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第三章 大坂城入城
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翌朝、千姫と江の二人は伏見城を出て、大坂城へ向けて出立を再開した。
三日の旅路を経て、ゆらゆらと揺れる微睡みの中、一緒に乗っていたおちょぼに起こされて、寝ぼけ眼をこすった。
「お千様! ご覧じませ!」
目を開けて、眩しさに手を翳しながら、ちらと輿の中から覗くと、黒漆に金色に輝く屋根瓦を備えた天守閣が見えた。
輿入れする三カ月前、お近から聞かされていた豊臣家の栄華と繁栄を具現化しているように見えた。千姫は身に染みてその偉大さを感じた。
『あれが、大坂のお城……』
千姫が呟くと、おちょぼが色めき立った、
「はい! このお城が、お千様のおうちになるのでございますねぇ~! たのしみでございますね!」
千姫は思わず、屈託のない笑顔を見せるおちょぼを見て笑った。おちょぼは首を傾げながら訳も問わず、もう一度大坂城天守を見上げてわぁっと声を上げた。
千姫の輿が【桜御門】を通って城内に入った。
お近の手を借りながら輿を降りると、奥御殿玄関には派手な打掛を着た上臈が恭しく両手を付いて平伏していた。
「ようこそ、お越しくださいました」
含みを帯びたようなその女人の笑顔に、千姫は七歳ながら、得も言われぬ恐ろしさを感じた。ところが、母を見ると、その上臈の事を見向きもせず、「大儀である」と毅然とした佇まいで言った。
母の後に続いて大坂城に入ると、その荘厳たる煌びやかさに度肝を抜かれた。側に付き従うおちょぼも細かい装飾が施された金色の欄間や豪華な格天井を見上げながら上臈に付いて行った。
千姫が江に手を繋がれながら歩を進めていると、上臈が急に立ち止まり、打掛を翻して口を開いた、
「恐れ入りますが、お江様、お袋様がお部屋にてお待ちにございます。この者に案内させまする故、どうぞ」
お袋様とは姉・淀殿の事。上臈は廊下が三股に分かれている所を見計らって突然、淀殿が大広間で待っていると告げたのだ。江は仕方なく、お近に千姫を任せるよう目配せをし、千姫に笑みを見せてから、別の侍女の先導で、淀殿が待つ大広間へと渡って行った。
───────────────────────
大坂城・奥御殿・千姫の部屋 ───────
「こちらが、姫君様のお部屋にございまする」
上臈の案内で奥御殿の一室へと通された。千姫は目を丸くさせながら辺りを見回した。壁絵や襖絵もすべて金箔で輝き、眩しかった。千姫は口をあんぐりと開けながら上座に登り、ちょこんと座布団の上に座った。
「長の御旅路、お疲れ様でございました」
上臈が両手を付いて一言挨拶を述べると、千姫はコクリと頷いた。圧倒された衝撃に眠気すらも感じ、ウトウトとしかけていた。
上臈はそれを見て、ニヤリと歯を見せて続けた、
「お殿様乳母・宮内卿と申しまする。 姫君様におかれましては、初めての大坂のお暮し、すぐにでもお慣れ遊ばされまする様、奥向取締代理としてご指南仕りますので、ご安心くださいますように」
この大坂城奥向きの差配を本来任せられているのは、淀殿の乳母である大蔵卿局。
といっても、大蔵卿も奥向きの主たる淀殿には頭が上がらないらしく、何をするにも「お袋様の仰せのままに」という次第であった。
この宮内卿が偉い顔をしていられるのも、その大蔵卿と淀殿がいない、今だからである。
と、挨拶を上段の傍で聞きながら思い駆け巡っていたお近は、「指南する」という上から目線の物言いを聞き逃さなかった。「もうし!」と声を張り上げて挨拶を遮り、疑問を投げ掛けた、
「宮内卿殿、ご指南するとはどういう事でございましょう」
千姫の教育はお近に一任されていた。それを蔑ろにするような大坂方の振る舞い、無視するわけにはいかなかった。
指摘された宮内卿は、悪びれる所か更に威圧的な態度で歯向かって来た、
「お言葉ではございまするが、お近殿。姫君様はいずれ関白殿下にお成り遊ばすお殿様の、北政所様となられる御身。そのご教育を、江戸方から参られたお近殿にすべてをお任せする訳には参りませぬ」
「恐れながら! 不肖、近! 幼少のみぎりに公家の教養を受け、育って参りました。姫君様のご教育は、すべて私のお役目にございます! よって、よそ者のあなた様方に、お任せする訳には参りませぬ!!」
お近は、身を乗り出しながら宮内卿に向かって訴えかけた。宮内卿からは薄気味悪い笑みが消え、口を真一文字に結び、真顔でお近を見つめた。
女の睨み合いを目の当たりにして、おちょぼは戦々恐々としながら両局の顔を窺った。いまにも胸倉を掴み合いそうで思わず、千姫の腕にすがった。しかし、ふと見ると、姫は旅の疲れからか脇息にうつ伏せになり、とうとう眠り込んでしまっていた。
「分かりました」
