花魁吉野畢生

翔子

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畢生寸暇之章 菊葉

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 十月初めの亥《い》の日─── 

 吉原では、無病息災を祈る年中行事、【亥の子】が執り行われた。

 この時期、農村において刈入れがちょうど終わりを迎え、収穫を祝う行事として全国的に広まった。ここ吉原でもその風習に肖って、大火鉢を用意する日を〈亥の子の祝い〉として習慣化し、亥の子餅が配られるようになった。 瘡毒そうどく除けや風邪除けも含め、女郎のみならずお客にも差し出し、紋日であることも含め、お客への登楼願いの理由付けとした。

 吉野も前日から、多くのお客に登楼願いの文を送った。そのおかげか、今夜は多くの客の予約でいっぱいになった。
 昼見世終わり、ひめ野は紙と筆を取り出し、茶屋へ向かう道中の予定と名代を決める新造の名を吉野の言葉を聞きながら書き連ねていった、

『今宵は三橋屋様と宇野屋様が久方ぶりにご登楼されんす、つつがのう支度するようにしんせ』

「あい。あ、今日、綿入れの引き摺りと、し掛けの仕立てが上がりんす。これから受け取りに伺いんす」

『ああ、よろしゅう頼みんす』

 次の間では、夕華がしず葉と楓、そして先日から吉野に従うことになった振袖新造の野分のわきに、手習いを教えていた。
 しず葉はこの頃、十一の歳になっており初潮を迎えた。厠へ行った帰りに行為終わりの吉野に、「あっちから血が出たぁ」と泣いて縋り付いてきたのは、つい二日前の事だった。詰め物をしているためか、しきりにもぞもぞとしながら、集中して筆を走らせている。

 ひめ野が部屋を出るのを見送り、ようやく解禁された火鉢に手を当てながら、禿たちの手習いを眺めていると、徐に、外から声が掛けられた、

「花魁、よろしゅうありんすか」

 誰かと思いながら、吉野は入るよう促すと、襖が静かに開きその声の主に驚いた。

『久方ぶりでありんすね、菊葉。元気でしたかえ?』

 かつて、奈桜藤として夕顔太夫の振袖新造だった頃、何かにつけ対抗心をむき出しにして来た女郎である。仕立て処での一件の後は夕顔太夫に守られ陰口を叩かれることはなくなり、「夕風屋」炎上の折にも仮宅でちらと見かけるくらいしかなく、花魁となってからは菊葉との口論は鳴りを潜めていた。こうして二人きりで会うのは初めてとなる。

 吉野は夕華に命じて、禿たちを立ち去らせると、座布団を差し出して座るように言い、菊葉に向き直った、

 菊葉は表情を曇らすことなく、凛とした顔で襖を静かに閉め、下腹部の前に手を固く組んでそっと座布団に座った。瞳を右往左往に泳がせた後、訥々と話し始めた、

「花魁……折り入って話が……ありんす……」

『あちきを目の敵にしていんした、あの菊葉が相談事でありんすか? めずらしいこともありんすな』

 愚かな己の悪い心がそうさせたのか、神妙にしている菊葉に対し、吉野は嫌味を含んだ言葉を投げかけた。久しぶりに言い争いが出来るかと期待していたが、意外な反応を見せて来た、

「いいからっ……! 聞いてくださいなんし──」

 一瞬、今にも突っかかりそうであった菊葉であったが、平静を保ち、息を整えて自身を落ち着かせようとしているように見えた。初めてみる、菊葉の苦悶な表情を見て、吉野は子供のようにひねくれた物言いを止めて姿勢を正した。  
 一刹那、菊葉は重い口を開いた、

「わちき……客の子を孕みんした」

『相手は……?』

 驚く間もなく冷静に口から出た問いに対して、菊葉は首を振った。吉野は肩を落とした、

『分かりんせんか』

 身体を売るのが女郎の勤め。相手を判断するなど誰が出来ようか。

 菊葉は張見世に出る女郎である。
 まがきの内から通りがかる男たちを手招きして、自身が持っている長煙管で誘い、部屋に上がって床入りを果たす。引手茶屋を介さねば床入りが叶わぬ花魁や上級買いが出来ないお客が買える、唯一の手である。吉野が「夕風屋」に入る前から張見世に立ち、多くのお客を取って来た。

