていた。
「だったら俺が抱いてやるよ」
お互いの吐息が重なり合う。
けれど、唇が触れ合う直前に思い出されたのは、昼間見た廊下での光景だった。頭の片隅で、短いスカート達が揺れ動く。
「ぃやだっ、やめろよ!」
気がつけば、僕は先輩を突き飛ばしていた。彼は先程までの勢いが嘘のように、されるがまま後ろによろめき俯いた。
僕を捉えていた指先は、呆気なく離れてゆく。先輩が、どんな表情をしているのかは分からない。込み上げてきた涙に滲んで、目の前の景色は歪んで見えた。
「もう、嫌だ……」
助けてもらったお礼を言いたい筈の唇は、ポツリと違う言葉を紡いでいた。
「なんか……、もう嫌です。パシリとか、ソフレとか、セフレとか………っ」
「…………うん」
唐突な僕の言葉なのに、受け入れるような静かな返事が返ってきた。
それがさらに僕を苛つかせる。
すると、誰にも言えなかった感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「僕が好きなのは、先生です!」
「うん」
「先輩なんて、馬鹿だし!」
「うん」
「先輩なんて、色気ないし!」
「うん」
「先輩を見てると、イライラするし!」
「うん」
「先輩が女子と話してると、胸が痛いし!」
「……うん?」
「先輩といると、よく眠れて!でも、先輩がいないと、眠れなくて。僕は、先生のことが好きなのに。大好きだったのに!」
なのに、なぜだろうか。
滲んだ景色の中で、俯いていた顔がゆっくりと動く気配がした。
でも、僕はもう止まれなかった。
「僕は、先輩がいないと……、空気が、苦しくて。もう……!もう………!!」
目頭が熱くなる。涙と共に零れたのは、
「息も、できないんだ……っ!!!」
自分さえも、知らない恋心だった。
その瞬間、唇にとうとう熱が触れた。
「んっ……、や……はぁ、ぅ、」
柔らかな舌で優しくなぞられ唇を開かされれば、中へと入ってきた熱はどこまでも激しく全てを絡め取ってゆく。
そんな、僕の初めてのキス。
それは、息をするのも忘れる程のキスだった。
「じゃあ、息すんなよ」
火傷しそうな吐息と共に、吐き出された言葉に眩暈がする。
「俺の傍だけで息しろ。俺以外の奴を見んな。俺から勝手に離れんじゃねぇ」
息継ぎも許さないようなキスの合間に、理不尽な要求ばかりが降り注ぐ。反抗しようと睨みつければ、その先にあったのは蕩けるような優しい眼差しだった。
温かくて優しい手が、僕の頬を包み込む。
「お前が、好きだ。ずっと好きだった」
瞳が、言葉が、惜しみない愛を伝えてくれた。もう、それだけで十分だった。
「………きっと、僕も好きでした」
その返事は、彼の唇へとすぐに呑み込まれて、熱い舌の上で蕩けて消えた。
******
「なんで、珈琲?」
ようやくソフレから恋人へと昇格した最初のデート先は、何故か町外れにある喫茶店だった。入り口の梟の横を通り抜けて、少し重いドアを押し開く。すると、軽やかなドアベルが軽快に響いて迎えてくれた。
『珈琲がのみたいんです』
突然そんなことを言った恋人には驚かされたが、好きな子の頼みとあればどこまでもついて行く。見慣れない店内を見回せば、目の前のチビは笑って言った。
「前の恋に、区切りをつけに来たんです」
