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芙蓉の華が散る間際
しおりを挟む戦も争い事も無く平穏な時代が続いたといわれる平安時代。
公家文化が栄え、貴族のみならず町の民にまで公家雅びとその華やかな文化が流れておりました。
京の都の六条という町に、小さな宮中御用達の呉服問屋があります。
御所には、「縫殿寮」という庁舎があり、そこでは帝、女御、更衣、女官等に至るまで、衣服の調達が主な職務でございます。更には縫殿寮の別所である、糸所という所舎では糸が紡がれております。そこから精錬された糸で生地が織られ、その後縫部らが衣服を仕立てるのでございますが、時折、急な儀式で袿や直衣を要する場合がございます。その際、すでに生地の在庫を持ち合わせている町の呉服問屋に伝令を発し、御所へ生地の献上を依頼する事もしばしばでした。
本来ならば、宮中にとりまして呉服問屋は無用の存在です。が、縫司を勤めていた初代店主が、急な儀式の折に実家から西陣織を献上したのを境に、もしもの時の善後策として、宮中御用達へと昇格したと言われており、それから十数年経って現在も尚、宮中のみならず、公卿の御用達の呉問屋へと成長して行ったのでございました。
その呉服問屋の名は、店主の好きな華にちなみ、「ふよう」と名乗りました。
当時日本では咲いている所は少なく、大陸へ赴いた遣唐使と共に縫司として、初代店主が宮廷で見かけた芙蓉の華を一目惚れて自身の号としたのです。
清楚かつ高潔な趣で、短命な一日花であることが、店主の関心を誘ったのでございます。
平安の世では、庶民の着物は現在の着物の元といわれる ”小袖” を着用しておりました。女性は帯の辺りに、襞のある巻きスカート状の褶という物を腰に巻き付けました。それは、働きやすい様に工夫され、着物の汚れ防止の効果もあり、大変重宝されたのです。
男女問わず、指貫袴の様に、足首が紐で指し貫ける様にする袴を履いている者もおりました。主に男性が力仕事をする際、袴を着用する事が多かったからなのです。
呉服問屋「ふよう」の店主にして本作の主人公である有子様は、庶民に出回らない、現在で言う「上っ張り」の様な独特な上衣を小袖の上に身に纏っておりました。
広袖で、麻の地で出来ていて、袖も指し貫けるように紐が通されている為とても作業がしやすく、手伝いをしてくれているお嬢様方も着用なさいました。
有子様には4人のお子様がおります。
上から藤子さま、葉子さま、呉竹さま、ゆう子さま。
長女の藤子さまはご妹弟の中でも働き者で容姿端麗。有子様の右腕として、お客様の依頼を丁寧に請け負っておりました。
次女の葉子さまは未だ依頼の請負は出来ませんでしたが、持ち前の明るさでお客様の案内やお話相手などをされており、笑顔が大変好評でございました。
長男の呉竹さまはまだ幼く、店に立つ事は出来ない為、店の奥の居間にて読み書きの修練に励んでおりました。未来の店主としての教育のため、いずれ呉服の知識を教え込もうと、母君であられる有子様は考えておいでです。
末のゆう子さまは一年前に生まれたばかりで呉竹さまと同じく奥で乳母によって養育されておりました。まだ幼き赤子ながら活発で室内を這いずり回り幾度か呉竹さまの修練の妨げをしておりました。
店主の有子様はお客様からの信頼は厚く、このお方の呉服の知識は、縫殿寮に執務する頭よりも優れていると言われている程でございます。
「綾小路さん、此度はこのお柄がよろしいかと思いますよ」
有職文様の見本を指差しながら、御所に参内する為に唐衣の柄を選んでいるお客様、綾小路家の奥方様の相談に提案をしておいででした。
「されど、向蝶はちと華やか過ぎではあらしゃいませんこと?もう私はおばあさんと呼ばれるような歳ですえ。なんなら、立湧がよろしおすわ」
「そんなのあきません、綾小路さん。歳は関係ありません。立湧は花見の宴の時には地味すぎますよって。綾小路さんのご主人さんは権中納言さんであらしゃいましょう?大事な役目を担う方がご主人さんならその奥方さんは雅びなお姿であらしゃるのが、綾小路家にとっても家柄の御名が栄えるというものかと存じますえ」
しばらく考えてから綾小路家の奥方様は答えられました、
「分かりましたわ。では、向蝶でお願いします。ただ、色は渋めなお色でお願いしますね。派手過ぎは何かと夫に叱られますから」
「承知致しました」
”生地調達帳” という分厚い冊子を引き出しから取り出し、それに記入する間、綾小路家の奥方様は感心したように世間話に花を咲かせ、お茶をひとすすりなさいました、
