花魁吉野畢生

翔子

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畢生寸暇之章 蘭香

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 十一月初め。吉原では、とりの日を祝って紋日とした。仲之町では、吉原裏手にある鷲神社おおとりじんじゃ帰りのお客で賑わいをみせている。

 紋日は毎月訪れるが、酉の日であるこの日は特に苦労した。

 馴染みの通人も多ければ新規の田舎民も多く登楼し、花魁を一目見ようと立ち止まる群衆で溢れかえっている。道中の先頭を歩く【見世番】は、声を荒らげながら見物人たちを整列させ、吉野花魁の行く道を開通させた。

 何度目か分からない道中に疲れが出始めていたが、吉野は表情を曇らすことなく、道行く男たちを妖艶に見返す余裕があった。すると男たちは「花魁が俺を見た!」と飛び上がるその反応が面白かった。三者三様の反応はあったが、鼻の下を伸ばす情けない顔は皆一緒だった。

 吉野を呼出したのは、およそ二ヵ月ぶりに登楼した伊勢崎屋の直孝だ。江戸本町に店を構える薬問屋の商売繁盛祈願のため、鷲神社へ参拝したその帰りらしかった。

 茶屋に到着すると、二人は積年の想いを果たしたかのような心持ちに浸った。花魁が隣に座し、幇間と芸者が準備をしている間、直孝が俄かに「渡したいものがある」と言って、手持ちの風呂敷から熊手の形をかたどった簪と御守を取り出した。

 持ち前の愛想を振りまいた吉野は、押し戴きながら、持参した白木の三方台に御守と簪を置いた。吉野の分だけでなく、直孝は禿と新造の分まで買い揃えてくれた。礼を述べながら、吉野以外の全員が熊手の簪を櫛と髷の間に挿し入れた。

 昼営業から今夜までの間、名代の分も合わせて御守りは二十体になった。こんなに貰ってしまっては逆に罰が当たるのではないかと考えてしまった吉野であった。

 見回すと、座敷には求めたはずである熊手の姿は無かった。直孝に聞くと、邪魔になるからと丁稚に持って帰らせたのだという。

「それで、あの件はどうなったのかな?」

 直孝がゆっくりと顔を近付かせて聞いて来た。

『あの件……? あぁっ』 

 吉野は忘れかけていたが、とは「流う楼」と「大生屋おおうや」の女将に会うため、直孝の名を借りて廓を漫遊すると偽る、という企てのことだ。

 結果としては、いざ変装をして見世を出ようとすると、大助に早くに見破られ、遅くに見世に戻ったことで、折檻を受ける寸前の所を、再び大助の機転によって七日の食事抜きの仕置きで済んだ。二人の女将については、大尽となった直孝に聞かせられるような話ではない。

 吉野は廓特有の掟、手練手管を述べた。

 吉野は彼の太ももに手を置いて、にじり寄りながら、然も当たり前のように”嘘”を直孝の耳に語って聞かせた。艶めかしく話す吉野の吐息が耳にかかり、直孝の身体が微かに震えていた。再び直孝を見つめると、そっと手を重ねて来て微笑んだ。

 どのような嘘を話したかはご想像にお任せする。

 宴会の後は、直孝と共に「夕風屋」へ戻り、身体を重ね合わせるだけであった。
 ところが、吉野の室がある二階の廊下では、若い衆と男衆らが騒々しく辺りを往来している。物々しいその有様は、まるで合戦が起きたかと思うほどで、火事の日を思い起こさせた。しかし、何かが焼かれる匂いはしなかった。

『何事でありんしょう』

 吉野が呟くと、ひめ野が「調べて参りんす」と言って、裾を手に持って騒ぎの中へ消えて行った。しばらく直孝と話をしながら立ち往生していると、女将が階段を駆け上がってきた、

「これはこれは伊勢崎屋様、いつもご贔屓にありがとうございます」

 女将はお決まりの愛想笑いを浮かべ、頭を下げた。
 そういえば、見世に入る際、いつも出迎えるはずの松枝の姿がなかった。殊に疑問を感じていなかったのだが、振り乱した鬢を手櫛で整えているのに、吉野は不審に思った。
 それは直孝も同じ考えなのか、挨拶を返した後、この状況の理由を尋ねた、

「この騒ぎはどうしたというのですか、女将。 お客が暴れでもしたのですか?」

「いいえ、単なる身内事でございます。伊勢崎屋様のお耳汚しになるだけにございます。よろしければ一階の座敷をご用意してございます。そちらでどんぞ、花魁とお陰雨りくださいなんし」