その答えは全くもって気に入らない。
けれど、きっとチビなりのケジメがあるのだろう……、そう思った。
シンプルなメニューを適当に見ていると、店員のお兄さんが声をかけてきた。
「ご注文はお決まりですか?」
その言葉に、チビは慌ててメニュー表の珈琲の欄と睨めっこしている。そんな姿に笑いそうになりつつ、お兄さんに告げた。
「珈琲を注文したいんスけど、飲んだことないからどれが良いか分からなくて。オススメのとかってあります?」
俺の言葉に、お兄さんは少し考えるように首を傾げた後、ニッコリと笑った。
「畏まりました。では、本日のおすすめをご用意致しましょう。少々お待ちください」
去ってゆくその後ろ姿を見送っていると、ふと視線を感じて向き直る。すると、案の定チビが此方を睨んでいた。
「先輩……、こういうお店慣れてます?女子とデートで来てたりして」
一瞬何を言われたのか理解できずに固まるが、次第に顔が熱くなり思わず手で隠す。
「あ!赤くなってる!絶対そうだ!」
スケベだの、バカだの騒いでるうちに、お兄さんがトレーを持って戻ってきた。
流石に静かになった俺達の前に、珈琲カップが二つ置かれた。
「お待たせしました。イエメン モカマタリ クラシックモカです」
「……イエメン?」
「……モカ?」
二人して長い名前に面食らってしまい聞き返せば、お兄さんは、もう一度ゆっくりと説明してくれた。
「イエメン モカマタリ クラシックモカ。優雅な香りと酸味・コクが楽しめる、フルーティーで甘酸っぱい珈琲ですよ。若々しいお二人にぴったりかと。それでは、ごゆっくりとお過ごし下さい」
そう言って、彼はカウンターの奥へと姿を消した。店内は、俺とチビの二人きりだ。
「いただきます」
チビはそう呟くと、湯気の立つ珈琲を一口啜った。途端に顔を顰めて舌を出す。
「……うわぁ、苦っ」
その様子に耐えきれなくなり、とうとう声をあげて笑ってしまった。
「お前が飲みてぇって言ったんだろ?」
「だって!お、大人の味を、知りたかったから……」
そんな言葉は、尻つぼみに小さくなる。
俺は、机の端に置いてあった珈琲シュガーを掬い、そのカップに数杯入れてやった。ティースプーンでゆっくりとかき混ぜれば、キラキラとした塊は、すぐに琥珀色の中に溶けて消えてゆく。
「ほら、飲んでみろよ」
そう促せば、チビは恐る恐るカップへと唇を落とした。その顔が、自然と綻ぶ。
「……あ、美味しい。かも?」
「うん、美味しいな」
窓から差し込む穏やかな日差しに包まれながら、俺達はゆっくりと珈琲を味わった。
「ねぇ、先輩?」
不意に、チビが囁いた。
「今夜は、寝たふりしないで下さいね」
その珈琲は、可愛いヤキモチを焼く後輩へ抱いた恋心と同じ、甘酸っぱい味だった。
******
「いらっしゃいませ」
軽快なドアベルが音を奏でれば、その数だけ様々な物語が訪れます。
今宵の物語は、これにて閉話と致しましょう。さようなら、愛しいお客様。
次なる物語が、訪れるその日まで。
柔らかな春の日差しが、窓硝子から差し込む穏やかな休日の昼下がり。
長ったらしい名前の小洒落た珈琲なんか頼んじゃって、まだ若そうな青年と何やら楽しそうに談笑なんかしちゃってさ。
それ……。絶対、恋人でしょ?
