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第九章 太夫選出
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中見世「夕風屋」が【太夫選出】を実施するという話はすぐさま廓中に伝わった。
前回の入り札選出から二十六年、幾久しい会合を行うという事に、多くの楼主や女将から反発の声が上がったものの、遊佐の必死な説得も甲斐あって、正月四日の昼見世後に【朝霞楼】の茶屋で行われることとなった。
奈桜藤は、高尾と太夫の座を競う事に、当初は乗り気ではなかったものの、姐女郎・夕顔太夫のため、「大生屋」女将・志乃のため、千載一遇の好機に参加する決意をする。
朋輩の新造や禿たちから熱い激励と後押しを受けながら、奈桜藤は一人、身を清める為、湯屋へ向かった。
決意を固めたとはいえ、自分は一介の女郎。周りから将来を熱望されている訳でも、茶華の教えを受けた事も無い。緊張と不安に飲み込まれそうになっていたその帰り道、新見世普請の会合の帰りの途にあった大助と出くわした、
『大助』
「おう! 選出の場には俺も向かうからな」
『あぁ……』
選出という言葉に奈桜藤は思わず俯いてしまった。今まで体験した事のない気の重さに奈桜藤は押しつぶされそうだったのだ。元気なさげに項垂れる奈桜藤を見た大助は、唐突に肩を勢いよく叩いて来た、
『痛ったぁ!! 何すんのよ!』
「しっけたツラしてんじゃねえよ! お前はお前らしく居ればいいんだよ。大見世や茶屋の主から何を言われようと、堂々としてればいいんだ。太夫ってのはそういうもんだ。お前も、夕顔太夫を近くで見てっから分かってんだろう? お高く留まるのが太夫ってもんだ」
確かに、気弱な素振りを見せれば、楼主や茶屋の名主らに付け込まれ、永遠に女郎の身のまま死ぬか、もしくは切見世に再び飛ばされるかも知れなく、それだけはどうしても避けなければならないと思った奈桜藤だった。
『うん、分かった……ありがと! 大助!』
奈桜藤が満面の笑みをしてみせると、大助は急に顔を背け、片手を挙げた、
「い、良いってもんよ! さっ、準備があんだろう……そろそろ戻ろうぜ」
そそくさと速足で去って行った大助の予想外の反応に奈桜藤は首を傾げるも、後に続いて仮宅へ歩を進めた。
仮宅・夕風屋 ───────
部屋に戻ると、夕華としず葉が女将・松枝の前に群がっていた、
「あ、奈桜藤姐さん、やっと戻って来た! これ見ておくんなんしよ!」
『一体何事だい?』
綿入れの衿を両手で合わせながら奈桜藤が聞くと夕華は目を輝かせながら「いいからっ」と手を引いて隣に座らせると、松枝が口を開いた、
「お前さんが会合で着る、し掛けとお引きだよ。さっき呉服商の二葉屋様が持って来てくだすったんだ。本当は夕顔が注文していて、仕立て上がり品をどうしようか決めかねていたらしくってね。良い機会だと思って、お前さんの選出の儀用に買い取ったんだ」
奈桜藤は、心を躍らせながら衣装櫃の中に納まっている着物を広げた。
背中に白鷺が大きく刺繍され、その周りに幾頭もの蝶が舞い、裾辺りには四季折々の花々が咲き乱れていた。一方、お引きには桜と夕顔の花が描かれていた。
『姐さん……』
奈桜藤は思わず夕顔太夫の事を思い涙し、し掛けと引き摺りを愛でる様に撫でた。
「夏の花、夕顔と、春の花、桜。とても趣のあるお引きでありんすなぁ!」
しず葉が感無量と言わんばかりに言葉を漏らした。
感激している奈桜藤たちを見つめながら、松枝は優しく微笑みかけた、
「夕顔の思いを背負って行きなさい。お前さんはきっと太夫になる。私はそう信じてるよ」
嬉しい言葉を掛けられ、奈桜藤は涙声になりながらもはっきりとした口調で『あい』と返事をした。
───────────────────────
昼九ツ半、奈桜藤は髪型をつぶし島田に結い、それを艶やかに魅せる様に簪で飾り付けた。最後に花辺から貰った翡翠の簪を櫛の間から挿し込み、白鷺のし掛けを身に纏った。息を呑むその美しさに朋輩の新造や禿たちは色めき立った。
まだ正式に突き出しの儀を終えていない新造の身では、太夫の代名詞とも言える【横兵庫】には結えなかった事を松枝は残念がったが、着替え終えた奈桜藤の姿に胸が熱くなる思いだった。
玄関に降り、他の女郎たちの羨望の眼差しを受けながら下駄に足を通していると、高尾太夫が二階の部屋から遅れて現れ出た。
俎板帯に髪は勝山、着重ねの緋色のし掛けには螺鈿模様で藤の花が描かれていた。思わずうっとりと眺めていると太夫はニコッとこちらに微笑みかけて来た。こちらを相手ともしないその素振りに、奈桜藤は敵対心が溢れ出るのを覚えた。
どこから報せを聞き付けたのか、浅草の仮宅から吉原遊郭までの道々には、高尾と奈桜藤、太夫の覇権を争う両者の姿見たさでごった返していた。やれ「どっちが勝つか」「俺はあの若い方だな」「いややっぱり名代高尾だろう」と言っているのが嫌でも聞こえ、耳を塞ぎたい気持ちを抑えるのに奈桜藤は苦労した。
太夫選出会合の場に選ばれた「朝霞楼」は吉原内でも随一の広さを構え、大見世の見世しか受けられない上級の茶屋である。会合に際し、入れ札代表の大見世・「松坂屋」の楼主が中見世が入る事を特別に許したのだった。
茶屋には既に、高級女郎を抱えていない小見世と切見世を除いた五十の見世が広間で待ち構えていた。楼主・遊佐は上座に用意されている座布団に座り、その隣が松枝、そして両人を挟むように奈桜藤と高尾太夫が左右に着座した。
