千姫物語~大坂の陣篇~

翔子

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第二章 母の強き思い

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慶長八年(1603)五月 江戸城 ───────
            
 千姫に、豊臣家への輿入れの話をしてからおよそ二月ふたつきが経った頃、嫁入り道具の手配が順調に進められて行った。

 残るは、打掛や小袖が仕立て上がるのを待つばかりで、選りすぐられた調度品を取り寄せ終えた江と大姥局おおばのつぼねは、残りのひと月を準備期間とし、入念な確認を怠らなかった。

 徳川家康はこの頃、京・伏見城へと赴いていた為、その隙を見た江は、大姥に取り入って支度の準備に力を貸していた。嫁入り道具の調達は母親としての務めと心得ていた江は、どうしても娘の為に何かしてあげたいと願ったのだった。


 とある昼下がりの事、江は夫・徳川秀忠の御殿を訪れ、この二カ月の間で心に定めた決断を告げた。

 千姫に付いて大坂城へ赴くと言うのだ。

 江の突然の告白に驚いた秀忠は、飲んでいたお茶を吹き出してしまった。江は素早く懐から手ぬぐいを取り出し、秀忠の袴に掛かった茶を拭き取った。

「何故、千の時だけ共に向かう? 珠の時は行かなかったではないか」

 妻に袴を丁寧に拭われながら秀忠がそう指摘すると、江は軽快に説明をしだした、

「お家が違いまする。珠の嫁ぎ先は前田家、立派な大大名でございます。ですが、此度は豊臣家にございます。何よりも、姉の考えが読めぬのでございます。何故、義父上と太閤殿下が取り交わした五年前の婚約を今更受け入れるのか、それを確かめぬ限りは安心して送り出せませぬ。それに───」

 江は、庭の方を見つめて悲し気な表情をした。

 秀忠が不思議そうに「それに?」と聞き返した。すると、江は優しい声で話して聞かせた、

「千は、ああしっかりしているように見えても、まことの心は寂しいはず。珠が前田家へ輿入れした折も、あの子、泣いておりました。お家の為に嫁ぐ事は辛い物です。私も……経験して参りましたから」

 江は過去に、二度嫁いでいた。どちらも言うまでもなく、政略結婚だった。
 一度目の相手は、伯父・織田信長の次男・信雄の家臣であり、母方の従兄に当たる、佐治一成。
 二度目は豊臣秀吉の甥である、豊臣秀勝。

 幸せな結婚生活を送れると、当時の江は胸を高鳴らせていたものの、そうは行かなかった。
 一成は、当時秀吉の敵方であった家康を助けたとして、秀吉から強引に離縁させられた。一方、秀勝は朝鮮出兵の折に病に罹り、死に別れてしまった。

 そういう経験をして来たからこそ、千姫には辛い思いをして欲しくなかった。少しでも、心安らかに嫁がせてやりたいという思いから、共に大坂へ参ろうと決意したのだ。

「お前様、後生にございます。どうか、千と共に行かせて下さりませ……」

 江が両手を付いて秀忠に申し入れると、秀忠は妻の思いを汲み取り、その必死の説得に折れて大坂へ向かう事を許したのだった。

 晴れて大坂行きを許された江は安堵する思いで、千姫の部屋へと向かった。

江戸城・千姫の部屋・庭 ───────

 その頃、千姫は自身の部屋の庭で、御小姓のおちょぼと共に、庭に咲く花を愛でながら歩いていた。

 千の部屋の前には、四季折々の花々が咲き誇っている。漂うその香りに胸をときめかせ、花々を愛でるのが、千にとって楽しみの一つだった。長年愛して来た花ともお別れになるのかと悲し気に見つめながら、千は、おちょぼに声を掛けた、

『のう……おちょぼ?』

「はい、お千様?」

 庭に咲いているサツキやカスミソウを摘み取りながら、おちょぼが無邪気に応えた。

『わたしはまもなく嫁ぐ……』

「はい! たくさんの雅やかなお打掛や、お調度が部屋に揃っておいでですねー!」

 おちょぼは、花々を籠に入れながら、調度品が飾られている部屋を眺め、恭しく誉めそやした。

『嫁ぐというは、まもなくわたしが一人になるということなのじゃ……』

 おちょぼは花を摘むのを止め、首を傾げながら悲しそうな顔をする千を見つめた。

『母上と父上とも離れ離れになる……。母上の前ではああ強がったが、真の心は───』

「寂しがらなくともよろしゅうございますよ」
 
 おちょぼはそう言うと、途端に籠を下に置いて跪いた。千姫は予想外な動きをしたおちょぼに驚いた、

『おちょぼ……』

「わたくしがおりましょう? お近様もいらっしゃるではありませぬか。わたくしは、姫様と一生離れませぬ。どこへ向かおうと、お殿様となられるお方と共におられようと、ずうっと!」