お揃いの指輪までつけちゃって。わーお、なんて大胆なんでしょう。
『悩み事があればいつでも相談に乗るよ』
低くて優しい声が。柔らかく微笑んでくれた温かい姿が、頭の片隅に弾けて消えた。
僕は、勿論制服なんて着てないけど、バレないようにキャプを深く被り直した。
『成績優秀、内申点も問題なし。まだ先だけど、このままいけば大学推薦も間違いなしだね。この調子で頑張りなさい』
そんな言葉も、目の前のクリームソーダに溶けて消えてゆく。汗をかいたグラスを指でなぞっていると、右肩に温もりが一つ落とされる。それは、大人の掌だった。
「ごめんね。待った?」
さぁ、仕事の始まりだ。
「ううん!全然」
そう言って、席を立ち上がる。
声を掛けてきた男の腕を引いて、さっさと店から飛び出した。
「いいの?クリームソーダ。飲みかけだったんじゃない?」
尋ねてくる男を、笑顔で見上げる。
「いいの。そんなことよりもさ」
そう言いながら、自分よりも太い腕に躊躇いもなく腕を絡ませた。
そして、少し背伸びをして、耳元で囁く。
「早く……、ホテル行こ?」
ねぇ、先生。
大好きな、先生。
僕は、本当は内申点最悪ですよ。
そんな言葉は、誰にも届かない。
*
友達にドタキャンされて、当てもなく適当にブラついていた街の中にお前はいた。
柔らかな春の日差しが降り注ぐ、穏やかな休日の昼下がり。
見慣れないキャプ姿に、小洒落た服なんか着ちゃって、知らねーオッサンと何やら楽しそうに腕なんか組んじゃってさ。
それ……。絶対、恋人だろ?
背伸びまでして、耳元に唇寄せて囁いちゃってさ。わーお、なんて大胆な野郎だぜ。
『先輩!サボってばかりいないで、たまには風紀委員の仕事してくださいよ!』
少し高くて幼い声が。チビのくせに怯まず睨みつけてくる勝気な姿が、頭の片隅に弾けて消えた。
俺は、勿論制服なんて着てないけど、バレないようにパーカーのフードを被って顔を隠した。ついでに、胸に掛けていたサングラスを外して目元に掛ける。
『また制服の違反ですか?風紀委員のくせに、風紀乱さないでくれません!?』
そんな言葉も、目の前を歩く二人の後ろ姿に呑まれて消えてゆく。汗をかいた額を指で拭って、その細い右肩に温もりを一つ落とす。それは、俺の掌だった。
「おい!パシリ!」
さぁ、こっちを向きやがれ。
驚きで見開く瞳に、自然と口角が上がる。
「行くぞ!!」
掛け声と共に、さっさとその腕を引いて走り出す。慌てて声を掛けてきたオッサンの声なんか無視して、街のド真ん中を疾走した。
「先輩!?はっ!?なんで、急に……」
そう尋ねてくるチビを、サングラス越しに笑顔で見下ろす。
「パシリが一丁前に何してんだよ」
そう言って、自分よりも細い腕に躊躇いもなく腕を絡ませた。
そして、だいぶ屈んで、耳元で囁く。
「話……、詳しく聞かせろや?」
なぁ、パシリ。
可哀想な、後輩くん。
俺は、本当はお前が好きなんだよ。
そんな言葉は、誰にも届かない。
**
「は?ソフレだぁ!?」
平和な憩いの場である筈の公園に、不穏な声が響き渡った。
「ちょ、先輩。声デカすぎなんだけど。声帯まで馬鹿なんですか?」
目の前のサングラスを掛けた先輩は、派手なピンク色のパーカーなんて着てるし、いかにも柄が悪い。
「おい、なんだそりゃあ。援交か?」
おまけに、口も態度も悪い。
外見だけは真面目な僕と並べば、百人中百人が僕が不良に絡まれていると思うだろう。
現に、遠巻きに見ていた子供を遊ばせているママさん達が、此方を見てヒソヒソ話を始めていた。
僕は、溜息を一つ吐き出しながら、目の前の馬鹿……もとい先輩が落ち着くように、ベンチの隣に座らせた。
「添い寝フレンドって奴ですよ。僕、不眠症なんで」
その言葉に首を傾げまくっているピュア野郎に、仕方なく説明を続けた。
「ホテルには行きますが、言葉通り『添い寝』をするだけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
「金貰ってんだろ?セックスしねーの?」
「せっ……!する訳ないでしょ馬鹿!」
慌てて否定すれば、先輩は考え込むように腕を組んで空を見上げた。
あっという間に夕暮れが近づいた空は、赤く染まり始めている。
現実逃避のために、遠くで鴉が鳴く声に耳を傾けていれば、突然隣の男は立ち上がる。
そして、その奇行に驚く僕を見下ろして叫んだ。
「じゃあ、俺がお前のソフレになってやるよ!!!」
此奴は……、何を言っている?