奈桜藤は、禿時代に在籍していた大見世・「大生屋」の楼主と女将・志乃の面影を探したがどこにもその姿はなく、余計に気持ちが沈んで行った。
奈桜藤が一喜一憂している間に、遊佐が楼名主の面々に向かって両手を付いて挨拶を述べていた、
「各見世々々の楼主方および女将の皆様、本日はお忙しい所ご臨席を賜りまして誠にありがとう存じます。この度は、高尾、奈桜藤両人の太夫選出の機会を設けて頂き、かたじけなく存じ奉り──」
「前置きは結構でございますよ、「夕風屋」さん。道中の用意もあるので手短に頼みますよ」
入れ札代表の「松坂屋」楼主が遊佐の言葉を遮るように言った。
「こんな時期に太夫の選出を執り行うとは……「夕風屋」さんはよっぽど、仮宅で潤っておいでで」
二番手の大見世「海老那楼」の楼主が遊佐を見下すように嫌味を言った。
「ほんに、太夫の選出など時代遅れにもほどがありますなぁ」
元吉原時代から長らく大見世の座に君臨する「糸菊屋」が扇で自身をあおぎながら露骨に嫌な顔をしてみせた。
大助の話していた以上に、大見世の楼主からは批判的な感情しか受け取れなく、疑念の眼差しが奈桜藤に降り注いだ。いくら豪奢な出で立ちをしていても楼主たちの目には、下女郎が太夫の真似事をしている様にしか映らないのだろう。奈桜藤は歯を食いしばりながらこの現状を打破する考えを頭の中で巡らせていた。
遊佐はこれ以上大見世の楼主たちから反感を買われないよう、毅然とした態度で両手を付いた、
「皆様におかれましては、中見世ごときの分不相応な振る舞い、憤懣やるかたなき思いかと存じます。しかしながら、我ら「夕風屋」と致しましては、不慮の事故により失うた夕顔太夫の替わりを擁立したくこのような仕儀に至りましてございます。楼主の皆様方のお力と鋭い眼光をお借りし、採否の断を行って頂きたいのでございます!」
遊佐の口上を受けて、「松坂屋」の楼主は高尾と奈桜藤の両者それぞれから表明を求めた。どういう心持ちがあって太夫になりたいのか、二人の考えを見聞きし、平等に選出しようと考えての事だろう。恐ろしくも厳つい形相をしていながらも、冷静さを携えているその楼主の鑑たる固い信念に、目を見張る程であった。
まず初めに、現役の【座敷持ち太夫】である高尾太夫から意思表明がなされた、
「あちきは、太夫となって八年になるざます。根も葉も無えす噂もおざんす通り、近頃のあちきは旦那様方と床を共におざすんはめっきり減ったざます。けんど……今でも、太夫としての矜持という物は持ち合わせてるざます。妹女郎には太夫になって欲しいざますけんど、あちきをどんぞ……お選び頂けたら、幸いざます」
優雅にしかし艶めかしく、楼主たちを流し目で見つめながら、高尾太夫は簡潔に表明を示し、頭を下げた。奈桜藤がちらと前方を見てみると、大見世衆が一様にして高尾の美しさに魅了されており、赤面する楼主もいた。
さすがは太夫、と奈桜藤は感心してしまう程の姐女郎の表明が終わると、いよいよ奈桜藤の番となった。いざ口を開こうとすると、女将の松枝が奈桜藤の事を知らぬ楼主らに対し、両手を付いて言葉を述べた、
「この奈桜藤は、気立てもよく、利発で、お客様に対する接し方も女郎の中で一番だと心得ております。先だって亡くなった太夫の夕顔からも大変可愛がられ、『自分の次は是非、奈桜藤を太夫に』と話を進めていた所なのです。当見世の禿出身でも引込でもありませぬが、太夫にとって大事なるは、茶の湯でも、歌を詠む事でもなく、あしらい方でございます。新吉原になって百年となるこの節目の年に、新たな太夫を置くのもこの廓にとって良き頃合いなのでは無いかと私は思うております」
松枝がゆっくりと低頭すると、楼主たちは先ほどの様に声を出さず、じっと松枝を見据えていた。
この頃、太夫という身分自体が廃れつつあった。
廓の中でも高尾を含めて二人しかおらず、女郎の中では【散茶】と呼ばれる女郎が幅を利かせていた。格式張って金ばかり掛かる太夫より、見目麗しく、振る事も無い女郎の方がお客には好まれていたのだ。新たな風を送り込みたいという思いは楼主たちにもあった。
松枝の言葉が奈桜藤の背中を勢いよく叩いてくれた様に心強く感じ、身体の緊張がほぐれた。奈桜藤は小さく咳払いをした後、背筋を正して楼主たちに向かって両手を付いた、
『あちきは……おっかさんのおっせえす通り、引込から女郎になった訳ではありんせん。けんど、太夫になる事は禿からの夢でありんした。ここには居りんせんすが、禿だった頃のおっかさんと誓いんした約束でもありんす。いつか、太夫になりんした姿を見せてあげたいと……心から願っておりんす……。どうか、親父様方、女将さん方のご深慮を賜りたく、宜しゅうお願い致しんす……』
涙ながらに訴える奈桜藤の必死の思いは楼主たちには……届かなかった。
「約束やら夢やら……太夫になりたいのはお前さんだけじゃないんだよ。そんな簡単に太夫になりたいなんてなぁ甘い考えで成り上がって貰っちゃあ廓の掟が廃る!!」
今度は大見世ではなく、「夕風屋」と同じ中見世からの冷たい言葉だった。
「「夕風屋」の筆頭太夫が亡くなったからって引込揚がりじゃないお前さんを許すとでも思ったかい?」
「松葉裏屋」の女将が声を大にして言い放った。
「そもそも、誰がこんな無駄な会合を打ち出したんだい?!」
「宇螺屋」の楼主が問いかけると、高尾が上座から応えた、