「さすがは有子さんね。あなたの言葉には負けるわ」
調達帳を取り出したと同時に、色見本帳も一緒に差し出しながら、有子様は感謝の言葉を伝えました、
「痛み入ります。では、お色は綾小路さんのお好きな藍色系統に致しましょうか」
「あら、嬉しい!」
両手を叩きながら大いなる喜びに打ち震えた後、奥方様は店をお出になられました。
有子様はこの様に言葉巧みに、お高く止まっておいでの公家の方々に弁論を向けるのが得意なのでございました。
─────────────────────────────
その夜、店仕舞いを終えた有子様は本日の売り上げを計算し終え、明日の支度をなさっておいででした。明日というのは、御所へ参内し、縫殿寮へ西陣から取り寄せた様々な色・柄の生地を献上する為でございました。
ご依頼書と生地とを照らし合わせていると、長女の藤子さまが奥の居間からひょっこり顔を出し、有子様に声を掛けられました、
「おたあさん?」
顔をこちらに向けずに有子様は答えられました、
「ん?なんですか藤子」
「夕餉が冷めてしまいますえ?」
乳母は住み込みではいらっしゃらない為、食事の支度はすべて忙しい母君の代わりに藤子さまが務めておりました。
「これが終わったら参る故、お先にお上がんなされ」
お母様の返答を聞き、奥の住いへ戻ろうとなさいましたが、徐に踵を返し有子様に向き直ったのです、
「おたあさん? 」
「なんです?」
差異があってはならない為、有子様は入念に御所からのご依頼書と生地を確かめておいででした。
「明日、御所へ参内されるのですよね?」
「そうですよ?」
「私も共に付き従ってもよろしいでしょうか?」
思いがけないお嬢様の言葉に驚き、初めて顔を藤子さまに向けられた有子様でした、
「何故?」
「私はもう立派な歳です。店の経営面も接客も、呉服の知識もおたあさんと同じ位置にいると思っております。あとは、御所へ参内する作法を教えて下されば、おたあさんのお役に立てるかと存じます」
時に厳しくお嬢様に店の事を教えて行き、覚えさせた事が功を奏し、著しく成長した藤子さまに、感心の念をお持ちになられました。ですが、御所へ参内する役割は、代々、店主が担っております。藤子さまを次期店主として正式に決まったわけではありませんでしたので、有子様は答えて差し上げました、
「藤子、それはならぬ。これは代々、店主が勤める役割やよって。そなたのする事は、店の留守を守る事。明日の昼には帰って参る故、おとなしく待っていてくれまいか」
納得は出来兼ねませんでしたが、分かりましたと物わかりの良い言葉を仰られ、藤子さまは奥へと戻って行かれました。
少し冷たくし過ぎたかと心配された有子様でしたが、これも娘にとって大事な教育であると、ご自身を安心させたのでございました。
翌朝 ───────
御所へ参内する日。
有子様はご自身で仕立てた袿と緋袴という、参内する為の正装に身を包まれ、準備が整われました。あとは御所からの迎えの牛車を待つのみでございました。
朝食を取り終えた後、有子様はご子息とお嬢様方からのお見送りを受けられておいででした。
「おたあさん、お気をつけていってらっしゃいませ」
藤子さまは、恭しく頭を下げられながら仰いました。
「おたあさま、お早うお帰りやす」
葉子さまは、すやすやと胸の中で眠るゆう子さまを抱きかかえられながら仰いました。
「おたあさま、いってらっしゃいませ」
寝ぼけ眼を擦りながら、呉竹さまが消え入るような声でそう言われました。
「はい、行って参ります。店開きの事は頼んだぞ。ああ、そうそう、三条家の奥方様がお袿用の西陣織を取りに朝一番に参られるからよろしゅう頼むぞ? 藤子、葉子」
二人のお嬢様方に、ご自分が留守の間にして欲しい旨を伝えた後、はい、と藤子さまと葉子さまははっきりと返事をなさいました。
するとその後、店の外から声が上がりました、
「芙蓉殿、縫殿寮よりお迎えに上がりましてございます」
有子様は御所から店の名を取って「芙蓉殿」と呼ばれておりました。
「はい、今参ります」
お嬢様方とご子息に笑みを見せ、有子様は店をお出になられました。
御所からの迎えは牛車でございました。
店の前に停まっていた牛車は、近隣の人々の目を釘付けにさせました。蒔絵に黒漆塗りの豪華な装飾で、引く牛は2頭でございました。
店に来るお客様も牛車で来店する事が多かったのですが、御所からの牛車はそれ以上に立派な物でございました。
豪華な造りの屋形に乗り込み、風呂敷に包んだ生地を傍らに置き牛車は出発しました。