夕日に照らされたピンクが眩しい。
サングラスの奥の目は、真っ直ぐだった。
そうして、僕はこの日を境に、全く理解なんてできぬまま『パシリ』から『ソフレ』へと呼び名が変わったのだった。
***
「は?ソフレだぁ!?」
平和な憩いの場である筈の公園に、不穏な声が響き渡った。
「ちょ、先輩。声デカすぎなんだけど。声帯まで馬鹿なんですか?」
目の前の真面目な筈だった後輩くんは、マジで訳分かんねぇ事言ってるくせに、いかにも自分が正しいと俺を叱ってくる。
「おい、なんだそりゃあ。援交か?」
そう言えば、軽蔑の眼差しを向けられた。
外見だけは派手な俺と並べば、百人中百人が俺が此奴に絡んでいるだけと思うだろう。
現に、遠巻きに見ていた子供を遊ばせている母親達が、此方を見てヒソヒソ話を始めやがった。
俺は、溜息を一つ吐かれながら、目の前のパシリ……もとい後輩くんに落ち着くようにベンチの隣に座らされた。
「添い寝フレンドって奴ですよ。僕、不眠症なんで」
その言葉に首を傾げまくっていると、仕方ないとでも言いたげに説明を続けられた。
「ホテルには行きますが、言葉通り『添い寝』をするだけです。それ以上でも、それ以下でもありません」
「金貰ってんだろ?セックスしねーの?」
「せっ……!する訳ないでしょ馬鹿!」
慌てて否定する姿に、頭の理解が限界を超えて空を見上げた。
あっという間に夕暮れが近づいた空は、赤く染まり始めている。
現実逃避のために、遠くで鴉が鳴く声に耳を傾けていれば、俺は突然閃いた。
そして、勢いのままに立ち上がり叫ぶ。
「じゃあ、俺がお前のソフレになってやるよ!!!」
此奴は……、俺が守らねぇと。
夕日に照らされた黒髪が眩しい。
サングラス越しの後輩くんは、ただでさえ大きな目を丸くして小動物のようだった。
そうして、俺はこの日を境に、全く理解なんてさせぬまま『パシリ』から『ソフレ』へと呼び名を変えてやったのだった。
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悔しいことに、最近は体の調子が良い……気がする。よく眠れているおかげだ。
カーテンから差し込んだ朝日に照らされて、未だに重い瞼を開く。
枕元に置いていたスマホで時間を確認しようするが、それは隣で眠る男の腕によって拒まれた。背後から回されるようにして、体に絡み付いた逞しい腕。運動部にも入っていないくせに、鍛えられているその体は、正直言って少し羨ましい。
身じろぎして隣をみれば、日常の彼とは違う、穏やかに瞳を閉じる姿があった。
安心しきったその顔に、なぜだか僕の体温は一度跳ね上がった気がした。
気恥ずかしくなり、俯いて布団に潜る。
すっぽりと抱え込まれてしまう自分の小さい体も、細い腕も、なんだか全部が情けなく見えて虚しくなった。
そして、変化はもう一つあった。
「おはよう。ホームルーム始めるぞ」
毎朝聞く、大好きな声。呼名をする時だけ交じり合う、愛しい瞳。授業の間だけは見つめることを許される、大切な先生。
そんな不眠症の原因となっていた彼を見ても、近頃の僕の心は乱されなくなっていた。
でも時折、教科書の文章をなぞるその唇を見つめては想いをはせる。
(その唇で、あの恋人にキスなんてしたりするのかなぁ)
きっちりとネクタイを締めた禁欲的な胸元が、大人の色気を醸し出していて酷く狡い。
それに比べて………、
「おい!ソフレ!購買でパン買ってこいよ。一緒に食べよーぜ」
乱れたワイシャツに、緩んだネクタイが目の前で揺れ動く。
「は?なんで僕が買ってこなきゃいけないんですか?朝のジャンケンで負けたのは先輩ですよね?僕、焼きそばパンで」
そう言えば、ブーブーと文句を垂れ流す男は、全くもって色気がない。
わざわざ教室まで迎えに来て『ソフレ』なんて爆弾発言をする先輩にイライラしながら、早々に教室から追い出した。
油断も隙もないその背中を睨みながら見送れば、今度は廊下の向こうでスカートの短い派手な女子達とイチャつき始めた。
会話は聞こえないけど、何やら楽しそうだ。
全く!風紀委員のくせに風紀を乱して!!
