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Episode1. 嘘と珈琲とあなた【教師×元生徒】
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「別れよう」
珈琲の芳しい香りと共に吐き出されたのは、随分と簡潔な言葉だった。
目の前にいる憧れの人は、たった六ヶ月前までは僕の先生だった人で、たった数秒前
までは僕の恋人だった人だ。
立ち昇る白い湯気の向こうで、長い指が珈琲カップの柄をなぞる。それは、彼が困った時にする癖のようなものだった。
なぜ?
どうして?
僕では満足できませんか?
どこか至らない所がありましたか?
僕は、こんなにも貴方を愛しているのに。
僕は、僕は、僕は…………、
「わかりました」
気がつけば、僕の口はまるでいつも通りに動いていた。ここ半年で、何度も何度も口にしていた言葉。社会人の彼を、困らせないように、嫌われないように、我儘を言わないように……。何度も繰り返した言葉は、こんな時でさえ、すんなりと僕の口から発することができた。
そんな物分かりの良い返事をすれば、彼はカップの柄から指を離した。
どうやら、彼が求める正解の答えを出せたようで安心する。
ならば次は、早々にこの場を立ち去った方が良いだろう。そう思い、目の前のクリームソーダを一気に飲み干した。
鮮やかな緑色はあっという間にストローに吸い込まれ、甘いアイスを纏った氷が、カラン……、と虚しい音を立てた。
「……えっと、半年もお付き合いいただき、ありがとうございました。いい思い出になりました。どうか、お元気で」
汗をかいたグラスを静かに机に戻し、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。相手の顔をみている余裕など、ありはしなかった。
最後の言葉を言おうとすれば、喉がひりついた。それを、ジュースの甘さのせいにして、理由は気づかないフリをする。
「さようなら」
高校の卒業式の日。
体育館裏で告白した時は、なかなか言葉がでなかった。下手くそな手紙を書いて、自分から彼を呼び出したくせに。
『好きです』
そのたった一言が言えなくて、彼も僕自身をも困らせた。けれど、そんな唇は、別れの言葉を紡ぐのは呆気なかった。
あぁ、神様。
声が震えたことだけは、どうか気づかれませんように。
我慢をさせていたのは知っていた。
無理をさせていることにも気づいていた。
何よりも、僕自身が恐れていた。
先生の『可愛い生徒』を壊してしまうことを………。
さようなら、
さようなら、
僕の大好きな人ー……。
*
「別れよう」
珈琲の芳しい香りと共に吐き出したのは、随分と簡潔な言葉だった。
目の前にいる愛おしい子は、大好きなクリームソーダを片手に動きを止めた。
『もう大学生になるのに、クリームソーダが好きなんておかしいですよね?』
初めてこの喫茶店に連れてきた時、羞恥心に頬を熱らせながら言ったこの子。
『でも、喫茶店のクリームソーダは男のロマンです!』
耳まで赤くしながらそう宣言した彼を、誰よりも大切にしようと思ったあの日。
その誓いを破ろうとしているのは己だった。
あの日と変わらない鮮やかな飲み物は、目の前であっという間に消えてゆく。
カラン……、と虚しい音が響いた。
「わかりました」
気がつけば、いつも通りの穏やかな笑顔で返事をくれた。矢継ぎ早に、別れの言葉が紡がれる。まだ幼さの残る柔らかいテノールの声。その声が発する一言一言に、全力で耳を傾けた。この胸の奥で燻る、引き攣るような痛みは誤魔化して。
「さようなら」
別れの言葉は、呆気なかった。
高校の卒業式の日。
体育館裏で告白してくれた時は、なかなか言葉がでなかったその唇。震える文字で書かれた手紙に呼び出されて、期待に胸を膨らませたあの日。
『好きです』
そのたった一言がなかなか言えなくて、けれど、一生懸命に言葉を選ぶ彼はとても眩しかった。しかし、そんな唇は、別れの言葉を紡ぐのはあっという間だった。
「さようなら」
俺も、彼と同じ言葉を紡いだ。
あぁ、神様。
声が震えたことだけは、どうか気づかれませんように。
我慢をさせていたのは知っていた。
無理をさせていることにも気づいていた。
何よりも、俺自身が恐れていた。
この子の『憧れの先生』を壊してしまうことを………。
さようなら、
さようなら、
俺の愛おしい子ー……。
**
その喫茶店を思い出したのは、あの日から一年以上過ぎたある日のことだった。
通っていた短大の卒業の日が近づき、就職と共に実家をでることが決まっていた僕は、とても忙しかった。
そんな引っ越し作業の途中で、突然でてきた梟のイラストが描かれたカード。
