花魁吉野畢生

翔子

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第十五章 絵描き変人の旦那

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 昼見世終わりの午後、吉野は禿と新造らを「芒屋すすきや」へ連れ立った。

 稽古で良い結果を出したり、お使いを任されて戻って来てもご褒美として菓子の一つもくれた事がなかった。そんな吉野が甘味処に連れて行ってくれるとは思ってもいなく、しず葉と楓はきゃっきゃとはしゃぎながら茶屋内にある座敷によじ登った。夕華とひめ野は半ば呆れ顔で二人を一瞥しながらも、内心、久方ぶりの菓子に心を躍らせた。

 団子を注文すると、店主は珍しい客人に特製の「あんこ餅」を皿に乗せた。すると、店主の期待通り、しず葉と楓は歓声を上げながら夢中でそれを頬張ったのだった。


「それで? どうだったんだい?」

 禿たちが歯痛にならないか気にかけながら、吉野は嬢香の問いに応えた、

『「大生屋」のおっかさんが亡くなっていたよ』

 気丈に振る舞うも言葉尻が徐々にくぐもり出した吉野に、嬢香は小さく「あぁ」と漏らした。

『それを禿だった同輩から聞いた時、悲しかったし胸が張り裂けそうだった。けどもはや涙も枯れ果てちまったさ』

 嬢香の方を向くと、悲し気な表情になってるのに吉野は驚いた。そんな顔はいまだかつて見た事が無く、思わず目を背けて手元の菓子を楊枝で弄くった。

 会いたかった人たちは既にこの世にはいない。

 隠しようのないその現実が吉野の心に大きく広がった。花魁になるという本懐を遂げられたことを、元太夫と生き別れた元同輩、そして今、隣でこちらを哀れみをかける内懐の友にしか告げることが出来なかった。それだけでも幸福と思えたらどんなに気が楽か。

 亡くなった二人の女将のことを考えないよう心掛けたが、やはりどうしても悔しくて仕方が無かったのだった。

 嬢香に花魁になったことを告げられたのは「大生屋」から見世に戻って二日経った時のことだ。
 借りた手拭いと菓子箱を包んだ風呂敷を早々に返さねばと思い、若い衆に命じて持たそうとした。だが、これを機に己の身の上を明かした方が良いのではないかと考えを改め、花魁の代名詞とも言えるだろう、伊達兵庫の姿で会いに行った。案の定、嬢香は飛び出そうなほどに目を丸くしていた。

『あちきの姐さんだった元太夫の遣り手婆にも会ったよ。禿だった頃の恨みを晴らしてやった』

「ふーん、どんな風に?」

 縁台に後ろ手でもたれながら聞く嬢香に、吉野はその時の一部始終を語った。話終えると、嬢香は驚き入った風に頷いた。

「『皺だらけの眼であちきの晴れ姿をとくと見ておくんなんし!』 なんて、よくもまあ遣り手に言えたもんだ。度胸有り過ぎて恨まれないように気を付けな?」

『恨まれても仕方ねえことさ。女郎なんだから』

 前後に揺れながら吉野が言うと、嬢香がフンっと鼻を鳴らした。

 客に恨まれる話は聞いた事がないが、女郎同士で死傷者が出たという話は耳にしたことがある。暴力沙汰になり、会所の厄介となった見世は即刻、番付の順位から除外され、客足は遠のく結果となってしまう。
 「夕風屋」において、争いごとと言えば、吉野が初めて見世に入った時に出会った、菊葉という女郎と口論をした時ぐらいであろうか。