苛立ちが限界を超えたのか、なんだか教室の酸素が薄くなった気がした。胸が苦しくなって、抑えたワイシャツに皺が寄る。
息をゆっくり吸った時、ズボンのポケットに入れていたスマホが鳴った。
メッセージを開けば、あの日以来、随分とご無沙汰になっていたソフレからだった。
『久しぶり。元気にしてる?以前、君から借りていた漫画が手元にあったことを、今更思い出したんだ。ずっと借りたままでごめんね。返したいから、今夜会えないかな?』
先輩と違って、落ち着いた大人の文章。
社会人だと言っていた彼と、そう言えば珍しく漫画の話で盛り上がって何冊か貸していたことを思い出す。
だが、先輩とソフレになった時、他のソフレとは縁を切れと約束させられた。
『間違っても連絡とかすんなよ』
その言葉を思い出して、一瞬返信しようとしていた指先が止まってしまう。
けれど、先輩と女子達の後ろ姿が頭を過れば、そんな約束は隅へと追いやられた。
気がつけば、僕はメッセージを返信して会う約束を取り付けていた。
胸が、チリチリと痛む。
相変わらず、教室の空気は薄かった。
*****
悔しいことに、最近は体の調子が悪い……確実に。よく眠れていないせいだ。
カーテンから差し込んだ朝日に照らされて、今日も眠れなかった瞼を開く。
枕元に置いていたスマホで時間を確認しようするが、それは隣で眠るチビの腕によって拒まれた。背後から回していた俺の腕に、絡みつく細い腕。女子でもないくせに、いい匂いまでするその体は、正直言って狡い。
身じろぎして顔を覗けば、日常の彼とは違う、だらしない寝顔がそこにあった。
安心しきったその顔に、必死に耐えている理性なんてすぐに揺らぐ。
だが燻る本能は押し殺して、すっかり得意になった寝たふりをキメ込み布団に潜る。
すっぽりと抱え込んだ自分より小さい体も、細い腕も、なんだか全部が愛おしく見えて仕方がなかった。
そして、変化はもう一つあった。
「おはよう先輩。早く離れてくれません?」
毎朝聞く、大好きな声。睨まれる時だけ交じり合う、愛しい瞳。寝ている間だけは見つめることを許される、大切な後輩。
近頃は、不眠症の原因となっている彼を見るだけで、俺の心は掻き乱された。
そして時折、遠くを見つめるその横顔を見ては想いをはせる。
(その瞳で、あんなクソ教師なんか見つめてんじゃねぇよ)
熱っぽいその瞳が。きっちりとネクタイを締めた禁欲的な胸元が。チビのくせに色気を醸し出していて酷く焦る。
お前の気持ちに気づきもしない大馬鹿野郎なんか、早く忘れてしまえ。
「おい!ソフレ!購買でパン買ってこいよ。一緒に食べよーぜ」
そう声をかければ、やっと此方に向いた瞳は、嫌そうに歪められる。
「は?なんで僕が買ってこなきゃいけないんですか?朝のジャンケンで負けたのは先輩ですよね?僕、焼きそばパンで」
文句を言いながら見上げるチビは、嫌悪感を隠さない。その顔に、満足する。
