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第一章 「始まりの日」

忍び寄る影

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広大な台地を流れる、一つの大きな河川。

その澄み切った水と、そこに含まれた豊富な栄養は、土地を潤し、また人々の生活を支える貴重な資源であった。

その河川はイヴィング川と呼ばれ、ヨトゥンヘイムが有する豊富な資源の一つであり、故にその河川は国や人だけでなく、森林や生物にとっても無くてはならないものだった。

そんなイヴィング川の水を、一人の少年が両手で掬い、掌に蓄えられた僅かな水を口に含む。

少年の乾いた喉に、程好い冷たさと清涼感が行き渡り、それを飲み込んだ少年は小さく溜め息を吐いた。


「ふぅ、生き返ったぁ」


跳ねた茶髪と、少女にも見紛う程の中性的な顔立ちと声色が特徴的な少年は、そのくりっとした大きい瞳でイヴィング川を見詰める。

手に付いた水滴を振り払いながら川を眺める少年の顔付きは無邪気なもので、耳を澄ませながらその川が流れる水音を愉しんでいた。

この場面のみを切り取って見れば、一人の少年が川原で休憩をしているように見えるだろう。

しかし、その少年の背後には、血に塗れたレギオンの軍人達の屍が転がっており、それは少年とまた穏やかな情景とは不釣合いな、まさに天国と地獄ともいえる構図であった。


「とっても美味しい水だよ、フェルドもどう?」


振り返った少年の先には、屍の上に腰掛ける、燃えるように赤い長髪を靡かせ、両耳に無数のピアスを付けた、白いロングコートと黒いアンダーシャツと黒いズボンを履いた青年の姿があった。

フェルドと呼ばれた青年は、眉毛が剃り落とされ、冷酷さを秘めた鋭い目付きをしており、無邪気な印象を与える少年とは対照的に残忍ささえ与える。

フェルドと少年はいずれも血のように赤い眼をしており、二人は互いの視線を重ねていた。


「要らん。俺の渇きを潤すのは、ただ血と闘争のみだ。こんな水如きで、俺の渇きは癒されない」


「相変わらずだねぇ。せっかく来たんだからさ、少しは愉しまないと損だよ?」


それを聞いたフェルドは、にやりと口元を吊り上げて笑う。

その笑みは、冷酷さだけでなく残忍ささえ感じさせた。


「愉しんでいるさ。お前もそうだろう、ジン?」


「そうだなぁ。鬼ごっこしているみたいに、じわじわと追い詰めていくようなスリルがたまらないね」


ジンと呼ばれた少年は、フェルドの放つ威圧をものともしていないようで、くすくすと笑う。

しかし、その笑いは一見すれば子供が見せるそれと何ら遜色ないように見えるが、フェルドが放つ冷酷さと残酷さとはまた違う、子供が持つ無邪気さ故の残酷さと冷酷さを孕んでいた。


