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第十八章 吉原改革 ー前篇ー
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宝暦十三年(1763)正月──、年始の大紋日で吉原中の花魁と上の女郎が一堂に会する日が五年に一度行われるという。
そんな話を松枝から聞かされたのは、会合が催される三日前のことだ。
『そんな急に言われたって準備ってもんがあるだろう、おっかさん』
円窓の縁に片腕を預けながら、吉野が文句を垂れた。
「準備って、そんな大したもんじゃないよ? 楼名主の親父様方が花魁同士で親睦を深めさせようっていう、ただそれだけのことさ」
『親睦だぁ? 他見世同士で新年のあいさつして、お餅でも食って仲良しごっこってか? くっだらね……』
「まぁまぁとにかく、よろしく頼んだよ?」
呆れ果てている吉野をなだめるように手を振ってから、松枝は裾を手に抱えて室を出て行った。閉められた襖を睨み付けた後、吉野は手近にあった煙管に煙草を詰め込んだ。一服煙を吐いて、ユラユラと登っていく様を見ながら、吉野は先ほど自分が口走った言葉に戸惑いを今更ながら感じた、
~~『他見世同士で新年のあいさつして、お餅でも食って仲良しごっこってか? くっだらね……』~~
かつて、よしと名乗っていた切見世時代。女郎同士にも友情というものがあってもよいのではないかと考えていた。お互いを貶し合って、嫉妬心を抱えるよりも、お互いを支え合ってこの廓を盛り立てて行き、果てはこの苦界を変えようという、大それたことを。
嬢香には「ばっかじゃないの」と呆れられたが、当時のよしはそんな拙い決意を大切にしようと、誓いさえ立てていた。
現に、嬢香とは今でも交流を続けているし、「大生屋」のかほりとも、あれから時折、お茶屋へ一緒に出かけて他愛のない話に花を咲かせたりする。
ところがこの五年で、今ではそんな気持ちはとうに薄れてしまっていることを痛感した。下の女郎に加えて上の女郎の統括、そして新造と禿の教育、と頭を抱える日々を送ってからこの方、吉原は仲良しをする場ではないことを知ったのだ。
『いいさ、やってやろうじゃないさ!』
初心な頃を思い出した吉野は、三日後に控える会合に殴り込む勢いで挑むことを決心した。
吉原・松坂屋 ───────
年始の会合は【太夫選出】に尽力してくれた「松坂屋」で催された。大広間の襖と障子を開け放ち、吉原中の花魁と上の女郎たちが居並んだ。見物客を多く招き入れ、一種のお披露目会が如く、豪勢な年始の華が咲き乱れた。
吉野は気付いた。ただの親睦会ではないじゃないか、と。しかし、今となってはどうでも良いこと。大見世の花魁たちと肩を並べられていることに鼻高々であるからだ。
しばらく、見物客に見られている中でじっと斜め下を見据えて座っていると、隣で同じ姿勢の藤尾(ひめ野)が、好色そうな目つきのお客に向かって、小声で文句を垂れた、
「いい加減帰ってくれよ……足が痛えんだ」
花魁は左膝をやや立てて、右手の肘を張り、左手で袖口をつまむという独特な座り方をする。これを折敷と呼ぶ。
藤尾がふと姐女郎である吉野を見やると、まっすぐと身体を前に向けて微動だにしなかった。片や藤尾はプルプルと震えていて落ち着きがない、
『耐えなんし』吉野が言った。『振新の時にちゃんと教えたはずだよ。もう少しの辛抱だ』
唇をなるべく動かさないようにしながら吉野は妹女郎を励ました。勇気付けられたのか、藤尾は体勢を立て直して、足の痛みになんとか耐え抜いた。
それからお披露目は昼九ツ(現在の十二時)には終わった。
その後、花魁たちは別室の広間に通された。そして吉野の予想通り、餅と甘酒が振る舞われた。皆、よほど腹が減っていたのか、白餅に群がり、がっついている。
餅を頬張る藤尾を呆れ顔で一瞥したあと、同じく幸せそうに食べている花魁と女郎たちを眺め回した。
誰もが美しい顔立ちをしており、華やかで色とりどりのし掛けに身を包んでいる。しかしその陰で、辛酸を舐めてここまで登り詰めたという苦労も同時に感じ取れた。
太夫から【花魁】という呼び名に変わってから三年、吉原中にたくさんの花魁が誕生した。太夫を経て成った者もいれば、散茶女郎から成った者、稼ぎも器量も度胸もある者が特別選ばれて成った者と様々だった。
ここには、大見世の花魁は四人。中見世の花魁は吉野たちを含めて三人。その他三人は中見世の花魁に準ずる上の女郎たちだ。
餅もなくなり各々がだらけ出すと、親睦という名の探り合いが始まった。各自の得意分野であったり、お客たちのアレの素晴らしい所、下手具合などを語り合い、笑い、自慢する……女の醜い争いが幕を開けた。
ありありと、伊達家武士たちのソレは小さいだの、商人の方が一番床上手だのと聞かされた後、とうとう吉野の番になった。吉野は自信持って語った、自分のお客はとかく悪くも良くもない、と。
周りの反応を伺うと、感心してくれたのは未だ番が回って来ていない中見世の女郎だけだった。一方、答え終えたそのほかの大見世の花魁たちは、軽蔑したような眼差しを吉野に向けた。
その中の一人、河原崎花魁が口を開いた、
「そんなこと言いんして、まっこと偉そうな羅生門上がりの花魁でござんすこと、なぁ?」
「ほんまに、考えが明け透けすぎてたまらんわ」
そう河原崎に賛同したのは、花垣という花魁だ。
二人とも、大見世・「海老那楼」と「糸菊屋」の花魁である。見た目は美しいのにその心は真っ黒に染まっている様子だ。
そんな二人の罵りに屈するつもりもない吉野は軽く笑ってあしらい、反論しないようにした。吉野のその態度が気に食わなかった河原崎は、更に見下すような言葉を吐き捨てた、
「まぁ、気色悪ぃわぁ。何を笑っていんしょう?」
「今朝、変なもんでも食ったんじゃないんかえ?」
そのひとことで河原崎は花垣の肩を叩きながら大口を開けてあざ笑った。挙句には指を差し、今度は吉野の容姿を馬鹿にし始めた。
傍らに控えていた藤尾が立ち上がりかけに言い返そうとするが、吉野はすかさず袖を引いた。
「姐さん、このまま言われ続けていいのでありんすか?」
