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鬼の首34
しおりを挟む自分の居場所を壊した存在。幸せを終わらせた存在。
色々なものを壊してきたもの。
啓一郎の人生を、ずっと狂わせ続けてきたもの。
確かに止めを刺したはずの生き物が、愉快気な顔をしてそこに立っている。
動いてはいけない生物が。
死んでいなければ納得できない生き物が。
(――)
かけられた言葉に返答はこれというように、気が付けば啓一郎は走り出していた。
何を喋ることもない、叫ぶこともない。
激情を冷徹で包んで、目的を果たすためただ真っ直ぐに疾走した。
殺意から生まれた劇的な集中力か、向上したそれらをプラスしてか、まるで止まった時の中で動くような世界が啓一郎に描写される。
粘ついたようにすら思える空間を、最短距離で殺すように動く。今までの全てを、ここで覚えて全てを軽やかに駆使して。
苦しませよう等いった思考はない。ただ、目の前のものを再び終わらせるために、効率よく終わらせることだけを目的に。
それは全てを込めた一撃になるもの。
この一撃ほど、啓一郎の生涯で上回るものはないだろうといえるほどの珠玉の一撃。
にやけた面のまま死ね――と、思う事すらない。動きもしない、その前動作すら見えない、スキル等の発動も感じられない、無防備としか思えぬその顔面を砕くべく拳を振りぬく――
「――!」
ことは、できない。
できなかった。
全てを動員してむしろ当たらぬように無理やり押しとどめようとする始末。どうしようもない勢いは軌道をそらしてその暴力の矛先を地面におろした。そうするしかなかった。
躊躇うべきでないところでは決して躊躇ったことがなかった拳が――どうしても、それに向けて振りぬくことができなかったのだ。
超常的な動きで無理やり軌道をずらしたことで、断裂したりヒビがいったりして痛みに喘ぐ体を無視して――というより、痛みに構う余裕もなく『馬鹿な』とばかりに相手を唖然と見た。ぽかんと間抜けに口すら開けて、ただ唖然と見た。
啓一郎は知らず、後ずさる。そうしようとしたわけではなく、目の前の天秤自体を恐れたというわけでもない。しかし、気付けば後ろに一歩引いてしまっていた。
お互いの距離はそう遠くない。一息で詰められる程度の距離でしかない。しかし、もう少し距離を取ろうといった事さえ頭に浮かべることができない。
思考は赤から白へ。
再びの空白。致命的なはずの空白。
もし、相手がやる気だったなら――容易くその命は奪われただろうことが明白なほどの隙間。
「あっれぇ? どうしたんだい? いい隙だったろ。先手を譲るってぇの? かっこいいだろ。やってみたかったんだよなぁ。せっかくやったんだからちゃんといかせよ、なぁ、ダメ人間なのかな?
それとも、人の殴り方忘れちゃった? お手本いる? ……ほら、こうするんだよ」
それを有効利用して殺そうとするどころか攻撃一つすることもなく、嘲るような声がかかるばかり。
天秤は、お手本といいながら啓一郎を殴るではなく、己自身を――正確に言うのであればいつの間にかにその左胸のあたりに生やしていた、知っている気配が漂う、ただ真似ただけではないとなぜか理解できてしまう存在感を持った殴ることができなかった原因を――よく知っている顔を、殴りつけた。
「はは、間ー違ったや。自分殴っちゃったぁ――お前よりは上手にできたけどなぁ! ねぇ?」
ショートアッパー気味に顎から入った拳に、はじけるように顔が跳ね上がる。その軌道を知らずに目が追う。追ってしまう。そうして結果的に白いもの、赤いものが飛ぶ様を、呆然したまま見ていた。
人間の顔をしたそれは、しかし耐久力は生えた元である鬼に多少よっているのか、苦痛の顔をしながらも鬼の力でやられたのにもかかわらず、その顔が威力通り落としたトマトのようにはじけ飛ぶといった状況を引き起こしはしなかったようだ。
それが幸福なのか、不幸なのかはわからない。悲鳴が聞こえなかった事さえ、良い事だったのか、悪い事だったのか。
「何故だ! なんだそれは! なん、なんでだ! あぁ!?」
ようやくといっていいのか、啓一郎がした反応はといえば、震える体を止めることもできないまま、ただ叫ぶことだった。
きっとそれは、誰にという訳ではなかっただろう。
ただ、いつしか叫んだだろう言葉を、いった所で意味がないと知っている言葉を、啓一郎は今一度、外に漏らさずにいられなかった。