 松枝は、再び事務的な笑みを見せ、一階の方へ袖を向けた。疑惑の表情を浮かべながら直孝は、しず葉たちに先導されて一階へ下りて行った。一行を先に向かわせた吉野は、松枝の袖を掴み、事の騒ぎの原因を問い質した、

『おっかさん、この騒ぎは普通じゃない……いったい何が──』
 
 声を潜めながら聞くと、松枝は吉野の腕を掴み険しい目つきで見返した、

「──こっちを気にすることはないよ。伊勢崎屋様を不安にさせるんじゃない」

 厳しく諭され、反論することも許さぬ雰囲気に吉野はたじろいだ。


 若い衆の案内で、一階にある奥座敷へ通されると、直孝が上座に腰掛けてお茶を啜っていた。

 直孝の隣に並んで座り、煙管を口に含んでも二階の喧騒がどうしても気になった。

 隣の室に敷物が用意されたことを、振新の野分が報告すると、直孝は俄かに吉野の手を取った。普段なら、行為の前に吉野の方から手を差し出した。自分より先に重ねられる手に驚き、直孝を見ると、ふいに優しい声で語りかけて来た、

「二階のことが気になるのだろう? 行きなさい」

『直孝様……お優しい心遣い、嬉しゅうござんす。けんど、直孝様を置いてここを出ることなど出来んせんよ』

「何を申す、今宵は鷲の社へ参拝して疲れた。禿と新造を名代として残して君は行けばいい。女将が何か言って来たら、また私の名を使って色々な理由を付けなさい」

『直孝様……ありがとうござんす……。では、しず葉、楓、野分、頼んだよ』

 隅で畏まっていたしず葉が、姐女郎に突然名指しされ、虚をつかれたように目を見開いた、

「姐さん、あちきにはそんな大それたお役目はまだ……」

 名代を辞退をしようとするしず葉に、吉野は膝を突き合わせて賺すように言った、

『何を言う。お前はいずれ新造になる。直孝様はお優しいお方だ。あとで酒を運ばせるから、野分と一緒にお酌をして差し上げなんし』

 姐女郎の励ましの言葉を受け、しず葉は気を引き締めるかのように頷いた。直孝に一礼すると次の間にいる野分も続けて頭を下げた。

 直孝の優しい気遣いに甘え、吉野は座敷を出た。厨前で出くわした仲居に、酒を持って行くよう言い含めた後、再び二階に駆け上がった。
 するとそこに、ひめ野が裾を持ちながらこちらに向かって来た。吉野の姿を探していた様だ、

「花魁! この騒ぎの理由が分かりんした」

『それで?』

「蘭香姐さんが、火鉢の灰を飲み込んで自害しようとしたそうでありんす」

『蘭香が?……灰を?』

「気でも触れたのでありんしょうか」

 何故、火鉢の灰などを……いや、とにかく今は、蘭香の姿を探さないことには始まらない。

 吉野は若い衆らの人だかりが出来ている障子の前が目に留まり、し掛けを翻して野次馬の前に立ちふさがった、

『見世物じゃないよ! とっとと持ち場に戻りな!』

 野次馬を蹴散らすと、吉野は障子を開け放った。
 するとそこには、肩で息をしながら布団を被って横になる蘭香と、その周りを楼主の遊佐と医師らしき白衣の男が囲んでいる。突然開かれた障子に驚いたのか、遊佐と医師が顔をこちらに向けた。

「吉野、何故ここにおるのだ!  伊勢崎屋様がご登楼されておられるだろう!!」

『親父様、蘭香は大丈夫なのでありんすか……?』

 遊佐はふと立ち上がって吉野の腕を引き、廊下へと連れ出した。息を吐き、辺りを歩き回りながら帯に指を引っかけている。神妙な面持ちになる遊佐を吉野は初めて見た。

「話は聞いたであろう。あやつはもう無理じゃ……灰を飲み込んだのだ。医者が言うには、二、三日は声が出せぬそうだ」

 二、三日声が出せぬということは、二、三日表へ出られないことを意味する。
 身体だけあれば女郎は勤まるのではないかと、巷の人々は考えるだろう。しかし、女郎は言葉巧みに客を誘うのを旨としている。床の上において繋がる身体を燃え上がらせたまま、首元に腕を巻き付け、耳元で囁くと客は忽ちその女郎の虜となるのだ。
 二、三日寝たままの女郎を介護するほど遊佐は甘くない。吉野は、最悪な展開を想像した、