「見世に戻った時どうなったんだよ? 昼見世も夜見世もほっぽり出してさ、折檻でもされたんじゃねえのか?」

 吉野の体中を摩り、痛がるかどうか嬢香は確かめてきた。吉野は笑いながら嬢香の腕を押さえた、

『あちきは飽くまで見世の看板花魁だよ? 親父があちきの身体に傷を付けるはずないじゃねえか』

「なーんだ、残念!」

 大袈裟に両手を広げ、嬢香は声高らかに茶屋の中へと消えて行った。
 
───────────────────────

 嬢香に『また来る』と告げ(「二度と来んな」と毎度吐き捨てられるのだが)、見世に戻って四半刻ばかり経つと、禿の一人、楓が吉野に近付いて来た、

「姐さん……おいら腹減ったぁ」

 眉を八の字にし、帯下の腹を撫で付けながら懇願するように言う禿に吉野が諭そうとすると、

「こら楓! 「腹減った」なんて言葉、姐さんには禁句だよ!」

 ひめ野が準備していた三味線をしず葉に押し付け、楓の傍に駆け寄った、

「今宵は呼び出しの客があるから、お余りが出るまで待ちな。いいね?」

 ひめ野は楓の両手を握り、すかすように言った。楓は泣きべそで姐女郎を見つめ、甘んじて受け入れるようにこくりと頷いた。

 
 嬢香には、弱みを見せまいと本当のことを打ち明けなかったが、勝手に見世を出たことで楼主の遊佐が許すはずがなかった。

 かほりと別れて、吉野は息を荒くしながら速足で「夕風屋」へと戻った。見世内に入ると、慌てふためく男衆たちから「親父様がお部屋におられやす」と顔面蒼白で告げるのへ、男衆と同じように血の気が引いた吉野は二階へ駆け上がった。
 暗闇の中に紅々と薄墨で描かれた彼岸花の襖に手をかけると、遊佐の怒号が中から聞こえた、

「これからお前ら一人ずつ、水責めにしてくれる! 吉野の居場所を吐けば、木に縛り付けるだけで済ませてやろう!」

 惨い選択だ。遊佐が怒鳴りつけている相手はひめ野と夕華、そしてしず葉と楓たちだろう。どう転んでも待っているのは折檻しかないではないか。
 吉野は鬼気迫る思いで襖を開け放った。

 最初に遊佐と目が合い、横を向けば、松枝が新造と禿を庇うようにして座っている。

「吉野! あんた、一体全体どこに行って──」

 松枝が言い終わるかしないうちに、遊佐が般若の形相で吉野の頬に強烈な平手打ちを食らわせた。その勢いは凄まじく、松枝の膝元へ吹き飛んだほどだ。

「あんた! なんてことを……。 花魁に傷を付けるつもりかい?」

「なんだい今更……お前さんだって、禿に水責めすると脅していたじゃねえか! 水責めか木縛りすりゃ身体に傷が付かねえだろう。さあ、若い衆に用意させろ!」

「あんた!!」

 松枝が、遊佐の足元に縋り付こうとすると、部屋の襖が再び開き、遊佐を呼び止める声が響き渡った。

「親父っさん」

 大助だった。眩暈と共に疼く頬を押さえながら、吉野は半身を起こした。大助の姿が、ぼうっと霞んだ視界の中に飛び込んで来た。遊佐の前に座り、両手をつき始めた、

「親父っさんは、吉野の名声が気に入らないのでしょう。それ故、身体に傷を付け、客足を遠のかせようとする企てなのではありませんか?」

 およそ番頭らしからぬ忖度なしの発言に、耳を欹てていた若い衆や女郎は目を見張った。大助は続ける、

「しかし、花魁の名声は見世の名声……。ひいては、親父っさんの名声に関わることではないでしょうか。人気の花魁を折檻したと、もし万に一つでも女郎から客へ漏れ聞かれでもすれば……。そんなこと、想像もしたくありませんね」