吉野は小さく『いいから』と宥めたが、その模様を見ていた河原崎が徐に嘲笑し出した、
「あんたの教えが悪いから、妹女郎も楽に座れないでやんの!」
『は……?』
吉野は一瞬、河原崎が何を言っているのか分からなかった。しかしそれはすぐに判明した。
「しっかり折敷を教えてやれば辱めを受けずに済んだものを。ふふ、教える時間も無かったのでごありんしょう。あっははは──や……っ!」
高笑いしていた花垣の声が急に途切れた。瞬間、鈍い音が鳴り、それと同時に勢いよく壁に突き飛ばされて伸びている無様な花垣が遠くにいた。その場にいた全員が凍り付いた。
何が起きたのか理解出来なかった河原崎は顔を上げると、離れた所に座っていたはずの吉野が目の前に立っていた。
「ひっ……」
その鋭い目つきに、河原崎は蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなった。
『あちきのことはなんとでも言っていいさ。ただなぁっ! 妹女郎を悪く言うのはぜってぇ許さねえ!』
河原崎は負けじと吉野を睨み付け、嘲った、
「は、ははっ……あんた、今何をしでかしたか分かってんのか? お、大見世の花魁をっ……つ、突き飛ばすなんぞっ」
吉野が睥睨すると、花垣は壁にもたれながら首をだらんとさせて身動き一つしていなかった。打ちどころが悪くて事切れてしまったのではないかと吉野は不安になった。そんな吉野の反応を見逃さなかった河原崎は勝ち誇ったような顔で、
「この事、「松坂屋」のおやっさんが知ったら、ただじゃ──」
「お前さんたちが喧嘩を吹っ掛けたのでござりんしょう」
そう割って入ったのは、柱に寄り掛かりながら【源氏物語】の夕霧帖を読んでいた薄雲花魁であった。かつて、吉野が花魁教育で「双葉楼」から抜け出した折に、偶然、大助に連れられて見た道中を張った女郎である。
花垣の姐女郎で「糸菊屋」の看板女郎にあたる薄雲は、気を失っている花垣を足で突っついたり押したりした、
「あ~あ~、こんなに伸びちまって。生きてんのかね?」
体がビクつくのを確認すると、納得したように「ふぅん」とつまらなさそうに頷いた。
「薄雲花魁! このアマをなんとかしておくんなんし! 図々しいにもほどがありんす!」
河原崎が訴えかけると、薄雲は目にもとまらぬ速さで近づき、相手の顎に掴みかかった、
「図々しいのはお前さんの方だよ、河原崎。大見世の花魁のくせに、中見世の花魁をいじめて何が楽しいんだい? あちきもお客の悪口を言うなんてまっぴらごめんでありんす」
凄みのある薄雲の言葉に、河原崎は声にならない声を上げて舌を巻いた。薄雲は軽蔑したような目で顎を押し返すと、相手はそのまま畳に手をついて項垂れた。
立ち上がりがけに吉野を一瞥した後、今度は他の花魁たちに向き直った、
「べらべらとお客の個人的な内情を洩らしたお前たちも同罪だよ! 二度とこんなくだらないことをするな! 分かったな!」
「あ、あい……花魁」
一同が両手をつき、薄雲花魁に頭を下げた。吉野も続けて低頭し、一気にこの花魁のことを好きになった。
────────────────────
── これは少し前の話である。
二年前の宝暦十一年(1761)六月十二日── 前将軍であり大御所として御城の西ノ丸で余生を過ごしておられた、やんごとなき御方が薨去された。そして、その後、とある人物が大御所の遺言によって現将軍の御側御用取次として重用された。
「では次に、日本堤の吉原遊廓についてですが──」
吉原という言葉に、居並ぶ老中らは虚を突かれたように目をぱちくりとさせた。武士ならいざ知らず、大名は廓遊びを原則として禁止されている。国の政に従事する者としての体裁を護るためだ。ただし、その大半は密かに登楼し女郎を買う大名も少なくなかった。
身をよじらせながら老中達は、御側御用取次・田沼主殿頭意次の言葉に耳を傾けた、
「── 昨今、その吉原なる遊里の風紀が乱れております。岡場所から移った身分の低い娼妓らが跋扈し、客に暴行を働く騒ぎが起きてございまする。四郎兵衛会所と番所の報告によりますれば、一年で百余人ほど」
衝撃的なその数字に老中たちは呆気にとられた。
「よって、ご公儀が長らく取り締まって参った吉原遊廓を閉鎖しようと考えておりまするが、如何であるかご老中方。方々のご意見をお伺いしたく存じます」
田沼の急な問いかけに老中たちは戸惑った。数人が重い口を開けた、
「しかしながら、吉原遊廓は東照大権現公が御認めになられた、駿府城下の二丁町遊廓が起原とされております」
「公儀が認めた唯一の遊里として、そして民たちの行く当ての無い漢の欲望を吐き出す場所として残しておくべきかと存じます」
「年に収められる冥加金も──わずかではございまするが、貴重な収入源となりましょう」
田沼意次は様々な意見を述べ立てる老中らを睨め付けた。一部とはいえ、老中たちの廓通いは先刻承知のこと。咎める気も起きなかった。田沼はもう一度老中たちを見回した後、深く息を吸って仮の結論を声高に告げた、
「方々のご異論は検討しなければなりませぬ。追って結果を申し上げますので、次の議題に取り掛かりましょう」
淡々と言葉の羅列を滑り出すと、紙を丁寧に畳んで、葵の御紋が印された漆塗の台から新たな意見書を取り上げた。
下段に控えたる老中らは一様に安堵した。「今宵、吉原へ赴こう」とそれぞれの頭の中で舌なめずりした。
───────────────────────
そして現代──、御城の寄合で吉原の名が出されたことなど露知らぬ吉野は、眼下に広がる仲之町を見つめていた。以前と比べて、登楼する客の出入りが明らかに減ったように感じる。夜の帳が下りて、道中を張る前に外を眺めた時も人の影は疎らであった。
吉野は言葉にするのも憚れるほどの最悪を想像した。
吉原の衰退……。この吉原が無くなり、女郎たちは行く当てもなくなり途方もない人生が始まる、と。
しかし幸い、呼べば大抵の馴染み客は翌夜には登楼してくれる。今宵もそうだ。茶屋からの呼出がある、と大助が今朝方告げて来ていた。それを思い出し、逸る胸を抑えつけてただの思い違いかと吉野はかぶりを振った。