それは、彼との思い出の喫茶店のポイントカードだった。裏返してみれば、あの日を最後に、ポイントは満了している。
『珈琲一杯無料サービス』
そんな文字に、心躍らされたのか。
この街を去る前に、未練がましく思い出が欲しかったのか。
気がつけば、僕はあの喫茶店に足を運んでいた。
「いらっしゃいませ」
軽快なドアベルと共に、穏やかな声が出迎えてくれる。その店の主人は、相変わらず年齢不詳の爽やかな青年だった。
「あの、ポイントカードが溜まっていて……。まだ使えますか?」
そう言ってカードを見せれば、主人は和かに微笑み席へと案内してくれる。それは皮肉にも、あの別れた日の席だった。
しばらくして、目の前に珈琲が運ばれた。
「おまたせしました。本日のおすすめの珈琲エチオピア イルガチェフェ ウォッシュドです」
「え、なんですか?」
あまりにも長い名前に思わず聞き返す。
けれど、主人は嫌な顔せずもう一度ゆっくり答えてくれた。
「エチオピア イルガチェフェ ウォッシュド。紅茶のような華やかな香りと優しい甘さなので。珈琲が苦手な方や、新しい門出を迎える方におすすめですよ」
その言葉に、弾かれたように顔をあげる。すると、こちらを覗き込むようにして見つめてくる黒曜石のような瞳と視線が絡んだ。
「……ありがとう、ございます」
お礼の言葉は、温かな湯気に呑み込まれる。すると、テーブルに置いていた掌が、大きな温もりに包まれた。
それは、主人の手だった。
「私でよければ、お話聞きましょうか?」
立ち昇る湯気の間で、秘事のように囁かれた甘さを含む優しい言葉。
「……ぇ、と」
絡み合う視線が、深まった時だった。
「その手を離してもらおうか」
何かが、僕と主人を遮った。
聞き間違える筈のない愛しい声と、懐かしい背中が目の前に飛び込んでくる。
「せ……、先生?」
それは、あの日別れた彼だった。
***
「その手を離してもらおうか」
どの口が言うんだ大馬鹿野郎。
理性は頭の片隅でせせら笑うのに、動かずにはいられなかった。
その喫茶店を思い出したのは、あの日から一年以上過ぎたある日のことだった。
忙しい学年末の仕事に追われ、疲弊しきっていた俺は、気がつけばその喫茶店へと足を運んでいた。
懐かしい、梟の置物がある入り口。
それは、彼との思い出の喫茶店だった。
少し重い扉を押し開けば、軽快なドアベルが迎えてくれた。
「私でよければ、お話聞きましょうか?」
そんな言葉に、心掻き乱されたのか。
少し大人びた愛しい子に、未練がましく縋りたくなったのか。
気がつけば、俺はその子の手を引いて喫茶店から飛び出していた。
「せ、せんせい!まって、……」
力任せに掴んだ腕を必死に振り払おうとするその姿に、全身が沸騰する。
『好きです』
そう紡いだその唇で、あの男にも簡単に愛を囁くのか。
そう思えば、もうこの衝動を止める事などできなかった。
自分のマンションに連れ帰り、勢いよくベッドへと押し倒す。悲鳴をあげたスプリングに気づかないフリをして、噛み付くようなキスをした。
「……ん、はぁ。ゃめて………ん、」
嫌がる言葉なんて聞きたくなくて、無我夢中でその唇を貪った。湿っぽい水音と、酸素を求めて喘ぐ声だけが響き渡る。
いっそ、このまま溺れてしまえ。
唇を離せば、お互いの唇をつなぐ糸が、途切れて切れた。
目の前の愛おしい子の顔なんて見れずに、その体を掻き抱いた。
「………怖かったんだ。君の『憧れの先生』を壊してしまうのが」
溺れたのは、俺の方だった。
シーツの海の中で、あの日言えなかった本音が溢れ出る。
「…………せんせい」
懐かしい声が、懐かしい呼び名を紡ぐ。
顔を上げられずにいると、温かい腕が俺の頭を優しく包んだ。
「僕もですよ、先生」
その言葉に、顔を上げる。
そこには、付き合ってからずっと見ることができなかった、本当の笑顔の彼がいた。
『怖かった』
その通りだった。
俺は、ずっと怖かったんだ。
初めて恋をした君に嫌われるのが。
初めて愛した君を傷つけるのが。
だから、全てのみこんで、鈍感なフリをして、嘘の笑顔を貼り付けさせた。
自分の心に嘘をついて。
自分の欲望を押し殺して。
『別れよう』
本当は、別れたくなんてなかった。
そして、それは今でも変わらない。
それは、あんな嘘をつく程の恋だった。
****
その言葉は、すとんと僕の胸に落ちてきた。ずっと、壊れていた心に染み渡るように響いた彼の言葉。
『怖かった』
その通りだった。
僕も、ずっと怖かったんだ。
初めて恋をした貴方に嫌われるのが。
初めて愛した貴方を傷つけるのが。
だから、全てのみこんで、物分かりが良いふりをして、嘘の笑顔を貼り付けた。
『別れよう』
本当は、別れたくなんてなかったんでしょう?
