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第五章 夕顔太夫の新造
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羅生門河岸の切見世・「流う楼」に別れを告げた後、よしと大助は、角町から揚屋町へ移動した。その間、一言も話さず、ぎこちない空気が二人を覆った。
大助は頻りに印半纏の衿を正したり、無駄に辺りを見渡したりと落ち着かなかった。今、後ろを歩いている女郎とは身体の睦み合いを交わした仲だ。後ろめたい気持ちに心が満たされかけたが、これからは男衆として、同じ屋根の下で暮らす事になる。大助はなんとか堪えたのだった。
一方よしは、大助が感じる気まずさなんて気にするでもなく、家族の様に慕っていた「流う楼」の人々と別れた余韻に浸り、並んで歩く番頭の事など微塵も気に留めなかったのだった。
吉原の朝は、朝餉の支度をする若い衆や賄い所の仲居たちの声で騒がしかった。風呂敷を固く握り締めながらよしは、目的地に向かってこれから起きる先々の未来に不安を抱いた。
そうこうしている内に、大助の足が止まった、
「着いたぞ。ここが中見世、「夕風屋」だ」
朱色に染まる妓楼の建物が煌々と朝日に照らされた。広い入口にはもう暖簾が掲げられており、屋号紋が大きく描かれている。入り口の上には檜の板に薄墨の字で「夕風屋」と書かれ、時代の経過が感じられた。
長年続く中見世だと思ったよしは、同じく吉原創廓以来続く大見世・「大生屋」の事が頭を過った。
「夕風屋」の入口の両側には、判籬の格子が設えられていた。その広さは壮大で、少し目線の角度を変えれば、格子の開いている場所から、中が垣間見える。全体が覆われる惣籬と比べて、格子の意味を成していなかった。
「さ、入るぞ。親父さんと女将さんがお待ちだ」
両手で勢いよく暖簾を開いて大助が見世の中に入って行くと、よしも後に続いた。
紺の暖簾の先には、壮大な妓楼の内装が広がった。張見世の座敷、入り口から一直線に続く階段への道、奥には檜の床板、そして二階には檜造りの欄干が張り巡らされ、豪華な襖絵が階下から見えた。
「おい! そこ拭いたのか!」
「今から拭きやす!!」
「早くしろ! 女郎たちが降りてくるぞ!」
怒号と悚然とした声を響かせながら、若い衆がせかせかと楼内を往来している。雑巾掛けをする者、張見世の座敷に女郎用の煙草盆と座布団を置いて行く者、台所で女郎や禿たちの朝食用の懸盤を用意する者など、こちらの目が回るほど、忙しそうだった。
大助の先導で奥へ進んで行くと、向こう側から若い衆が駆け寄り、大助に覇気のある挨拶をした、
「大助さん! お帰りなさいやし!!」
大助は手を上げながら応えた、
「おう、只今帰った。親父さんは?」
大助が訊ねると、若い衆はハキハキとした返事をした、
「へい! お部屋でお待ちでごぜえやす!」
「おうよ、今日も気張れよ」
若い衆の肩を叩くと大助はズンズンと床板を昇って行った。よしも草履を脱ぎ、後に続いた。自分にも向けられた若い衆の威勢のある挨拶を聞き流しながら、楼主と女将が待つ【内証】へと向かった。
その部屋、内証は一階妓楼の一番奥にある。進んで行く内、若い衆の声が遠のき、庭が顔を出した。良く手入れされ、池には鯉が優雅に泳いでいる。大きな宴会も開けるであろう更に広い座敷もあり、中見世の中でも類を見ない見世だと見受ける。
「失礼致しやす。大助でごぜいやす」
風神雷神の絵が描かれた襖の前に二人が座ると、大助が開口一番に声をかけた。
「お入り」
女性の声が中からし、それを受けた大助は襖を開けて、よしに先に入るよう促した。
部屋に足を踏み入れると、伽羅の香りが一気に鼻中に広がった。大きな神棚には、吉原の守り神・九郎助稲荷、榎本稲荷、明石稲荷、開運稲荷の御札が掛けられている。
