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第九章 炎上
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和睦が成立してすぐ、大坂城の堀の埋め立て工事が始まった。
工事は、ふた月以上を要するとされていたが、たったのひと月足らずで終了した。二ノ丸・三ノ丸は門と櫓も含め、残らず破壊され、外堀は完全に埋め立てられた。さすがに早すぎるその工事に淀殿は衝撃を受けた。
規模の広さもあった為、埋め立ての作業は徳川の家臣団も協力する事になった。豊臣方が二ノ丸、徳川方は三ノ丸と外堀、と分担して作業する話だったが、徳川方の作業は迅速で、二ノ丸の破壊と堀の埋め立てをも勝手に断行してしまったのだ。
大坂城・大広間 ───────
「話が違うでは無いか! 何故、徳川方が二ノ丸にまで手を伸ばす! 二ノ丸を破壊するは、我らに一任されておったはずじゃ!」
淀殿は顔を赤くして大野治長に厳しく怒声を浴びせた。治長は、冷静に抗弁した、
「徳川の者が言うには、『豊臣が手間取っているのは見てはおけぬ』と……。約束が違うとこちらが訴えれば、『我らも一刻も早く引き上げたい。長引くは迷惑』だと逆にねじ込まれてしまいまして…」
「これが、徳川のやり方なのか……」
秀頼が呟くと淀殿は更に激昂して治長を責め立てた、
「おぬしらが、さように弱々しい態度を示す故、徳川方も付け上がるのじゃ! それが分からぬのか!」
「母上、落ち着かれませ! 治長とて、自分の子を人質として徳川に差し出したのです。治長の気持ちも察してあげてくだされ」
大野治長は、和睦が成立してからしばらく、度重なる重責に耐え兼ねてか、重い気鬱の病に罹り、しばらく寝込む日々が続いていた。しかし取り決められていた『家臣を人質として差し出す』という和睦の条件は絶対だった為、治長は泣く泣く、自身の次男を代わりに差し出した。共に戦い続けた戦友でもある大切な我が子を差し出した治長にとって、切腹するに等しい苦しみだった。
秀頼が治長を庇って、淀殿の怒りを落ち着かせると、淀殿はばつが悪そうに踵を返して大広間から出て行った。
「すまぬのう」
秀頼が一言詫びを入れると、治長は恐縮し頭を下げた。秀頼は続けて、かねてより気になっていた事を訊ねた、
「牢人衆は如何しておる?」
和睦の条件の中で、『牢人衆の処分は不問』と提示されていた。しかし、処罰は下さないと言うだけで、城に居続けるという事を許している訳ではない。戦は終わっているのだから、早々に退却させる様にと、徳川方はその後言って来ている。
「はっ……それが、増える一方にて」
「そうなのか?」
「豊臣の勝ち戦の事を聞き付けた、各国に残る牢人衆が続々と登城し、豊臣の軍として徳川を打ち倒したいと。それはそれは血気盛んで、八万であった数は十万に再び戻りました」
「さすれば、徳川は忽ちそれを聞き付け、再び戦を仕掛けて来よう。この城を丸裸にし、責めるのは容易い。十万の兵に戻ったと言えども此度ばかりは難しいかもしれぬな」
「さようですな。しかしながら、【五人衆】の面々が、堀が無いのなら守る手段を設けようと、新たな策を講じ、二ノ丸、三ノ丸辺りに、敵の侵入を防ぐ柵を築く予定でございます」
【五人衆】の一人であり、豊臣家にとっての期待の星・真田幸村が築いていた南の出城【真田丸】は、二ノ丸・三ノ丸と同時に破壊されてしまった。それは十二月十八日に取り交わされた和睦以外の話し合いで取り決められた内容だった。
惣構えや外堀、二ノ丸・三ノ丸が崩壊して行くのを牢人達は悔しい思いで見つめており、どうしても納得出来ない気持ちに苛まれ、更なる執念を燃やして行った。
「とにかく、余り目立つ行動はせぬよう、幸村に申し伝えよ。所司代に目を付けられては家康に付け込まれる」
所司代とは【京都所司代】の事。京の治安維持の為に織田信長が最初に設置していた行政機関だ。太閤殿下秀吉の頃は大坂に政の場を設けてある為、必要無くなり、廃止された。が、世は徳川の世。家康は京都に再び所司代を置き、都に不審な動きがあればすぐに家康に知らせが届く様に手筈が整えられている。
【大坂冬の陣】が終わってすぐ、京都所司代・板倉勝重から、厳しく監視されるようになった。秀頼は内心、気が気で無かった。牢人衆が不穏な動きを見せれば、それは京都所司代の知る所となり、すぐに家康の耳にも入る。
治長は秀頼の命を受け、承知の旨を示した。
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大坂城・千姫の御殿 ───────
奥御殿が先の徳川方による砲撃によって崩壊し、工事を行っている間は、表御殿が女たちの住まいとして与えられていた。
淀殿や側室たち他、侍女らは、むさ苦しい表向に住まう事は反対の声が多かった。しかし、千姫だけは違った。秀頼と気兼ねなく会える故だ。
奥御殿の工事が終わっても、千姫は秀頼の御殿の隣に居を構え、新たな御殿とした。
戦が終わり、堀の埋め立て騒動の憂さを晴らす様に、千姫は秀頼と側室の間の子・千代姫を迎えて貝合わせに興じていた。
『こうして、ほうら? 合うたぞ?』
千姫は微笑みながら、二つ交わった二枚貝を見せた。今年六歳になった千代姫は拍手をしながら喜んでいた、
「わあぁ!! すごいです! 義母上さま!」
『さ、千代もやってみよ』
なさぬ仲とはいえ、束の間の親子の団欒を楽しんでいた。千代姫は千姫を「義母」と慕い、共に寝起きをした。
刑部卿局とお千代保は二人を見守りながら、久々のこの緩やかな時を過ごしていた。
千代姫は、何度も貝を取って合わす、を繰り返したが、なかなか合わず泣き出しそうになりながら根気よく探し続けた。千代姫が悶々としていると、そこへ秀頼が訪れた。