 おちょぼは、悲し気な表情を見せる主を元気付ける様に、屈託のない笑顔を見せた。千はおちょぼに見せまいと背を向けて涙を流した。声を漏らしながら泣く千姫の前に周り、おちょぼが声を掛けた、

「お千様~、せっかくのお美しいお顔が台無しでございますよ?」

 おちょぼは、クスクスと笑いながら近付き、頬に流れる涙を袖で拭ってあげた。

『台無しは余計じゃー! ぐすっ……』

 千姫は鼻を袖で押さえながら目を赤くさせ、おちょぼに微笑みながら言った。

 涙を流しながら慰め合う二人を遠くから見つめていた江は、そっと来た道を引き返して行った。

 千姫とおちょぼの二人は、この日を境に長きに渡る人生の友として支え合い、これから待ち受ける壮絶な道のりを歩んで行く事になるのだった。

───────────────────────

 それからひと月が経ち、季節は夏になった。

 この日は、京で仕立てさせた、嫁入り道具である打掛と小袖が届けられた。千姫の部屋では、試着の儀が執り行われ、お近、おちょぼ達は大童おおわらわであった。

 その数、夏用・五十八着。冬用・六十三着。

「やはり、このお色が姫様にお似合いでございますね!」

 お近が薄地の打掛を着せ付けながら、感嘆の声を上げた。おちょぼも、次の打掛の準備をしながら、

「ほんに、お千様は赤色がお似合いでございます!!」と言った。

 千姫は、美しい数々の打掛や小袖を着、心が晴れる思いだった。微笑みながら、千は打掛の柄を見つめて、

『夫となる秀頼さまは、喜んでくださるであろうか』

「きっとお喜びになりましょう! これから姫様は大きゅうおなり遊ばします。その折はお殿様のお好きなお色やお柄で仕立てさせましょう!」

『そうじゃな』

 お近は千姫の笑顔を見て、胸が熱くなる思いだった。豊臣家の成り立ちや、夫となる豊臣秀頼の人となりを話して聞かせた折、真剣に耳を傾けてくれ、羽子板で遊んだあの日から三月みつきで見違える様に、子供らしさが抜けて行った。


 そして、いよいよ千姫の出立の日が果たされようとしていた。江戸から大坂へは、長の旅路になるに当たり、輿入れからひと月早い、六月に出立する事になった。

慶長八年(1603)六月 ───────

 先月末に新しく完成した江戸城・御広座敷では、多くの家臣と侍女達に見守られながら、秀忠と千姫との親子別れの盃の儀式が執り行われた。

 儀式が滞りなく終わると、千姫は両手を付き、父への別れの挨拶を捧げた、

『父上……行って参りまする』

 敬意を表し、輿入れの為に誂えたばかりの打掛を着た千姫は、まるでこれから羽ばたいていく鶴の様に輝いて見えた。
 秀忠は父としての威厳を保ちながら、千姫にしばしの別れの言葉を述べた、

「大坂へ行っても元気で暮らすのじゃぞ。父と母の事はいないと思い、伯母である淀殿がそちの母上となる。伯母上を母として敬い、夫となる秀頼殿をお支えするのじゃ」

『はい。これまでお育て下さり、ありがとうございました』

 ゆっくりと、しかし優雅に千姫は頭を下げた。

 家臣の手前、強がりを見せていた秀忠だったが、永久とわの別れを思わせる娘の挨拶に目頭が熱くなり、急に立ち上がってその場を中座してしまった。

 江も、健気な娘を思い、目に涙を浮かべながら袖で拭った。


 千と江の二人は、縁側へと赴き、階を侍女の手を借りながら、輿へと乗り込んだ。

 嫁入り道具は、前日にはすでに大坂へと厳重な警備の下、送られていた為、今日のこの晴れやかな出立の朝は、付き従う侍や輿担ぎがずらりと控えているのみであった。その数、百名にも及んだ。