上座にどんと座る細面の楼主らしき男と、その傍らには黒の引き摺りを着た女将らしき女人が、煙管を吹かしながら待ち構えていた。
遊廓は楼主、女将どちらか一方が冴えなかったり、弱気だったりと力が偏るのだが、「夕風屋」に関しては何処か異様だった。まるで棟梁が二人いるかのような、そんな雰囲気が感じられた。
「親父さん、女将さん、ただいま帰りやした」
「うむ、ご苦労だったのう。して、この女郎が松枝がこの前言っていた……?」
「へい、切見世「流う楼」の看板女郎。暴れ客を仕留めたという評判の、よしでごぜえやす」
大助がよしの紹介をし終えると、よしは両手をついたが、途端に言葉が見つからず、見当がつかぬまま楼主と女将の反応を伺った。
見れば二人共、顔色一つ変えず、よしの事をじっと見つめて来た。
「噂通り、別嬪な女郎だ。これなら、太夫に申し分ないよ。ねぇあんた、この子を次の太夫にしてもよろしゅうおざんすな?」
女将の松枝が愛でる様によしを見つめた後、楼主に囁きかけた。ところが楼主は、眉間に皺を寄せながら、予想だにしなかった言葉を吐き捨てた、
「ならん」
腕を組みながら、楼主は続けた、
「確かに顔立ちは器量よしの様じゃが、そもそもここでの経験が浅い。切見世と中見世じゃあ決まり事が違い過ぎる。辺り構わずお客を引っ取る様な真似は夕風屋ではせん。即決即断で太夫にするには早い! 不慣れな事も多かろう……まずは新造から勤めるのじゃ」
『は……?』
よしは訳が分からず、前屈みの体勢になりながら楼主に訴えた、
『……話が違えじゃねえか! 太夫にすぐなれるんじゃ無かったのかよ? わっちの……噂を聞き付けて鞍替えさせたんだろ? そんなの、ちゃんちゃらおかしい話じゃねえか!!』
「その言葉遣いも鍛え直さにゃいかんなぁ。切見世はどうだが知らねえが、「夕風屋」の女郎たちには丁寧な廓詞でお客と接して貰っている」
よしは、冷ややかな楼主の言葉に腰が抜けそうだった。
かつてよしがいた「大生屋」の楼主はいたって厳しくもなく、女将の志乃が見世を牛耳っていた事もあり、楼主という存在に特別印象が薄かった。しかし、「夕風屋」の楼主・遊佐甚作には、底知れぬ腹黒さが肝に潜み、よしの挑戦的な訴えすら耳を貸さず、動じもしなかった。
遊佐は刻み煙草を入れた煙管に火入れ炭で火を付け、一度吹かしてから続けた、
「新造の中でも振袖新造がお前さんには適任じゃな。そっから出直しだ」
『振新って……客が取れねえじゃねえか!』
「ぼぼを鍛える事も忘れずにの? ただし、休ませることも大切じゃ。向こうでは一日に何本もの摩羅を咥え込んだことだろう。これからは、仕える姐太夫から様々な事を学び、様々な事を見聞きし、中見世に慣れろ」
またしても遊佐に自分の言葉が聞き届けられず、よしは苛立ちを覚えた。女郎として何十人とお客を取ってきたよしにとって、お客を取れない振袖新造では、いままで培ってきた誇りと気概が無駄になってしまう、そう思ったのだ。
「──それと今日からお前は、奈桜藤だ」
遊佐は、よしの悲痛な叫びを無視し、唐突な一撃を与えて来た。
『なおふじ!?』
思わず大きな声を上げた。松枝と大助も遊佐の独壇場に呆れている風だった。
遊佐は新しい名前の由来を忽然と語り出した、
「よしは、吉野を連想させんだろう? 吉野と言えば、奈良の吉野山。吉野山と言えば桜。奈良の奈に、桜の桜だ! 藤は、まぁ耳障りも字面も良いからじゃ」
はぁ? と、よし、いや、奈桜藤は訝しげに言葉を漏らした。しかし、楼主の決定に逆らう事は女郎には出来ない。
これはそもそも古い習わしだ。鞍替えや一段高い上の女郎へと昇級すれば名前を変える、それが常だ。過去、女郎の中には、六回も名を変える者もいた。
───────────────────────