「あちきざます」
すると、「藤葉屋」の主が鼻を鳴らしながら腕を組んだ、
「ふんっ!! 座敷持ち太夫の風上にも置けない女郎がっ! 勝手な事を!」
「「藤葉屋」さん! 「夕風屋」の高尾を悪く言うのは頂けませんなぁ!」
遊佐が「藤葉屋」の楼主に向かって高尾を庇う様に言うと、
「口を慎みなされ「夕風屋」さん!! 誰のためにここに集まったと思ってんだい!?」
「宇螺屋」の楼主が怒り心頭に掴み掛った。
奈桜藤の表明を皮切りに「朝霞楼」の広間は混沌と化してしまった。一方では立ち上がり、奈桜藤に向かって野次を飛ばす者、広間を出て行こうとする者、遊佐や松枝に向かって暴言を吐く者も現れるなど酷い喧騒状態となった、
挙句には、奈桜藤がかつて在籍していた切見世・「流う楼」での一件を誰かが持ち出して来、口論は増して行った。
その時、広間座敷の襖が勢いよく開かれ、甲高い若い声が部屋中に響き渡った、
「おいらの姐さんを悪く言わないでおくんなんし!!」
『……しず葉っ!? 夕華? 夕喜?』
声の正体は奈桜藤の朋輩の新造と禿だった。上座から三人の姿を目の当たりにした奈桜藤、遊佐、松枝は驚きの余り茫然としてしまった。仮宅で待っていてくれていたと思いきや、共に「朝霞楼」まで付いて来ていたのだ。
夕華たちの姿を目の当たりにした遊佐は、これまでにない凄まじい形相で叱責した、
「選出の場にどうしてお前たちがいるんだ!! とっとと見世に戻りやがれ!!」
女将にばかり叱られて来た彼女らにとって楼主から怒鳴られることなかった三人は一瞬ひるんだものの、しず葉が声を大にしてその命令を突っぱねた、
「嫌でござんす!! おいらは、奈桜藤姐さんのために来たんだい! 親父様は……ひ、引っ込んでくださんし!」
思いがけず、小さなしず葉に反論され、遊佐は目を丸くさせながら押し黙った。
「親父様方、おっかさん方、こちらをご覧くださんし!」
夕華は懐から巻紙を取り出し、それを楼主たちと遊佐の間を隔てるように広げた。
遊佐と楼主たちが興味深そうにそれを見ると、そこにはたくさんの名がずらりと紙の端々まで連なっていた。奈桜藤もにじり寄りながらそれを見てみると、「夕風屋」の女郎、若い衆他下働きの者たち全員の名が見て取れた。
「な、なんだね、これは?」
「松坂屋」の楼主が訝しげに尋ねると、夕華が得意げに言った、
「「夕風屋」の女郎、若い衆、下働き総勢八十五名全員が、奈桜藤姐さんを太夫にしてくださんすようにと願った書状でありんす!」
「これが、「夕風屋」の総意でありんす。もしも、この嘆願が聞き届けられなかった場合は、わちきらは切見世に身を投じんす!」
夕華の思い切った衝撃的な発言に、奈桜藤は思わず身を乗り出した、
『何を言ってるんだい、夕華! そんな事……あちきの為に……。馬鹿な事をしないでおくんなんし!』
「ならば!! 親父様方……おっかさん方……どうか、お願い致しんす!! 奈桜藤姐さんを太夫にしてくださんし!!」
夕華たち三人は、楼主と女将たちに向かって深々と頭を下げた。
五十人余りの楼主や女将が一堂に会する場に出る事も無かった彼女たちにとって、どれほど恐ろしい事だろうか。全員、身体中が小刻みに震えているのが見て取れた。
奈桜藤も、三人の度胸と勇気に感謝しつつ、しず葉たちに倣って両手を付いて頭を下げた。松枝も同じように続くと、「海老那楼」の主が遊佐に向かって叫んだ、
「「夕風屋」さんよ、こ、これが、そちらさんのやり方かい……」
顔を真っ赤にさせながら訴えかける「海老那楼」に向かって遊佐は、ニヤリと笑い掛けながら、大袈裟な素振りで両手を付いた、
「何せ、仮宅営業の「夕風屋」でございますからなぁ。廓の掟も何処へやらという具合ですな」
「海老那楼」が今度は高尾太夫を見ると、先ほどまでの論争などには目もくれず、「朝霞楼」の若い衆に用意させた煙草盆の前で吹かし込んでいた。それが「海老那楼」の逆鱗に触れ、大声を上げた、
「ただで済むと思ったら大間違いじゃ!! お前たち新造と禿、更には奈桜藤をまとめて折檻──」
「おお~! それは笑止!」
言葉を遮ったのは遊佐の後ろに座している大助だった。
「なんじゃと?!」
「折檻はさせませんよ。こんな目出度え機会を賜ったこの日に、折檻などしてもらっちゃあ運が逃げてしまいまさぁ。どちらにせよ、新たな太夫を選出してくださるこの最良な日でごぜえやす。どうぞ、長い目で見て下せえよ「海老那楼」様」
大助の言葉を受け「海老那楼」はわなわなと身体を震わせながら口を噤んだ。しかし、隣にいた「糸菊屋」の楼主が怒り狂い、大助に向かって唾を飛ばした、
「このっ……番頭ごときが我々名主に向かってそのような口の利き方をっ──」
「やめなさい! 見苦しい……」
「松坂屋」が「糸菊屋」に手で制した後、声を大にして、
「さぁ皆さん、投票の時間ですよ」
と宣言した。
「し、しかし!! 「松坂屋」さん──」
「申したはずです、こちらは道中が控えてあると。「海老那楼」さんも「糸菊屋」さんでもありますよねぇ、道中」
「松坂屋」の鋭いまなざしを受け、「海老那楼」と「糸菊屋」両屋は身を引きながらじっと頷いた。
───────────────────────
その後、「夕風屋」一行は別室へと通され、五十の楼名主のみで最終合議が行われた。その間、奈桜藤はしず葉たちと身を寄せ合いながら、呼ばれるその時を待っていた。
「姐さん、大丈夫でありんす……きっと奈桜藤姐さんが次の太夫でござんす!」