それから月日が経って、宝暦十四年(1764)三月──
吉野花魁の禿だったしず葉が、十五歳になって晴れて振袖新造になり、名を瑞香と改めた。朱の振袖から縹色の引き振袖に着替え、髪型をつぶし島田に結い上げ、歯にはお歯黒を塗った。
大人への一歩を踏み出そうとするしず葉の背を見つめながら、吉野は他の禿と新造を引き連れて、「夕風屋」と縁のある見世々々への挨拶を済ませたのち、男衆らに頼んで、茶屋と船宿へ赤飯を贈らせた。
そんなお祝い気分に満ちていた「夕風屋」だったが、それはたったひと月で崩れ去った。
破談したかに思えたご公儀の改革が実行に移され、吉原の見世が次々と潰れたのだ。
その最初の取り潰しの被害にあったのは、大見世・「松坂屋」であった。
「「松坂屋」様がまさかこんなことに……」
「夕風屋」の楼主と女将の居室・内証で、松枝が身を震わせながら不安そうに呟いた。遊佐は何度も何度も火鉢に煙管を叩きつけている。必死に気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。が、その後放たれた声色からは、まったく収まりきっていないように聞こえる、
「「松坂屋」だけではない。大見世、中見世、小見世問わず、廓から消えて行っている」
「抱えている女郎たちはどうなるんだい?」
松枝が遊佐に訊ねた。遊佐の声は突如として暗くなった、
「借金がある以上、廓を出る訳にも行かぬだろう。営業を許可された他の見世に鞍替えされるか、切見世へ飛ばされるか……まぁ、それしか無いだろうな」
「そんな……」
「まさか、こんなことが」と、内証を通りかかった藤尾は裾を絡げて一目散に階段を駆け上がった。
────────────────────
「姐さん!!」
ちょうどその時、花を生けていた吉野は勢いよく開いた襖に驚き、誤って茎を真っ直ぐに切ってしまった。肩で息をする妹女郎に向かって、吉野は諫めた、
『部屋が違っているぞ、藤尾。自分の部屋へお戻りな』
「そんな呑気に花を生けてる場合じゃありんせん姐さん! 大事でありんす!」
慌てて駆け寄る藤尾を無視して、吉野は大きくため息をついた、
『何だってんだい。お前の大事が大事だったことはあったかえ?』
「吉原が無くなるかもしれないのでありんすよ!」
耳を疑う言葉を聞いて、吉野は思わず花に伸ばした手を止めた。しかしすぐに、呆れたように小さく笑った、
『はは……、そんな莫迦なことがあるわけないだろう? 吉原は御上が認めたたった一つの遊里なんだよ? 年に貰われる賄い金だって──』
「その御上が、大見世である「松坂屋」を潰すと思いんすか?」
花鋏が吉野の手から滑り落ちて、大きく音を立てた。ゆっくりと顔を上げると藤尾の額から汗が伝っている。表情からして、先ほどから繰り出された言葉は偽りでも噂止まりの話でもないと分かった。
今日まで一四七年……ご公儀が吉原の見世を閉店に追い込む話など聞いたことがない。何故このような事が罷り通るのか? 御城が何者かの手によって制圧されたのか?
もはや、そんなことまで考えてしまっていた。
吉野は気付けば、内証に駆け込んでいた、
『ほんに御上が「松坂屋」を取り潰したのでありんすか? 御上が認めたこの吉原が消えてしまうのでありんすか!』
遊佐と松枝の前に跪きながら、吉野が捲し立てるように問い質した。もはや、吉野の急な来訪に驚きもしない二人だった。改めて顔を見れば、暗く沈み、憔悴しきっている様子だ。
遊佐は脇息に体を預けながら力なく頷いた。その反応を見て、吉野は得体のしれない恐怖が体をジリジリと駆け上っていくのを感じ、声が震えてくるのが分かった、
『あちきらに……何か出来ることはありんせんか?』
「どうにもこうにも出来んだろう。御上の決定がそうなら……従うしかないのだ」
いつもの威勢の良い、偉そうな態度はどこへやら、弱気になって言う遊佐と黙りこくって煙管を吹かす松枝に、吉野は我慢の限界を感じた。
こんな二人の姿なんて見たくない、と武者震いする身体を抑えた、
『親父様とおっかさんは、吉原で見世を構えて何年になりんすか?』
突拍子もない質問を投げかけられ、松枝は思わず訊き返した、
「なんなんだい、藪から棒に」
『答えておくれなんし!』
吉野に圧されるように松枝は遊佐と顔を見合わせる。
「もうすぐ三十年になろうかねえ……」
頭を掻きながら遊佐は「そうだな」と言って同意した。
『あちきは……十二年でありんす』
吉野が呟くように言うと、遊佐は掠れ声で「それがどうしたというのだ?」と怒鳴った。その憎たらしい言い方に吉野は初めて和んだ。
『たった十二年しか、廓で暮らしたことがありんせん。他の女郎も、きっと同じでありんしょう』
志乃、かほり、花辺、嬢香、くれ葉、浮ふね、菊葉、夕顔、蘭香、高尾、夕華、藤尾、瑞香……吉野と関わった廓の女たちの顔が瞳の奥で流れて行った。
『されど、あちきらにはここしかありんせん。皆の居場所を護るためにも、吉原が無くなるのをじっと待つ訳には参りんせん!』
吉野はすっくと立ち上がって踵を返し、障子に手をかけた。
「どこへ行くってんだい!」松枝が後ろから呼び止めた。「御上のなさってることを止めさせようって考えてんなら、今すぐよしな! お前さんにいったい何ができるってんだい」
一介の花魁、しかも切見世出身の女郎にできることなんて高が知れている。それを吉野が一番分かり切っていた。しかし──、
『……やってみなきゃ分かりんせん!』
吉野の決心は固かった。
────────────────────
昨年の正月大紋日で顔を合わせた花魁たちとは今日まで険悪な関係にあった。しかし吉野は、今度のご公儀の行いについて姐女郎である彼女たちがどういう考えなのかどうか、話しを聞きたいと思い至った。
自室に戻った吉野はさっそく筆を執り、「双葉楼」に来るよう文を送った。返事はすぐに届き、吉野は身なりを整えるのもそこそこに「夕風屋」を出た。
昼見世終わりの夕七ツ。普段なら客以外の人でごった返していた仲之町だったが、思った通りシンとしていた。通りがかる他の見世の若い衆も、見回りをする番所の同心もどこか気鬱な表情なのが見て取れた。