初めて会った楼主に見事丸め込まれてしまい、奈桜藤は腹の底からの怒りを抑えきれずにいた。「太夫の部屋へ案内してやれ」と、突っ慳貪にあしらわれ、大助と共に、来た廊下を戻って行った、
『一体何なんだい! あの楼主は、わっちを振袖新造にするなんて! わっちが今まで何人のお客を取って来たと思ってんだい!』
奈桜藤はベラベラと周りに聞こえる様に文句を垂れた。
階段に差し掛かり、裾を帯の下に詰め込みながら上っていくと、大助がこちらを向いた、
「お前の素性は既に調べ上げてある。お前が元は大見世の禿出で、太夫の客である大旦那に破瓜され、熱を出した。しばらくしてから快癒し、そこの女将の計らいで切見世にお預けを受け、今に至る」
大助の口から奈桜藤の過去を語られ、顔に熱が走る感覚がした。
『な、なんでそんな事知ってんだい!』
大助は唇の端を上げて、得意げに語り出した、
「吉原は知っての通り、お歯黒どぶに囲まれた狭い世界だ。情報は簡単に広まって行く。誰がお客と心中したかだの、誰が【足抜け】したかだの、誰が太夫になったかだの、つって忽ち広まる。お前も切見世で生きてきて、報せは飛ぶように入って来るだろう?」
確かに、以前【夕なみ屋】のお職・藤巻大夫が八朔の日に道中を張る事はすぐにも吉原中に報せが回った。奈楼藤が知らないだけで、自身の噂も吉原中に広まって行ったのだろう。
『じゃあ……「夕風屋」の楼主と女将も、わっちの事情は当に知っていたって事かい?』
「そういう事だ」
『知った上でわっちを新造にしたって事かい!』
「そうだって!!」
大声を上げながら、大助は苛立ちを覚えたように奈桜藤に再び向き直った、
「お前、さっきお二人と会って話をしたろう? 昨日言った事と今日の結果が噛み合わなくて申し訳ないと思ってるが、あれがすべてだ。お前の言葉遣いと行動、中見世の習慣を覚えて貰う為に振袖新造に任じたんだ。ちゃんと耳かっぽじって聞いとけ」
初めて見る大助の怒り顔に奈桜藤はとうとう観念し、苛立ちを納めた。
障子だらけの廊下から襖だけの廊に差し掛かった。すると奥の方から小柄な女がこちらに向かって、甘ったるい甲高い声を上げながら駆けて来た、
「大助さまぁ~~! お帰りなんし~! どこに行ってたでありんすか~?」
他の見世の女郎を間近に見て、奈桜藤は目を疑った。濃い化粧に、派手な着物、歯をにっこり見せているのにもかかわらず目の奥は笑っていなかった。
「よお、菊葉。ちょっとした女将の御用でな、出掛けてたんだ」
大助は気さくな態度で応えたことに、奈桜藤は胸に違和感を覚えた。
「おっかさんの? それはご苦労でありんしたなぁ。どう? おいらの部屋で休んでかないかい?」
「馬鹿ほざくんじゃねえよ、俺はこれから太夫に会って今日の予定を報せにゃいけねぇし、お前さんだって昼見世控えてんだろ」
体よく断られるも、菊葉は挫けず、大助の隣にバタバタと立ち、強引に組んだ二の腕に鼻をくっつけ大きく息を吸い出した、
「はぁ、今日も良い香りでありんすなぁ」
奈桜藤は、蚊帳の外に置かれたような気分になり、大きなため息をわざとついた、
『さっさとしておくれよ。立ち話してる場合か?』
ようやく奈桜藤の存在に気付いた菊葉は、先ほどまでのおべっかな表情を険しくさせ、奈桜藤を睨み付けた。
「はぁ、なんだえ? この女。えらく大口叩くじゃないのさ」
『おうおう、てめえこそ、でけえ口叩くじゃないのさ、え? 派手な顔をして、客でも無えこの男にまでおべっか使っちゃってさ。へぇ~、最近の中見世の女郎ってのはそんな奴らばっかなのかねぇ?』
「なんだってえ!? もう一度言ってみな!!」
喧嘩腰にベラベラと嫌味を言われた菊葉は腹を立てながら、奈桜藤の胸ぐらに掴みかかった。
「あーー!! お前らもうそのくらいにしとけ! 廻りが迷惑だ!」