『そうだと願いたいけんど……もし万に一つでもあちきが太夫になれんくても、切見世には行かないでおくれ』
奈桜藤の今にも泣きだしそうな顔を見て夕華は、頷くだけで何も言わなかった。
四半刻は経ったろうか、「朝霞楼」の女将が一同を呼びに来、遊佐らは再び、広間へ戻って行った。奈桜藤と高尾が再び元座っていた場所に座すと「松坂屋」が背筋を正し、はっきりとした声で結果を発した、
「お待たせをしましたな。我々楼名主の間で、様々合議を重ねた結果、次期「夕風屋」の太夫は……高尾とする」
想像した通りの結果に奈桜藤は依然冷静だった。しかし、傍にいたしず葉は悔しそうに涙を流しながら袖で顔を覆い、夕華と夕喜は納得が行かないとでも言う様に、膝を叩いていた。
ところが、結果が突き付けられたそのすぐ後に予想外の言葉が「松坂屋」から発せられた、
「しかし例外として、高尾太夫が長年勤めて参った座敷持ち太夫の位を退かせ、次代の呼出大夫とし。奈桜藤を座敷持ち太夫とする事とする」
思いがけなかった展開に、奈桜藤は事態を呑み込めずにいた、
『そ、それは……どういう事でござんすか?』
奈桜藤が「松坂屋」に向かって尋ねた、
「奈桜藤が、見世の者たちより慕われている事は良う良う分かった。見世の者から忌み嫌われつつ崇敬される太夫など見世の立場が危うくなる恐れもある事、前々から危惧しておったのじゃ……。わしら「松風屋」も上級女郎を恐れる者たちばかりで、悪態吐くものも多くいる。客からも愛され、周りの者からも愛される新たな女郎……花魁が誕生するのも、良いのではないかと思った故じゃ」
『おいらん……?』
「《おいらの姐さん》……。そこの禿から妙案を受けた。これより、散茶女郎の中、見目麗しく、上質なぼぼを持ち、お大尽様との接し方が秀逸なる女郎を【花魁】とするよう……皆さま、よろしいかな?」
「松坂屋」が他の見世の楼主・女将たちに説くと、一同低頭し許諾の姿勢を見せた。
「「松坂屋」様、この度は誠にありがとう存じます」
遊佐と松枝がそう言って「松坂屋」に向かい畏まるのを奈桜藤も続いて両手を付きながら楼主を見上げた、すると、「松坂屋」はじっとこちらを見て微笑んで、広間を颯爽と出て行った。
奈桜藤に取り、この楼主の印象は恐ろしい親父様だと思い込んでいた。その事もあって、優しく微笑むその姿に思わず心が揺り動かされる思いだった。必ずしも、人の見た目だけですべてを判断するのは行けないことなのであると、奈桜藤は悟りを得たのであった。
仮宅・夕風屋 ───────
「朝霞楼」から戻った奈桜藤は、見世の者たちから祝いの言葉で迎えられた。考えるだに「松坂屋」が若い衆を飛ばして「夕風屋」に報せたのだろう。皆の歓声に応えながら、奈桜藤は女将に招かれ、楼主部屋へと通された。
「ひとまず、太夫に選出された運び、めでたいのう」
座布団に深く沈み込んだ遊佐が、ぶっきらぼうに奈桜藤に向かって祝いの言葉を述べた。
「あんた、花魁だよ。「松坂屋」様が仰ってたではないか──」
松枝が間違いを正そうとすると、楼主は何かが切れたように煙草盆を突き飛ばして怒声を上げた、
「うるさい! 大見世だからといって偉そうにしやがって……っ」
遊佐は楼主として人一倍に誇り高く、選出会合において続けざまに罵詈雑言を浴びせられ、怒り憎しみに打ち震えていた。ようやく自陣たる見世に戻り、持っていた扇を太ももに叩き続け憤怒の思いを解放した。
「お前が夢だ、約束だなどとずけずけと言い放ってくれたおかげで、「夕風屋」に汚名が注がれたのだ!! お前を花魁などという物にするなど許すはずがない!!」
遊佐の開き直りに奈桜藤が困惑していると、松枝が徐に立ち上がり、遊佐の頬を平手打ちした、
「いい加減にしな!! 強情っぱりのクソジジイが!!」
「な、なんじゃとぉ?」
「あんたが懇意にしている高尾が負けた訳じゃなし、何をそんなに怒る必要があるんだい。中見世で最初の上級遊女、花魁が生まれたんだよ。見世の主として、誇りに思ったらどうなんだい? 大見世に逆らったらそれこそ汚名どころかこの見世の存亡に関わる! あんたの代で潰れるのは嫌だろう。頭を冷やしやがれっ!」
松枝が一撃を食らわせると、遊佐は肩を落として、次の間へと去って行った。情けない夫の背中を見送った松枝は、座布団の塵を掃う素振りして座ると、奈桜藤に微笑みかけた、
「ようやく、二人きりになったね。改めて、本当におめでとう……」
『一時はどうなるんかと思いんしたが、これも、おっかさんが背中を押してくれたおかげでありんす』
忽ち目の前で繰り広げられた惨劇が治まり、ようやく安堵と感激の気持ちに浸った奈桜藤は、松枝に向かって両手を付いて礼を述べた。
「これを機に、お前に新しい名前を与えようと思うんだが、どうだい?」
『新しい名前……』
奈桜藤はしばらく考えた。
よしという名を幼い頃に与えられ、それを大層気に入っていた。しかし「夕風屋」に鞍替えされた初日に理不尽に授けられた奈桜藤という名を当初は気に入らなかったものの、今ではこの名が好きになりつつあった。
『いいえ、このままで。奈桜藤でしばらく頑張りとうありんす』
「そうかい……うん、わかったよ」
名を替えるこの機会に奈桜藤は低頭してそれを拒否し、奈桜藤花魁と名乗る事と決めた。
斯くして、「夕風屋」は仮宅の状態のまま、新たな上級遊女が誕生した。
そのすぐ後、「松坂屋」の宣言通り【花魁】制度が確立され【太夫】という格は消滅。奈桜藤は奈桜藤花魁、高尾太夫は高尾花魁と呼び崇められる事となり新しく生まれ変わった遊郭に向けて突き進んで行く事となるのであった。