寂れた仲之町を見て、吉野は胸騒ぎを覚えながら、足に力を込めて目指す場所へ向かった。
吉原・双葉楼 ───────
『お座敷をお貸しいただき、誠にありがとうござんす。白蘭師匠』
花魁たちが来る前に先に茶屋を訪れた吉野は、花魁教育を施してくれた師匠・白蘭に礼を述べた。
「あんたの頼みとありゃ引き受けない理由はないさ。こんなちんけな座敷でよければいつでも貸すよ」
相変わらずの師匠の気丈ぶりに、吉野は安心感すら覚え、強張っていた心が解かれるようだった。白蘭は近くの煙草盆を引き寄せて、煙草を詰めてから火鉢に顔を近づけた、
「それにしても……花魁たちは来るのかねえ」
煙を吐きながら白蘭は入口のある表茶屋の方を眺めた。吉野も後に続き、手入れの行き届いた庭を見つめ、静かに言った、
『きっと来なんす』
その言葉通り、表茶屋を通って中庭を通ってくる三人の花魁が着到した。座敷に通されると、白蘭に一礼してから河原崎花魁が吉野の方に顔を向けて文句を垂れた、
「急に呼び出して来て一体何だってんだい? 線香代を要求するよ」
昨年の正月とは打って変わって河原崎は化粧もせず、口調もさらに乱暴的であった。河原崎の隣に座った花垣花魁が刺すような目を吉野に向けた、
「中見世の花魁ごときがあちきらを呼び出すんじゃないわ」
語気を強めてそう言った後、花垣は庭に目線を向けた。
難癖ある二人の花魁を前にして吉野は気後れしそうになったが、唯一微笑みを湛えてこちらを見つめる薄雲花魁を見て、救われる思いだった。
息を整えてから、吉野は三人にあの件について話を始めた。激しく狼狽するであろうと思ったが、河原崎と花垣の反応は意外なものだった、
「そんなこと、前々から言われていたことだよ」
「ほんに、知らなかった方が驚きだわ」
吉野が訳も分からないという風に目を泳がせていると、柱にもたれ掛かっていた薄雲花魁が気だるそうに口を開いた、
「元々ご公儀が、三年ぐらい前から企てていた話らしいよ」
薄雲は、三年前の記憶を呼び起こすように目を瞑ってから、淡く前を見据えて語り出した、
「床の中で旦那様が仰ったのさ。吉原を閉鎖しようとする話が寄合で持ち出された、と。けんどすぐに、そんな話は即、その場で沙汰止みになった、と笑ってたけどね」
大見世に身分を隠した老中が登楼してくるという話を、吉野は聞いたことある。それにしても、いくら花魁相手といえど、女郎にご公儀の内情を洩らす愚かな幕臣がいることが信じられなかった。
だが、今の段階でそんなことを考えている暇はない。吉野は重たくなった口を強引に開けた。
『知ってて、何もしようとなさらなかったのでありんすか?』
「あちきらはもうすぐ年季が明ける」
薄雲に訊ねたつもりだったが、河原崎花魁が口を開いた。まったく噛み合っていない応えに、吉野はだんだん苛立ちを覚えた。
「年季明けが控えている女郎には特別に江戸市中で暮らすことを約束されてんだよ」
河原崎が自慢げに言った。
そのような話を聞いたことがなかった吉野は、河原崎の発言を訝ったがこの際はどうでもいい。それよりも、吉原が無くなることを知ったうえで今日までのうのうと過ごし、我が身可愛さに己の年季が明けるのを待って、見世々々が消えていくのを高みの見物で笑おうとしている河原崎と花垣が許せなかった。
『黙って聞いてりゃずけずけと……っ』
「は?」
河原崎と花垣が同時に目を見開いた。依然、柱に体を預けていた薄雲も艶めかしげな目で吉野を見上げた。
『自分が安全なら何でも良いってのかい! あんたら花魁だろう? あんたらの下に、多くの禿や新造たちが従ってんじゃないのか? あんたらだけが女郎やってんじゃねえんだよ!!』
「お前……一度ならず二度までも!」
花垣は昨年突き飛ばされたことを今でも根に持っていた。河原崎が声を荒らげて吉野の胸倉を掴んだ、
「誰に向かって物を言っている!!」
『ああ、何度でも言ってやるよ、「海老那楼」の花魁に「糸菊屋」の花魁!』
吉野は体が震えて動かなくなるのも厭わず、二人を交互に睨み付けた。
『この廓には、何万もの人らが暮らしてんだ。もしも御上の決定で、廓自体が無くなっちまえば、それら全員が路頭に迷うってことになる。そんなこと、絶対にさせない……何としてでも止めなきゃなんねえんだよ!』
「ふんっ!」
河原崎は鼻でせせら笑い、吉野を突き放した、
「女郎のあんたに何が出来るってのさ。ご公儀が決定したことを簡単に払い除けられちまったら、ご公儀の意味がねえじゃねえか!」
崩した体勢から衿を正した吉野は、キッと三人を見つめ、心に決めていたことを言葉に替えた。
『大尽たちの協力を仰ぐ』
「吉野……今、なんて言った?」
薄雲は好奇な目になって背を柱から離した。吉野はその反応を見て、自分の考えを話した、
『あちきのお客にも、老中や大名とは行かなくても御城へ登城できる旗本や商人もおられんす。その方々に文を書き、吉原を護ってくださるようお願いするつもりでありんす』
「バカな!」花垣が俄かに立ち上がった。「そんな身の危険を冒してまで協力するお客なんているはずが──」
『やってみなければ分からないではありんせんか。そうでありんしょう? 姐さん方』
そうきっぱりと吉野が言うと、花垣はゆっくりと腰を下ろし、口を噤んで俯きだした。河原崎も何か言いたげに唇を動かしていたが、二の句を継げずにいる様子で、意味もなく衿を頻りに触っている。次に薄雲を横目に見ると、何かを考えている風に腕を組んでいたが、そのまま再び柱にもたれ掛かり、庭へと視線を投げた。
待っている時間が惜しかった吉野はすぐさま「夕風屋」へ戻ろうと思い立った。
『協力する気が無いってなら、もうこの話は終わりに致しんしょう。姐さん方、お呼び立てしんして誠に申し訳ござんせんした』
三人に頭を下げた後、吉野は白蘭にも深々と一礼し「双葉楼」を後にした。面食らった河原崎花魁と花垣花魁はただただ吉野の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「ふんっ、あんな女郎に何が出来るってんだ……なにが……」
「吉野花魁ならやってくれるさ」
河原崎が独り言ちると、ひたすら無言で見守っていた白蘭が灰吹きに煙管を叩きつけながら発言した。河原崎、花垣、薄雲の三人が顔を向けると、白蘭は笑みを浮かべた、