「は?」
挑発的な発言したのにも関わらず、反論しないで来ないのを見てお近は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「どうぞ、ご勝手になさってくださりませ。では、私はこれにて。さぁ、姫君様はお疲れのご様子でお休みになってございます。御寝所へお連れ申し上げませ」
宮内卿局はニタニタと再び含みを帯びた笑みを見せながら両手を付いて頭を垂れた。
初日から始まった徳川方と豊臣方の女中同士の争いは、尾を引く事となる事を、この頃のお近とおちょぼはまだ知る由もなかった。
───────────────────────
宮内卿局とのひと悶着からおよそ四半刻が経ち、淀殿と面会した江が、千姫の部屋を訪れた。
千姫はというと、おちょぼと寝所で安らかに眠りに就いていた。娘の寝顔を見守った後、江は御殿の上段に座り込んだ。
気付けば、お近は神妙な面持ちで、先ほど起きた宮内卿局との論争について我慢ならず、江に報告した。すると、呆れた様に笑いながら、江は義姉を励ました、
「大坂城に勤めおる女子らは、豊臣家に仕える誇りを越えて、度を過ぎる所がある。いずれこの様な事が起きるのでは無いかと案じておったが到着早々起きたか」
「はい。気持ちを抑え切れず、つい、歯向かってしまいました。されど、御方様から託された姫様のご教育を、お果たしすべく城に登りましたのに、「任せろ」などと言われたら口を出さずにはおりませなんだ」
「そなたで無ければ務まらぬ。千のこれからの為にも、そなたの持つ力が必要なのじゃ」
天正元年(1573)、お近が三つの時に【小谷城の戦い】で父母を失った。浅井三姉妹の生母・お市の方の庇護を受け、公家の教養から立ち居振る舞い、芸事、読み書き、漢詩を学び、その秀でたる知識から、江付きの侍女になり、下に付く侍女達の教育を任された。乳母の民部卿局の推薦で、江はお近の能力を買っていた。
「勿体無い御言葉でございます! 不肖、近、誠心誠意を持って、姫様をお守り致しまする」
お近が両手を付いて頭を下げると、江は徐に懐に手を伸ばし、とある封書を取り出した。
「そちらは?」
お近が訊ねると、江は微笑みかけながら、広げるように促した。受け取ってから広げてみるとそこには【将軍内意】と書かれ、慌てて掲げる。
「御方様?! こ、これは……?」
「構わぬ、読んでみよ」
お近はおずおずともう一度紙に目を移すと、そこには辞令が記されていた。『姫君付き上臈』の文字の横に局名が色濃く書かれていた。
「刑部卿……」
「かつて、朝廷にあった、罪を取り締まっておった場所の事じゃ。その方に、これから先も千の事を身を呈して護って欲しいという思いを込め、【刑部卿】という新たな名を授ける事とした」
「お方様……ありがたく頂戴致しまする!」
「心して励まれよ」
刑部卿局と名を改めたお近は静かに涙を流した。封書に入れ直して押し戴いた後、義姉・淀について切り出した、
「淀の御方様は、ご健勝でいらせられましたか?」
刑部卿の問いに江は、茶碗に手を伸ばした手を止める。
「少し……痩せられたご様子であったが、元気であられたぞ」
「左様でございましたか。お会いするのが楽しみにございます」
江と共に大坂を出て、およそ五年ぶりの事であった。間もなく訪れる義姉・淀殿との再会の日を心待ちにしていたのだった。
ところが、江の表情は何処か虚ろげだった。
「御方様……?」
刑部卿が改まった調子で顔色を窺うと、江は沈んだ顔で応えた、
「千について「宜しく頼む」と伝えたが、受け入れてくだされたのか……いささか不安でのう」
「何故、そうご不安にお感じで?」
「秀頼が、いずれ関白になれる日が必ず訪れると過信しておられるご様子なのじゃ……」
江は淀と面会した時の事を思い出していた──
「江、家康殿に、天下を豊臣家に返すよう、計らっては貰えぬか?」
「姉上……私の一存では何も出来ませぬ」
「何を申す! 秀忠殿がおられるでは無いか。信頼の置ける秀忠殿に頼んで、家康殿を説き伏せる事が出来ればっ───」
「姉上……落ち着いて下されませ! ご短慮は身体に毒にございまするぞ?」
「落ち着けるはずが無かろう!!」
「姉上……」
「家康殿は、将軍となる以前、約束されたのじゃ!! 豊臣を護り、補佐する為に仮の将軍となった、と!」
──江はつい先刻起きた事を思い出しただけで、心がざわつくのを感じた。
江の話を聞いた後、刑部卿はしばらく考えた。淀殿の心の内がこの五年の間でどういう心境の変化があったのだろうと気になった。
刑部卿は気を取り繕って、茶を一口啜った。
「そなたはどう思う?」
江が徐に刑部卿と膝を突き合せて訊ねて来た。刑部卿は恭しく頭を下げた、
「恐れながら私の様な一介の乳母には、お応え致しかねまする……」
「我が、義姉として聞いておる。姉上のお考えをどう思う? 豊臣に天下が舞い戻ると思うか?」