前回の入り札選出から二十六年、幾久しい会合を行うという事に、多くの楼主や女将から反発の声が上がったものの、遊佐の必死な説得も甲斐あって、正月四日の昼見世後に【朝霞楼】の茶屋で行われることとなった。
奈桜藤は、高尾と太夫の座を競う事に、当初は乗り気ではなかったものの、姐女郎・夕顔太夫のため、「大生屋」女将・志乃のため、千載一遇の好機に参加する決意をする。
朋輩の新造や禿たちから熱い激励と後押しを受けながら、奈桜藤は一人、身を清める為、湯屋へ向かった。
決意を固めたとはいえ、自分は一介の女郎。周りから将来を熱望されている訳でも、茶華の教えを受けた事も無い。緊張と不安に飲み込まれそうになっていたその帰り道、新見世普請の会合の帰りの途にあった大助と出くわした、
『大助』
「おう! 選出の場には俺も向かうからな」
『あぁ……』
選出という言葉に奈桜藤は思わず俯いてしまった。今まで体験した事のない気の重さに奈桜藤は押しつぶされそうだったのだ。元気なさげに項垂れる奈桜藤を見た大助は、唐突に肩を勢いよく叩いて来た、
『痛ったぁ!! 何すんのよ!』
「しっけたツラしてんじゃねえよ! お前はお前らしく居ればいいんだよ。大見世や茶屋の主から何を言われようと、堂々としてればいいんだ。太夫ってのはそういうもんだ。お前も、夕顔太夫を近くで見てっから分かってんだろう? お高く留まるのが太夫ってもんだ」
確かに、気弱な素振りを見せれば、楼主や茶屋の名主らに付け込まれ、永遠に女郎の身のまま死ぬか、もしくは切見世に再び飛ばされるかも知れなく、それだけはどうしても避けなければならないと思った奈桜藤だった。
『うん、分かった……ありがと! 大助!』
奈桜藤が満面の笑みをしてみせると、大助は急に顔を背け、片手を挙げた、
「い、良いってもんよ! さっ、準備があんだろう……そろそろ戻ろうぜ」
そそくさと速足で去って行った大助の予想外の反応に奈桜藤は首を傾げるも、後に続いて仮宅へ歩を進めた。
仮宅・夕風屋 ───────
部屋に戻ると、夕華としず葉が女将・松枝の前に群がっていた、
「あ、奈桜藤姐さん、やっと戻って来た! これ見ておくんなんしよ!」
『一体何事だい?』
綿入れの衿を両手で合わせながら奈桜藤が聞くと夕華は目を輝かせながら「いいからっ」と手を引いて隣に座らせると、松枝が口を開いた、
「お前さんが会合で着る、し掛けとお引きだよ。さっき呉服商の二葉屋様が持って来てくだすったんだ。本当は夕顔が注文していて、仕立て上がり品をどうしようか決めかねていたらしくってね。良い機会だと思って、お前さんの選出の儀用に買い取ったんだ」
奈桜藤は、心を躍らせながら衣装櫃の中に納まっている着物を広げた。
背中に白鷺が大きく刺繍され、その周りに幾頭もの蝶が舞い、裾辺りには四季折々の花々が咲き乱れていた。一方、お引きには桜と夕顔の花が描かれていた。
『姐さん……』
奈桜藤は思わず夕顔太夫の事を思い涙し、し掛けと引き摺りを愛でる様に撫でた。
「夏の花、夕顔と、春の花、桜。とても趣のあるお引きでありんすなぁ!」
しず葉が感無量と言わんばかりに言葉を漏らした。
感激している奈桜藤たちを見つめながら、松枝は優しく微笑みかけた、
「夕顔の思いを背負って行きなさい。お前さんはきっと太夫になる。私はそう信じてるよ」
嬉しい言葉を掛けられ、奈桜藤は涙声になりながらもはっきりとした口調で『あい』と返事をした。
───────────────────────
昼九ツ半、奈桜藤は髪型をつぶし島田に結い、それを艶やかに魅せる様に簪で飾り付けた。最後に花辺から貰った翡翠の簪を櫛の間から挿し込み、白鷺のし掛けを身に纏った。息を呑むその美しさに朋輩の新造や禿たちは色めき立った。
まだ正式に突き出しの儀を終えていない新造の身では、太夫の代名詞とも言える【横兵庫】には結えなかった事を松枝は残念がったが、着替え終えた奈桜藤の姿に胸が熱くなる思いだった。
玄関に降り、他の女郎たちの羨望の眼差しを受けながら下駄に足を通していると、高尾太夫が二階の部屋から遅れて現れ出た。
俎板帯に髪は勝山、着重ねの緋色のし掛けには螺鈿模様で藤の花が描かれていた。思わずうっとりと眺めていると太夫はニコッとこちらに微笑みかけて来た。こちらを相手ともしないその素振りに、奈桜藤は敵対心が溢れ出るのを覚えた。
どこから報せを聞き付けたのか、浅草の仮宅から吉原遊郭までの道々には、高尾と奈桜藤、太夫の覇権を争う両者の姿見たさでごった返していた。やれ「どっちが勝つか」「俺はあの若い方だな」「いややっぱり名代高尾だろう」と言っているのが嫌でも聞こえ、耳を塞ぎたい気持ちを抑えるのに奈桜藤は苦労した。
太夫選出会合の場に選ばれた「朝霞楼」は吉原内でも随一の広さを構え、大見世の見世しか受けられない上級の茶屋である。会合に際し、入れ札代表の大見世・「松坂屋」の楼主が中見世が入る事を特別に許したのだった。
茶屋には既に、高級女郎を抱えていない小見世と切見世を除いた五十の見世が広間で待ち構えていた。楼主・遊佐は上座に用意されている座布団に座り、その隣が松枝、そして両人を挟むように奈桜藤と高尾太夫が左右に着座した。
奈桜藤は、禿時代に在籍していた大見世・「大生屋」の楼主と女将・志乃の面影を探したがどこにもその姿はなく、余計に気持ちが沈んで行った。