「何が言いたいのだ……」

 胸を上下させながら、楼主は冷静に訊ねた。大助はにじり寄りながら、頭を下げて言った、

「どうかここは一つ……七日の食事抜きの仕置きに留めては如何でございましょうか?」

「そうだ……そうだよあんた」

 大助の提案に、松枝は夫に再び縋り付いた。

 気付けば吉野の回りには、ひめ野たちが身を寄せ合うように集い、この一部始終を、まるで歌舞伎を観るかのように眺め入ることしか出来なかった。

「分かった」

 しばらく、皆が見守る中、遊佐はそっと目を閉じ、これまで歯向かったことのない番頭からの進言を一心に受け入れた。ボソッと呟く遊佐の言葉は静寂の部屋に響き、松枝は途端に安堵の声を漏らした。

 遊佐は居ても立っても居られず、足音をバタつかせて部屋を去って行った。

「良かった……本当に良かった!」

「おっかさん……何が「よかった」でありんすか! 食べる事が……出来ないなんて……」

 夕華が松枝の安堵の表情を破って訴えて来たが、吉野は夕華の太ももにそっと手を添えて静まらせた、

『済まぬ……夕華。すべてあちきが悪いのでありんす。だから、おっかさんを、そして親父様を責めないでおくんなんし』

 吉野の言葉を受け、夕華は頭を下げて納得しかねる表情で膝退した。
 真のことを言えば吉野も不安であった。今日一日は団子と落雁しか食していなく、今夜から七日間、食事が出ないとなればどんな苦しみが待ち構えていることか。

 とにもかくにも、折檻は免れたことにほっと一息つくと、その上を行く大きなため息を吐いた大助が、こちらを向いて、「よかったな」と満面の笑みで言ってきた。その姿は、もはや仏の様にも見えた。


 三日目が経った今日。朝から何も食べていない吉野たちは空腹を忘れるように、稽古やら読物、書き物に専念した。だが幸いにも、下の女郎と違って、花魁である吉野にはお客からの呼出が無い日はなかった。そのおかげもあって、茶屋で出される食事は遊佐の知るところではないため、腹を満たす事はかろうじて出来たのだった。

『楓? もう少し辛抱しなんせ。今夜はあちきの分、食ってもいいから』

「でも、そしたら、姐さんのまんまが……」

『あちきのことは心配いらないよ。お前たちみたいなは、たくさん食べて大きくならなきゃいけない。そもそも、あちきが勝手に抜け出したのが悪いのさ』

 その言葉にひめ野と夕華は互いに顔を見合わせた。

 あの日以来、見世を離れた吉野に不信を抱かなかった時は一瞬たりとてなかった。

 遊佐から「吉野はどこに消えた」とこっぴどく責め立てられ、しず葉たちを庇うように吉野が戻るのをひたすら耐え抜いた。いよいよ折檻されるという寸前で、吉野は肩で息をしながら部屋に戻って来てくれ、事なきを得た。

 何をしに出掛けたのか、本当のことをまだ教えてもらっていない。誠実な吉野のこと、きっと話してくれると信じている。それまで余計な推測を重ねるわけにはいかなかった。

 楓としず葉の髪を優しく梳く吉野の微笑みを見つめながら、ひめ野と夕華は心穏やかに過ごす事を誓った。

───────────────────────

 九月の末は昼間は暑く、夜は肌寒い秋初めの日々が続いた。
 見世では早めの冬備えに入り、かさねの準備が成された。ところが、十一月後半にならないと火鉢用の炭が買えないので、新造と禿は身を寄せ合ったり、花魁が昔着ていたし掛けを羽織りながら寒い夜を過ごした。

 その頃、不思議なお客が吉野花魁を呼出した。


引手茶屋・瓜葉楼うりばろう ─────── 

 七日の飯抜きの折檻がようやく終わりを迎える頃、朝昼と食事抜きで過ごして来た吉野たちは最後の道中で身体に不調が出始めていた。視界がぼやけ、新造と禿も足をもつれさせたが、なんとか耐え抜いて引手茶屋に入った。