「お? 楽しそうじゃのう?」
優しく、慈愛に溢れる夫の声を聞き、千姫は軽く頭を下げた。秀頼が近くに座ると、千姫がそっと囁きながら応えた、
『貝合わせにございます。姫がやりたい、やりたいと申されて』
千姫が言うと、秀頼は「そうか」と言って、千代姫を愛おしそうに見つめた。千代姫は父の御成りに気付かず、およそ三百枚とある貝の組み合わせに集中していた。とうとう念願の一つが合うと、千代姫は飛び上がりながら喜んでいた。
「あ、合いました! 合いましたよ、義母上さま……あ、父上さま!」
『よろしゅうございましたね、千代? 先ほどから、父上様がお成りだったのですよ?』
「も、申し訳ございませぬ、父上さま。わたくし、気付かず……」
千代姫がすぐに両手を付いて頭を下げた。
「気にするでない。貝が合って良かったのう」
秀頼が褒めると、千代姫は顔を上げて照れ笑いをした。
千代姫が再び貝合わせに集中すると、秀頼は、辺りに国松がいない事に気付き、千姫に訊ねた、
「国松はどうしておるのじゃ?」
『誘ったのですが、貝合わせは女子の遊びじゃ、と申して、お伊茶様のお部屋で書物を読んでおられます』
「そうか。あやつ、千の誘いを断りおって」
秀頼の表情が変わるのを見た千姫は、今にも立ち上がって国松を叱り付けに行くのではないかと思い、袖を掴んで止めた、
『秀頼様? 国松を叱らないであげてくださりませね? あの子は、豊臣のお世継ぎとして必死なのでございます』
千姫は国松を庇った。しかし秀頼は決して怒っている訳では無かった。秀頼は、掴まれた袖を見て、愛らしさを感じ、微笑みながら千姫をじっと見つめた。千姫は不思議に思って訊ねた、
『如何なさいましたか?』
「いや、そちの顔付きが、母の様な顔付きになったと思うてのう」
ふと零れ出た言葉に、秀頼は自分でも驚いていたが、本音に変わりはなかった。千姫のまなざしや言動が、昔の淀殿と重なったのだ。
国松を庇い、そして千代姫の事を慈愛のまなざしで見つめている姿と。
千姫は恥ずかしそうにしながら、口を開いた、
『その様な……されど、私はそのつもりにございます』
血の繋がらない子を大事にかわいがる、恨みも嫉妬も持たぬその性格こそが千姫の良い所だ。見守っていた刑部卿局は鼻が高くなる思いだった。
慎ましやかで小さなこの幸せが、これからも永遠に続けば良いと、そう願った。
───────────────────────
慶長二十年(1615)四月 ───────
しかし、その幸せを、何食わぬ顔をして牢人達が突き崩して行った。
金銀の無心に来た牢人衆に、見限った家臣らが仕方なく渡してしまい、その金で新たな武器を購入した。更には【五人衆】の許可なく、二ノ丸の堀を掘り返してしまうという暴挙が起こった。
加えて悲劇は続き、京の都に狼藉を働いて、火を掛ける騒ぎを起こす者も現れたのだ。
それを聞き付けた、京都所司代・板倉勝重はすかさず、駿府城に帰還していた徳川家康に報告した、
駿府城 ───────
「愚かな豊臣め……。早々に牢人衆を手放せば良かったものを…」
家康は、勝重からの文を破り捨てながら怒りを露わにしていた。傍に座している、家臣・本多正純が落ち着き払った顔で訊ねた、
「如何なされまするか」
「諸大名に再び出陣命令を出せ! 江戸におる秀忠にもな」
「御意」
正純がそう言って立ち去ろうとすると、家康は大声で言い放った、
「わしも出陣する。正純、鎧の支度もするのじゃ」
正純は目を丸くして、膝を付いた、
「されど、大御所様、一度は命を狙われた御身でございますぞ? 影武者を殺された今、動かれるのは危険でございます!」
昨年十二月末、【大坂冬の陣】が終結し、堀の埋め立てを見届けた後、家康は豊臣の残党から命を狙われているという報せを受けた。かねてより大坂へ伴っていた影武者を立て、その者を京の二条城に向かわせ、自身は早馬で駿府城へと帰還した。大坂城内に、家康が二条城へ撤退する事を広めると、読み通り、影武者は殺されてしまった。
正純は、大御所・徳川家康の命が再び脅かされる事を危惧し、出陣を断固として認めたくなかったのだ、
「これよりの出陣は上様にお任せになっては如何でしょう……」
「任せておけるか!! 豊臣が滅ぶのを、この目で見届けねばならぬのじゃからな」
家康の強い執念と固い志は、まったく変わらなかった。
───────────────────────
四月十八日、京・二条城に入城した家康は豊臣家に挑発を仕掛けて来た。
大坂城内の牢人衆が起こした、事の次第を指摘した後、秀頼に対し、『大坂城の退去と国替え』もしくは『城内の牢人衆をすべて解放する』、そのどちらかを選ぶようにと言って来た。そうすればすべての疑いは不問に付す、という無理難題を受け、淀殿は酷く立腹した。
秀頼は、とうとう戦は避けられない事を悟り、治長に戦準備をする様促した。
【大坂夏の陣】の始まりである。
大坂城・千姫の御殿 ───────
再び戦が始まる。
その事を耳にした千姫は、更なる不安と悲しみに打ちひしがれそうになった。しかし今では千代姫が傍に居てくれている、それだけで、心が晴れる思いだった。
千姫と千代姫、そしてお千代保の三人で毬を投げて遊んでいる時、刑部卿局が、今朝方から暗い顔をしているのを見て、千姫は不安に思って訊ねた。
『刑部卿、如何したのじゃ? 元気が無いようじゃが?』
「刑部様?」
千姫とお千代保が訊ねると、刑部卿は顔を上げて、徐に口を開いた、
「姫様、少しお話がございます」
その口調と表情は、今までにないくらい真剣だった。
千姫は千代姫を乳母に預けて人払いさせ、お千代保と、刑部卿を囲う様にして話を聞く事にした、
『改まってどうした?』
「お詫びを、申し上げたく……」
『詫び?』