奈桜藤が一喜一憂している間に、遊佐が楼名主の面々に向かって両手を付いて挨拶を述べていた、
「各見世々々の楼主方および女将の皆様、本日はお忙しい所ご臨席を賜りまして誠にありがとう存じます。この度は、高尾、奈桜藤両人の太夫選出の機会を設けて頂き、かたじけなく存じ奉り──」
「前置きは結構でございますよ、「夕風屋」さん。道中の用意もあるので手短に頼みますよ」
入れ札代表の「松坂屋」楼主が遊佐の言葉を遮るように言った。
「こんな時期に太夫の選出を執り行うとは……「夕風屋」さんはよっぽど、仮宅で潤っておいでで」
二番手の大見世「海老那楼」の楼主が遊佐を見下すように嫌味を言った。
「ほんに、太夫の選出など時代遅れにもほどがありますなぁ」
元吉原時代から長らく大見世の座に君臨する「糸菊屋」が扇で自身をあおぎながら露骨に嫌な顔をしてみせた。
大助の話していた以上に、大見世の楼主からは批判的な感情しか受け取れなく、疑念の眼差しが奈桜藤に降り注いだ。いくら豪奢な出で立ちをしていても楼主たちの目には、下女郎が太夫の真似事をしている様にしか映らないのだろう。奈桜藤は歯を食いしばりながらこの現状を打破する考えを頭の中で巡らせていた。
遊佐はこれ以上大見世の楼主たちから反感を買われないよう、毅然とした態度で両手を付いた、
「皆様におかれましては、中見世ごときの分不相応な振る舞い、憤懣やるかたなき思いかと存じます。しかしながら、我ら「夕風屋」と致しましては、不慮の事故により失うた夕顔太夫の替わりを擁立したくこのような仕儀に至りましてございます。楼主の皆様方のお力と鋭い眼光をお借りし、採否の断を行って頂きたいのでございます!」
遊佐の口上を受けて、「松坂屋」の楼主は高尾と奈桜藤の両者それぞれから表明を求めた。どういう心持ちがあって太夫になりたいのか、二人の考えを見聞きし、平等に選出しようと考えての事だろう。恐ろしくも厳つい形相をしていながらも、冷静さを携えているその楼主の鑑たる固い信念に、目を見張る程であった。
まず初めに、現役の【座敷持ち太夫】である高尾太夫から意思表明がなされた、
「あちきは、太夫となって八年になるざます。根も葉も無えす噂もおざんす通り、近頃のあちきは旦那様方と床を共におざすんはめっきり減ったざます。けんど……今でも、太夫としての矜持という物は持ち合わせてるざます。妹女郎には太夫になって欲しいざますけんど、あちきをどんぞ……お選び頂けたら、幸いざます」
優雅にしかし艶めかしく、楼主たちを流し目で見つめながら、高尾太夫は簡潔に表明を示し、頭を下げた。奈桜藤がちらと前方を見てみると、大見世衆が一様にして高尾の美しさに魅了されており、赤面する楼主もいた。
さすがは太夫、と奈桜藤は感心してしまう程の姐女郎の表明が終わると、いよいよ奈桜藤の番となった。いざ口を開こうとすると、女将の松枝が奈桜藤の事を知らぬ楼主らに対し、両手を付いて言葉を述べた、
「この奈桜藤は、気立てもよく、利発で、お客様に対する接し方も女郎の中で一番だと心得ております。先だって亡くなった太夫の夕顔からも大変可愛がられ、『自分の次は是非、奈桜藤を太夫に』と話を進めていた所なのです。当見世の禿出身でも引込でもありませぬが、太夫にとって大事なるは、茶の湯でも、歌を詠む事でもなく、あしらい方でございます。新吉原になって百年となるこの節目の年に、新たな太夫を置くのもこの廓にとって良き頃合いなのでは無いかと私は思うております」
松枝がゆっくりと低頭すると、楼主たちは先ほどの様に声を出さず、じっと松枝を見据えていた。
この頃、太夫という身分自体が廃れつつあった。
廓の中でも高尾を含めて二人しかおらず、女郎の中では【散茶】と呼ばれる女郎が幅を利かせていた。格式張って金ばかり掛かる太夫より、見目麗しく、振る事も無い女郎の方がお客には好まれていたのだ。新たな風を送り込みたいという思いは楼主たちにもあった。
松枝の言葉が奈桜藤の背中を勢いよく叩いてくれた様に心強く感じ、身体の緊張がほぐれた。奈桜藤は小さく咳払いをした後、背筋を正して楼主たちに向かって両手を付いた、
『あちきは……おっかさんのおっせえす通り、引込から女郎になった訳ではありんせん。けんど、太夫になる事は禿からの夢でありんした。ここには居りんせんすが、禿だった頃のおっかさんと誓いんした約束でもありんす。いつか、太夫になりんした姿を見せてあげたいと……心から願っておりんす……。どうか、親父様方、女将さん方のご深慮を賜りたく、宜しゅうお願い致しんす……』
涙ながらに訴える奈桜藤の必死の思いは楼主たちには……届かなかった。
「約束やら夢やら……太夫になりたいのはお前さんだけじゃないんだよ。そんな簡単に太夫になりたいなんてなぁ甘い考えで成り上がって貰っちゃあ廓の掟が廃る!!」
今度は大見世ではなく、「夕風屋」と同じ中見世からの冷たい言葉だった。
「「夕風屋」の筆頭太夫が亡くなったからって引込揚がりじゃないお前さんを許すとでも思ったかい?」
「松葉裏屋」の女将が声を大にして言い放った。
「そもそも、誰がこんな無駄な会合を打ち出したんだい?!」
「宇螺屋」の楼主が問いかけると、高尾が上座から応えた、
「あちきざます」
すると、「藤葉屋」の主が鼻を鳴らしながら腕を組んだ、
「ふんっ!! 座敷持ち太夫の風上にも置けない女郎がっ! 勝手な事を!」
「「藤葉屋」さん! 「夕風屋」の高尾を悪く言うのは頂けませんなぁ!」