傍にいた大助は大声を出して、奈桜藤と菊葉を引き放させた。大助は菊葉に準備に戻れと伝え、奈桜藤の腕を引き、先へと進んだ、
「初日から問題起こすんじゃねえよ! 遣り手に折檻されちまうぞ!」
廊下を渡りながら、大助は小声で奈桜藤に言い含ませるように言った。
『折檻が怖くて女郎が務まるかよ!』
大助は奈桜藤の呟いた一言を無視し、廊下の一番端にある部屋の前に立ち止まった。襖には白黒の市松と曼珠沙華が艶やかに描かれていた。息を呑むほど大きく描かれた彼岸花は誇り高くも切なく、見るものに何かを訴えかけているように感じた。
「座れ」と大助に促された奈桜藤は、少し後ろに下がった所に着座した。大助は大きな声を張り上げ、部屋の主に入室の挨拶をした、
「夕顔太夫、番頭の大助でごぜえやす」
『(夕顔…)』
源氏物語に出て来る、光源氏が愛した女の一人、それが夕顔である。何度も小説を読んで来た奈桜藤にとって、この夕顔という女性は、忘れることの出来ない存在だった。
しばらくすると、襖が両側に勢いよく開いた。朱色の振袖に身を包んだ二人の禿が両端にちょこんと座り、恭しく大助に対し頭を下げた。大助は両手をついて続けた、
「先日、楼主様よりお話がごぜえやした、本日より新たに振袖新造となった奈桜藤でごぜえやす」
大助から目配せを受け、奈桜藤は両手を付いてようやく、自分の口で挨拶を述べた、
『よし……いや、な、奈桜藤でござんす。よ、宜しゅうお願い致しんす』
「お入りなんせ」
禿の愛らしい声の後、奈桜藤は静々と太夫の部屋へと入室した。太夫からの一声は未だに無いままだ。奈桜藤が部屋に入ってしばらく、大助は本日の予定を報告した。
「夕顔太夫、今宵、田藤屋の治左衛門様がお越しになられやす。引手茶屋へ是非にいらして頂きたいとの事でごぜえやす」
奈桜藤は両手をつきながらちらっと部屋の主を見やると、ただただ、ぼうっと窓の外を眺めるだけで返事はなかった。高く結われた勝山髷に挿された美しい簪がキラキラと靡いていて、その異様な存在感を背から放つ太夫に、溜息が漏れそうだった。
返事を得られなかった大助は呆れたような素振りをし、こちらを向いた奈桜藤に目配せをした後、太夫に向かって頭を下げ、ぴしゃりと襖を閉めた。
突然一人取り残され、奈桜藤は鼓動が早くなって行くのを感じ、久方ぶりに緊張が全身を駆け巡った。大助が去ってすぐ、夕顔太夫が優雅に振り向いた。
その瞬間、華やかな風が吹いたような衝撃が走った。
多くの太夫を道中で見て来た奈桜藤だったが、これほどまでに天女の様な美しさを兼ね揃えた太夫は見た事が無かった。艶やかな唇、切れ長の目、小さな鼻、匂い立つような妖艶さ、着物の着方から座り方まで、すべて完璧その物であった。
真っ直ぐと瞳を見据えながら、夕顔はゆったりとした言葉遣いで奈桜藤に話しかけた、
「お気張りなんし」
『な、奈桜藤と申しんす! よ、宜しゅうお願い致しんす』
「ふふふ、そんなにかしこまらなくてもよろしんすよ? ゆるりとしておくんなんし」
美しさの反面、愛らしい子供のような可愛らしい声を上げた。奈桜藤は満たされる思いになりながら、流れるような夕顔の労いの言葉に陶酔した。
そして、夕顔太夫は徐に【次の間】に控えている新造たちの一人に声を掛けた、
「蘭香、この子に着替えをさせておやりんす」
蘭香という振袖新造は「あい」と返事をしてスッと立ち上がった。
「こちらへおいでなんし」と言うので、奈桜藤は夕顔に一礼してその新造に付いて行った。
───────────────────────
太夫にはどの女郎よりも広い部屋が与えられた。
先ほどまでいた部屋は太夫の居室。襖を境に隔てた次の間は、新造や禿が控え、そして彼女たちが眠る部屋だ。その他、衣装が保管されている【し掛け之間】・客人を迎える【座敷】・雪隠がある【不浄の間】・家具調度がある【調度之間】と続いた。他の女郎は階級に応じて部屋割がされており、「夕風屋」に至っては二~三人の相部屋がほとんどだ。