わざわざ教室まで迎えに行って『ソフレ』なんて爆弾発言をする俺を、嫌ってたっていいんだ。少しでも、短い時間でも、その瞳に映れるならそれでいい。
睨んでくる顔まで愛してる。
なんて阿保なことを考えていれば、廊下で面倒な女子共に絡まれた。
「なにニヤついてんのー?」
「やらしーこと考えてたんでしょ!」
両脇からの質問攻めに、笑顔で答える。
「いや、好きな子のこと考えてた」
その返事に、絶句する女子共は無視して歩き出す。自分の気持ちを言葉にしたせいか、なんだか胸が軽くなった気がした。
気分も良く、息もゆっくり吸い込める。
柄にもなくパシリなんか引き受けた俺は、焼きそばパンを買うために購買へと急いだ。
俺は、あいつのたった一人のソフレ。
それだけで、十分幸せだ。
だから、その幸せに油断していたのだ。
「たすけて……!せんぱぃっ!」
バイト終わりに、いつも近道として通る寂れたホテル街の片隅で聞こえた震える声。
いつかのオッサンに腕を引かれながら、泣きそうな顔で俺を呼ぶアイツを見た時、目の前が赤く染まった。
*****
油断していたのだ。
まさに、その言葉通りだと思う。
何度か添い寝をした相手で、好きな話題で一緒に盛り上がった相手。何より"社会人"という大人の仮面が、僕を油断させていたのだと思う。
駅前の待ち合わせ場所で、漫画を受け取ってすぐのことだった。
いつも紳士的で優しかった男が、まさか僕の腕を引き摺ってホテルへ連れ込もうとするなんて、思いもしなかったのだ。
「ねぇ、いくら払えばセックスまでしてくれんの?いい加減、添い寝だけじゃ飽きたんだけど。早くホテル行こうぜ」
聞いたことのない低い声色と、見たこともない冷たい眼差しに足の震えが止まらない。
「は?何言ってんの?僕達、ただのソフレじゃん。ヤる訳ないでしょ?」
そう言えば、パン!と乾いた音が狭い路地に鳴り響いた。一拍遅れて届いた頬の痛みに、自分が平手で打たれたのだと気がつく。
「は?は、こっちの台詞なんだけど。どうせあの不良ともヤリまくってんだろ、このビッチが。勿体ぶってんじゃねーよ」
頬の痛みが、ジンジンと熱を持つ。
乱暴に掴まれた手首は、痛んでとうに感覚を失っていた。
胸が、またチリチリと苦しい。
息が、できない。
「や、だ。や、めて……、ぃっ!」
震える声で抵抗すれば、もう一度頬を叩かれた。唇の端が切れたのか、血の味が口に広がる。それでも僕は抵抗した。いる筈もないのに、彼を呼ばずにはいられなかった。
「たすけて……!せんぱぃっ!」
何かが、すごい勢いで駆け抜けた。
あの日見た、鮮やかなピンク色のパーカーが目の前に広がった。
「なんだよお前!どうせこいつのセフレだろ!?少しくらい俺にも貸し……っ」
「黙れよ。ぶっ殺してやる」
聞き慣れている筈の声は、まるで別人のように路地に響く。彼は、あっという間に男を抑え込んだかと思えば、振り上げた拳で容赦なくその顔面を殴った。
ゴリッ!バキッ!