刑部卿は辺りに豊臣家の侍女が居ないかを確認した後、重たい口を開いた、
「戻らぬかと……存じます……」
「何故そう思う?」
「上様(徳川家康)に豊臣家に対するただならぬ恐れのお気持ちがあるからかと存じます。関ヶ原の折になされた豊臣家や豊臣恩顧の大名衆に対する数々の処遇が物語っております」
「良う、知っておるのう……」
江は、これまで成して来た事すべてが、徳川家康の野望と底知れぬ企てであることを見抜いていた。己以外で家康の思惑を知る者がいた事に驚きを隠せないでいた。
「上様のなされた事をお見効きすれば、自ずと分かって参ります。しかしながら、御方様……私はそれでも姫様をお守り致します。豊臣家で幸せに暮らせますよう、淀の義姉上と御方様を、繋ぎ止めて見せまする」
刑部卿がそう宣言すると、江は頷いてから縁側へ歩み出た。その折に悲し気な表情を浮かべていたのを、刑部卿は見逃さなかった。
遠ざかる義妹の背中を見つめながら、今度は刑部卿が底知れぬ不安を覚えた。いずれ、姉妹が敵味方に分かれる事になるのでは無いかという事を……。
───────────────────────
慶長八年(1603)七月二十八日 ───────
千姫と豊臣秀頼の婚礼の儀式が執り行われる当日。
江は白無垢に着替えた千姫を見つめて、心からこの日が訪れた事に感謝した。
「千、美しいぞ」
『母上、ありがとう存じます』
千姫は恥ずかしそうに頬を赤らめながら言った。刑部卿局は涙ぐみながら、千姫に向き直りこの日を言祝いだ、
「姫様の御嫁入りの御姿を拝し、真に感慨無量にございますっ」
「刑部……」
千姫は涙を拭いながら笑顔を見せた。江はこれから新たな門出へ向かう花嫁の前に座った。
「千、母はしきたりに従い、大坂を去る」
当時の婚礼は婚家以外の親の出席は許されていなかった。千はその事を既に刑部卿から聞かされていたので、覚悟をしていた。
涙を呑んで、笑みを絶やすことなく母の頬に触れた、
『母上……お気を付け遊ばされませ。千はもう……大丈夫にございまする」
この日以上に、娘の著しい成長を感じたことはなかった。白粉を纏い、紅をさして、立派な眉を描いているからではない。心の内から大きくなっているのだと分かった。
この先、十代になるまでを見ることが出来ない寂しさを感じながら、江は、後ろ髪を引かれる思いのまま、大坂城を去って行ったのだった。
夕刻、様々な懸念を経て、千姫と豊臣秀頼の婚儀が厳かに執り行われた。
この夜、千姫は初めて豊臣秀頼と初の対面を果たした。その小さな胸を高鳴らせ、一生を添い遂げる事となる御相手の顔を見てみたいという、拙い思いがようやく果たされたのだった。
十一の年齢にしては体格がしっかりとしていて、如何にも頼もしく、豊臣家の当主として相応しい姿であった。
こちらを見つめている事に気付いた秀頼は微笑み掛けた。千姫は刀鍛冶の如く、胸の打ち合いが大きくなって行くのが分かり、思わず目線を外してしまった。しかし、その思いは確かに恋の感情だと後になって知った。
婚儀の後、慣例に則って、千姫と秀頼は共に床を繋げた。もちろん未だ幼い身体の為、営みの無い純粋無垢な夜伽の儀である。
大坂城・御寝所 ───────
「千、これから幾久しく、よろしゅう頼むぞ」
幼さは残るも、しっかりとした優しい声色で秀頼は言葉を掛けた。千姫は頬を染めながら言葉を返した、
『宜しくお願い致します……お殿さま……』
「 ” 殿 ” と呼ぶのはやめよ。わしらは夫婦ではないか、仲良う致そうぞ」
『では、なんとお呼びすればよろしゅうございましょうか?』
「そのままじゃ。秀頼と呼べ。わしは ”上様 ” でも ” お殿様 ” でも無い。わしはわしじゃ」
秀頼は熱いまなざしを千姫に向けた。
『では、おとの──じゃなくって……秀頼さま』
手をもじもじとさせながら秀頼の名を口にした千姫は、恥ずかしさから俯いてしまった。
秀頼は固まった千姫の気を和らげる様に、手を握りながらそのまま布団へゆっくりと押し倒し、布団をかけ眠りに就いた。初めておちょぼ以外の人、それも殿方と共に夜を明かした千姫であった。
───────────────────────
夫・秀頼との夜伽を迎えた翌朝。千姫は生まれて初めて晴れやかな朝を迎えた。夫となったお人と朝の挨拶を交わし、御寝所の次の間で二人きりで朝食を食した喜びは格別な物だった。
お互い色々な事を話し合った。好きな食べ物・好きな花・好きな柄など、お互い好奇心を持って知りたい事を知り合った。
千姫はこんなにも華やいだ気持ちになるのは久しぶりだった。例えるなら、羽根突きが勢いよく飛び、相手側が取り落として負け、頬に墨で×印を書く様に。
ところが、この浮き立った気持ちがグッと現実へと引き戻していく事態が起こった。
千姫の部屋 ───────
「お殿様との夜伽、おするすると進まれて大変良うございました」