 女将に座敷を案内され、襖が開かれると目の前の光景に衝撃が走った。

 この座敷は「夕風屋」が贔屓にしている室で、今にも折れそうなほどの美しい木の枝に桜が描かれた水墨の掛け軸が目を惹き、八代公方の頃に流通した舶来の壺やら、細かな装飾が施された置物があったりと、風情がある座敷で、吉野も気に入っていた。
 ところが、眼前に広がるは、皺くちゃになった紙であった。掛け軸や壺には、何かしらが描かれた紙が貼り付けられている。夕華とひめ野は唖然とし、異様なその光景に声を上げることも出来ず、楓は襖の近くにあった紙に思わず足を取られそうになった。

 お目当ての花魁が現れたにもかかわらず、客は一度も顔を上げずに四つん這いの体勢になって何かに没頭していた。

「花房様! 吉野花魁のおいででございますよ。お直りくだされ」 

 女将が手をぱたぱたと振って呼び掛けると、花房という男は唸り声を上げながらこちらを一瞥した。しばし吉野と目を合わせると、急に瞳を泳がせ、再び紙に視線を戻した。

 廓の掟に従い、吉野は客の反応を気にするでもなく、上座に用意された座布団に座った。両傍らにちょこんと座ったしず葉と楓はそれぞれに持っていた煙草盆と長煙管を置くと、女将が花房を睨め付けながら襖を閉めて去って行った。

 花房の横姿を目にすると以外と身体が大きいことに気付いた。鈍色の縞を雑に着流し、片ばさみに結んだ帯には脇腹の肉が乗っている。道楽者の商人か、と吉野の目にはそう映った。

 やがて花房は吉野の目の前に場所を移動し、皺くちゃになった紙を掃って広い空間を確保した。
 束になった黄色い紙を一つまみ取り、下敷きに広げ、丁寧に手で伸ばしながら重石を四方に置いた。そして、また先ほどと同じ四つん這いの体勢になり、吉野と紙を交互に見ながら筆を走らせ始めた。

「絵師だ……」

 夕華は客を軽蔑するような目で睨み付けながら呟いた。

 吉原遊廓には数多の絵師が無名有名問わず訪れた。版元が案内をして登楼することもあれば、版元が介入することなく、問答無用に押しかけてくる者もいる。充分な金も払わずに連泊し、女郎や茶屋を困らせたという話は、吉原で知らぬ者は居ない。
 その話を耳にした時から夕華は絵師を酷く嫌うようになった。「夕風屋」にもとうとう、絵師の客が登楼したのかと、言い表せない思いに駆られた。

 没頭する花房にはどんな音も耳に届いていない様子で、素早く筆を走らせている。夕華は吉野を見やると立膝の姿勢のままじっと動かず、花房を珍しそうに見つめていた。しばらくして、

「ん」

 花房は満足そうに息を吐きながら、無造作に紙を差し出して来た。吉野がしぶしぶ受け取ると、花房はそのまま絵描き道具を放り出したまま座敷を出て行った。

『は?』

 初めての事だった。

 今日こんにちまでに吉野花魁を指名した多くの客たちは興味深々に覗き込んできたり、廓の掟を把握していながらもなんとか声を聞こうと執拗に話しかけて来たりする。ほとんどは色に目がない客らばかりだった。

 しかし、こんなにも始終無言で、しかも無造作に描いた吉野の絵姿を手渡してくるなど掟破りにもほどがあった。

 ほどなくして、裾を乱しながら女将が座敷に上がり込み、慌ただしく両手を付いて低頭した、

「申し訳ございません!」

『「瓜葉楼」のおっかさん……今の客は……いったい?』

 吉野はだんだんと怒りを覚え、震えてくる手をなんとか抑えようとした。女将は吉野の顔色を窺いながら語り始めた、

「花房様は、数日前より「瓜葉楼」に入り浸るようになり、花魁以外にも他見世の女郎を呼び出したのですが、「理想の雛形ではない」などと言って突っぱね、見世のツケを溜めにためた末に、吉野花魁を指名したのでございます」