そして、僕は今になって知ってしまった。
それは、あんな嘘をつかせてしまう程の愛だった。
「僕もですよ、先生」
そう言えば、彼はゆっくりと顔を上げた。
雫が一つ、流れ落ちた。
それは、僕なんかより、ずっと大人だと思っていた貴方が見せた初めての涙だった。
柔らかな朝日が差し込むベッドの中で、大好きだった指先に自分の指を絡めながら話をした。
「珈琲を、のみにいきませんか?」
彼は、一瞬息をつまらせ押し黙る。そんな唇にキスを一つ落として囁いた。
「エチオピア イルガチェフェ ウォッシュド」
「……え、なんだって?」
その名前に顔を顰めた彼に、思わず吹き出してしまった。
「エチオピア イルガチェフェ ウォッシュドですよ。昨日、僕が飲み損ねた珈琲です」
「……あんな喫茶店、もう行かなくていい」
彼は拗ねたようにそう言うと、僕に体を寄せてシーツの海に潜ってしまった。ずっと大人だと思っていた彼は、随分と子供じみた拗ね方をする可愛い人だったらしい。
「紅茶のような華やかな香りと優しい甘さなので、珈琲が苦手な方や、新しい門出を迎える方におすすめだそうですよ」
未だに戻ろうとしないその耳元に、唇を寄せて語りかけた。
「新しい門出を迎える僕達に、ぴったりだと思いません?」
その珈琲は、新しい春の訪れを予感させる香りだった。
*****
「いらっしゃいませ」
軽快なドアベルが音を奏でれば、その数だけ様々な物語が訪れます。
今宵の物語は、これにて閉話と致しましょう。さようなら、愛しいお客様。
次なる物語が、訪れるその日まで。
珈琲の芳しい香りと共に吐き出されたのは、随分と簡潔な言葉だった。
目の前にいる憧れの人は、たった六ヶ月前までは僕の先生だった人で、たった数秒前
までは僕の恋人だった人だ。
立ち昇る白い湯気の向こうで、長い指が珈琲カップの柄をなぞる。それは、彼が困った時にする癖のようなものだった。
なぜ?
どうして?
僕では満足できませんか?
どこか至らない所がありましたか?
僕は、こんなにも貴方を愛しているのに。
僕は、僕は、僕は…………、
「わかりました」
気がつけば、僕の口はまるでいつも通りに動いていた。ここ半年で、何度も何度も口にしていた言葉。社会人の彼を、困らせないように、嫌われないように、我儘を言わないように……。何度も繰り返した言葉は、こんな時でさえ、すんなりと僕の口から発することができた。
そんな物分かりの良い返事をすれば、彼はカップの柄から指を離した。
どうやら、彼が求める正解の答えを出せたようで安心する。
ならば次は、早々にこの場を立ち去った方が良いだろう。そう思い、目の前のクリームソーダを一気に飲み干した。
鮮やかな緑色はあっという間にストローに吸い込まれ、甘いアイスを纏った氷が、カラン……、と虚しい音を立てた。
「……えっと、半年もお付き合いいただき、ありがとうございました。いい思い出になりました。どうか、お元気で」
汗をかいたグラスを静かに机に戻し、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。相手の顔をみている余裕など、ありはしなかった。
最後の言葉を言おうとすれば、喉がひりついた。それを、ジュースの甘さのせいにして、理由は気づかないフリをする。
「さようなら」
高校の卒業式の日。
体育館裏で告白した時は、なかなか言葉がでなかった。下手くそな手紙を書いて、自分から彼を呼び出したくせに。
『好きです』
そのたった一言が言えなくて、彼も僕自身をも困らせた。けれど、そんな唇は、別れの言葉を紡ぐのは呆気なかった。
あぁ、神様。
声が震えたことだけは、どうか気づかれませんように。
我慢をさせていたのは知っていた。
無理をさせていることにも気づいていた。
何よりも、僕自身が恐れていた。
先生の『可愛い生徒』を壊してしまうことを………。
さようなら、
さようなら、
僕の大好きな人ー……。
*
「別れよう」
珈琲の芳しい香りと共に吐き出したのは、随分と簡潔な言葉だった。
目の前にいる愛おしい子は、大好きなクリームソーダを片手に動きを止めた。