遊佐が「藤葉屋」の楼主に向かって高尾を庇う様に言うと、
「口を慎みなされ「夕風屋」さん!! 誰のためにここに集まったと思ってんだい!?」
「宇螺屋」の楼主が怒り心頭に掴み掛った。
奈桜藤の表明を皮切りに「朝霞楼」の広間は混沌と化してしまった。一方では立ち上がり、奈桜藤に向かって野次を飛ばす者、広間を出て行こうとする者、遊佐や松枝に向かって暴言を吐く者も現れるなど酷い喧騒状態となった、
挙句には、奈桜藤がかつて在籍していた切見世・「流う楼」での一件を誰かが持ち出して来、口論は増して行った。
その時、広間座敷の襖が勢いよく開かれ、甲高い若い声が部屋中に響き渡った、
「おいらの姐さんを悪く言わないでおくんなんし!!」
『……しず葉っ!? 夕華? 夕喜?』
声の正体は奈桜藤の朋輩の新造と禿だった。上座から三人の姿を目の当たりにした奈桜藤、遊佐、松枝は驚きの余り茫然としてしまった。仮宅で待っていてくれていたと思いきや、共に「朝霞楼」まで付いて来ていたのだ。
夕華たちの姿を目の当たりにした遊佐は、これまでにない凄まじい形相で叱責した、
「選出の場にどうしてお前たちがいるんだ!! とっとと見世に戻りやがれ!!」
女将にばかり叱られて来た彼女らにとって楼主から怒鳴られることなかった三人は一瞬ひるんだものの、しず葉が声を大にしてその命令を突っぱねた、
「嫌でござんす!! おいらは、奈桜藤姐さんのために来たんだい! 親父様は……ひ、引っ込んでくださんし!」
思いがけず、小さなしず葉に反論され、遊佐は目を丸くさせながら押し黙った。
「親父様方、おっかさん方、こちらをご覧くださんし!」
夕華は懐から巻紙を取り出し、それを楼主たちと遊佐の間を隔てるように広げた。
遊佐と楼主たちが興味深そうにそれを見ると、そこにはたくさんの名がずらりと紙の端々まで連なっていた。奈桜藤もにじり寄りながらそれを見てみると、「夕風屋」の女郎、若い衆他下働きの者たち全員の名が見て取れた。
「な、なんだね、これは?」
「松坂屋」の楼主が訝しげに尋ねると、夕華が得意げに言った、
「「夕風屋」の女郎、若い衆、下働き総勢八十五名全員が、奈桜藤姐さんを太夫にしてくださんすようにと願った書状でありんす!」
「これが、「夕風屋」の総意でありんす。もしも、この嘆願が聞き届けられなかった場合は、わちきらは切見世に身を投じんす!」
夕華の思い切った衝撃的な発言に、奈桜藤は思わず身を乗り出した、
『何を言ってるんだい、夕華! そんな事……あちきの為に……。馬鹿な事をしないでおくんなんし!』
「ならば!! 親父様方……おっかさん方……どうか、お願い致しんす!! 奈桜藤姐さんを太夫にしてくださんし!!」
夕華たち三人は、楼主と女将たちに向かって深々と頭を下げた。
五十人余りの楼主や女将が一堂に会する場に出る事も無かった彼女たちにとって、どれほど恐ろしい事だろうか。全員、身体中が小刻みに震えているのが見て取れた。
奈桜藤も、三人の度胸と勇気に感謝しつつ、しず葉たちに倣って両手を付いて頭を下げた。松枝も同じように続くと、「海老那楼」の主が遊佐に向かって叫んだ、
「「夕風屋」さんよ、こ、これが、そちらさんのやり方かい……」
顔を真っ赤にさせながら訴えかける「海老那楼」に向かって遊佐は、ニヤリと笑い掛けながら、大袈裟な素振りで両手を付いた、
「何せ、仮宅営業の「夕風屋」でございますからなぁ。廓の掟も何処へやらという具合ですな」
「海老那楼」が今度は高尾太夫を見ると、先ほどまでの論争などには目もくれず、「朝霞楼」の若い衆に用意させた煙草盆の前で吹かし込んでいた。それが「海老那楼」の逆鱗に触れ、大声を上げた、
「ただで済むと思ったら大間違いじゃ!! お前たち新造と禿、更には奈桜藤をまとめて折檻──」
「おお~! それは笑止!」
言葉を遮ったのは遊佐の後ろに座している大助だった。
「なんじゃと?!」
「折檻はさせませんよ。こんな目出度え機会を賜ったこの日に、折檻などしてもらっちゃあ運が逃げてしまいまさぁ。どちらにせよ、新たな太夫を選出してくださるこの最良な日でごぜえやす。どうぞ、長い目で見て下せえよ「海老那楼」様」
大助の言葉を受け「海老那楼」はわなわなと身体を震わせながら口を噤んだ。しかし、隣にいた「糸菊屋」の楼主が怒り狂い、大助に向かって唾を飛ばした、
「このっ……番頭ごときが我々名主に向かってそのような口の利き方をっ──」
「やめなさい! 見苦しい……」
「松坂屋」が「糸菊屋」に手で制した後、声を大にして、
「さぁ皆さん、投票の時間ですよ」
と宣言した。
「し、しかし!! 「松坂屋」さん──」
「申したはずです、こちらは道中が控えてあると。「海老那楼」さんも「糸菊屋」さんでもありますよねぇ、道中」
「松坂屋」の鋭いまなざしを受け、「海老那楼」と「糸菊屋」両屋は身を引きながらじっと頷いた。
───────────────────────
その後、「夕風屋」一行は別室へと通され、五十の楼名主のみで最終合議が行われた。その間、奈桜藤はしず葉たちと身を寄せ合いながら、呼ばれるその時を待っていた。
「姐さん、大丈夫でありんす……きっと奈桜藤姐さんが次の太夫でござんす!」
『そうだと願いたいけんど……もし万に一つでもあちきが太夫になれんくても、切見世には行かないでおくれ』
奈桜藤の今にも泣きだしそうな顔を見て夕華は、頷くだけで何も言わなかった。