部屋に戻って来た千姫は、刑部卿局から恭しくおだてられ、恥ずかしそうに褥の房をいじり出した。
『よ……夜伽と申すな! ただの婚礼の儀の一つじゃ』
おちょぼはそれを見てくすっと笑うと、刑部卿が咳払いした、
「姫様、本日はお義母君である、お袋様との御対面にございます。打掛を選り分け致しましょう! おちょぼ」
刑部卿が命じるとおちょばは、さっと立ち上がり、衣裳櫃を目の前に差し出した。
続いて、侍女の早尾が鏡台を脇に置いて、打掛を肩に掛けて来た。何度も何度もあれも違う、これも違うと言う刑部卿の指図と一連の作業に千姫は疎ましく感じた。
『もう、何でもよい……』
「何を仰せです! これからはお袋様と長らくお付き合いして行くのでございますよ? わがままはなりませぬ!」
せっかく浸っていた華やかな想いを蔑ろにされて、千姫はふくれっ面をした。
大坂城・奥御殿・淀殿の部屋 ───────
刑部卿が選んだ打掛を羽織った千姫は、チョコンと下座に座って義母・淀殿の御成りを待った。千姫の後ろには、刑部卿局、おちょぼ。そして、両側には淀殿付きの侍女らがずらりと能面の様な顔をして控えていた。
上段のすぐ傍には、貫禄のある女子が座っていた。この人物が淀殿の乳母・【大蔵卿局】であろうと、千姫は察した。
いざ、対面となると胸が高鳴り出した千姫だった。その高鳴りは秀頼と会った時とは違く感じたが、それが何なのか、その頃はまだ分かっていなかった。
刑部卿からは、淀殿は「優しい方」であると聞かされていた。現に大坂城の主に値する程の人物で、家臣からも敬われていると聞く。【豊臣家の母】という畏敬の念から【お袋様】と呼ばれている程に。
「お袋様の、御成りにございます」
侍女の声掛けで上座側の障子が開いて、淀殿が現れた。下座に控えていた侍女らは一同平伏し、千姫も続いた。
重い衣擦れの音が鳴りやむと、「表を上げよ」と声がした。
想像していたより少し低いその言葉を聞き、千姫は満面の笑みで勢いよく頭を上げた。初めて見た淀殿の顔は微笑んでいるのか悲しんでいるのか分からない、哀愁漂う顔をしていた。誰よりも豪華な打掛を着、周りの部屋と同様にギラギラと輝いていた。
「そなたが千か。母上の江から良う聞いておる。秀頼の事を、妻として支える様によろしゅうな」
『はい! よろしゅうお願い申し上げまする!』
千姫が頭を下げ、もう一度、淀殿の顔を見つめながら、思わず心の底からの気持ちを口にした、
『徳川と豊臣家の良き御仲を再び取り戻す為、精一杯相努めまする!』
ふと目をやると淀殿の哀愁漂う顔が一気に真顔になった、
「良き御仲? 豊臣から天下を奪った家康と共にか?」
祖父を呼び捨てにされた千姫は、心にチクっと何かが刺さったような感覚が走った。千姫は気のせいだと思い込み、素直な気持ちを述べた、
『はい! その橋渡しとして、わたくしが豊臣家へ参りましてございます』
淀殿は急に顔色が変わり、傍らに座る大蔵卿に人払いを命じた。
「皆の者、下がりゃ」
刑部卿は意地でも居座ろうとしたが、大蔵卿が立ち上がるのを見、やむなく部屋を退いた。
二人きりになった途端、淀殿は脇息を引き寄せて、それにもたれ掛かった、
「千、勘違いするでない」
声を震わせながら言葉を吐き捨てた義母に驚き、千姫は言葉を失った。
『義母上さま?』
「そなたは人質じゃ」
『ひと……じち……?』
「家康が何か事を起こさぬように、そなたをここへ呼び寄せたのじゃ。あの狸が万に一つでも愚かな事をしようものならその時は、そなたを使って脅しを仕掛けるつもりじゃ!」
初めて真相を聞かされた千姫は、衝撃を受けた。
もはやお家の為に嫁ぐのではなく、祖父の野望を果たす為に嫁ぐ事でも無かった。
人質として送られたのだ。
淀殿は一息つくと更に追い打ちをかける様な一言を吐き捨てた、
「言うておくが、これよりはみだりに秀頼と親しゅうするでないぞ」
『え……何故にございますか? 先ほど、妻として支えるようにと、仰せになられたではありませぬか!』
「口答えするでない!!」
急に大声で叱責され、千姫は飛び上がった。淀殿は続けた、
「それとこれとは話は別じゃ。いずれ関白になる秀頼を北政所として支えて欲しい、されど! 家康が力を持たぬ様、子を儲けぬ様、心得よ! まぁ、未だ作法も知らぬであろうがのう」
夫婦とは、心を通わせる事こそ大事とされているはず。
それを、姑が阻もうとするとは……いささか心外に感じた。
伯母であり義母である淀殿に圧倒され、二度目の反論をする事なく大人しく頷くしかなかった。
淀殿の家康に対する恨みは計り知れない。
再び豊臣家の世が来ることを信じて止まず、それを阻止しようと企む家康を酷く憎み抜いていた。
淀殿は、頷く千姫を一瞥してから部屋を去って行った。
腰が抜けてしまった千姫はそのまま崩れた。「親しくしないように」という冷たい義母の言葉がこだまのように頭の中に響き渡った。