 絵の雛形として呼び出されたという事が判明し、怒りを抑えきれず、目の前の紙やら絵の具やらを蹴り上げたい衝動に駆られた。
 黙って話を聞いていた夕華は、吉野花魁の補佐役として、追求せぬわけには行かなかった、

「女将。花房という客を今後、吉野姐さんの呼出をすることを禁止にしておくんなんし! 花魁に対し、あのような無礼な振る舞いをした罪……重うござりんすよ!」

『夕華、お黙りな! お前さんが決めることじゃないよ』

「けんど、姐さん……」

 夕華が何か言いたげに身を乗り出したが、吉野は手で制した、

『さぁ、帰りんしょう。しず葉、楓。煙草盆と羅宇らおを持ちなんしぇ』

 吉野が禿にそう呼び掛けると、彼女らは不満顔で立ち上がった。ようやく食事にありつけると思っていた矢先に、とんだ客にぶち当たってしまったのだ。むくれるのも無理はない。
 ふつふつと怒りを滾らせながら一行は「瓜葉楼」を後にした。

 お客を伴わずに置屋へ戻ると、必ず小言が飛ぶ。「客はどこに行った」「失礼をしでかしたのか」などと、口うるさく松枝が追いかけ回してくるのだ。重い足取りで「夕風屋」に帰ってみると案の定、見世の前で松枝が待ち構えていた。お客を上っ面な笑顔で出向かえる為だろうが、既に幇間と芸者は「瓜葉楼」の前で帰している。道中には金棒引きと提灯持ちの若い衆、そして新造、禿のみの少数精鋭で帰還する姿を見て、松枝が眉をひそめているのが遠くからでも分かり得た。

 吉野は無視を決め込んだ。

───────────────────────

 あれから数日が経ち、十月になっていた。

 万が一、花房からの二度目の呼出があっても断ろうと身構えていた吉野だった。しかし、不意に自分の絵姿を眺めていると、なんとも言えぬ気持ちが溢れ出た。乱雑に見えて精巧、吉野の特徴をよく掴んでいた。色は無く、薄墨で描かれた絵姿を、吉野は床柱に糊で貼り付け始めた。

「姐さん!」 ちょうどその時、膳部を手にした夕華が、絵を愛おしそうに見つめる吉野に疑問を投げかけた。「──なにゆえ、そんな絵を貼るのでありんすか?」

『なぜって……良く描かれてるじゃないか。あちきは、この絵が気に入ったよ』

「なりんせん! 呪詛が宿ってあるかもしれんのでありんすよ!」

 夕華はさも事実とでも言うように絵を柱から引き剥がそうとした。吉野はすかさず夕華の腕を掴んだ、

『呪詛など、あの絵描きの旦那に掛けられる謂れはない。まだ、ちゃんと話もしておりんせん故な』

「……また、会うつもりでござんすか?」

『応じるつもりだ。此度は話をしてみたい。あの旦那の……素性を知りたい』

 夕華はそれ以上何も言えなくなってしまった。再び柔らかい眼差しで絵を見つめる姐女郎の姿に、空虚を感じないわけには行かなかった。
 留袖新造は振袖新造と違って、客を取って稼ぎを借金の当てにすることが出来る。しかし、一人前の女郎になるにはそれ相応の手順を踏まねばならなかった。夕華は、吉野花魁に下に就いて二年になるが、一度も客を取ったことは無い。取らずとも、吉野花魁に付き従うことに満足していたのだ。
 
 しかし、その思いがぐらつこうとしている。

 三日後、「瓜葉楼」を介して花房からの呼出があった。ざわつく新造たちを尻目に吉野は相槌を打つと、報告をしに来た大助が珍しく苦言を呈して来た、

「夕華から、花房様のことを耳にした……。お前はこのまま裏を返すつもりなのか?」

『久しぶりに気になったお客なんだ……話もしてみたいしな』

 徐に煙草盆を引き寄せ、煙管を咥えた吉野が嫣然として言った。後ろ姿からでも分かる吉野の上機嫌さに夕華は堪えるのに必死だった。何としてでも道中を張らせるのを止めたいと思案したが、そんなことが出来るはずもない。