『もう大学生になるのに、クリームソーダが好きなんておかしいですよね?』
初めてこの喫茶店に連れてきた時、羞恥心に頬を熱らせながら言ったこの子。
『でも、喫茶店のクリームソーダは男のロマンです!』
耳まで赤くしながらそう宣言した彼を、誰よりも大切にしようと思ったあの日。
その誓いを破ろうとしているのは己だった。
あの日と変わらない鮮やかな飲み物は、目の前であっという間に消えてゆく。
カラン……、と虚しい音が響いた。
「わかりました」
気がつけば、いつも通りの穏やかな笑顔で返事をくれた。矢継ぎ早に、別れの言葉が紡がれる。まだ幼さの残る柔らかいテノールの声。その声が発する一言一言に、全力で耳を傾けた。この胸の奥で燻る、引き攣るような痛みは誤魔化して。
「さようなら」
別れの言葉は、呆気なかった。
高校の卒業式の日。
体育館裏で告白してくれた時は、なかなか言葉がでなかったその唇。震える文字で書かれた手紙に呼び出されて、期待に胸を膨らませたあの日。
『好きです』
そのたった一言がなかなか言えなくて、けれど、一生懸命に言葉を選ぶ彼はとても眩しかった。しかし、そんな唇は、別れの言葉を紡ぐのはあっという間だった。
「さようなら」
俺も、彼と同じ言葉を紡いだ。
あぁ、神様。
声が震えたことだけは、どうか気づかれませんように。
我慢をさせていたのは知っていた。
無理をさせていることにも気づいていた。
何よりも、俺自身が恐れていた。
この子の『憧れの先生』を壊してしまうことを………。
さようなら、
さようなら、
俺の愛おしい子ー……。
**
その喫茶店を思い出したのは、あの日から一年以上過ぎたある日のことだった。
通っていた短大の卒業の日が近づき、就職と共に実家をでることが決まっていた僕は、とても忙しかった。
そんな引っ越し作業の途中で、突然でてきた梟のイラストが描かれたカード。
それは、彼との思い出の喫茶店のポイントカードだった。裏返してみれば、あの日を最後に、ポイントは満了している。
『珈琲一杯無料サービス』
そんな文字に、心躍らされたのか。
この街を去る前に、未練がましく思い出が欲しかったのか。
気がつけば、僕はあの喫茶店に足を運んでいた。
「いらっしゃいませ」
軽快なドアベルと共に、穏やかな声が出迎えてくれる。その店の主人は、相変わらず年齢不詳の爽やかな青年だった。
「あの、ポイントカードが溜まっていて……。まだ使えますか?」
そう言ってカードを見せれば、主人は和かに微笑み席へと案内してくれる。それは皮肉にも、あの別れた日の席だった。
しばらくして、目の前に珈琲が運ばれた。
「おまたせしました。本日のおすすめの珈琲エチオピア イルガチェフェ ウォッシュドです」
「え、なんですか?」
あまりにも長い名前に思わず聞き返す。
けれど、主人は嫌な顔せずもう一度ゆっくり答えてくれた。
「エチオピア イルガチェフェ ウォッシュド。紅茶のような華やかな香りと優しい甘さなので。珈琲が苦手な方や、新しい門出を迎える方におすすめですよ」
その言葉に、弾かれたように顔をあげる。すると、こちらを覗き込むようにして見つめてくる黒曜石のような瞳と視線が絡んだ。
「……ありがとう、ございます」
お礼の言葉は、温かな湯気に呑み込まれる。すると、テーブルに置いていた掌が、大きな温もりに包まれた。
それは、主人の手だった。
「私でよければ、お話聞きましょうか?」
立ち昇る湯気の間で、秘事のように囁かれた甘さを含む優しい言葉。
「……ぇ、と」
絡み合う視線が、深まった時だった。
「その手を離してもらおうか」
何かが、僕と主人を遮った。
聞き間違える筈のない愛しい声と、懐かしい背中が目の前に飛び込んでくる。
「せ……、先生?」
それは、あの日別れた彼だった。
***
「その手を離してもらおうか」
どの口が言うんだ大馬鹿野郎。
理性は頭の片隅でせせら笑うのに、動かずにはいられなかった。
その喫茶店を思い出したのは、あの日から一年以上過ぎたある日のことだった。
忙しい学年末の仕事に追われ、疲弊しきっていた俺は、気がつけばその喫茶店へと足を運んでいた。
懐かしい、梟の置物がある入り口。