「わちきは間夫は作らねえ主義でありんす。二度三度交わした客はおりんせん」

『どうして今になって、孕むんだい? あちきが「夕風屋 ここ」に来る前から張り見世に立ってるんじゃなかったかえ?』

「羽目を外してしまったのでありんす。女郎として情けなかった……」

『誰にでも不手際はある……。おっかさんや親父様には?』

「言えるわけがありんせん!」

『しっかりと話した方がいいよ。あの二人の事、膨らんでくる腹に気付いたら、産み落とす前に折檻して来るかもしれない』

 怖がらせるつもりは無かったが、楼主と女将に幾度も相対している吉野からすれば、腹に子を宿す女郎にも容赦ないだろうと考えていた。
 恐ろしい考えを聞かされた菊葉は、思わず下腹部に両手を添えた。その様子を見つめながら吉野は続けた、

『菊葉はどうしたいのだ?』

「え……?」

『産みたいのかって聞いている』

「分かりんせん……。医者にも診て貰っておりんせんから、この腹の子が今どのくらいなのか、煙管も張り見世で吸ってるから危害が無いか判断が付きんせんし……その──」

『産みたいんだね』

 吉野がそう断言すると、菊葉はこくりと頷いた。

 すると花魁は急に立ち上がり、女郎の手を引いた。途中、階段で行李を重そうに抱えて上がってくるひめ野に出くわしたが、吉野は構わず横を素通りした。新造に呼び止められるのを後目に、二人はある部屋にたどり着いた──楼主と女将の部屋・内証だ。

「どうしてここに?」

 声を潜めながら、菊葉は焦りの表情を見せた。

『話すんだよ。菊葉の本当の気持ちを』

 吉野はニコッと笑って、障子を開け放った。

 相変わらず殺風景で煙たい部屋には、お目当ての楼主と女将。そして思いがけず、番頭の大助がいた。何やら冊子を広げながら談義中であり、急に開かれた障子に驚いて素っ頓狂な顔でこちらを見上げている。

「これ、吉野! 藪から棒に入りおって!!」

「菊葉、お前さんがどうしてここに?」

 楼主と女将からの戒めの言葉を聞き流しながら、吉野は大助を押し退けて二人の眼前に菊葉と並んで座った。そして俄かに両手をついて、

『図らずも邪魔を致しんして、平にご容赦願いんす』

「申し訳ござんせん」
 
 菊葉も吉野に続いて頭を下げると、松枝が冷静に問いかけ来た、

「一体どうしたってんだい。そんなに焦ってここまで来るってことは相当重要なことだろうね?」

『あい。実は──』

「お待ちくださんし、花魁。わちきから……話しんす」

 吉野の袖を引いた菊葉は、先ほどまでの不安げな菊葉ではなく、覚悟を決めた一人の母のような表情をしていた。そして、その腹の子を抱えた母は楼主と女将、並びに番頭にすべてを打ち明けた。

 菊葉が話し終えると、なぜか吉野の鼓動が早鐘を打ち始めていた。当事者じゃないにしても、かつて言い争っていた女郎の心に一瞬でも同調し、楼主と女将から言い渡される言葉がどんなものになるのか、戦々恐々せずにはいられなかった。

 遊佐は考えるように声を唸らせた。松枝は夫の反応に痺れを切らし、菊葉に言葉を掛けた、

「言っとくけど、覚悟が必要になるよ。まだ二十歳はたちにもなってないお前が、を育てられるとは到底思えないね」

「その覚悟は……まだはっきりと言えんすけんど……死なせないように努めんす! お願いでありんす……産ませてくださんし!!」

 涙混じりに菊葉が訴えると、しばらく唸り声をあげていた遊佐が、空気を裂くように太ももを叩いた、

「産ませてやろう」

「真でありんすか!?」

 予想外の返答に、吉野と菊葉は互いに見合って微笑んだ。気付けば吉野は、菊葉の手を固く握りしめていた。

「しかし、わしらの子として預かる」

「え?」

 希望満ち溢れた想いから、一気に奈落の底に落とされたような気分になった。

『それは、何故でありんすか!』

「子を孕んだまま、お客と睦み合わせるわけには行かん。産んでからの後も、子の教育に悪かろう。座敷一室をお前に売ってやる。子が産まれるまでの間、人らしい生活をさせてやる。だがその代わり、産まれた後はわしらが預かり、お前たちを目合わせることは禁ずる!」