千姫の波乱の結婚生活が幕を開けた。
三日の旅路を経て、ゆらゆらと揺れる微睡みの中、一緒に乗っていたおちょぼに起こされて、寝ぼけ眼をこすった。
「お千様! ご覧じませ!」
目を開けて、眩しさに手を翳しながら、ちらと輿の中から覗くと、黒漆に金色に輝く屋根瓦を備えた天守閣が見えた。
輿入れする三カ月前、お近から聞かされていた豊臣家の栄華と繁栄を具現化しているように見えた。千姫は身に染みてその偉大さを感じた。
『あれが、大坂のお城……』
千姫が呟くと、おちょぼが色めき立った、
「はい! このお城が、お千様のおうちになるのでございますねぇ~! たのしみでございますね!」
千姫は思わず、屈託のない笑顔を見せるおちょぼを見て笑った。おちょぼは首を傾げながら訳も問わず、もう一度大坂城天守を見上げてわぁっと声を上げた。
千姫の輿が【桜御門】を通って城内に入った。
お近の手を借りながら輿を降りると、奥御殿玄関には派手な打掛を着た上臈が恭しく両手を付いて平伏していた。
「ようこそ、お越しくださいました」
含みを帯びたようなその女人の笑顔に、千姫は七歳ながら、得も言われぬ恐ろしさを感じた。ところが、母を見ると、その上臈の事を見向きもせず、「大儀である」と毅然とした佇まいで言った。
母の後に続いて大坂城に入ると、その荘厳たる煌びやかさに度肝を抜かれた。側に付き従うおちょぼも細かい装飾が施された金色の欄間や豪華な格天井を見上げながら上臈に付いて行った。
千姫が江に手を繋がれながら歩を進めていると、上臈が急に立ち止まり、打掛を翻して口を開いた、
「恐れ入りますが、お江様、お袋様がお部屋にてお待ちにございます。この者に案内させまする故、どうぞ」
お袋様とは姉・淀殿の事。上臈は廊下が三股に分かれている所を見計らって突然、淀殿が大広間で待っていると告げたのだ。江は仕方なく、お近に千姫を任せるよう目配せをし、千姫に笑みを見せてから、別の侍女の先導で、淀殿が待つ大広間へと渡って行った。
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大坂城・奥御殿・千姫の部屋 ───────
「こちらが、姫君様のお部屋にございまする」
上臈の案内で奥御殿の一室へと通された。千姫は目を丸くさせながら辺りを見回した。壁絵や襖絵もすべて金箔で輝き、眩しかった。千姫は口をあんぐりと開けながら上座に登り、ちょこんと座布団の上に座った。
「長の御旅路、お疲れ様でございました」
上臈が両手を付いて一言挨拶を述べると、千姫はコクリと頷いた。圧倒された衝撃に眠気すらも感じ、ウトウトとしかけていた。
上臈はそれを見て、ニヤリと歯を見せて続けた、
「お殿様乳母・宮内卿と申しまする。 姫君様におかれましては、初めての大坂のお暮し、すぐにでもお慣れ遊ばされまする様、奥向取締代理としてご指南仕りますので、ご安心くださいますように」
この大坂城奥向きの差配を本来任せられているのは、淀殿の乳母である大蔵卿局。
といっても、大蔵卿も奥向きの主たる淀殿には頭が上がらないらしく、何をするにも「お袋様の仰せのままに」という次第であった。
この宮内卿が偉い顔をしていられるのも、その大蔵卿と淀殿がいない、今だからである。
と、挨拶を上段の傍で聞きながら思い駆け巡っていたお近は、「指南する」という上から目線の物言いを聞き逃さなかった。「もうし!」と声を張り上げて挨拶を遮り、疑問を投げ掛けた、
「宮内卿殿、ご指南するとはどういう事でございましょう」
千姫の教育はお近に一任されていた。それを蔑ろにするような大坂方の振る舞い、無視するわけにはいかなかった。
指摘された宮内卿は、悪びれる所か更に威圧的な態度で歯向かって来た、
「お言葉ではございまするが、お近殿。姫君様はいずれ関白殿下にお成り遊ばすお殿様の、北政所様となられる御身。そのご教育を、江戸方から参られたお近殿にすべてをお任せする訳には参りませぬ」
「恐れながら! 不肖、近! 幼少のみぎりに公家の教養を受け、育って参りました。姫君様のご教育は、すべて私のお役目にございます! よって、よそ者のあなた様方に、お任せする訳には参りませぬ!!」
お近は、身を乗り出しながら宮内卿に向かって訴えかけた。宮内卿からは薄気味悪い笑みが消え、口を真一文字に結び、真顔でお近を見つめた。
女の睨み合いを目の当たりにして、おちょぼは戦々恐々としながら両局の顔を窺った。いまにも胸倉を掴み合いそうで思わず、千姫の腕にすがった。しかし、ふと見ると、姫は旅の疲れからか脇息にうつ伏せになり、とうとう眠り込んでしまっていた。
「分かりました」
「は?」