「あたしは信じたいねぇ。あの子がこの吉原を護り切るのをさ」
そんな話を松枝から聞かされたのは、会合が催される三日前のことだ。
『そんな急に言われたって準備ってもんがあるだろう、おっかさん』
円窓の縁に片腕を預けながら、吉野が文句を垂れた。
「準備って、そんな大したもんじゃないよ? 楼名主の親父様方が花魁同士で親睦を深めさせようっていう、ただそれだけのことさ」
『親睦だぁ? 他見世同士で新年のあいさつして、お餅でも食って仲良しごっこってか? くっだらね……』
「まぁまぁとにかく、よろしく頼んだよ?」
呆れ果てている吉野をなだめるように手を振ってから、松枝は裾を手に抱えて室を出て行った。閉められた襖を睨み付けた後、吉野は手近にあった煙管に煙草を詰め込んだ。一服煙を吐いて、ユラユラと登っていく様を見ながら、吉野は先ほど自分が口走った言葉に戸惑いを今更ながら感じた、
~~『他見世同士で新年のあいさつして、お餅でも食って仲良しごっこってか? くっだらね……』~~
かつて、よしと名乗っていた切見世時代。女郎同士にも友情というものがあってもよいのではないかと考えていた。お互いを貶し合って、嫉妬心を抱えるよりも、お互いを支え合ってこの廓を盛り立てて行き、果てはこの苦界を変えようという、大それたことを。
嬢香には「ばっかじゃないの」と呆れられたが、当時のよしはそんな拙い決意を大切にしようと、誓いさえ立てていた。
現に、嬢香とは今でも交流を続けているし、「大生屋」のかほりとも、あれから時折、お茶屋へ一緒に出かけて他愛のない話に花を咲かせたりする。
ところがこの五年で、今ではそんな気持ちはとうに薄れてしまっていることを痛感した。下の女郎に加えて上の女郎の統括、そして新造と禿の教育、と頭を抱える日々を送ってからこの方、吉原は仲良しをする場ではないことを知ったのだ。
『いいさ、やってやろうじゃないさ!』
初心な頃を思い出した吉野は、三日後に控える会合に殴り込む勢いで挑むことを決心した。
吉原・松坂屋 ───────
年始の会合は【太夫選出】に尽力してくれた「松坂屋」で催された。大広間の襖と障子を開け放ち、吉原中の花魁と上の女郎たちが居並んだ。見物客を多く招き入れ、一種のお披露目会が如く、豪勢な年始の華が咲き乱れた。
吉野は気付いた。ただの親睦会ではないじゃないか、と。しかし、今となってはどうでも良いこと。大見世の花魁たちと肩を並べられていることに鼻高々であるからだ。
しばらく、見物客に見られている中でじっと斜め下を見据えて座っていると、隣で同じ姿勢の藤尾(ひめ野)が、好色そうな目つきのお客に向かって、小声で文句を垂れた、
「いい加減帰ってくれよ……足が痛えんだ」
花魁は左膝をやや立てて、右手の肘を張り、左手で袖口をつまむという独特な座り方をする。これを折敷と呼ぶ。
藤尾がふと姐女郎である吉野を見やると、まっすぐと身体を前に向けて微動だにしなかった。片や藤尾はプルプルと震えていて落ち着きがない、
『耐えなんし』吉野が言った。『振新の時にちゃんと教えたはずだよ。もう少しの辛抱だ』
唇をなるべく動かさないようにしながら吉野は妹女郎を励ました。勇気付けられたのか、藤尾は体勢を立て直して、足の痛みになんとか耐え抜いた。
それからお披露目は昼九ツ(現在の十二時)には終わった。
その後、花魁たちは別室の広間に通された。そして吉野の予想通り、餅と甘酒が振る舞われた。皆、よほど腹が減っていたのか、白餅に群がり、がっついている。
餅を頬張る藤尾を呆れ顔で一瞥したあと、同じく幸せそうに食べている花魁と女郎たちを眺め回した。
誰もが美しい顔立ちをしており、華やかで色とりどりのし掛けに身を包んでいる。しかしその陰で、辛酸を舐めてここまで登り詰めたという苦労も同時に感じ取れた。
太夫から【花魁】という呼び名に変わってから三年、吉原中にたくさんの花魁が誕生した。太夫を経て成った者もいれば、散茶女郎から成った者、稼ぎも器量も度胸もある者が特別選ばれて成った者と様々だった。
ここには、大見世の花魁は四人。中見世の花魁は吉野たちを含めて三人。その他三人は中見世の花魁に準ずる上の女郎たちだ。
餅もなくなり各々がだらけ出すと、親睦という名の探り合いが始まった。各自の得意分野であったり、お客たちのアレの素晴らしい所、下手具合などを語り合い、笑い、自慢する……女の醜い争いが幕を開けた。
ありありと、伊達家武士たちのソレは小さいだの、商人の方が一番床上手だのと聞かされた後、とうとう吉野の番になった。吉野は自信持って語った、自分のお客はとかく悪くも良くもない、と。
周りの反応を伺うと、感心してくれたのは未だ番が回って来ていない中見世の女郎だけだった。一方、答え終えたそのほかの大見世の花魁たちは、軽蔑したような眼差しを吉野に向けた。
その中の一人、河原崎花魁が口を開いた、
「そんなこと言いんして、まっこと偉そうな羅生門上がりの花魁でござんすこと、なぁ?」
「ほんまに、考えが明け透けすぎてたまらんわ」
そう河原崎に賛同したのは、花垣という花魁だ。
二人とも、大見世・「海老那楼」と「糸菊屋」の花魁である。見た目は美しいのにその心は真っ黒に染まっている様子だ。
そんな二人の罵りに屈するつもりもない吉野は軽く笑ってあしらい、反論しないようにした。吉野のその態度が気に食わなかった河原崎は、更に見下すような言葉を吐き捨てた、
「まぁ、気色悪ぃわぁ。何を笑っていんしょう?」
「今朝、変なもんでも食ったんじゃないんかえ?」
そのひとことで河原崎は花垣の肩を叩きながら大口を開けてあざ笑った。挙句には指を差し、今度は吉野の容姿を馬鹿にし始めた。
傍らに控えていた藤尾が立ち上がりかけに言い返そうとするが、吉野はすかさず袖を引いた。
「姐さん、このまま言われ続けていいのでありんすか?」
吉野は小さく『いいから』と宥めたが、その模様を見ていた河原崎が徐に嘲笑し出した、
「あんたの教えが悪いから、妹女郎も楽に座れないでやんの!」
『は……?』
吉野は一瞬、河原崎が何を言っているのか分からなかった。しかしそれはすぐに判明した。