千姫が不思議に思うのも束の間、刑部卿はゆっくりと語り始めた、
「私は、大御所様からの命により【忍び】を雇いましてございます」
『忍びじゃと?』
「姫様が、お殿様へお輿入れされて後より、忍びと密かに通じ、政や徳川家の内情、そして豊臣家を滅ぼす策を大御所様から受け取っておりました」
千姫は息を呑み、お千代保と顔を見合わせた。千姫とは裏腹にお千代保は少し興奮したように目を輝かせていたが、千姫は気付かない振りをした。
「されど、四年前。姫様が、私に対し初めてお怒りを見せた折、豊臣の人間としてご決心遊ばされたのを見て、私は、貴方様を裏切る様な真似をしている事に気付かされました。その日以来、忍びとは連絡を絶つ事に致しました」
「刑部卿………」
「されど私は、貴方様のお母君……義理の妹から託されしお役目、『姫様を生涯をかけてお守りし、お支えする』。必ずやそのお役目を果たす為に、ここへ参ったのでございます。貴方様には、生きて頂かねばなりませぬ。お辛いでしょうが、努々、お殿様とご自害してはなりませぬ……」
『自害などと……何を申すか! 豊臣は勝てぬと思うのか!』
「姫様!! 義姉上と、同じお考えを持ってはなりませぬ!」
千姫が刑部卿の更なる豊臣家への嘲罵に声を荒らげたが、此度ばかりは通用せず、逆に言い含められてしまった。刑部卿は諭すように言葉を続けた、
「豊臣は間違いなく負けます……その事、義姉上も気付いておいでのはず。姫様も、ご覚悟召されませ」
千姫の小さな胸の内に、大きな不安が押し寄せた。
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四月二十六日、大和国(現在の奈良県)にて始まった【郡山城の戦い】を皮切りに、【樫井の戦い】【道明寺の戦い】【八尾・若江の戦い】と、数々の戦いを繰り広げて来たが、徳川軍から奇襲や攻撃を受け、豊臣軍は劣勢に立たされてしまった。
これらの戦で、後藤又兵衛、木村重成 討死。
五月五日、徳川家康が大坂に入ると、徳川軍の数は更に増して行き、士気は上がる一方だった。
増軍によって大坂城近郊へと追い詰められた豊臣勢は、本丸に攻め寄せてくる徳川軍を迎撃する為、五月七日、天王寺口・岡山口に置いて、必死の大戦が始まった。
徳川軍、十五万、対する豊臣軍、五万。
圧倒的に不利に見える豊臣勢だったが、【豊臣五人衆】の真田幸村軍・毛利勝永軍は勇猛無類の戦いぶりを見せ、徳川軍の大名や侍大将に多くの死傷者を出させた。いくつかの隊を壊滅に追い込むと、家康・秀忠本軍は一時期、混乱状態に陥った。
しかし、圧倒的な兵力の差と一部豊臣軍の浅はかな行動によって、徳川の混乱状態は忽ち回復して行った。真田隊を率い、豊臣の為に力を尽くして来た【日本一の兵】真田幸村 自刃。
その報せを受けた大坂城の秀頼と淀殿は、大きく落胆した。
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その日の暮れ、豊臣軍が敗退し、徳川の軍勢が大坂城に迫って来ていると言う報せが千姫の耳に届くと、刑部卿局は侍女達に命じ、荷造りを開始した。輿入れ時に持って来ていたお道具類や着物は限られた物のみを包み、御殿では大童の様相を見せた。
千姫が持って来ていた書物を選別していた時、千代姫と小石の方が御殿を訪れた。
『千代……? どうしたのじゃそのような姿で……』
千代姫とその母・小石の方は小袖を短く絡げ、笠を持ち、旅姿になっていた。小袖も渋い色目で、似つかわしくない姿だった。
「お殿様の命で、城を離れる事となりました」
押し黙っていた千代姫の代わりに、小石の方が言った。
先刻、豊臣家の血を引く、国松と千代姫が徳川勢に捕らえられてしまう事を恐れ、人里離れた場所へと逃がす為、今夜中に城外へ出ろと命じたのだ。
国松の母・伊茶の方は取り乱し、秀頼と自害すると叫び散らしたが、淀殿から平手打ちをされてなだめさせた程、混沌としていたと、小石の方は明かす。
『そうか……。小石様も、くれぐれもお気を付け遊ばしませ……』
「大事ありませぬ。お殿様の家臣の方々が、私共を護衛して下さいます」
小石の方は笑顔を取り繕って言った。その表情は自信に溢れ、徳川の軍に捕らえられる事が無いとでもいう様に安堵の表情だった。
「義母上さま……」
千姫は千代姫を抱き寄せた。姫は今にも泣きそうだったのを、千姫は寂しさを堪えながら気丈に振る舞った、
『千代、気を付けるのじゃぞ……』
千代姫は瞳を潤ませ、頬を紅潮させながら小石に手を引かれて、その場を去って行った。
千姫は、その小さな後ろ姿を見つめ、涙をそっと流した。
慶長二十年(1615)五月八日 深夜 ───────
とうとう徳川の軍勢が二ノ丸跡まで攻め寄せ、火を打ち放っているという情報が豊臣方の兵たちから送られて来た。
戦々恐々としていた千姫と刑部卿局達に、淀殿からお呼びが掛かった。万が一の場合を考え、荷物を侍女達に持たせ、一行は本丸の北にある天守閣からほど近い、【山里曲輪】へ赴いた。
案内された部屋に入ると、上座には秀頼と淀殿が毅然とした姿で座していた。常高院が側で目を腫れさせながら座っており、千姫は哀れに思いながら下座に座った、
淀殿はじっと千姫を見つめ、口を開いた、
「千、城を離れよ」
『……え?』
千は、秀頼と淀殿の顔を交互に見つめながら、察した。そして、刑部卿の言葉が頭の中をこだました、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「……努々、お殿様とご自害してはなりませぬ……」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