 吉原では、下の女郎が子を産むことを許されておらず、堕ろすことが通例であった。それによって、子を流す行為は女郎の身体を容赦なく蝕む。
 子を流す専門の医者に診てもらいたくても、その金額は高く、下級の女郎が到底払える値ではない。各々医者に掛からず、冷たい水に長く浸かる、串を中に入れ腹の子に突き刺す、丹(水銀)を飲む、もしくは一度産んでから息の根を止め骨を折るなど、残虐非道な方法を駆使して赤子を堕ろしていた。

 張り見世女郎に子を産ませ、楼主の子にしようとする企みは、【忘八】として当然の行いであった。しかし、遊佐の斟酌しんしゃくするつもりなど毛頭ない姿勢に賛同することが出来ず、憤懣ふんまんやるかたない思いをぶつけた、

『いい加減にしなんせ、親父様。母と子を会わせずにおくなんぞ、あんまりにも惨うありんす! せめて、会わせるだけでも認めてあげては……』

「花魁の言う通りでごぜえやす親父おやっさん」
 
 先ほどまで後方で黙りこくっていた大助が急に声を上げた。遊佐は、突然開口一番に進言し出した番頭に向けて一喝した。

「お前は黙っとれ、大助!」

「いいえ黙りやせん! 菊葉に客の子を孕ませたのはそもそも、見世の番頭であるあっしの責任でもありやす。どうか、あっしに免じて許してやってくだせえ!」

『親父様、お願い致しんす!』

 吉野、菊葉、大助の三人は遊佐に頭を下げた。遊佐はその光景に居心地悪く感じ、隣に座す松枝に助けを求めた。ところが、

「あんた……あたしからもお願いだよ」

「おまえまでもか……」

 松枝は、着物の裾を絡げて夫に向き直り、両手を付いた。ちらと顔を上げた吉野は、女将のその心意気に感動を覚えた、

「子が無いあたしらがこの見世の跡継ぎに、何も、張り見世の子じゃなくてもいいじゃないか。──ああ、気を悪くしないでおくれよ」

 松枝は菊葉に顔だけを向けて、手を前に差し出しながら詫びを入れた。そして再び夫を見上げ、言葉を続けた、

「子が親を知らずに育つのは、お武家やお公家に限ってのこと。廓でそんな惨い事をさせる必要ない。育てることは難しくても、朝早くや昼見世終わりに一緒に遊ばせてやることぐらいは出来る。それくらいはさせてやっておくれな」

「出来んす……いいえ、必ず致しんす!」

 狭い内証で四人の熱い視線を受けた遊佐は、空気を漏らすように口から息を絞り出し、脇息にどっさりと寄りかかった。

「わかった。許そう……」

 降参した様に項垂れる楼主と、にっこりと微笑む松枝を見た吉野は、喜びで震えそうになった。大助の方を向くと、同じく勝ち誇ったような顔になり、そっと頷いて来た。

 内証を出ると、菊葉は勢いよく吉野の手を取った、

「花魁……ありがとよ。昔はあんたのこと嫌いだったけど、本当に感謝してる……」

『良いんだよ。健康な子供を産みなんし』

「あい!」

 やがて、菊葉が身籠ったことは「夕風屋」中の皆が知ることとなった。腹が目立ち始めたころから、菊葉は籬内に立つのを控え、楼主が宣言した通り、用意された座敷一室に移り住んだ。吉野は度々、菊葉の部屋を訪れ、赤子の襁褓むつきや反物などを贈った。

 言い争っていた昔の影は鳴りを潜め、今では何でも話し合える朋輩の間柄となったのだった。

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