「他見世の女郎を呼び出しては絵の雛形にして、ツケは見世側が払うんだよ。そのこと「瓜葉楼」の女将から聞いてんだろ? 上客にならないのならこのまま引き下がれ!」

 珍しくお客の呼出を断るように言う大助に、夕華は意外な一面に驚くとともに、救われるような気がした。しかし、吉野の方を見やると、窓に向けて煙を吹かしている。心ここに有らずという様子で、あの絵描き変人の旦那に思いを馳せているように見えた。
 吉野は伊勢崎屋の直孝様を気に入っているのではなかったのか? 最近になって、姐女郎の事が分からなくなっていた。

 これ以上埒が明かないというように、大助が室を出て行った後、吉野は次の間にある衣装部屋へ歩いて行った。いつもなら禿が見繕うのだが、今宵着る引き摺りとし掛けを選びたいと思い立ったのだ。
 考えれば、奈桜藤の頃と合わせて十五着、着物がある。菖蒲、牡丹、菊、桜、ススキ、橘、そして、【太夫選出】の頃に召した、【白鷺刺繍蝶散しらさぎししゅうちょうちらし四季花しきのはな】のし掛けが目に入った。
 
『これにしよう』

 吉野はそのし掛けに藤襲の引き摺りを合わせた。


引手茶屋・瓜葉楼 ─────── 

 お客の待つ座敷の襖を開けると、案の定、花房は絵描き道具を広げ、夢中で筆を走らせていた。
 ちらと、吉野が見下ろすと、馬の絵を描いている。毛並みが細かく描かれ、たてがみは緩やかに、そして、今にも紙から飛び出し、駆け回りそうなほど現実感を漂わせていた。思わず感心し声が出てしまったが、女将の声に被さり、周りには聞こえなかった。

「花房様! 此度は【裏】の儀でございます! 花魁と言葉を交わせる絶好の機会でございますぞ!」
 
 「瓜葉楼」の女将が脅しともとれるようなことを言ったあと、お辞儀して襖を閉めた。

 しばしの沈黙が流れ、吉野は堪え切れず、芸者と幇間に舞と演奏を披露するよう目で指図した。幇間は立ち回りと口上を述べたが、花房は依然と顔を上げず絵に集中している。

「花魁……」

 慌てふためく幇間を見て、夕華は不安そうな目を投げかけてくる。吉野は「案ずるな」と宥め、花房の横に侍り出した。

『旦那様? 何を描いておいででありんすか?』
 
 誰が見ても明らかなことだが、吉野はあえて知らないふりをした。

「うま……」
 
 ボソッという花房に吉野はそっと筆腕を押さえた。

『お馬ではなく、あちきが馬乗りになる手順を踏みんせんか? この次も必ずご登楼してくだされば、それが叶いんす』

「せずとも良い」

『え?』

「そなたの裸の絵を描かせてくれ」

 室の空気が一気に冷え込んだ。芸者は三味の音を上げた。

「花房様! その言いようは余りにも無礼でござんす!」

『夕華!』

「裸を描きたいがために花魁を呼び出したんなら、他の見世の女郎でも買いなんし! あちきらの姐さんは、そう容易く肌を見せる女郎ではありんせん!」

「何をほざく」

 花房がフンと鼻を鳴らした。筆を置くと、花房は夕華をまっすぐと見つめた、

「わしは絵を描きに来た。花魁と寝たいが為に吉原に来たのではない。絵師など、吉原ここでは珍しくなかろう。いずれ、この吉原中を広めんがため、描きたい絵師が挙り、江戸市中に多大なる流行をもたらすことになろう」