しかし、どうしても、夫と共に死ぬ事を選びたい。それは、【豊臣の人間】として生きると以前から誓った、千姫の覚悟だ。
秀頼は上座から徐に立ち上がり、そっと千姫と膝を突き合わせる様に座り、持っていた二つ折りの紙を手渡した。その紙を開くと中には、秀頼の髪が束になって納めてあり、それを見た千姫は目頭を熱くなるのを感じた。
「千……そちを……辛い目に合わせてすまなかった……わしを許せよ」
秀頼の優しいその言葉に涙が止めどなく溢れた。
『嫌です……嫌にございます!! 私は秀頼様と……義母上様と共に、死にとうございます!!』
千姫が訴えると、淀が声を上げて突っぱねた。
「ならぬ!!」
『……何故にございますか!?』
「そなたが、私の……姪であるが故じゃ」
『姪……?』
「そなたの母・江に、これ以上辛い思いをさせとうない。姉妹の嫁ぎ先同士で激しく争い、悲しませた……。そなたまでをも、巻き込みたくはないのじゃ……それに───」
淀は打掛を翻して千姫に膝を付き、手を取った、
「そなたには、子を産む喜びを知って欲しい……それは、秀頼の望みでもあるのじゃ。身勝手な私を許しておくれ……」
千姫は、初めて見せた義母の優しい心を知り、胸の奥に底知れぬ温かなものを感じた。
「刑部卿!! 入れ」
淀が命じると、障子が開き、刑部卿局とお千代保が入室した。刑部卿は、障子の外から耳を傾けていた為、すべてを察していた、
「御袋様……」
刑部卿が千姫の傍に駆け寄り顔色を窺うと、淀はじっと刑部卿を見つめた、
「お近……千を頼んだぞ? そなたにも辛い思いをさせたな……許せよ」
淀殿は、刑部卿の本名を口にし、いままでの苦労を詫びた。刑部卿は、淀が自分の事を覚えていた事を知り、涙した。
十二年の時を経て、ようやく義妹として認めて貰えたのにも関わらず、そのわずかなひと時は一瞬で潰えた。
刑部卿は涙目になりながら両手を付いて頷き、千姫に声を掛けた、
「姫様……参りましょう……」
千姫は、もう一度淀と秀頼を見つめた。後ろ髪を引かれる思いで、新たな覚悟を決める事にした。
『長らく……これまでご恩を頂き、ありがとうございました……』
これが、千姫と豊臣秀頼、淀殿との最後の会話となった。
───────────────────────
山里曲輪を後にした千姫、常高院、刑部卿局、お千代保、そして他数名の侍女たちは、堀内氏久、新宮行朝らに護衛されながら、大坂城の大手門からぞろぞろと攻め来る徳川の軍勢を避ける様に迂回し、裏の橋から必死の思いで走った。
侍女たちは大きな音が鳴り響く戦火に泣き喚きながら、興奮状態の徳川軍に襲われない様、走り続けた。
刑部卿局は震える身体に鞭を打って先頭を走り、徳川の旗が落ちてあるのを拾い、掲げながら徳川方の大将に助けを求めるように大きく声を張り上げ続けた。
「どなたかー!! 千姫様にございます!! お助けをー!!!」
しかし、なかなか振り向いてくれる兵はいなかった。刑部卿は尚も声を荒らげながら先陣を切って南の方向に走り続けた。
三ノ丸辺りからは真紅の風景が広がり、夏の暑さを越えて炎の熱気が鋭く顔を突き刺して来た。
そこへ、常高院の名を呼ぶ軍勢が近寄って来た、一行は足を止めて、身構えた。しかし、その旗印は常高院の婚家・京極家の紋所だった。
「義姉上様!! ここから先は危険でございます!! 兵たちが殺気立っておるのでございますぞ!!」
暗闇の中でたいまつに照らされた男が近付くと、常高院はその見知った顔を見て安堵し、思わずすがりついた。男の名は京極高知、亡くなった夫・京極高次の弟だ。
「高知! そなたであってよかった……。私は大事ない、このお方を大御所様の御陣までお連れ申せ!」
「このお方は?」
「大御所様の御孫、千姫様じゃ」
千姫はふと顔を上げると、初老の男が目の前に立っており、顔中痣だらけなのを見て思わずアッと声を上げた。戦の間、これほど怪我を負っている侍を見た事が無かった。いや、刑部卿局が千姫に見せない様に隠していたのだ。先の冬の戦でも、これ以上に酷い状態の兵たちがいたのかと心が痛む思いだった。
高知は、連れ立った京極家の兵士に命じて千姫たちを取り囲む様に壁を作り、高知の先導を頼りに再び足を進めた。
道中の道すがら、多くの兵たちが千姫たちをさらおうとした。しかし、堀内と新宮の二人が刀を構えながら、身を呈して守ってくれたので大事に至らなかった。
そして、一行は、ようやく家康が陣・【茶臼山】へと向かった。
茶臼山・家康の陣 ───────
大坂夏の陣の総大将・徳川家康は辺りを右往左往して落ち着きを失くしていた。将軍・徳川秀忠も同様だった。
千姫救出を命じてしばらく、それがいつになっても進展しないので今か今かと無事の報せを待っていた。その時、高知が陣営に参上し、声を張り上げた、
「大御所様ぁーーー!! 千姫様ご無事にございまーーす!!!」
家康は高知の声を聞き、飛んで駆け付けた。顔中煤だらけになっていた千姫を見つめながら従えている侍女たちと見比べると、目の前の千姫から気品の高さを感じ取り、家康は勢いよく抱き締めようとした、
「おおー!!! おおぉ於千や!! 無事であったか ───」
千姫は巨体の老人を華麗にかわして、父・秀忠に駆け寄った。十二年前に別れたきりで、その頃より年老いていたが、その面影は少しも変わらなかった。
「父上!! 秀頼様をお救いくださいませっ……義母上様を──」
千姫は秀忠に懇願しかけたその時、侍女の一人が叫んだ、
「きゃーー!! て、天守がっ……!!!」
千姫が振り向くと、大坂城の天守が赤い生き物の様に燃え盛っていた。秀頼と淀殿と別れた山里曲輪は天守閣からほど近い。愕然とした千姫は、頭の中が真っ白になっていた。
『秀頼様っ……義母上様…っ……いやぁああああ!!』
天下を成し遂げた、太閤殿下の次男・豊臣秀頼、そしてその母・淀殿、乳母ら含め家臣三十名 燃え盛る山里曲輪にて自刃。