言わずにいられなかった。ずっとずっときつく締めていたはずの蓋が、容易く吹き飛んでしまった。緩むことはたびたびあっても、全部なくなることはなかった蓋が。
冷静でいられはしなかった。見慣れて手慣れたしまった殺意等とは違う、どうしようもなく操作できない感情の津波にいとも簡単に飲み込まれてしまっている。もがいて、もがいて、抜け出したつもりでいたものが再び絡みついている。
とどめる蓋がない。掴む縄もない。ただ、翻弄されるばかり。
それも、仕方のない事であった。
そこにあるのは、啓一郎が、どうしたってもう直接は見ることができないはずの己の家族だったのだから。
「へ、はは―――ははははははははは! なぁにそのお、か、お! なんだよぉ、感動の再開だろ? ありがとうをいえよ。感謝をしろ。
『あわせてくれて、どうもありがとう!』
っていうのが当然の事だろぉ? はい言ってどうぞ! 礼儀でしょ!」
あわせてくれてうんぬんは裏声を使うなど細かい芸を挟みつつ、その剛体を気持ち悪くくねくねとしながら喋り、そしてげらげらと笑う。その顔が見れて最高ですと思っていることが尋ねなくてもわかるくらいに楽しそうに。
怖気が走る悪意の顔で笑う天秤と、その天秤から生えている、喋れないのか、そうされているのか啓一郎の方を向きながらもだらだらと口から目から鼻からと血を流している――死んでしまったはずの妻の顔。
もう写真で見るしかなかった、妻の顔。
一度も忘れることなどなかった、家族の。
啓一郎の心は、乱れに乱れ切っている。どうして平静になることができるだろう。
一言で言い表せない様々な気持ちやゴミが絡みついた状態。中心に置いたそれがぐらぐらと揺れている。
もはや、憎悪だけで保つことも、殺意だけに染めることもできない。ぐちゃぐちゃでマーブル模様の心。
会えるはずがないものと実際会うとはこういうことだ。ただでさえ、唐突にあってしまえばきっと心の整理などつけようもない。
それも、仇と融合しているように見える状況など、誰が想像できるものか。己の大事な人が、仇から生える状況など想像できる方が、想定している方がおかしい。
何を言っていいのか、いうべきかもわからない。
恨み殺意を実行すればいいのか?
声をかけるべきか?
罠か?
そもそも本人か?
いいや、間違うはずがないだろう。本人だ。と、天秤を見た時のように不思議な確信があった。
けど、なら、本人だとしたらなんで?
本人だとしても、いったいどうすればいいと?
あれは仇で、しかし家族が繋がっているようにいて――攻撃できると?
融合するように、混ざり合うように生えている相反する存在を目の前に。
ぐるぐる回る。思考が回る。
大体、ただ色んなものにけりをつけるために、暴力だけをもってきた男に、いったい何ができるというのだ?
それだけを杖にして、ぎりぎり保って歩いてきただけの男に。
何もできなかったから、こうなっていて。
色んなものを切り捨てて、そうしなければ生きていけなくて。
救えなかった、守れなかった、誇れる人間にもなれはしない。
そんな何より守りたかった、誇りに思われたかったような家族を前にして。
何ができるだろうといえるだろうか、と。
啓一郎は思考の感情の渦にただ飲まれ続けた。
「あぁ! そうだったそうだった、ごめんごめぇん。家族の再会ってーいうには、まだたりなかったね。足りなかったねぇ……ほぅら、お父さんだよぉ-良かったねぇー明日はホームランだ!
何がホームランだうるせぇ! お前が大暴投だクソが!」
追加で逆側にこれまた見覚えのある子供の顔が生えて、それがまた殴り飛ばされた。
「――――」
それを見せられて。言葉どころか音にもなりもしない何かが啓一郎の口から洩れた。
それが止めといえばそうであったろう。
今度こそ、どうしようもなく、ただ力が抜けてしまって――いつの間にか地面に膝をついていた。記憶、現状、現実、状況に耐えきれない。
感情のオーバーフローでフリーズを起こしている、とでもいえばいいだろうか。肉体自体は、こんなにも異様に強く、今まで以上に人を超えるものになったのに。なっているのに。
力を入れねばとどこかで思っているのに、全くいう事を聞いてくれなかった。糸が切れでもしてしまったかのように。
戦いを楽しむように思い込めようが、ここに来るまでどんな存在だろうが叩きのめして殺せていようが。
そんなものは意味などないというように。
ただそれを見て、天秤はげらげらと笑うばかりだった。
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