蘭香という新造は他の者と比べて端麗な顔立ちをしており、目鼻立ちがすっきりとしていた。ところが、その顔に似合わず、言動や行動には何処かピンと張り詰めていて、捉えどころが無いように見えた。
蘭香の手を借りながら、奈桜藤は縹色の裾引き紋付振袖に着替え、在職の髪結い師の手によってつぶし島田になり、装いを新たにした。
振袖新造だけに許される色と髪型で、全員同じ格好をしている。
『ありがとうござんす』
奈桜藤が礼を述べると、蘭香は一瞬目を合わせてすぐに逸らし、「次からは自分で着なんし」と冷たく言い放ち、衣装櫃を片手で持って部屋を出て行った。
奈桜藤はふと、切見世時代の朋輩・嬢香の言葉を思い出した、
~~「あんたの様に、ダチを作る為にここに売られて来た訳じゃねえんだよ!」~~
傍で言われているかのように耳元で聞こえ、望郷の念に駆られた。
しかし、太夫になる道は遠のいてしまったとしても、ぬけぬけと戻る訳には行かない。これからは、耐え忍ぶ毎日だ。
懐かしさを振り払い、奈桜藤は夕顔太夫の部屋へと戻って行った。
ところが、これから振袖新造として努めて参ろうと覚悟を新たにしたのも束の間、夕顔太夫は依然として腰を上げようとはせず、じっとひたすらに煙草盆の前に座り、動かなかった。
昼見世の営業が終わっても、夜見世が始まっても同じだった。
他の新造や禿たちと共に、昼餉と夕餉を食して戻って来ても、まるで置物の様に微動だにしなかった。
本当に生きているのかと疑い、一瞬咳払いしたが、目は瞑り、煙管の煙をモクモクと吐き続けるので、生きてはいるらしかった。
いても立ってもいられず、奈桜藤は蘭香に訊ねようと思い立った。ちょうど、太夫が「湯を持ってくるように」と命じたので、二人で運び入れようと、共に部屋を出た時に話を切り出した、
『あの……蘭香さん? 夕顔太夫は夕風屋ではあんまり人気のない太夫なんでありんしょうか?』
裏手の階段を下りながら、奈桜藤の問いに蘭香は答えた。以外にもちゃんと答えてくれて、奈桜藤は拍子抜けした、
「そんな事ありんせんよ。いずれ……分かりんす」
『いずれ?』
いずれとはどういう事だろう? このままじっと座り続けるという訳では無いのは確かだが、妙に不思議な言い回しに奈桜藤は混乱した。蘭香は続けた、
「夕顔姐さんの闇がいずれ分かりんすよ……いずれね……」
朋輩の、含みを帯びた笑みを見せた瞬間、奈桜藤は身の毛がよだった。闇……? 何か深い訳があるのかと奈桜藤は気になったが、台所に着いたのでこれ以上の追求は控えた。
夜更けになり、奈桜藤の初日は終わりを告げた……かに思えた。
何も勤めも果たせなかった奈桜藤は、燃え尽きた炭のように心がバチバチと音を立てるので、眠れずにいた。周りの寝息を聴きながら、身を起こしてじっと胡座をかき、腕を組んで考え事をしていると、夕顔太夫が寝ているはずの部屋から衣擦れの音がした。そして瞬く間に、向こう側の襖が引かれ、閉じられた音がした。
こんな夜更けにどこへ行くのだろう? 雪隠なら反対側の間に備えられてるはず。そう思った奈桜藤は、同輩らを起こさないように、次之間からこっそり出て、後を付けた。
妓楼の仄暗い橙色に輝く、スラっとした後ろ姿はゆっくりとある方向へと進んで行った。そして細長い指でその襖に手を掛け、周りを警戒しながら、その一室に消えて行った。奈桜藤にはその室がどんな場所なのか知っていた。数刻前、蘭香が教えてくれたのである。
【廻し部屋】
『(太夫が廻し部屋に!? どうして? )』
奈桜藤は混乱した。下の女郎でもあるまいし、何故、安い金しか払えない男と寝る場所に入るんだ? そもそも、同衾している女郎は? この事を知っているのだろうか?