『まさか、切見世へ追い落とすおつもりではありんせんよね?』
 
 遊佐は腕を組みながら小さく頷いた、

「仕方が無かろう。年季明けまで十年……ああ、お前と一緒じゃな」

 吉野は哀れに思った。
 同時期に吉原に入り、別々の場所ではあるが、上の女郎に仕える身として生きて来た。そんな二人が、こうも違う人生を歩んでいることに、違和感を覚えた。蘭香も生きる選択を見誤らなければ、花魁として生きていたかもしれないはずだ。
 
『蘭香と二人きりで話をさせてくださいなんし』

 口を衝いて出た願いに、遊佐は困惑した、

「聞いておったのか。話すこともままならぬのだぞ?」

『話は出来なくとも、紙に書いて話すことは出来んしょう。お願い致しんす』

 吉野の願いを受け、遊佐は渋々部屋に戻り、医者と一言二言、話をした後、半刻の猶予を得ることを許された。

────────────────────
 
 高尾花魁の留袖新造だった蘭香は、三ヶ月前に起きた主とお客との心中事件を機に、下の女郎へと降格していた。

 改めて部屋を見回すと、狭いことに気付き、なおさら哀れむ気持ちが増して行った。布団と文机には年季が感じられ、唯一新しい物といえば、見世から普及される火鉢ぐらいだ。

 高尾が心中した後、松枝の計らいで高尾に付き従っていた新造や禿たちは吉野の手引きを受けることになった。しかし、ただ一人、蘭香だけは追随しようとしなかった。それが意地であることは誰の目にも明らかで、松枝もそれ以上無理強いすることはしなかった。
 しかしそのせいで、三か月後に灰を飲み込んで騒ぎを引き起こす結果となった。

『こんなことするなんて、あんたらしくもない。火鉢の灰を飲んだだけで人は死にんせん』

 堂々とした態度で吉野が煽り立てると、蘭香は嗄れた喉で驚嘆の声を上げた。苦しそうに喘ぐ蘭香は、面影はそのままであったが、首に巻かれた包帯が痛々しかった。
 悔しそうに目に涙を溜めながら、蘭香は吉野の着物の裾を握った。吉野は話をしたいのだと察し、文机にあった巻紙が目に入った。

 裾を離した蘭香は、何度も何度も布団を殴った。部屋の隅に飾られた小さな仏像が微かに揺れるほどで、今にも叫び出したいのだろう。嗄れ声が部屋中に響いた。
 吉野は、し掛けをその場で脱ぎ、文机の上にある巻紙と傍らにあった硯箱を抱え取り、元居たところに座り直した。

『どうしても死にたいんなら、勝手に逝っちまえばいいさ。禿たちのおまんまが増えるだけだから誰も困らないよ。ただね、一年も経たずに高尾姐さんに会いに行ったら、あの人は頬を引っぱたく以上の事をするよ。もちろん、夕顔姐さんからもね』

 夕顔の名を口にした途端、あの頃の記憶が走馬灯のように蘇り、胸が締め付けられそうになった。二人の女将が亡くなったことを知らされた時と同じような感覚だった、

『……お前を最初に育てたのは、夕顔姐さんだろう? いくら、相手にされなかったって、あの頃、あちきに嘘を吐く必要はなかった。もっと素直になれたんじゃありんせんか?』

「オマエニ……ナニガワカルッ……」

 掠れた声で絞り出すように訴える蘭香は、枕元に置かれた巻紙と筆を引っ掴み、横になったまま書きなぐって行った。やがて書き終え、巻紙を吉野の膝元に放り投げて来た。吉野はそれを拾い上げて読んだ、
 
 ~禿の頃から必死でのし上がって、振新まで行った。太夫になりたかったんだ。なのに途中で入って来たお前が姐さんの跡を継いで花魁だって。笑わせるな。お前なんかくたばっちまえばいいのさ。薄汚え野郎から病気貰っちまえばいいんだ~

 心の底からの恨み節に、吉野は傷付く所か感心した。文字に対して感動したのだ。書きなぐったにしては読みやすく、この文字で書かれた文を、お客が読んだらきっと惚れ惚れするだろうと思った。
 呵々と笑いながら、『やっとあんたらしくなったじゃないか』と誉めそやしさえした。

 思いがけない反応に、蘭香は血相を変えて起き上がろうとするが、吉野は強引に布団に押し戻した、

『起き上がるんじゃない。── あんたの思いはあちきが受け継ぐ。だから……蘭香? 自分一人で、またのし上がってくんだよ』

「ナ、ナニヲ……イッテル?」

『あちきに任せておくれ』

 吉野は無邪気にそう微笑んだ後、掛け布団を肩まで被せてあげ、蘭香の部屋を退いた。
 
 一階に降り立つと、外の賑やかさと三味の音が耳に届き、気持ちの整理に一役買ってくれた。
 目指す、内証の部屋を吉野は勢いよく開け放った。すると突然の花魁の来訪に、名簿に記帳していた女将が目をぱちくりさせながらこちらを見上げた、