有子様は気付いてはおりませんでしたが後ろには、藤子さま達が店の外から出て、見送ってくれていました。
藤子さまの心は昨夜から胸騒ぎが止まらなかったのでした。
その胸騒ぎが現実の物となる事を、そしてこれが長いお別れになる事を有子様も藤子さま達も知る由も無かったのでした。
都・道中 ───────
六条町は御所からはほど遠い為、先代店主の時代から、縫殿寮より、献上の申し出がある度に迎えが来てくれる事になっていました。
呉服問屋「ふよう」は公卿達から大変評判が良く、牛車に乗っていると時折お得意様に出会う事も多く、主人として挨拶をするのが、有子様の参内する道筋での日課でございました。
長い道のりの末、有子様は御所の右方面から、郁芳門、待賢門、陽明門を通り過ぎ、上東門から縫殿寮へと入られました。
御所内には、帝が御座す内裏の他に、官人やその他大臣、中将達が執務をこなす様々な庁舎がございました。これを、全体を含め、「大内裏」、または「平安宮」と称します。
その中の内裏の北側に位置するのが、縫殿寮でした。そこでは帝、女御、更衣、女官に衣服の調達・縫製をし、または後宮女官の人事を主な職掌としておりました。
縫殿寮 ───────
「これはこれは芙蓉殿」
「縫司さん、ご苦労様でございます」
平安の世は、お互いの名を明かさないのが慣わしでした。店に訪れる公卿達からも時に御所での名前で呼ばれる事もしばしばでございました。
「いやいや、こちらこそでございますえ。わざわざ六条からいらっしって」
「いいえ。ご注文の御品々をお持ち致しました。御上や宮様にお気に召して頂けるとよろしいのですが」
「あ……ま、真にお持ちになられたのですね」
「何か、不手際でも?」
有子様は不安に感じておりました。何故ならば縫司の反応が挙動不審だったのです。
このお方とは、有子様が店主に就任してからの長年の付き合いで、時々店に来てくれる事もありました。それ故、この様な表情を見るのは初めてだったのです。
「あ、い、いいえ!なんでもございませんえ。確かに受け取りました」
風呂敷を縫司に渡した後、有子様は言いました、
「では、私は店に戻らなくてはならないので、これにて失礼仕ります」
一礼して、庁舎の外に出ようとすると、突然、縫司に呼び止められました。
「芙蓉殿!!」
「はい?」
振り返ると、縫司は慌てた表情でどぎまぎとしながら言葉を続けました、
「ちょっと、ゆっくりされてはいかがでしょう?遠いところからおいででありました故、少しお茶でも。」
この様な事を言われるのは初めてでした。縫殿寮は後宮内のみならず、儀式・行事に際し、装束の準備もしなければならなかった為、とても忙しい庁舎なのです。この縫司もいつも髪を耳に掛けていたりと、忙しそうにしていたのですが、そういえば今日は妙に綺麗な身だしなみをしていた事に有子様は気付いたのでございます。
しかし、これから有子様も勤めがある故に、丁重にお断りなさいました、
「午後からは九条家の奥方様から注文の依頼で来店される為、急ぎ戻らねばなりませぬ。何卒ご容赦くださいませ」
「そ、そうですか……」
縫司の表情はなぜか恐れを帯びた面相になっておりましたが、有子様は再び一礼をし、庁舎を後にされました。
外に出ると止まっていた牛車が何処にも見当たりませんでした。御所の警護をする検非違使に言われて、大内裏の外に移されたのだろうかと有子様は考えられ、上東門に向かって歩を進めようとしますと、突然目の前が真っ暗になり、言葉を発する事が出来ませんでした。抵抗をするにも押さえているのが男性なのであろうか、どうにもこうにも身動きが取れなかったのです。
慌てず騒がず外に耳を傾けると、声がして来ました。
「あまり、乱暴はなさらないでくださいまし」
縫司の慌てた声でした。しかし、それを遮る様に、深く、威厳のある声がそのすぐ後に聞こえて来たのです。
「お黙りあれ!縫司さん。これは御上よりのご命令である。その方はすぐに持ち場に戻り、この事は誰にも話さず、墓場まで持って帰る様に!!」
御上のご命令?有子様は訳も分からず、口を塞がれた布からの香りに頭がそれ以上回らなくなり、気を失ってしまいました。
その瞬間、走馬灯の様に、店に残して来たお嬢様方と共に過ごした日々を思い出されていました。今すぐにでも、この手に、ご子息とお嬢様方の温もりを感じたい、そういう思いで胸が締め付けられた有子様でございました。
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