「しっかり折敷を教えてやれば辱めを受けずに済んだものを。ふふ、教える時間も無かったのでごありんしょう。あっははは──や……っ!」
高笑いしていた花垣の声が急に途切れた。瞬間、鈍い音が鳴り、それと同時に勢いよく壁に突き飛ばされて伸びている無様な花垣が遠くにいた。その場にいた全員が凍り付いた。
何が起きたのか理解出来なかった河原崎は顔を上げると、離れた所に座っていたはずの吉野が目の前に立っていた。
「ひっ……」
その鋭い目つきに、河原崎は蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなった。
『あちきのことはなんとでも言っていいさ。ただなぁっ! 妹女郎を悪く言うのはぜってぇ許さねえ!』
河原崎は負けじと吉野を睨み付け、嘲った、
「は、ははっ……あんた、今何をしでかしたか分かってんのか? お、大見世の花魁をっ……つ、突き飛ばすなんぞっ」
吉野が睥睨すると、花垣は壁にもたれながら首をだらんとさせて身動き一つしていなかった。打ちどころが悪くて事切れてしまったのではないかと吉野は不安になった。そんな吉野の反応を見逃さなかった河原崎は勝ち誇ったような顔で、
「この事、「松坂屋」のおやっさんが知ったら、ただじゃ──」
「お前さんたちが喧嘩を吹っ掛けたのでござりんしょう」
そう割って入ったのは、柱に寄り掛かりながら【源氏物語】の夕霧帖を読んでいた薄雲花魁であった。かつて、吉野が花魁教育で「双葉楼」から抜け出した折に、偶然、大助に連れられて見た道中を張った女郎である。
花垣の姐女郎で「糸菊屋」の看板女郎にあたる薄雲は、気を失っている花垣を足で突っついたり押したりした、
「あ~あ~、こんなに伸びちまって。生きてんのかね?」
体がビクつくのを確認すると、納得したように「ふぅん」とつまらなさそうに頷いた。
「薄雲花魁! このアマをなんとかしておくんなんし! 図々しいにもほどがありんす!」
河原崎が訴えかけると、薄雲は目にもとまらぬ速さで近づき、相手の顎に掴みかかった、
「図々しいのはお前さんの方だよ、河原崎。大見世の花魁のくせに、中見世の花魁をいじめて何が楽しいんだい? あちきもお客の悪口を言うなんてまっぴらごめんでありんす」
凄みのある薄雲の言葉に、河原崎は声にならない声を上げて舌を巻いた。薄雲は軽蔑したような目で顎を押し返すと、相手はそのまま畳に手をついて項垂れた。
立ち上がりがけに吉野を一瞥した後、今度は他の花魁たちに向き直った、
「べらべらとお客の個人的な内情を洩らしたお前たちも同罪だよ! 二度とこんなくだらないことをするな! 分かったな!」
「あ、あい……花魁」
一同が両手をつき、薄雲花魁に頭を下げた。吉野も続けて低頭し、一気にこの花魁のことを好きになった。
────────────────────
── これは少し前の話である。
二年前の宝暦十一年(1761)六月十二日── 前将軍であり大御所として御城の西ノ丸で余生を過ごしておられた、やんごとなき御方が薨去された。そして、その後、とある人物が大御所の遺言によって現将軍の御側御用取次として重用された。
「では次に、日本堤の吉原遊廓についてですが──」
吉原という言葉に、居並ぶ老中らは虚を突かれたように目をぱちくりとさせた。武士ならいざ知らず、大名は廓遊びを原則として禁止されている。国の政に従事する者としての体裁を護るためだ。ただし、その大半は密かに登楼し女郎を買う大名も少なくなかった。
身をよじらせながら老中達は、御側御用取次・田沼主殿頭意次の言葉に耳を傾けた、
「── 昨今、その吉原なる遊里の風紀が乱れております。岡場所から移った身分の低い娼妓らが跋扈し、客に暴行を働く騒ぎが起きてございまする。四郎兵衛会所と番所の報告によりますれば、一年で百余人ほど」
衝撃的なその数字に老中たちは呆気にとられた。
「よって、ご公儀が長らく取り締まって参った吉原遊廓を閉鎖しようと考えておりまするが、如何であるかご老中方。方々のご意見をお伺いしたく存じます」
田沼の急な問いかけに老中たちは戸惑った。数人が重い口を開けた、
「しかしながら、吉原遊廓は東照大権現公が御認めになられた、駿府城下の二丁町遊廓が起原とされております」
「公儀が認めた唯一の遊里として、そして民たちの行く当ての無い漢の欲望を吐き出す場所として残しておくべきかと存じます」
「年に収められる冥加金も──わずかではございまするが、貴重な収入源となりましょう」
田沼意次は様々な意見を述べ立てる老中らを睨め付けた。一部とはいえ、老中たちの廓通いは先刻承知のこと。咎める気も起きなかった。田沼はもう一度老中たちを見回した後、深く息を吸って仮の結論を声高に告げた、
「方々のご異論は検討しなければなりませぬ。追って結果を申し上げますので、次の議題に取り掛かりましょう」
淡々と言葉の羅列を滑り出すと、紙を丁寧に畳んで、葵の御紋が印された漆塗の台から新たな意見書を取り上げた。
下段に控えたる老中らは一様に安堵した。「今宵、吉原へ赴こう」とそれぞれの頭の中で舌なめずりした。
───────────────────────
そして現代──、御城の寄合で吉原の名が出されたことなど露知らぬ吉野は、眼下に広がる仲之町を見つめていた。以前と比べて、登楼する客の出入りが明らかに減ったように感じる。夜の帳が下りて、道中を張る前に外を眺めた時も人の影は疎らであった。
吉野は言葉にするのも憚れるほどの最悪を想像した。
吉原の衰退……。この吉原が無くなり、女郎たちは行く当てもなくなり途方もない人生が始まる、と。
しかし幸い、呼べば大抵の馴染み客は翌夜には登楼してくれる。今宵もそうだ。茶屋からの呼出がある、と大助が今朝方告げて来ていた。それを思い出し、逸る胸を抑えつけてただの思い違いかと吉野はかぶりを振った。
それから月日が経って、宝暦十四年(1764)三月──
吉野花魁の禿だったしず葉が、十五歳になって晴れて振袖新造になり、名を瑞香と改めた。朱の振袖から縹色の引き振袖に着替え、髪型をつぶし島田に結い上げ、歯にはお歯黒を塗った。