「見いんしたでありんしょう?」
急に後ろから声がし、飛び上がって思わず声が出そうになった奈桜藤だったが、とっさに袖で口を覆い隠した。
『ら、蘭香さん……』
眠そうに欠伸をしながら、蘭香は柱に身体を預け、奈桜藤を哀れんだような目で見て来た、
「夕顔姐さんは廻し部屋でお客を取るのが大好きなのでありんすよ。それも毎晩、毎晩、店仕舞いの丑の刻過ぎに必ず」
聞いてもいないのに語り出すので、奈桜藤は一瞬戸惑いながらも、蘭香に質問を投げかけた、
『でも……その客と寝てる女郎は?』
「他の女郎も同意の上だと聞いた事がありんす。太夫の為に客を選び出す姐さんらもいるってもっぱらの噂でありんすよ」
『そんな、だって太夫でしょ? 客なんて選び放題じゃ?』
「夕顔姐さんは若い摩羅がお好きなのでありんすよ。ジジイの摩羅は臭くて嫌だって申されもしんした。大概のお大尽様は洗わずにやって来なんすからね。ここは中見世でも、変な趣味のお客も多いのでありんす」
思ったよりも闇が深い「夕風屋」の客層に、奈桜藤はため息を漏らし、更には呆れた。中見世も切見世も大して変わらないのだと、奈桜藤は思い知った。
楼主もおおよそこの事情を知らない、と話した時の蘭香の笑みも不気味にさえ感じた。
何とか出来ないものなのだろうか……。このままでは、夕顔は太夫失格とみなされ、さらには廻し部屋の女郎しか買えない男から病気を貰って切見世に送り込まれでもしたら?
それだけは避けたい。
翌朝まで煙草を吹かしながら奈桜藤は考えた。
そして、ようやく、一つの名案が浮かんだ。奈桜藤は一世一代の大勝負に出た。
大助は頻りに印半纏の衿を正したり、無駄に辺りを見渡したりと落ち着かなかった。今、後ろを歩いている女郎とは身体の睦み合いを交わした仲だ。後ろめたい気持ちに心が満たされかけたが、これからは男衆として、同じ屋根の下で暮らす事になる。大助はなんとか堪えたのだった。
一方よしは、大助が感じる気まずさなんて気にするでもなく、家族の様に慕っていた「流う楼」の人々と別れた余韻に浸り、並んで歩く番頭の事など微塵も気に留めなかったのだった。
吉原の朝は、朝餉の支度をする若い衆や賄い所の仲居たちの声で騒がしかった。風呂敷を固く握り締めながらよしは、目的地に向かってこれから起きる先々の未来に不安を抱いた。
そうこうしている内に、大助の足が止まった、
「着いたぞ。ここが中見世、「夕風屋」だ」
朱色に染まる妓楼の建物が煌々と朝日に照らされた。広い入口にはもう暖簾が掲げられており、屋号紋が大きく描かれている。入り口の上には檜の板に薄墨の字で「夕風屋」と書かれ、時代の経過が感じられた。
長年続く中見世だと思ったよしは、同じく吉原創廓以来続く大見世・「大生屋」の事が頭を過った。
「夕風屋」の入口の両側には、判籬の格子が設えられていた。その広さは壮大で、少し目線の角度を変えれば、格子の開いている場所から、中が垣間見える。全体が覆われる惣籬と比べて、格子の意味を成していなかった。
「さ、入るぞ。親父さんと女将さんがお待ちだ」
両手で勢いよく暖簾を開いて大助が見世の中に入って行くと、よしも後に続いた。
紺の暖簾の先には、壮大な妓楼の内装が広がった。張見世の座敷、入り口から一直線に続く階段への道、奥には檜の床板、そして二階には檜造りの欄干が張り巡らされ、豪華な襖絵が階下から見えた。
「おい! そこ拭いたのか!」
「今から拭きやす!!」
「早くしろ! 女郎たちが降りてくるぞ!」
怒号と悚然とした声を響かせながら、若い衆がせかせかと楼内を往来している。雑巾掛けをする者、張見世の座敷に女郎用の煙草盆と座布団を置いて行く者、台所で女郎や禿たちの朝食用の懸盤を用意する者など、こちらの目が回るほど、忙しそうだった。