挑発的な発言したのにも関わらず、反論しないで来ないのを見てお近は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「どうぞ、ご勝手になさってくださりませ。では、私はこれにて。さぁ、姫君様はお疲れのご様子でお休みになってございます。御寝所へお連れ申し上げませ」
宮内卿局はニタニタと再び含みを帯びた笑みを見せながら両手を付いて頭を垂れた。
初日から始まった徳川方と豊臣方の女中同士の争いは、尾を引く事となる事を、この頃のお近とおちょぼはまだ知る由もなかった。
───────────────────────
宮内卿局とのひと悶着からおよそ四半刻が経ち、淀殿と面会した江が、千姫の部屋を訪れた。
千姫はというと、おちょぼと寝所で安らかに眠りに就いていた。娘の寝顔を見守った後、江は御殿の上段に座り込んだ。
気付けば、お近は神妙な面持ちで、先ほど起きた宮内卿局との論争について我慢ならず、江に報告した。すると、呆れた様に笑いながら、江は義姉を励ました、
「大坂城に勤めおる女子らは、豊臣家に仕える誇りを越えて、度を過ぎる所がある。いずれこの様な事が起きるのでは無いかと案じておったが到着早々起きたか」
「はい。気持ちを抑え切れず、つい、歯向かってしまいました。されど、御方様から託された姫様のご教育を、お果たしすべく城に登りましたのに、「任せろ」などと言われたら口を出さずにはおりませなんだ」
「そなたで無ければ務まらぬ。千のこれからの為にも、そなたの持つ力が必要なのじゃ」
天正元年(1573)、お近が三つの時に【小谷城の戦い】で父母を失った。浅井三姉妹の生母・お市の方の庇護を受け、公家の教養から立ち居振る舞い、芸事、読み書き、漢詩を学び、その秀でたる知識から、江付きの侍女になり、下に付く侍女達の教育を任された。乳母の民部卿局の推薦で、江はお近の能力を買っていた。
「勿体無い御言葉でございます! 不肖、近、誠心誠意を持って、姫様をお守り致しまする」
お近が両手を付いて頭を下げると、江は徐に懐に手を伸ばし、とある封書を取り出した。
「そちらは?」
お近が訊ねると、江は微笑みかけながら、広げるように促した。受け取ってから広げてみるとそこには【将軍内意】と書かれ、慌てて掲げる。
「御方様?! こ、これは……?」
「構わぬ、読んでみよ」
お近はおずおずともう一度紙に目を移すと、そこには辞令が記されていた。『姫君付き上臈』の文字の横に局名が色濃く書かれていた。
「刑部卿……」
「かつて、朝廷にあった、罪を取り締まっておった場所の事じゃ。その方に、これから先も千の事を身を呈して護って欲しいという思いを込め、【刑部卿】という新たな名を授ける事とした」
「お方様……ありがたく頂戴致しまする!」
「心して励まれよ」
刑部卿局と名を改めたお近は静かに涙を流した。封書に入れ直して押し戴いた後、義姉・淀について切り出した、
「淀の御方様は、ご健勝でいらせられましたか?」
刑部卿の問いに江は、茶碗に手を伸ばした手を止める。
「少し……痩せられたご様子であったが、元気であられたぞ」
「左様でございましたか。お会いするのが楽しみにございます」
江と共に大坂を出て、およそ五年ぶりの事であった。間もなく訪れる義姉・淀殿との再会の日を心待ちにしていたのだった。
ところが、江の表情は何処か虚ろげだった。
「御方様……?」
刑部卿が改まった調子で顔色を窺うと、江は沈んだ顔で応えた、
「千について「宜しく頼む」と伝えたが、受け入れてくだされたのか……いささか不安でのう」
「何故、そうご不安にお感じで?」
「秀頼が、いずれ関白になれる日が必ず訪れると過信しておられるご様子なのじゃ……」
江は淀と面会した時の事を思い出していた──
「江、家康殿に、天下を豊臣家に返すよう、計らっては貰えぬか?」
「姉上……私の一存では何も出来ませぬ」
「何を申す! 秀忠殿がおられるでは無いか。信頼の置ける秀忠殿に頼んで、家康殿を説き伏せる事が出来ればっ───」
「姉上……落ち着いて下されませ! ご短慮は身体に毒にございまするぞ?」
「落ち着けるはずが無かろう!!」
「姉上……」
「家康殿は、将軍となる以前、約束されたのじゃ!! 豊臣を護り、補佐する為に仮の将軍となった、と!」
──江はつい先刻起きた事を思い出しただけで、心がざわつくのを感じた。
江の話を聞いた後、刑部卿はしばらく考えた。淀殿の心の内がこの五年の間でどういう心境の変化があったのだろうと気になった。
刑部卿は気を取り繕って、茶を一口啜った。
「そなたはどう思う?」
江が徐に刑部卿と膝を突き合せて訊ねて来た。刑部卿は恭しく頭を下げた、
「恐れながら私の様な一介の乳母には、お応え致しかねまする……」
「我が、義姉として聞いておる。姉上のお考えをどう思う? 豊臣に天下が舞い戻ると思うか?」
刑部卿は辺りに豊臣家の侍女が居ないかを確認した後、重たい口を開いた、
「戻らぬかと……存じます……」
「何故そう思う?」