「逃げられないように、じっくりと追い詰めて追い詰めて…最後はプツッと潰す感覚っていうのかな?いつも思うけどさ、そういう時って虫を潰すみたいで愉快だよね」


ジンの言葉の中に含まれているように、捕まえた虫を手の中で弄繰り回した後に潰すことを快楽に感じる異様な感覚。

そこに慈悲などは無く、ただ自らの私欲を満たす為の行為に満足するだけの感覚。

それは、異様以外の言葉など不要だった。


「よく分かっているじゃないか。流石は俺の相棒だ」


「まあね。フェルドといると、退屈しないもの。ああ、でも、このレギオンの奴等は暇つぶしにすらならなかったけど」


相棒と呼ばれたことに、一瞬だけ自慢げに鼻を鳴らしたジンだったが、すぐにつまらなそうな眼差しでフェルドの周囲に転がるレギオンの兵士達の屍を一瞥する。

身体を鋭利な何かで斬り付けられたかのような傷を負う者や、四肢を切断された者、臓器を巻き散らかしたまま沈む者、果ては高温で焼かれたのか黒く焦げた者などの死体。

何の感情も抱かないまま、それらの上に座るフェルドと、それをつまらなそうに見るジンの姿は、異様且つ異端であった。


「所詮、ヒュムス如きではこの程度だ。俺達に勝てるわけがない」


「そうかも知れないけどさぁ…。それにしたって、もう少し手応えがあっても良かったんじゃない?こいつら、一応選ばれた軍人サンなんでしょ?」


不服そうな表情を浮かべるジンは、黒いデニムパンツに備え付けた複数のウォレットチェーンをジャラジャラと鳴らしながら、フェルドの近くまで歩み寄る。

途中に転がる焦げ上がった死体を、靴で突っつきながら悪態をつくが、当然その死体から返事はなかった。


「こんな弱っちい奴等が世界最強の武力組織なんて、呆れちゃうよね。世界の秩序と均衡を司るなんて大義名分を掲げてるけど、そんなのもう御題目じゃん」


「まさか、期待していたのか?こんな奴等が俺達と互角に戦えることを」


「世界最強なんて聞いてたから、そりゃちょっとは期待してたよ。でも、ここまで弱いと肩透かしも良いところだよなぁ」


その言葉通り、つまらなそうな溜め息と共に肩を透かしたジンは、ベージュのジャケットのポケットに腕を突っ込む。

それを見ていたフェルドは、くっくっくと喉を低く鳴らして笑った。


「おめでたい奴だな。そんなことじゃ先が思いやられるぜ、相棒」


「仕方ないでしょ。せっかく霊神との契約を済ませたんだから、存分にその力を使ってみたいって思ってたの。それに、こいつらとの戦いが僕にとって初陣だったんだよ?華々しいデビューには違いないだろうけど、こんなんじゃ納得できないよ」


「なぁに…それはレギオンじゃなく、俺達が探す「裏切り者」達に使えば良い。寧ろ、レギオンの連中よりも、その方が使い甲斐があるかもな」


裏切り者。

その言葉を聞いたジンは、ぞくっと身震いする。

それは、楽しみが待ち受けていることを聞いた子供達が見せるものと同じだった。


「フェルドは、そいつらのことを知ってるの?」


「リンクスとイライジャ。俺達の中では有名だ。あまりに有名すぎて、俺にとっては殺したくて堪らない程の存在だ」


その言葉とは裏腹に、フェルドの口元には変わらず不敵な笑みが浮かべられているままだった。

フェルドの胸中に渦巻くのは憎悪か、それとも羨望による嫉妬か。

いずれにせよ、フェルドが抱いている二人に対する感情は、並々ならぬものであった。


「そっかー、ヴィア姉ちゃんが探しに行く程だもんね。強くなきゃ、わざわざ外の世界に出ようとしてまで探そうとはしないもんね」


「ヴィアに俺達の計画が筒抜けだったとは予想外だったが、いずれにせよ好都合であることに変わりはない。いつかは始末しなければならないと思っていた奴等だからな、あいつを連れ戻すついでにもなる」


二人の口振りから察するに、ヴィアのことを知っているようで、そしてヴィアを連れ戻すことも目的の一つであるようだった。

だが、フェルドにとっては、ヴィアを連れ戻すということよりも、リンクスとイライジャと戦うことの方が目的であるようにも感じられた。


「でもさ、何で始末しようと思ってたの?別に、今まで僕達に逆らおうとしてたわけじゃないでしょ?それとも、これから先に動く可能性でもあるっていうこと?」


「その可能性も当然ある。…が、そんな先のことなんざどうでも良い。あくまで可能性で、不確定な要素でしかありえないものなんざ、俺には興味ない」


だったら何で、とジンは聞き返したが、フェルドは変わらず不敵な笑みを浮かべたまま返した。


「ヴィアのものと対を成す「破壊」の力を持ったリンクスと、その右腕となって支えたイライジャ…。その力が俺よりも強いのか否か、見物だと思ってな」


「へえ、フェルドがそこまで興味を持つなんて意外だな。僕も会ってみたくなったよ」


ジンが知っているフェルドは、大したことに興味を示すことはなく、感情の起伏も普段は乏しい。

しかし、そんなフェルドがここまで興味を向け、そして執念のように追い掛ける姿を見れば、ジンもそれに感化されないはずがない。

全く似ていないようで、二人の深層はあまりにも似ていた。


「もっとも、他の連中は破壊の力を求めているようだが…俺にはそんなことはどうでも良い。そんな手柄はくれてやる。何だったら、相棒にくれてやっても良いぞ?」


フェルドは決して馬鹿にしたわけではないが、そう受け取ったジンは不服そうに唇を尖らせた。


「いらないよ、そんなの。僕だって、自分の手柄は自分で掴んでみせるさ。フェルドから与えられた手柄なんて、こっちから願い下げだね」


「生意気なガキだ。だが、それでこそ俺の相棒だ、ジン」


へへっと得意げに笑ったジンに対し、フェルドも小さく笑う。

そして屍に掛けていた腰を持ち上げ、呻き声を上げながらフェルドはゆっくりと立ち上がった。

二人は歩調を合わせて歩き出し、地面を転がる屍には目もくれずその場を後にした。


「この先の…えーっと、セドニアだっけ?そこに、ヴィア姉ちゃんがいる可能性が高いってジブリールが言ってたんだよね?」


「らしいな。まあ、あいつには期待しちゃいないがな」


「そんなことジブリールに聞かれたら、後々面倒だよ?きっと、ヒステリーを起こして騒ぎ出しちゃうぜ」


「どうでも良い。そのまま発狂して死ね」


そんなやり取りをしながら、二人は川原に敷き詰められた砂利道を音を立てて歩き続けた。

二人が目指しているのは、セドニア。

思えば、そこに二人が辿り着いた時が、世界を動かすきっかけの一つになるのだった。


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