大人への一歩を踏み出そうとするしず葉の背を見つめながら、吉野は他の禿と新造を引き連れて、「夕風屋」と縁のある見世々々への挨拶を済ませたのち、男衆らに頼んで、茶屋と船宿へ赤飯を贈らせた。
そんなお祝い気分に満ちていた「夕風屋」だったが、それはたったひと月で崩れ去った。
破談したかに思えたご公儀の改革が実行に移され、吉原の見世が次々と潰れたのだ。
その最初の取り潰しの被害にあったのは、大見世・「松坂屋」であった。
「「松坂屋」様がまさかこんなことに……」
「夕風屋」の楼主と女将の居室・内証で、松枝が身を震わせながら不安そうに呟いた。遊佐は何度も何度も火鉢に煙管を叩きつけている。必死に気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。が、その後放たれた声色からは、まったく収まりきっていないように聞こえる、
「「松坂屋」だけではない。大見世、中見世、小見世問わず、廓から消えて行っている」
「抱えている女郎たちはどうなるんだい?」
松枝が遊佐に訊ねた。遊佐の声は突如として暗くなった、
「借金がある以上、廓を出る訳にも行かぬだろう。営業を許可された他の見世に鞍替えされるか、切見世へ飛ばされるか……まぁ、それしか無いだろうな」
「そんな……」
「まさか、こんなことが」と、内証を通りかかった藤尾は裾を絡げて一目散に階段を駆け上がった。
────────────────────
「姐さん!!」
ちょうどその時、花を生けていた吉野は勢いよく開いた襖に驚き、誤って茎を真っ直ぐに切ってしまった。肩で息をする妹女郎に向かって、吉野は諫めた、
『部屋が違っているぞ、藤尾。自分の部屋へお戻りな』
「そんな呑気に花を生けてる場合じゃありんせん姐さん! 大事でありんす!」
慌てて駆け寄る藤尾を無視して、吉野は大きくため息をついた、
『何だってんだい。お前の大事が大事だったことはあったかえ?』
「吉原が無くなるかもしれないのでありんすよ!」
耳を疑う言葉を聞いて、吉野は思わず花に伸ばした手を止めた。しかしすぐに、呆れたように小さく笑った、
『はは……、そんな莫迦なことがあるわけないだろう? 吉原は御上が認めたたった一つの遊里なんだよ? 年に貰われる賄い金だって──』
「その御上が、大見世である「松坂屋」を潰すと思いんすか?」
花鋏が吉野の手から滑り落ちて、大きく音を立てた。ゆっくりと顔を上げると藤尾の額から汗が伝っている。表情からして、先ほどから繰り出された言葉は偽りでも噂止まりの話でもないと分かった。
今日まで一四七年……ご公儀が吉原の見世を閉店に追い込む話など聞いたことがない。何故このような事が罷り通るのか? 御城が何者かの手によって制圧されたのか?
もはや、そんなことまで考えてしまっていた。
吉野は気付けば、内証に駆け込んでいた、
『ほんに御上が「松坂屋」を取り潰したのでありんすか? 御上が認めたこの吉原が消えてしまうのでありんすか!』
遊佐と松枝の前に跪きながら、吉野が捲し立てるように問い質した。もはや、吉野の急な来訪に驚きもしない二人だった。改めて顔を見れば、暗く沈み、憔悴しきっている様子だ。
遊佐は脇息に体を預けながら力なく頷いた。その反応を見て、吉野は得体のしれない恐怖が体をジリジリと駆け上っていくのを感じ、声が震えてくるのが分かった、
『あちきらに……何か出来ることはありんせんか?』
「どうにもこうにも出来んだろう。御上の決定がそうなら……従うしかないのだ」
いつもの威勢の良い、偉そうな態度はどこへやら、弱気になって言う遊佐と黙りこくって煙管を吹かす松枝に、吉野は我慢の限界を感じた。
こんな二人の姿なんて見たくない、と武者震いする身体を抑えた、
『親父様とおっかさんは、吉原で見世を構えて何年になりんすか?』
突拍子もない質問を投げかけられ、松枝は思わず訊き返した、
「なんなんだい、藪から棒に」
『答えておくれなんし!』
吉野に圧されるように松枝は遊佐と顔を見合わせる。
「もうすぐ三十年になろうかねえ……」
頭を掻きながら遊佐は「そうだな」と言って同意した。
『あちきは……十二年でありんす』
吉野が呟くように言うと、遊佐は掠れ声で「それがどうしたというのだ?」と怒鳴った。その憎たらしい言い方に吉野は初めて和んだ。
『たった十二年しか、廓で暮らしたことがありんせん。他の女郎も、きっと同じでありんしょう』
志乃、かほり、花辺、嬢香、くれ葉、浮ふね、菊葉、夕顔、蘭香、高尾、夕華、藤尾、瑞香……吉野と関わった廓の女たちの顔が瞳の奥で流れて行った。
『されど、あちきらにはここしかありんせん。皆の居場所を護るためにも、吉原が無くなるのをじっと待つ訳には参りんせん!』
吉野はすっくと立ち上がって踵を返し、障子に手をかけた。
「どこへ行くってんだい!」松枝が後ろから呼び止めた。「御上のなさってることを止めさせようって考えてんなら、今すぐよしな! お前さんにいったい何ができるってんだい」
一介の花魁、しかも切見世出身の女郎にできることなんて高が知れている。それを吉野が一番分かり切っていた。しかし──、
『……やってみなきゃ分かりんせん!』
吉野の決心は固かった。
────────────────────
昨年の正月大紋日で顔を合わせた花魁たちとは今日まで険悪な関係にあった。しかし吉野は、今度のご公儀の行いについて姐女郎である彼女たちがどういう考えなのかどうか、話しを聞きたいと思い至った。
自室に戻った吉野はさっそく筆を執り、「双葉楼」に来るよう文を送った。返事はすぐに届き、吉野は身なりを整えるのもそこそこに「夕風屋」を出た。
昼見世終わりの夕七ツ。普段なら客以外の人でごった返していた仲之町だったが、思った通りシンとしていた。通りがかる他の見世の若い衆も、見回りをする番所の同心もどこか気鬱な表情なのが見て取れた。
寂れた仲之町を見て、吉野は胸騒ぎを覚えながら、足に力を込めて目指す場所へ向かった。
吉原・双葉楼 ───────
『お座敷をお貸しいただき、誠にありがとうござんす。白蘭師匠』
花魁たちが来る前に先に茶屋を訪れた吉野は、花魁教育を施してくれた師匠・白蘭に礼を述べた。