「吉野!? あんた、ここで何をしている?」

『おっかさん、頼みがおありんす』

「まずは私の問いに答えな!! 伊勢崎屋様は? もうお陰雨り済ましたのかい?」

『しず葉と野分が名代でお相手をしてくれておりんす』

「禿と新造に伊勢崎屋様のようなお大尽を相手になぞ……」

『あちきが育てた禿と新造でありんすよ。大きな信用を置いておりんす故、ご安心くだされなんし』

 吉野はひと呼吸整え、いよいよ本題に入った。松枝は釈然としないまま、長煙管に煙草を詰め、火鉢で燻らせる。

『おっかさん、蘭香のことで話がありんす』

「騒ぎの正体に気付いたんかえ……さすがお前さんだ」

 煙を吐きながら松枝は、空を見つめた、

「たとえ治って話せるようになったとしても、こんな騒ぎを起こしたんだから処分は免れないだろうさ」

『いいや。終わらせるわけには行きんせん』

「なんだって? あんた、あいつを嫌ってたんじゃなかったのかい? 菊葉のこともそうだ。あんたどっかで頭でも打っちまったのかい?」
 
 吉野は松枝の冗談を無視し、考え付いた企てを話して聞かせた。松枝は煙管に唇を幾度も付けながら耳を傾けてくれていた。そしてだんだん、眉をしかめ始めた、

「けど、そんな当てがあんのかい? 私は無いよ」

『お任せくださいなんしよ、おっかさん』

 そうして吉野は内証を退出し、直孝の待つ座敷へは戻らず、自身の室へ駆け上がった。ひめ野に謝罪の旨を伝える任を担わせ、吉野は文机と向き合い、筆を取った。

 禿だった時分、「大生屋」の女将・志乃がしてくれたことを実行に移した。
 花魁だからこそできる事、切見世にいた女郎だからできる事、そのすべてを惜しみなく蘭香にしてあげたいと思った。
 施しというほど大袈裟なものではないが、たった一人で切見世へ落ちぶれさせるよりも切見世の規則や仕組みを指導してくれるような人がいれば、蘭香も安心して生きていてくれるのではと考えたのだ。

 余計なお節介だと言われても仕方がないが、どうしても、人生の行き先が真っ逆さまに落ちるしかない女郎を見過ごすわけには行かなかった。


翌日───────、

 この日の朝は、殊更寒さが身に凍みた。し掛けを巻き付けなければ凍えそうなほどだ。

 見世中の女郎や若い衆たちが揃って見世の前で待ち構えていると、蘭香が風呂敷を小脇に抱え、松枝と大助に付き添われて二階から降りて来た。女郎としての普段の身なりではなく、市井の女たちのような黒繻子衿の出で立ちだ。

 こんな大仰に見送りをさせるのには訳があった。自分が切見世に送られる際、誰にも気付かれずに、月光が射す明け切らぬ夜に見世を出た寂しさを思い出したのだ。蘭香にも密かに「夕風屋」から連れ出す算段が持ち上がっていたが、そんな酷い仕打ちは出来ないと、遊佐の提案を突っぱねた。
 
 蘭香に歩み寄り、吉野は折り畳まれた文を懐から取り出し、彼女の手に握らせた。そこには、羅生門河岸に住む、浮ふねの家を示す地図と、浮ふねに宛てた文が書かれていた。

『浮ふね姐さんは、優しい人柄でありんすが、時には厳しゅうありんす。強情な性格は時に女郎としては必要ざんすが、身を滅ぼし兼ねんせん。のし上がる覚悟で切見世で励みなんし』

 蘭香は、じっと吉野の目を見つめたまま頷いた。声が出せず首にはまだ包帯が巻かれているが、永遠に声が出せないわけではない。いつか再び話し合えることを祈りながら、重ねた手に力を込めた。


 皆に見守られ、蘭香は羅生門河岸へと向かった。不安が滲む、好敵手の後ろ姿を眺めながら、吉野は頭を下げて見送った。禿も新造たちも姐女郎に倣って頭を垂れるが、他の女郎からは勝ち誇ったような声が風に乗って聞こえた、
 
「ようやく生意気なヤツがいなくなって清々する」

「どうせ花魁のように、切見世から上がって来られないさ」

「あやつは運の無い女郎だからねぇ」

 京町一丁目に差し掛かり、間もなく羅生門河岸に入ろうとする。そんな蘭香に対する心ない悪口が、吉野の耳に届き、悲しくなった。


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