隆盛を誇り、難攻不落と呼ばれた城・大坂城は炎上。豊臣家はこの日を持って滅亡したのであった。
工事は、ふた月以上を要するとされていたが、たったのひと月足らずで終了した。二ノ丸・三ノ丸は門と櫓も含め、残らず破壊され、外堀は完全に埋め立てられた。さすがに早すぎるその工事に淀殿は衝撃を受けた。
規模の広さもあった為、埋め立ての作業は徳川の家臣団も協力する事になった。豊臣方が二ノ丸、徳川方は三ノ丸と外堀、と分担して作業する話だったが、徳川方の作業は迅速で、二ノ丸の破壊と堀の埋め立てをも勝手に断行してしまったのだ。
大坂城・大広間 ───────
「話が違うでは無いか! 何故、徳川方が二ノ丸にまで手を伸ばす! 二ノ丸を破壊するは、我らに一任されておったはずじゃ!」
淀殿は顔を赤くして大野治長に厳しく怒声を浴びせた。治長は、冷静に抗弁した、
「徳川の者が言うには、『豊臣が手間取っているのは見てはおけぬ』と……。約束が違うとこちらが訴えれば、『我らも一刻も早く引き上げたい。長引くは迷惑』だと逆にねじ込まれてしまいまして…」
「これが、徳川のやり方なのか……」
秀頼が呟くと淀殿は更に激昂して治長を責め立てた、
「おぬしらが、さように弱々しい態度を示す故、徳川方も付け上がるのじゃ! それが分からぬのか!」
「母上、落ち着かれませ! 治長とて、自分の子を人質として徳川に差し出したのです。治長の気持ちも察してあげてくだされ」
大野治長は、和睦が成立してからしばらく、度重なる重責に耐え兼ねてか、重い気鬱の病に罹り、しばらく寝込む日々が続いていた。しかし取り決められていた『家臣を人質として差し出す』という和睦の条件は絶対だった為、治長は泣く泣く、自身の次男を代わりに差し出した。共に戦い続けた戦友でもある大切な我が子を差し出した治長にとって、切腹するに等しい苦しみだった。
秀頼が治長を庇って、淀殿の怒りを落ち着かせると、淀殿はばつが悪そうに踵を返して大広間から出て行った。
「すまぬのう」
秀頼が一言詫びを入れると、治長は恐縮し頭を下げた。秀頼は続けて、かねてより気になっていた事を訊ねた、
「牢人衆は如何しておる?」
和睦の条件の中で、『牢人衆の処分は不問』と提示されていた。しかし、処罰は下さないと言うだけで、城に居続けるという事を許している訳ではない。戦は終わっているのだから、早々に退却させる様にと、徳川方はその後言って来ている。
「はっ……それが、増える一方にて」
「そうなのか?」
「豊臣の勝ち戦の事を聞き付けた、各国に残る牢人衆が続々と登城し、豊臣の軍として徳川を打ち倒したいと。それはそれは血気盛んで、八万であった数は十万に再び戻りました」
「さすれば、徳川は忽ちそれを聞き付け、再び戦を仕掛けて来よう。この城を丸裸にし、責めるのは容易い。十万の兵に戻ったと言えども此度ばかりは難しいかもしれぬな」
「さようですな。しかしながら、【五人衆】の面々が、堀が無いのなら守る手段を設けようと、新たな策を講じ、二ノ丸、三ノ丸辺りに、敵の侵入を防ぐ柵を築く予定でございます」
【五人衆】の一人であり、豊臣家にとっての期待の星・真田幸村が築いていた南の出城【真田丸】は、二ノ丸・三ノ丸と同時に破壊されてしまった。それは十二月十八日に取り交わされた和睦以外の話し合いで取り決められた内容だった。
惣構えや外堀、二ノ丸・三ノ丸が崩壊して行くのを牢人達は悔しい思いで見つめており、どうしても納得出来ない気持ちに苛まれ、更なる執念を燃やして行った。
「とにかく、余り目立つ行動はせぬよう、幸村に申し伝えよ。所司代に目を付けられては家康に付け込まれる」
所司代とは【京都所司代】の事。京の治安維持の為に織田信長が最初に設置していた行政機関だ。太閤殿下秀吉の頃は大坂に政の場を設けてある為、必要無くなり、廃止された。が、世は徳川の世。家康は京都に再び所司代を置き、都に不審な動きがあればすぐに家康に知らせが届く様に手筈が整えられている。
【大坂冬の陣】が終わってすぐ、京都所司代・板倉勝重から、厳しく監視されるようになった。秀頼は内心、気が気で無かった。牢人衆が不穏な動きを見せれば、それは京都所司代の知る所となり、すぐに家康の耳にも入る。
治長は秀頼の命を受け、承知の旨を示した。
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大坂城・千姫の御殿 ───────
奥御殿が先の徳川方による砲撃によって崩壊し、工事を行っている間は、表御殿が女たちの住まいとして与えられていた。
淀殿や側室たち他、侍女らは、むさ苦しい表向に住まう事は反対の声が多かった。しかし、千姫だけは違った。秀頼と気兼ねなく会える故だ。
奥御殿の工事が終わっても、千姫は秀頼の御殿の隣に居を構え、新たな御殿とした。
戦が終わり、堀の埋め立て騒動の憂さを晴らす様に、千姫は秀頼と側室の間の子・千代姫を迎えて貝合わせに興じていた。
『こうして、ほうら? 合うたぞ?』
千姫は微笑みながら、二つ交わった二枚貝を見せた。今年六歳になった千代姫は拍手をしながら喜んでいた、
「わあぁ!! すごいです! 義母上さま!」
『さ、千代もやってみよ』
なさぬ仲とはいえ、束の間の親子の団欒を楽しんでいた。千代姫は千姫を「義母」と慕い、共に寝起きをした。
刑部卿局とお千代保は二人を見守りながら、久々のこの緩やかな時を過ごしていた。
千代姫は、何度も貝を取って合わす、を繰り返したが、なかなか合わず泣き出しそうになりながら根気よく探し続けた。千代姫が悶々としていると、そこへ秀頼が訪れた。
「お? 楽しそうじゃのう?」
優しく、慈愛に溢れる夫の声を聞き、千姫は軽く頭を下げた。秀頼が近くに座ると、千姫がそっと囁きながら応えた、