「上様(徳川家康)に豊臣家に対するただならぬ恐れのお気持ちがあるからかと存じます。関ヶ原の折になされた豊臣家や豊臣恩顧の大名衆に対する数々の処遇が物語っております」
「良う、知っておるのう……」
江は、これまで成して来た事すべてが、徳川家康の野望と底知れぬ企てであることを見抜いていた。己以外で家康の思惑を知る者がいた事に驚きを隠せないでいた。
「上様のなされた事をお見効きすれば、自ずと分かって参ります。しかしながら、御方様……私はそれでも姫様をお守り致します。豊臣家で幸せに暮らせますよう、淀の義姉上と御方様を、繋ぎ止めて見せまする」
刑部卿がそう宣言すると、江は頷いてから縁側へ歩み出た。その折に悲し気な表情を浮かべていたのを、刑部卿は見逃さなかった。
遠ざかる義妹の背中を見つめながら、今度は刑部卿が底知れぬ不安を覚えた。いずれ、姉妹が敵味方に分かれる事になるのでは無いかという事を……。
───────────────────────
慶長八年(1603)七月二十八日 ───────
千姫と豊臣秀頼の婚礼の儀式が執り行われる当日。
江は白無垢に着替えた千姫を見つめて、心からこの日が訪れた事に感謝した。
「千、美しいぞ」
『母上、ありがとう存じます』
千姫は恥ずかしそうに頬を赤らめながら言った。刑部卿局は涙ぐみながら、千姫に向き直りこの日を言祝いだ、
「姫様の御嫁入りの御姿を拝し、真に感慨無量にございますっ」
「刑部……」
千姫は涙を拭いながら笑顔を見せた。江はこれから新たな門出へ向かう花嫁の前に座った。
「千、母はしきたりに従い、大坂を去る」
当時の婚礼は婚家以外の親の出席は許されていなかった。千はその事を既に刑部卿から聞かされていたので、覚悟をしていた。
涙を呑んで、笑みを絶やすことなく母の頬に触れた、
『母上……お気を付け遊ばされませ。千はもう……大丈夫にございまする」
この日以上に、娘の著しい成長を感じたことはなかった。白粉を纏い、紅をさして、立派な眉を描いているからではない。心の内から大きくなっているのだと分かった。
この先、十代になるまでを見ることが出来ない寂しさを感じながら、江は、後ろ髪を引かれる思いのまま、大坂城を去って行ったのだった。
夕刻、様々な懸念を経て、千姫と豊臣秀頼の婚儀が厳かに執り行われた。
この夜、千姫は初めて豊臣秀頼と初の対面を果たした。その小さな胸を高鳴らせ、一生を添い遂げる事となる御相手の顔を見てみたいという、拙い思いがようやく果たされたのだった。
十一の年齢にしては体格がしっかりとしていて、如何にも頼もしく、豊臣家の当主として相応しい姿であった。
こちらを見つめている事に気付いた秀頼は微笑み掛けた。千姫は刀鍛冶の如く、胸の打ち合いが大きくなって行くのが分かり、思わず目線を外してしまった。しかし、その思いは確かに恋の感情だと後になって知った。
婚儀の後、慣例に則って、千姫と秀頼は共に床を繋げた。もちろん未だ幼い身体の為、営みの無い純粋無垢な夜伽の儀である。
大坂城・御寝所 ───────
「千、これから幾久しく、よろしゅう頼むぞ」
幼さは残るも、しっかりとした優しい声色で秀頼は言葉を掛けた。千姫は頬を染めながら言葉を返した、
『宜しくお願い致します……お殿さま……』
「 ” 殿 ” と呼ぶのはやめよ。わしらは夫婦ではないか、仲良う致そうぞ」
『では、なんとお呼びすればよろしゅうございましょうか?』
「そのままじゃ。秀頼と呼べ。わしは ”上様 ” でも ” お殿様 ” でも無い。わしはわしじゃ」
秀頼は熱いまなざしを千姫に向けた。
『では、おとの──じゃなくって……秀頼さま』
手をもじもじとさせながら秀頼の名を口にした千姫は、恥ずかしさから俯いてしまった。
秀頼は固まった千姫の気を和らげる様に、手を握りながらそのまま布団へゆっくりと押し倒し、布団をかけ眠りに就いた。初めておちょぼ以外の人、それも殿方と共に夜を明かした千姫であった。
───────────────────────
夫・秀頼との夜伽を迎えた翌朝。千姫は生まれて初めて晴れやかな朝を迎えた。夫となったお人と朝の挨拶を交わし、御寝所の次の間で二人きりで朝食を食した喜びは格別な物だった。
お互い色々な事を話し合った。好きな食べ物・好きな花・好きな柄など、お互い好奇心を持って知りたい事を知り合った。
千姫はこんなにも華やいだ気持ちになるのは久しぶりだった。例えるなら、羽根突きが勢いよく飛び、相手側が取り落として負け、頬に墨で×印を書く様に。
ところが、この浮き立った気持ちがグッと現実へと引き戻していく事態が起こった。
千姫の部屋 ───────
「お殿様との夜伽、おするすると進まれて大変良うございました」
部屋に戻って来た千姫は、刑部卿局から恭しくおだてられ、恥ずかしそうに褥の房をいじり出した。
『よ……夜伽と申すな! ただの婚礼の儀の一つじゃ』