 吉原で暮らす吉野には分かるはずもないが、江戸市井では大首絵が流行の兆しを見せていた。美人画や紅摺絵、挿絵など、人物を小さく描かれた絵が吉原で人気を博していたが、昨今、歌舞伎役者が描かれた絵が少なからず広まり始めている。
 この花房という人物は、それらを見て様々な絵を描きたいと考えるようになったという。

 花房は手前にあった茶を飲み干した。

「言うておくが、わしは旗本の四男坊だ。下屋敷暮らしの道楽者だ」

 「道楽者」と自称するのも珍しい。吉野は花房の横顔を見ながらそう思った。

「所領の年貢が上がった故、家族に黙って吉原に参っておる。よって、金はある。ツケをしてばかりおるわしが気に入らぬ故、そなたは然様に怒っておるのであろう?」

「そ、そのようなことは……」

『一本取られんしたな、夕華』

 吉野が、横目で夕華を見つめながら笑うと、とうとう、夕華のぐらついた心に歯止めが効かなくなった、

「花魁はどっちの味方でありんすか!!』すごい剣幕で、夕華が声を荒らげた。『長年連れ添ったあちきと、急に登楼して来たその旦那と!」

 客に向かって指をさす。それはあってはならない行動にひめ野としず葉は目を見張った。胸を上下させてひどく困惑している夕華を見るでもなく、吉野は淡々と言い放った、

『もちろん、旦那様のお味方だ』

 何かが割れる音がした。それが階下で起こる暴れ客が引き起こした騒ぎの音か、心の中の出来事なのかは判断しかねた。その場にいることが耐えきれなくなり、夕華は勢いよく座敷を出て行った。

「夕華姐さん!!」

『追いかけんじゃないよ!』立ち上がりかけるひめ野に、吉野は冷静に引き留めた。『足抜けなんてする阿呆じゃないんだ。一人にさせてあげなんし』

「「阿呆」か……面白い事を言うではないか、花魁。ははは」

 身体を仰け反らせながら花房が声高らかに笑った。騒ぎが目の前で繰り広げられ、気詰まる雰囲気の中でも堂々とする旦那に、吉野は初めて心が和む思いに浸った。
 
───────────────────────

吉原・夕風屋・現在 ───────

「とうとう、わしが出てきおったな? あの時は誠にすまんかった」

 花房は照れくさそうに頭を掻いた。吉野は口元に袖を当て嫣然と微笑んだ、

『最悪な出会いでござりんしたな? うふふ』

 昔語りを初めてからひと月が経とうとしていた。


 花房が吉野花魁を身請けしたい旨は、大門前で別れた三日後に遊佐と松枝に伝えられた。

 楼主と女将の二人は喜んで花房の身請け話を受け入れ、吉野に残された年季明け分の借金のことで話し合いが進められた。
 年季数は残り六年、借金・身代金・その他諸々の費用を合わせ、千二百両に膨れ上がっていた。その多額の借金の額を耳にしても、花房はさも当たり前のようにそれを承諾した。傍で見守ることしか出来なかった吉野は改めて、花房という旦那の偉大さを思い知ったのだった。

『さあ、もうよろしゅうおざんしょう? これで昔語りは七度目でありんすよ』

 身請け話が整ったのちから六度に渡って、吉野はかつての記憶を呼び起こしながら、花房としず葉、ひめ野らに語り聞かせていた。花房が帰ってのちも新造たちに話の続きをせがまれるので、およそ倍の量を語っていることになる。
 脇息に寄りかかりながら額に皺を寄せると、花房は途端に子供っぽく自分の太ももを叩き始めた、

「まだじゃ、まだじゃ! もっと聞きたい。のう? お前たちもそうであろう?」

「はい! 姐さん、お願い致しんす!」

「吉野姐さま!」

 花房ばかりではなく、しず葉もひめ野も媚びるように懇願して来た。吉野は苦笑しながらしず葉の肩を撫でた、

『もう、しょうがない子たちだねえ? では、これはある女郎らと分かり合えた話でありんす……』
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