『貝合わせにございます。姫がやりたい、やりたいと申されて』
千姫が言うと、秀頼は「そうか」と言って、千代姫を愛おしそうに見つめた。千代姫は父の御成りに気付かず、およそ三百枚とある貝の組み合わせに集中していた。とうとう念願の一つが合うと、千代姫は飛び上がりながら喜んでいた。
「あ、合いました! 合いましたよ、義母上さま……あ、父上さま!」
『よろしゅうございましたね、千代? 先ほどから、父上様がお成りだったのですよ?』
「も、申し訳ございませぬ、父上さま。わたくし、気付かず……」
千代姫がすぐに両手を付いて頭を下げた。
「気にするでない。貝が合って良かったのう」
秀頼が褒めると、千代姫は顔を上げて照れ笑いをした。
千代姫が再び貝合わせに集中すると、秀頼は、辺りに国松がいない事に気付き、千姫に訊ねた、
「国松はどうしておるのじゃ?」
『誘ったのですが、貝合わせは女子の遊びじゃ、と申して、お伊茶様のお部屋で書物を読んでおられます』
「そうか。あやつ、千の誘いを断りおって」
秀頼の表情が変わるのを見た千姫は、今にも立ち上がって国松を叱り付けに行くのではないかと思い、袖を掴んで止めた、
『秀頼様? 国松を叱らないであげてくださりませね? あの子は、豊臣のお世継ぎとして必死なのでございます』
千姫は国松を庇った。しかし秀頼は決して怒っている訳では無かった。秀頼は、掴まれた袖を見て、愛らしさを感じ、微笑みながら千姫をじっと見つめた。千姫は不思議に思って訊ねた、
『如何なさいましたか?』
「いや、そちの顔付きが、母の様な顔付きになったと思うてのう」
ふと零れ出た言葉に、秀頼は自分でも驚いていたが、本音に変わりはなかった。千姫のまなざしや言動が、昔の淀殿と重なったのだ。
国松を庇い、そして千代姫の事を慈愛のまなざしで見つめている姿と。
千姫は恥ずかしそうにしながら、口を開いた、
『その様な……されど、私はそのつもりにございます』
血の繋がらない子を大事にかわいがる、恨みも嫉妬も持たぬその性格こそが千姫の良い所だ。見守っていた刑部卿局は鼻が高くなる思いだった。
慎ましやかで小さなこの幸せが、これからも永遠に続けば良いと、そう願った。
───────────────────────
慶長二十年(1615)四月 ───────
しかし、その幸せを、何食わぬ顔をして牢人達が突き崩して行った。
金銀の無心に来た牢人衆に、見限った家臣らが仕方なく渡してしまい、その金で新たな武器を購入した。更には【五人衆】の許可なく、二ノ丸の堀を掘り返してしまうという暴挙が起こった。
加えて悲劇は続き、京の都に狼藉を働いて、火を掛ける騒ぎを起こす者も現れたのだ。
それを聞き付けた、京都所司代・板倉勝重はすかさず、駿府城に帰還していた徳川家康に報告した、
駿府城 ───────
「愚かな豊臣め……。早々に牢人衆を手放せば良かったものを…」
家康は、勝重からの文を破り捨てながら怒りを露わにしていた。傍に座している、家臣・本多正純が落ち着き払った顔で訊ねた、
「如何なされまするか」
「諸大名に再び出陣命令を出せ! 江戸におる秀忠にもな」
「御意」
正純がそう言って立ち去ろうとすると、家康は大声で言い放った、
「わしも出陣する。正純、鎧の支度もするのじゃ」
正純は目を丸くして、膝を付いた、
「されど、大御所様、一度は命を狙われた御身でございますぞ? 影武者を殺された今、動かれるのは危険でございます!」
昨年十二月末、【大坂冬の陣】が終結し、堀の埋め立てを見届けた後、家康は豊臣の残党から命を狙われているという報せを受けた。かねてより大坂へ伴っていた影武者を立て、その者を京の二条城に向かわせ、自身は早馬で駿府城へと帰還した。大坂城内に、家康が二条城へ撤退する事を広めると、読み通り、影武者は殺されてしまった。
正純は、大御所・徳川家康の命が再び脅かされる事を危惧し、出陣を断固として認めたくなかったのだ、
「これよりの出陣は上様にお任せになっては如何でしょう……」
「任せておけるか!! 豊臣が滅ぶのを、この目で見届けねばならぬのじゃからな」
家康の強い執念と固い志は、まったく変わらなかった。
───────────────────────
四月十八日、京・二条城に入城した家康は豊臣家に挑発を仕掛けて来た。
大坂城内の牢人衆が起こした、事の次第を指摘した後、秀頼に対し、『大坂城の退去と国替え』もしくは『城内の牢人衆をすべて解放する』、そのどちらかを選ぶようにと言って来た。そうすればすべての疑いは不問に付す、という無理難題を受け、淀殿は酷く立腹した。
秀頼は、とうとう戦は避けられない事を悟り、治長に戦準備をする様促した。
【大坂夏の陣】の始まりである。
大坂城・千姫の御殿 ───────
再び戦が始まる。
その事を耳にした千姫は、更なる不安と悲しみに打ちひしがれそうになった。しかし今では千代姫が傍に居てくれている、それだけで、心が晴れる思いだった。
千姫と千代姫、そしてお千代保の三人で毬を投げて遊んでいる時、刑部卿局が、今朝方から暗い顔をしているのを見て、千姫は不安に思って訊ねた。
『刑部卿、如何したのじゃ? 元気が無いようじゃが?』
「刑部様?」
千姫とお千代保が訊ねると、刑部卿は顔を上げて、徐に口を開いた、
「姫様、少しお話がございます」
その口調と表情は、今までにないくらい真剣だった。
千姫は千代姫を乳母に預けて人払いさせ、お千代保と、刑部卿を囲う様にして話を聞く事にした、
『改まってどうした?』
「お詫びを、申し上げたく……」
『詫び?』
千姫が不思議に思うのも束の間、刑部卿はゆっくりと語り始めた、
「私は、大御所様からの命により【忍び】を雇いましてございます」