何度も何度も、拳と顔面の骨がぶつかり合う音が鳴る。呆気にとられていた僕は、数発目の音で我に返った。
(早く、先輩を止めなくちゃ……っ)
両手を伸ばし、再度振り上げられた腕に縋りつく。
「せんぱっ!やめて!もういいから!その人が死んじゃう!せんぱい!」
けれど、いくら叫んでも、僕の声は先輩に届かなかった。尚も殴る拳は止まらない。
いつもは温かい筈の手も、優しく抱きしめてくれる筈の腕も、どこか遠い存在にすら思えた。それが、とても恐ろしかった。
恐怖心をなんとか振り払い、縋る腕に力を込めながら精一杯叫んだ。
「先輩っ!!」
その呼びかけに、ようやく先輩は動きを止めた。緩んだ掌から逃げるように、血塗れの男はヨロヨロと走り出して消えていった。
それでも、いつまでも動かない先輩に、不安になってもう一度声をかける。
「……先輩?」
途端に、視界はピンク色に染まった。
大きな腕の中に、抱き込まれる。すっかり馴染んでしまった香りが鼻を擽れば、体の力が抜けて安堵と嬉しさが込み上げた。
けれど次の瞬間、そんな気持ちは先輩の言葉によって握りつぶされる。
突然、長い指先が僕の顎を掴んだかと思えば、無理矢理顔を上に向かされた。
「なぁ、なんでまたこんな所に来てんだよ。ソフレの次は、セフレか?」
お互いの視線が絡み合う。目の前にある瞳は熱を孕んでいるくせに、紡がれる言葉はぞっとする程冷えきっていた。
「だったら俺が抱いてやるよ」
お互いの吐息が重なり合う。
けれど、唇が触れ合う直前に思い出されたのは、昼間見た廊下での光景だった。頭の片隅で、短いスカート達が揺れ動く。
「ぃやだっ、やめろよ!」
気がつけば、僕は先輩を突き飛ばしていた。彼は先程までの勢いが嘘のように、されるがまま後ろによろめき俯いた。
僕を捉えていた指先は、呆気なく離れてゆく。先輩が、どんな表情をしているのかは分からない。込み上げてきた涙に滲んで、目の前の景色は歪んで見えた。
「もう、嫌だ……」
助けてもらったお礼を言いたい筈の唇は、ポツリと違う言葉を紡いでいた。
「なんか……、もう嫌です。パシリとか、ソフレとか、セフレとか………っ」
「…………うん」
唐突な僕の言葉なのに、受け入れるような静かな返事が返ってきた。
それがさらに僕を苛つかせる。
すると、誰にも言えなかった感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「僕が好きなのは、先生です!」
「うん」
「先輩なんて、馬鹿だし!」
「うん」
「先輩なんて、色気ないし!」
「うん」
「先輩を見てると、イライラするし!」
「うん」
「先輩が女子と話してると、胸が痛いし!」
「……うん?」
「先輩といると、よく眠れて!でも、先輩がいないと、眠れなくて。僕は、先生のことが好きなのに。大好きだったのに!」
なのに、なぜだろうか。
滲んだ景色の中で、俯いていた顔がゆっくりと動く気配がした。
でも、僕はもう止まれなかった。
「僕は、先輩がいないと……、空気が、苦しくて。もう……!もう………!!」
目頭が熱くなる。涙と共に零れたのは、
「息も、できないんだ……っ!!!」
自分さえも、知らない恋心だった。
その瞬間、唇にとうとう熱が触れた。
「んっ……、や……はぁ、ぅ、」
柔らかな舌で優しくなぞられ唇を開かされれば、中へと入ってきた熱はどこまでも激しく全てを絡め取ってゆく。
そんな、僕の初めてのキス。
それは、息をするのも忘れる程のキスだった。
「じゃあ、息すんなよ」
火傷しそうな吐息と共に、吐き出された言葉に眩暈がする。
「俺の傍だけで息しろ。俺以外の奴を見んな。俺から勝手に離れんじゃねぇ」
息継ぎも許さないようなキスの合間に、理不尽な要求ばかりが降り注ぐ。反抗しようと睨みつければ、その先にあったのは蕩けるような優しい眼差しだった。
温かくて優しい手が、僕の頬を包み込む。