四半刻は経ったろうか、「朝霞楼」の女将が一同を呼びに来、遊佐らは再び、広間へ戻って行った。奈桜藤と高尾が再び元座っていた場所に座すと「松坂屋」が背筋を正し、はっきりとした声で結果を発した、
「お待たせをしましたな。我々楼名主の間で、様々合議を重ねた結果、次期「夕風屋」の太夫は……高尾とする」
想像した通りの結果に奈桜藤は依然冷静だった。しかし、傍にいたしず葉は悔しそうに涙を流しながら袖で顔を覆い、夕華と夕喜は納得が行かないとでも言う様に、膝を叩いていた。
ところが、結果が突き付けられたそのすぐ後に予想外の言葉が「松坂屋」から発せられた、
「しかし例外として、高尾太夫が長年勤めて参った座敷持ち太夫の位を退かせ、次代の呼出大夫とし。奈桜藤を座敷持ち太夫とする事とする」
思いがけなかった展開に、奈桜藤は事態を呑み込めずにいた、
『そ、それは……どういう事でござんすか?』
奈桜藤が「松坂屋」に向かって尋ねた、
「奈桜藤が、見世の者たちより慕われている事は良う良う分かった。見世の者から忌み嫌われつつ崇敬される太夫など見世の立場が危うくなる恐れもある事、前々から危惧しておったのじゃ……。わしら「松風屋」も上級女郎を恐れる者たちばかりで、悪態吐くものも多くいる。客からも愛され、周りの者からも愛される新たな女郎……花魁が誕生するのも、良いのではないかと思った故じゃ」
『おいらん……?』
「《おいらの姐さん》……。そこの禿から妙案を受けた。これより、散茶女郎の中、見目麗しく、上質なぼぼを持ち、お大尽様との接し方が秀逸なる女郎を【花魁】とするよう……皆さま、よろしいかな?」
「松坂屋」が他の見世の楼主・女将たちに説くと、一同低頭し許諾の姿勢を見せた。
「「松坂屋」様、この度は誠にありがとう存じます」
遊佐と松枝がそう言って「松坂屋」に向かい畏まるのを奈桜藤も続いて両手を付きながら楼主を見上げた、すると、「松坂屋」はじっとこちらを見て微笑んで、広間を颯爽と出て行った。
奈桜藤に取り、この楼主の印象は恐ろしい親父様だと思い込んでいた。その事もあって、優しく微笑むその姿に思わず心が揺り動かされる思いだった。必ずしも、人の見た目だけですべてを判断するのは行けないことなのであると、奈桜藤は悟りを得たのであった。
仮宅・夕風屋 ───────
「朝霞楼」から戻った奈桜藤は、見世の者たちから祝いの言葉で迎えられた。考えるだに「松坂屋」が若い衆を飛ばして「夕風屋」に報せたのだろう。皆の歓声に応えながら、奈桜藤は女将に招かれ、楼主部屋へと通された。
「ひとまず、太夫に選出された運び、めでたいのう」
座布団に深く沈み込んだ遊佐が、ぶっきらぼうに奈桜藤に向かって祝いの言葉を述べた。
「あんた、花魁だよ。「松坂屋」様が仰ってたではないか──」
松枝が間違いを正そうとすると、楼主は何かが切れたように煙草盆を突き飛ばして怒声を上げた、
「うるさい! 大見世だからといって偉そうにしやがって……っ」
遊佐は楼主として人一倍に誇り高く、選出会合において続けざまに罵詈雑言を浴びせられ、怒り憎しみに打ち震えていた。ようやく自陣たる見世に戻り、持っていた扇を太ももに叩き続け憤怒の思いを解放した。
「お前が夢だ、約束だなどとずけずけと言い放ってくれたおかげで、「夕風屋」に汚名が注がれたのだ!! お前を花魁などという物にするなど許すはずがない!!」
遊佐の開き直りに奈桜藤が困惑していると、松枝が徐に立ち上がり、遊佐の頬を平手打ちした、
「いい加減にしな!! 強情っぱりのクソジジイが!!」
「な、なんじゃとぉ?」
「あんたが懇意にしている高尾が負けた訳じゃなし、何をそんなに怒る必要があるんだい。中見世で最初の上級遊女、花魁が生まれたんだよ。見世の主として、誇りに思ったらどうなんだい? 大見世に逆らったらそれこそ汚名どころかこの見世の存亡に関わる! あんたの代で潰れるのは嫌だろう。頭を冷やしやがれっ!」
松枝が一撃を食らわせると、遊佐は肩を落として、次の間へと去って行った。情けない夫の背中を見送った松枝は、座布団の塵を掃う素振りして座ると、奈桜藤に微笑みかけた、
「ようやく、二人きりになったね。改めて、本当におめでとう……」
『一時はどうなるんかと思いんしたが、これも、おっかさんが背中を押してくれたおかげでありんす』
忽ち目の前で繰り広げられた惨劇が治まり、ようやく安堵と感激の気持ちに浸った奈桜藤は、松枝に向かって両手を付いて礼を述べた。
「これを機に、お前に新しい名前を与えようと思うんだが、どうだい?」
『新しい名前……』
奈桜藤はしばらく考えた。
よしという名を幼い頃に与えられ、それを大層気に入っていた。しかし「夕風屋」に鞍替えされた初日に理不尽に授けられた奈桜藤という名を当初は気に入らなかったものの、今ではこの名が好きになりつつあった。
『いいえ、このままで。奈桜藤でしばらく頑張りとうありんす』
「そうかい……うん、わかったよ」
名を替えるこの機会に奈桜藤は低頭してそれを拒否し、奈桜藤花魁と名乗る事と決めた。
斯くして、「夕風屋」は仮宅の状態のまま、新たな上級遊女が誕生した。
そのすぐ後、「松坂屋」の宣言通り【花魁】制度が確立され【太夫】という格は消滅。奈桜藤は奈桜藤花魁、高尾太夫は高尾花魁と呼び崇められる事となり新しく生まれ変わった遊郭に向けて突き進んで行く事となるのであった。
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