『忍びじゃと?』
「姫様が、お殿様へお輿入れされて後より、忍びと密かに通じ、政や徳川家の内情、そして豊臣家を滅ぼす策を大御所様から受け取っておりました」
千姫は息を呑み、お千代保と顔を見合わせた。千姫とは裏腹にお千代保は少し興奮したように目を輝かせていたが、千姫は気付かない振りをした。
「されど、四年前。姫様が、私に対し初めてお怒りを見せた折、豊臣の人間としてご決心遊ばされたのを見て、私は、貴方様を裏切る様な真似をしている事に気付かされました。その日以来、忍びとは連絡を絶つ事に致しました」
「刑部卿………」
「されど私は、貴方様のお母君……義理の妹から託されしお役目、『姫様を生涯をかけてお守りし、お支えする』。必ずやそのお役目を果たす為に、ここへ参ったのでございます。貴方様には、生きて頂かねばなりませぬ。お辛いでしょうが、努々、お殿様とご自害してはなりませぬ……」
『自害などと……何を申すか! 豊臣は勝てぬと思うのか!』
「姫様!! 義姉上と、同じお考えを持ってはなりませぬ!」
千姫が刑部卿の更なる豊臣家への嘲罵に声を荒らげたが、此度ばかりは通用せず、逆に言い含められてしまった。刑部卿は諭すように言葉を続けた、
「豊臣は間違いなく負けます……その事、義姉上も気付いておいでのはず。姫様も、ご覚悟召されませ」
千姫の小さな胸の内に、大きな不安が押し寄せた。
───────────────────────
四月二十六日、大和国(現在の奈良県)にて始まった【郡山城の戦い】を皮切りに、【樫井の戦い】【道明寺の戦い】【八尾・若江の戦い】と、数々の戦いを繰り広げて来たが、徳川軍から奇襲や攻撃を受け、豊臣軍は劣勢に立たされてしまった。
これらの戦で、後藤又兵衛、木村重成 討死。
五月五日、徳川家康が大坂に入ると、徳川軍の数は更に増して行き、士気は上がる一方だった。
増軍によって大坂城近郊へと追い詰められた豊臣勢は、本丸に攻め寄せてくる徳川軍を迎撃する為、五月七日、天王寺口・岡山口に置いて、必死の大戦が始まった。
徳川軍、十五万、対する豊臣軍、五万。
圧倒的に不利に見える豊臣勢だったが、【豊臣五人衆】の真田幸村軍・毛利勝永軍は勇猛無類の戦いぶりを見せ、徳川軍の大名や侍大将に多くの死傷者を出させた。いくつかの隊を壊滅に追い込むと、家康・秀忠本軍は一時期、混乱状態に陥った。
しかし、圧倒的な兵力の差と一部豊臣軍の浅はかな行動によって、徳川の混乱状態は忽ち回復して行った。真田隊を率い、豊臣の為に力を尽くして来た【日本一の兵】真田幸村 自刃。
その報せを受けた大坂城の秀頼と淀殿は、大きく落胆した。
───────────────────────
その日の暮れ、豊臣軍が敗退し、徳川の軍勢が大坂城に迫って来ていると言う報せが千姫の耳に届くと、刑部卿局は侍女達に命じ、荷造りを開始した。輿入れ時に持って来ていたお道具類や着物は限られた物のみを包み、御殿では大童の様相を見せた。
千姫が持って来ていた書物を選別していた時、千代姫と小石の方が御殿を訪れた。
『千代……? どうしたのじゃそのような姿で……』
千代姫とその母・小石の方は小袖を短く絡げ、笠を持ち、旅姿になっていた。小袖も渋い色目で、似つかわしくない姿だった。
「お殿様の命で、城を離れる事となりました」
押し黙っていた千代姫の代わりに、小石の方が言った。
先刻、豊臣家の血を引く、国松と千代姫が徳川勢に捕らえられてしまう事を恐れ、人里離れた場所へと逃がす為、今夜中に城外へ出ろと命じたのだ。
国松の母・伊茶の方は取り乱し、秀頼と自害すると叫び散らしたが、淀殿から平手打ちをされてなだめさせた程、混沌としていたと、小石の方は明かす。
『そうか……。小石様も、くれぐれもお気を付け遊ばしませ……』
「大事ありませぬ。お殿様の家臣の方々が、私共を護衛して下さいます」
小石の方は笑顔を取り繕って言った。その表情は自信に溢れ、徳川の軍に捕らえられる事が無いとでもいう様に安堵の表情だった。
「義母上さま……」
千姫は千代姫を抱き寄せた。姫は今にも泣きそうだったのを、千姫は寂しさを堪えながら気丈に振る舞った、
『千代、気を付けるのじゃぞ……』
千代姫は瞳を潤ませ、頬を紅潮させながら小石に手を引かれて、その場を去って行った。
千姫は、その小さな後ろ姿を見つめ、涙をそっと流した。
慶長二十年(1615)五月八日 深夜 ───────
とうとう徳川の軍勢が二ノ丸跡まで攻め寄せ、火を打ち放っているという情報が豊臣方の兵たちから送られて来た。
戦々恐々としていた千姫と刑部卿局達に、淀殿からお呼びが掛かった。万が一の場合を考え、荷物を侍女達に持たせ、一行は本丸の北にある天守閣からほど近い、【山里曲輪】へ赴いた。
案内された部屋に入ると、上座には秀頼と淀殿が毅然とした姿で座していた。常高院が側で目を腫れさせながら座っており、千姫は哀れに思いながら下座に座った、
淀殿はじっと千姫を見つめ、口を開いた、
「千、城を離れよ」
『……え?』
千は、秀頼と淀殿の顔を交互に見つめながら、察した。そして、刑部卿の言葉が頭の中をこだました、
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「……努々、お殿様とご自害してはなりませぬ……」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
しかし、どうしても、夫と共に死ぬ事を選びたい。それは、【豊臣の人間】として生きると以前から誓った、千姫の覚悟だ。
秀頼は上座から徐に立ち上がり、そっと千姫と膝を突き合わせる様に座り、持っていた二つ折りの紙を手渡した。その紙を開くと中には、秀頼の髪が束になって納めてあり、それを見た千姫は目頭を熱くなるのを感じた。