「あんたの頼みとありゃ引き受けない理由はないさ。こんなちんけな座敷でよければいつでも貸すよ」
相変わらずの師匠の気丈ぶりに、吉野は安心感すら覚え、強張っていた心が解かれるようだった。白蘭は近くの煙草盆を引き寄せて、煙草を詰めてから火鉢に顔を近づけた、
「それにしても……花魁たちは来るのかねえ」
煙を吐きながら白蘭は入口のある表茶屋の方を眺めた。吉野も後に続き、手入れの行き届いた庭を見つめ、静かに言った、
『きっと来なんす』
その言葉通り、表茶屋を通って中庭を通ってくる三人の花魁が着到した。座敷に通されると、白蘭に一礼してから河原崎花魁が吉野の方に顔を向けて文句を垂れた、
「急に呼び出して来て一体何だってんだい? 線香代を要求するよ」
昨年の正月とは打って変わって河原崎は化粧もせず、口調もさらに乱暴的であった。河原崎の隣に座った花垣花魁が刺すような目を吉野に向けた、
「中見世の花魁ごときがあちきらを呼び出すんじゃないわ」
語気を強めてそう言った後、花垣は庭に目線を向けた。
難癖ある二人の花魁を前にして吉野は気後れしそうになったが、唯一微笑みを湛えてこちらを見つめる薄雲花魁を見て、救われる思いだった。
息を整えてから、吉野は三人にあの件について話を始めた。激しく狼狽するであろうと思ったが、河原崎と花垣の反応は意外なものだった、
「そんなこと、前々から言われていたことだよ」
「ほんに、知らなかった方が驚きだわ」
吉野が訳も分からないという風に目を泳がせていると、柱にもたれ掛かっていた薄雲花魁が気だるそうに口を開いた、
「元々ご公儀が、三年ぐらい前から企てていた話らしいよ」
薄雲は、三年前の記憶を呼び起こすように目を瞑ってから、淡く前を見据えて語り出した、
「床の中で旦那様が仰ったのさ。吉原を閉鎖しようとする話が寄合で持ち出された、と。けんどすぐに、そんな話は即、その場で沙汰止みになった、と笑ってたけどね」
大見世に身分を隠した老中が登楼してくるという話を、吉野は聞いたことある。それにしても、いくら花魁相手といえど、女郎にご公儀の内情を洩らす愚かな幕臣がいることが信じられなかった。
だが、今の段階でそんなことを考えている暇はない。吉野は重たくなった口を強引に開けた。
『知ってて、何もしようとなさらなかったのでありんすか?』
「あちきらはもうすぐ年季が明ける」
薄雲に訊ねたつもりだったが、河原崎花魁が口を開いた。まったく噛み合っていない応えに、吉野はだんだん苛立ちを覚えた。
「年季明けが控えている女郎には特別に江戸市中で暮らすことを約束されてんだよ」
河原崎が自慢げに言った。
そのような話を聞いたことがなかった吉野は、河原崎の発言を訝ったがこの際はどうでもいい。それよりも、吉原が無くなることを知ったうえで今日までのうのうと過ごし、我が身可愛さに己の年季が明けるのを待って、見世々々が消えていくのを高みの見物で笑おうとしている河原崎と花垣が許せなかった。
『黙って聞いてりゃずけずけと……っ』
「は?」
河原崎と花垣が同時に目を見開いた。依然、柱に体を預けていた薄雲も艶めかしげな目で吉野を見上げた。
『自分が安全なら何でも良いってのかい! あんたら花魁だろう? あんたらの下に、多くの禿や新造たちが従ってんじゃないのか? あんたらだけが女郎やってんじゃねえんだよ!!』
「お前……一度ならず二度までも!」
花垣は昨年突き飛ばされたことを今でも根に持っていた。河原崎が声を荒らげて吉野の胸倉を掴んだ、
「誰に向かって物を言っている!!」
『ああ、何度でも言ってやるよ、「海老那楼」の花魁に「糸菊屋」の花魁!』
吉野は体が震えて動かなくなるのも厭わず、二人を交互に睨み付けた。
『この廓には、何万もの人らが暮らしてんだ。もしも御上の決定で、廓自体が無くなっちまえば、それら全員が路頭に迷うってことになる。そんなこと、絶対にさせない……何としてでも止めなきゃなんねえんだよ!』
「ふんっ!」
河原崎は鼻でせせら笑い、吉野を突き放した、
「女郎のあんたに何が出来るってのさ。ご公儀が決定したことを簡単に払い除けられちまったら、ご公儀の意味がねえじゃねえか!」
崩した体勢から衿を正した吉野は、キッと三人を見つめ、心に決めていたことを言葉に替えた。
『大尽たちの協力を仰ぐ』
「吉野……今、なんて言った?」
薄雲は好奇な目になって背を柱から離した。吉野はその反応を見て、自分の考えを話した、
『あちきのお客にも、老中や大名とは行かなくても御城へ登城できる旗本や商人もおられんす。その方々に文を書き、吉原を護ってくださるようお願いするつもりでありんす』
「バカな!」花垣が俄かに立ち上がった。「そんな身の危険を冒してまで協力するお客なんているはずが──」
『やってみなければ分からないではありんせんか。そうでありんしょう? 姐さん方』
そうきっぱりと吉野が言うと、花垣はゆっくりと腰を下ろし、口を噤んで俯きだした。河原崎も何か言いたげに唇を動かしていたが、二の句を継げずにいる様子で、意味もなく衿を頻りに触っている。次に薄雲を横目に見ると、何かを考えている風に腕を組んでいたが、そのまま再び柱にもたれ掛かり、庭へと視線を投げた。
待っている時間が惜しかった吉野はすぐさま「夕風屋」へ戻ろうと思い立った。
『協力する気が無いってなら、もうこの話は終わりに致しんしょう。姐さん方、お呼び立てしんして誠に申し訳ござんせんした』
三人に頭を下げた後、吉野は白蘭にも深々と一礼し「双葉楼」を後にした。面食らった河原崎花魁と花垣花魁はただただ吉野の後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「ふんっ、あんな女郎に何が出来るってんだ……なにが……」
「吉野花魁ならやってくれるさ」
河原崎が独り言ちると、ひたすら無言で見守っていた白蘭が灰吹きに煙管を叩きつけながら発言した。河原崎、花垣、薄雲の三人が顔を向けると、白蘭は笑みを浮かべた、
「あたしは信じたいねぇ。あの子がこの吉原を護り切るのをさ」
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