おちょぼはそれを見てくすっと笑うと、刑部卿が咳払いした、
「姫様、本日はお義母君である、お袋様との御対面にございます。打掛を選り分け致しましょう! おちょぼ」
刑部卿が命じるとおちょばは、さっと立ち上がり、衣裳櫃を目の前に差し出した。
続いて、侍女の早尾が鏡台を脇に置いて、打掛を肩に掛けて来た。何度も何度もあれも違う、これも違うと言う刑部卿の指図と一連の作業に千姫は疎ましく感じた。
『もう、何でもよい……』
「何を仰せです! これからはお袋様と長らくお付き合いして行くのでございますよ? わがままはなりませぬ!」
せっかく浸っていた華やかな想いを蔑ろにされて、千姫はふくれっ面をした。
大坂城・奥御殿・淀殿の部屋 ───────
刑部卿が選んだ打掛を羽織った千姫は、チョコンと下座に座って義母・淀殿の御成りを待った。千姫の後ろには、刑部卿局、おちょぼ。そして、両側には淀殿付きの侍女らがずらりと能面の様な顔をして控えていた。
上段のすぐ傍には、貫禄のある女子が座っていた。この人物が淀殿の乳母・【大蔵卿局】であろうと、千姫は察した。
いざ、対面となると胸が高鳴り出した千姫だった。その高鳴りは秀頼と会った時とは違く感じたが、それが何なのか、その頃はまだ分かっていなかった。
刑部卿からは、淀殿は「優しい方」であると聞かされていた。現に大坂城の主に値する程の人物で、家臣からも敬われていると聞く。【豊臣家の母】という畏敬の念から【お袋様】と呼ばれている程に。
「お袋様の、御成りにございます」
侍女の声掛けで上座側の障子が開いて、淀殿が現れた。下座に控えていた侍女らは一同平伏し、千姫も続いた。
重い衣擦れの音が鳴りやむと、「表を上げよ」と声がした。
想像していたより少し低いその言葉を聞き、千姫は満面の笑みで勢いよく頭を上げた。初めて見た淀殿の顔は微笑んでいるのか悲しんでいるのか分からない、哀愁漂う顔をしていた。誰よりも豪華な打掛を着、周りの部屋と同様にギラギラと輝いていた。
「そなたが千か。母上の江から良う聞いておる。秀頼の事を、妻として支える様によろしゅうな」
『はい! よろしゅうお願い申し上げまする!』
千姫が頭を下げ、もう一度、淀殿の顔を見つめながら、思わず心の底からの気持ちを口にした、
『徳川と豊臣家の良き御仲を再び取り戻す為、精一杯相努めまする!』
ふと目をやると淀殿の哀愁漂う顔が一気に真顔になった、
「良き御仲? 豊臣から天下を奪った家康と共にか?」
祖父を呼び捨てにされた千姫は、心にチクっと何かが刺さったような感覚が走った。千姫は気のせいだと思い込み、素直な気持ちを述べた、
『はい! その橋渡しとして、わたくしが豊臣家へ参りましてございます』
淀殿は急に顔色が変わり、傍らに座る大蔵卿に人払いを命じた。
「皆の者、下がりゃ」
刑部卿は意地でも居座ろうとしたが、大蔵卿が立ち上がるのを見、やむなく部屋を退いた。
二人きりになった途端、淀殿は脇息を引き寄せて、それにもたれ掛かった、
「千、勘違いするでない」
声を震わせながら言葉を吐き捨てた義母に驚き、千姫は言葉を失った。
『義母上さま?』
「そなたは人質じゃ」
『ひと……じち……?』
「家康が何か事を起こさぬように、そなたをここへ呼び寄せたのじゃ。あの狸が万に一つでも愚かな事をしようものならその時は、そなたを使って脅しを仕掛けるつもりじゃ!」
初めて真相を聞かされた千姫は、衝撃を受けた。
もはやお家の為に嫁ぐのではなく、祖父の野望を果たす為に嫁ぐ事でも無かった。
人質として送られたのだ。
淀殿は一息つくと更に追い打ちをかける様な一言を吐き捨てた、
「言うておくが、これよりはみだりに秀頼と親しゅうするでないぞ」
『え……何故にございますか? 先ほど、妻として支えるようにと、仰せになられたではありませぬか!』
「口答えするでない!!」
急に大声で叱責され、千姫は飛び上がった。淀殿は続けた、
「それとこれとは話は別じゃ。いずれ関白になる秀頼を北政所として支えて欲しい、されど! 家康が力を持たぬ様、子を儲けぬ様、心得よ! まぁ、未だ作法も知らぬであろうがのう」
夫婦とは、心を通わせる事こそ大事とされているはず。
それを、姑が阻もうとするとは……いささか心外に感じた。
伯母であり義母である淀殿に圧倒され、二度目の反論をする事なく大人しく頷くしかなかった。
淀殿の家康に対する恨みは計り知れない。
再び豊臣家の世が来ることを信じて止まず、それを阻止しようと企む家康を酷く憎み抜いていた。
淀殿は、頷く千姫を一瞥してから部屋を去って行った。
腰が抜けてしまった千姫はそのまま崩れた。「親しくしないように」という冷たい義母の言葉がこだまのように頭の中に響き渡った。
千姫の波乱の結婚生活が幕を開けた。
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