それは、彼との思い出の喫茶店だった。
少し重い扉を押し開けば、軽快なドアベルが迎えてくれた。
「私でよければ、お話聞きましょうか?」
そんな言葉に、心掻き乱されたのか。
少し大人びた愛しい子に、未練がましく縋りたくなったのか。
気がつけば、俺はその子の手を引いて喫茶店から飛び出していた。
「せ、せんせい!まって、……」
力任せに掴んだ腕を必死に振り払おうとするその姿に、全身が沸騰する。
『好きです』
そう紡いだその唇で、あの男にも簡単に愛を囁くのか。
そう思えば、もうこの衝動を止める事などできなかった。
自分のマンションに連れ帰り、勢いよくベッドへと押し倒す。悲鳴をあげたスプリングに気づかないフリをして、噛み付くようなキスをした。
「……ん、はぁ。ゃめて………ん、」
嫌がる言葉なんて聞きたくなくて、無我夢中でその唇を貪った。湿っぽい水音と、酸素を求めて喘ぐ声だけが響き渡る。
いっそ、このまま溺れてしまえ。
唇を離せば、お互いの唇をつなぐ糸が、途切れて切れた。
目の前の愛おしい子の顔なんて見れずに、その体を掻き抱いた。
「………怖かったんだ。君の『憧れの先生』を壊してしまうのが」
溺れたのは、俺の方だった。
シーツの海の中で、あの日言えなかった本音が溢れ出る。
「…………せんせい」
懐かしい声が、懐かしい呼び名を紡ぐ。
顔を上げられずにいると、温かい腕が俺の頭を優しく包んだ。
「僕もですよ、先生」
その言葉に、顔を上げる。
そこには、付き合ってからずっと見ることができなかった、本当の笑顔の彼がいた。
『怖かった』
その通りだった。
俺は、ずっと怖かったんだ。
初めて恋をした君に嫌われるのが。
初めて愛した君を傷つけるのが。
だから、全てのみこんで、鈍感なフリをして、嘘の笑顔を貼り付けさせた。
自分の心に嘘をついて。
自分の欲望を押し殺して。
『別れよう』
本当は、別れたくなんてなかった。
そして、それは今でも変わらない。
それは、あんな嘘をつく程の恋だった。
****
その言葉は、すとんと僕の胸に落ちてきた。ずっと、壊れていた心に染み渡るように響いた彼の言葉。
『怖かった』
その通りだった。
僕も、ずっと怖かったんだ。
初めて恋をした貴方に嫌われるのが。
初めて愛した貴方を傷つけるのが。
だから、全てのみこんで、物分かりが良いふりをして、嘘の笑顔を貼り付けた。
『別れよう』
本当は、別れたくなんてなかったんでしょう?
そして、僕は今になって知ってしまった。
それは、あんな嘘をつかせてしまう程の愛だった。
「僕もですよ、先生」
そう言えば、彼はゆっくりと顔を上げた。
雫が一つ、流れ落ちた。
それは、僕なんかより、ずっと大人だと思っていた貴方が見せた初めての涙だった。
柔らかな朝日が差し込むベッドの中で、大好きだった指先に自分の指を絡めながら話をした。
「珈琲を、のみにいきませんか?」
彼は、一瞬息をつまらせ押し黙る。そんな唇にキスを一つ落として囁いた。
「エチオピア イルガチェフェ ウォッシュド」
「……え、なんだって?」
その名前に顔を顰めた彼に、思わず吹き出してしまった。
「エチオピア イルガチェフェ ウォッシュドですよ。昨日、僕が飲み損ねた珈琲です」
「……あんな喫茶店、もう行かなくていい」
彼は拗ねたようにそう言うと、僕に体を寄せてシーツの海に潜ってしまった。ずっと大人だと思っていた彼は、随分と子供じみた拗ね方をする可愛い人だったらしい。
「紅茶のような華やかな香りと優しい甘さなので、珈琲が苦手な方や、新しい門出を迎える方におすすめだそうですよ」
未だに戻ろうとしないその耳元に、唇を寄せて語りかけた。
「新しい門出を迎える僕達に、ぴったりだと思いません?」
その珈琲は、新しい春の訪れを予感させる香りだった。
*****
「いらっしゃいませ」
軽快なドアベルが音を奏でれば、その数だけ様々な物語が訪れます。
今宵の物語は、これにて閉話と致しましょう。さようなら、愛しいお客様。
次なる物語が、訪れるその日まで。
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