「姫君様、ご出立!」

 家臣の号令で輿が掲げられ、一行は江戸城の玄関・大手門を出て、東海道を上った。

 家康が江戸へ国替えをしてしばらく経った慶長六年(1601年)の頃から、東海道を含む【五街道整備】が開始され、五つの街道と宿を制定し、飛鳥時代からあった東海道を街道として改めて生まれ変わらせた。

 この頃の東海道は未だ整備の途中ではあったが、千姫の輿入れに先駆け、道中の整備だけは終わらせていた。
 日本橋から三条大橋を繋ぐ宿駅・五十三ヶ所。世に言う【東海道五十三次】と呼ばれ、完全に整備されるのは今から二十一年後の話である。

 千姫の側にはお近、そして江には民部卿局が同行した。一方のおちょぼは、千姫が輿の中で退屈しない様に、特別に同乗する事を許され、二人は輿の中で【貝合わせ】して時を費やした。

───────────────────────

 十五日の長旅の後、途中、御座船で熱田から桑名を経由しながら、二人はようやく京・伏見城へと入った。
 【関ヶ原の戦い】で一度落城したこの城は、家康によって再建され、今では将軍宣下が執り行われる場となるなど、徳川家の所有する城となっていた。

 入城してしばらく、江は千姫を縁側へと呼び出した。そこにはお菓子が置かれ、ひと度の安息を過ごす事にした。
 江は、練り菓子を懐紙で取りながら口を開いた、

「先の戦で焼けてしもうたが、私と父上は、この城下にあった徳川屋敷で祝言を挙げ、そなたが生まれた。言わばここは、そなたの故郷じゃ」

『ふるさと……』

 母から初めてその事を聞かされた千姫は、数十日しか経っていないのにも関わらず、故郷である江戸の城を恋しく思った。

「千、私がそなたと共にここへ付いて参った理由わけは、分かるか?」

『いいえ?』

 心配して付いて来てくれた訳では無かったのか? そう思った千姫は首を傾げた。後ろに控えるお近とおちょぼも、顔を見合わせ二人の話に耳を欹てた。

「そなたを案じて付いて来たのもあるが……それよりも、そなたに分かって貰いたい事がある故じゃ」

 江は膝を進めてにじり寄り、千姫の肩に手を添えた、

「千、この輿入れは……そなたを幸せには出来ぬ」

「御方様! 何を仰せになります!」

 お近は衝撃的な発言に耳を疑い、江を諫めた。江はお近の方を向きながら弁明した、

「済まぬ……されど、この子に伝え置かねばならぬ……。義父上の野望を……」

「やぼう?」

 江は真実を千姫に話して聞かせた。

 祖父・家康が豊臣家の存在を煙たがっているという事。再び豊臣家が世の中を統治する日が訪れるのを阻む為、征夷大将軍という大職に就いたという事を。

「以前そなたに話したのう、そなたは母と父の為に嫁ぐのだと。だが、真は違う……。お祖父様の為なのじゃ」

『お祖父さまの……。では、お祖父さまのために、秀頼さまに嫁ぐのでございますか?』

「そういう事じゃ。これは、豊臣家を亡き者にする為の、婚儀なのじゃ」

 千姫は複雑な気持ちになった。江は、七歳の娘に重たい責務を押し付ける事への罪悪感を感じていた。ところが……

『母上の申されたこと……聞かなかったことに致します』

「千……?」

『輿入れというのは、家同士の思惑があるのが世の習いでございます。何も無いほうがおかしゅうございましょう……』

 体中を震わせながら、涙が止めどなく溢れて来た。気丈に振る舞ってはいても、幼い心には依然受け止めきれない物だった。
 江は、そっと千姫の手を握り、諭すように話した、

「千、これだけは申して置くぞ」
 
 千姫は涙を拭って、母の言葉に耳を傾けた。

「必ず幸せにはなれぬとは言うてはおらぬ……。そなたの行い一つで、すべてが決まるのじゃ。そなたなら、きっと幸せになれると……そう信じておるぞ……」

 江は涙声になりながら続けた、 

「お祖父様の野望に負けるでない……そなたは幸せになるのじゃ。この世のすべての女子よりも必ず……秀頼様とな?」

『ははうぇ………』

 千姫は、我慢出来ずに江の胸の中に飛び込んだ。江は優しく娘を抱き寄せた。

 千姫は母の胸に抱かれながら強く願った。

 流すこの涙が最後である事を。
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