「千……そちを……辛い目に合わせてすまなかった……わしを許せよ」
秀頼の優しいその言葉に涙が止めどなく溢れた。
『嫌です……嫌にございます!! 私は秀頼様と……義母上様と共に、死にとうございます!!』
千姫が訴えると、淀が声を上げて突っぱねた。
「ならぬ!!」
『……何故にございますか!?』
「そなたが、私の……姪であるが故じゃ」
『姪……?』
「そなたの母・江に、これ以上辛い思いをさせとうない。姉妹の嫁ぎ先同士で激しく争い、悲しませた……。そなたまでをも、巻き込みたくはないのじゃ……それに───」
淀は打掛を翻して千姫に膝を付き、手を取った、
「そなたには、子を産む喜びを知って欲しい……それは、秀頼の望みでもあるのじゃ。身勝手な私を許しておくれ……」
千姫は、初めて見せた義母の優しい心を知り、胸の奥に底知れぬ温かなものを感じた。
「刑部卿!! 入れ」
淀が命じると、障子が開き、刑部卿局とお千代保が入室した。刑部卿は、障子の外から耳を傾けていた為、すべてを察していた、
「御袋様……」
刑部卿が千姫の傍に駆け寄り顔色を窺うと、淀はじっと刑部卿を見つめた、
「お近……千を頼んだぞ? そなたにも辛い思いをさせたな……許せよ」
淀殿は、刑部卿の本名を口にし、いままでの苦労を詫びた。刑部卿は、淀が自分の事を覚えていた事を知り、涙した。
十二年の時を経て、ようやく義妹として認めて貰えたのにも関わらず、そのわずかなひと時は一瞬で潰えた。
刑部卿は涙目になりながら両手を付いて頷き、千姫に声を掛けた、
「姫様……参りましょう……」
千姫は、もう一度淀と秀頼を見つめた。後ろ髪を引かれる思いで、新たな覚悟を決める事にした。
『長らく……これまでご恩を頂き、ありがとうございました……』
これが、千姫と豊臣秀頼、淀殿との最後の会話となった。
───────────────────────
山里曲輪を後にした千姫、常高院、刑部卿局、お千代保、そして他数名の侍女たちは、堀内氏久、新宮行朝らに護衛されながら、大坂城の大手門からぞろぞろと攻め来る徳川の軍勢を避ける様に迂回し、裏の橋から必死の思いで走った。
侍女たちは大きな音が鳴り響く戦火に泣き喚きながら、興奮状態の徳川軍に襲われない様、走り続けた。
刑部卿局は震える身体に鞭を打って先頭を走り、徳川の旗が落ちてあるのを拾い、掲げながら徳川方の大将に助けを求めるように大きく声を張り上げ続けた。
「どなたかー!! 千姫様にございます!! お助けをー!!!」
しかし、なかなか振り向いてくれる兵はいなかった。刑部卿は尚も声を荒らげながら先陣を切って南の方向に走り続けた。
三ノ丸辺りからは真紅の風景が広がり、夏の暑さを越えて炎の熱気が鋭く顔を突き刺して来た。
そこへ、常高院の名を呼ぶ軍勢が近寄って来た、一行は足を止めて、身構えた。しかし、その旗印は常高院の婚家・京極家の紋所だった。
「義姉上様!! ここから先は危険でございます!! 兵たちが殺気立っておるのでございますぞ!!」
暗闇の中でたいまつに照らされた男が近付くと、常高院はその見知った顔を見て安堵し、思わずすがりついた。男の名は京極高知、亡くなった夫・京極高次の弟だ。
「高知! そなたであってよかった……。私は大事ない、このお方を大御所様の御陣までお連れ申せ!」
「このお方は?」
「大御所様の御孫、千姫様じゃ」
千姫はふと顔を上げると、初老の男が目の前に立っており、顔中痣だらけなのを見て思わずアッと声を上げた。戦の間、これほど怪我を負っている侍を見た事が無かった。いや、刑部卿局が千姫に見せない様に隠していたのだ。先の冬の戦でも、これ以上に酷い状態の兵たちがいたのかと心が痛む思いだった。
高知は、連れ立った京極家の兵士に命じて千姫たちを取り囲む様に壁を作り、高知の先導を頼りに再び足を進めた。
道中の道すがら、多くの兵たちが千姫たちをさらおうとした。しかし、堀内と新宮の二人が刀を構えながら、身を呈して守ってくれたので大事に至らなかった。
そして、一行は、ようやく家康が陣・【茶臼山】へと向かった。
茶臼山・家康の陣 ───────
大坂夏の陣の総大将・徳川家康は辺りを右往左往して落ち着きを失くしていた。将軍・徳川秀忠も同様だった。
千姫救出を命じてしばらく、それがいつになっても進展しないので今か今かと無事の報せを待っていた。その時、高知が陣営に参上し、声を張り上げた、
「大御所様ぁーーー!! 千姫様ご無事にございまーーす!!!」
家康は高知の声を聞き、飛んで駆け付けた。顔中煤だらけになっていた千姫を見つめながら従えている侍女たちと見比べると、目の前の千姫から気品の高さを感じ取り、家康は勢いよく抱き締めようとした、
「おおー!!! おおぉ於千や!! 無事であったか ───」
千姫は巨体の老人を華麗にかわして、父・秀忠に駆け寄った。十二年前に別れたきりで、その頃より年老いていたが、その面影は少しも変わらなかった。
「父上!! 秀頼様をお救いくださいませっ……義母上様を──」
千姫は秀忠に懇願しかけたその時、侍女の一人が叫んだ、
「きゃーー!! て、天守がっ……!!!」
千姫が振り向くと、大坂城の天守が赤い生き物の様に燃え盛っていた。秀頼と淀殿と別れた山里曲輪は天守閣からほど近い。愕然とした千姫は、頭の中が真っ白になっていた。
『秀頼様っ……義母上様…っ……いやぁああああ!!』
天下を成し遂げた、太閤殿下の次男・豊臣秀頼、そしてその母・淀殿、乳母ら含め家臣三十名 燃え盛る山里曲輪にて自刃。
隆盛を誇り、難攻不落と呼ばれた城・大坂城は炎上。豊臣家はこの日を持って滅亡したのであった。
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