「お前が、好きだ。ずっと好きだった」
瞳が、言葉が、惜しみない愛を伝えてくれた。もう、それだけで十分だった。
「………きっと、僕も好きでした」
その返事は、彼の唇へとすぐに呑み込まれて、熱い舌の上で蕩けて消えた。
******
「なんで、珈琲?」
ようやくソフレから恋人へと昇格した最初のデート先は、何故か町外れにある喫茶店だった。入り口の梟の横を通り抜けて、少し重いドアを押し開く。すると、軽やかなドアベルが軽快に響いて迎えてくれた。
『珈琲がのみたいんです』
突然そんなことを言った恋人には驚かされたが、好きな子の頼みとあればどこまでもついて行く。見慣れない店内を見回せば、目の前のチビは笑って言った。
「前の恋に、区切りをつけに来たんです」
その答えは全くもって気に入らない。
けれど、きっとチビなりのケジメがあるのだろう……、そう思った。
シンプルなメニューを適当に見ていると、店員のお兄さんが声をかけてきた。
「ご注文はお決まりですか?」
その言葉に、チビは慌ててメニュー表の珈琲の欄と睨めっこしている。そんな姿に笑いそうになりつつ、お兄さんに告げた。
「珈琲を注文したいんスけど、飲んだことないからどれが良いか分からなくて。オススメのとかってあります?」
俺の言葉に、お兄さんは少し考えるように首を傾げた後、ニッコリと笑った。
「畏まりました。では、本日のおすすめをご用意致しましょう。少々お待ちください」
去ってゆくその後ろ姿を見送っていると、ふと視線を感じて向き直る。すると、案の定チビが此方を睨んでいた。
「先輩……、こういうお店慣れてます?女子とデートで来てたりして」
一瞬何を言われたのか理解できずに固まるが、次第に顔が熱くなり思わず手で隠す。
「あ!赤くなってる!絶対そうだ!」
スケベだの、バカだの騒いでるうちに、お兄さんがトレーを持って戻ってきた。
流石に静かになった俺達の前に、珈琲カップが二つ置かれた。
「お待たせしました。イエメン モカマタリ クラシックモカです」
「……イエメン?」
「……モカ?」
二人して長い名前に面食らってしまい聞き返せば、お兄さんは、もう一度ゆっくりと説明してくれた。
「イエメン モカマタリ クラシックモカ。優雅な香りと酸味・コクが楽しめる、フルーティーで甘酸っぱい珈琲ですよ。若々しいお二人にぴったりかと。それでは、ごゆっくりとお過ごし下さい」
そう言って、彼はカウンターの奥へと姿を消した。店内は、俺とチビの二人きりだ。
「いただきます」
チビはそう呟くと、湯気の立つ珈琲を一口啜った。途端に顔を顰めて舌を出す。
「……うわぁ、苦っ」
その様子に耐えきれなくなり、とうとう声をあげて笑ってしまった。
「お前が飲みてぇって言ったんだろ?」
「だって!お、大人の味を、知りたかったから……」
そんな言葉は、尻つぼみに小さくなる。
俺は、机の端に置いてあった珈琲シュガーを掬い、そのカップに数杯入れてやった。ティースプーンでゆっくりとかき混ぜれば、キラキラとした塊は、すぐに琥珀色の中に溶けて消えてゆく。
「ほら、飲んでみろよ」
そう促せば、チビは恐る恐るカップへと唇を落とした。その顔が、自然と綻ぶ。
「……あ、美味しい。かも?」
「うん、美味しいな」
窓から差し込む穏やかな日差しに包まれながら、俺達はゆっくりと珈琲を味わった。
「ねぇ、先輩?」
不意に、チビが囁いた。
「今夜は、寝たふりしないで下さいね」
その珈琲は、可愛いヤキモチを焼く後輩へ抱いた恋心と同じ、甘酸っぱい味だった。
******
「いらっしゃいませ」
軽快なドアベルが音を奏でれば、その数だけ様々な物語が訪れます。
今宵の物語は、これにて閉話と致しましょう。さようなら、愛しいお客様。
次なる物語が、訪れるその日まで。
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