大助の先導で奥へ進んで行くと、向こう側から若い衆が駆け寄り、大助に覇気のある挨拶をした、
「大助さん! お帰りなさいやし!!」
大助は手を上げながら応えた、
「おう、只今帰った。親父さんは?」
大助が訊ねると、若い衆はハキハキとした返事をした、
「へい! お部屋でお待ちでごぜえやす!」
「おうよ、今日も気張れよ」
若い衆の肩を叩くと大助はズンズンと床板を昇って行った。よしも草履を脱ぎ、後に続いた。自分にも向けられた若い衆の威勢のある挨拶を聞き流しながら、楼主と女将が待つ【内証】へと向かった。
その部屋、内証は一階妓楼の一番奥にある。進んで行く内、若い衆の声が遠のき、庭が顔を出した。良く手入れされ、池には鯉が優雅に泳いでいる。大きな宴会も開けるであろう更に広い座敷もあり、中見世の中でも類を見ない見世だと見受ける。
「失礼致しやす。大助でごぜいやす」
風神雷神の絵が描かれた襖の前に二人が座ると、大助が開口一番に声をかけた。
「お入り」
女性の声が中からし、それを受けた大助は襖を開けて、よしに先に入るよう促した。
部屋に足を踏み入れると、伽羅の香りが一気に鼻中に広がった。大きな神棚には、吉原の守り神・九郎助稲荷、榎本稲荷、明石稲荷、開運稲荷の御札が掛けられている。
上座にどんと座る細面の楼主らしき男と、その傍らには黒の引き摺りを着た女将らしき女人が、煙管を吹かしながら待ち構えていた。
遊廓は楼主、女将どちらか一方が冴えなかったり、弱気だったりと力が偏るのだが、「夕風屋」に関しては何処か異様だった。まるで棟梁が二人いるかのような、そんな雰囲気が感じられた。
「親父さん、女将さん、ただいま帰りやした」
「うむ、ご苦労だったのう。して、この女郎が松枝がこの前言っていた……?」
「へい、切見世「流う楼」の看板女郎。暴れ客を仕留めたという評判の、よしでごぜえやす」
大助がよしの紹介をし終えると、よしは両手をついたが、途端に言葉が見つからず、見当がつかぬまま楼主と女将の反応を伺った。
見れば二人共、顔色一つ変えず、よしの事をじっと見つめて来た。
「噂通り、別嬪な女郎だ。これなら、太夫に申し分ないよ。ねぇあんた、この子を次の太夫にしてもよろしゅうおざんすな?」
女将の松枝が愛でる様によしを見つめた後、楼主に囁きかけた。ところが楼主は、眉間に皺を寄せながら、予想だにしなかった言葉を吐き捨てた、
「ならん」
腕を組みながら、楼主は続けた、
「確かに顔立ちは器量よしの様じゃが、そもそもここでの経験が浅い。切見世と中見世じゃあ決まり事が違い過ぎる。辺り構わずお客を引っ取る様な真似は夕風屋ではせん。即決即断で太夫にするには早い! 不慣れな事も多かろう……まずは新造から勤めるのじゃ」
『は……?』
よしは訳が分からず、前屈みの体勢になりながら楼主に訴えた、
『……話が違えじゃねえか! 太夫にすぐなれるんじゃ無かったのかよ? わっちの……噂を聞き付けて鞍替えさせたんだろ? そんなの、ちゃんちゃらおかしい話じゃねえか!!』
「その言葉遣いも鍛え直さにゃいかんなぁ。切見世はどうだが知らねえが、「夕風屋」の女郎たちには丁寧な廓詞でお客と接して貰っている」
よしは、冷ややかな楼主の言葉に腰が抜けそうだった。
かつてよしがいた「大生屋」の楼主はいたって厳しくもなく、女将の志乃が見世を牛耳っていた事もあり、楼主という存在に特別印象が薄かった。しかし、「夕風屋」の楼主・遊佐甚作には、底知れぬ腹黒さが肝に潜み、よしの挑戦的な訴えすら耳を貸さず、動じもしなかった。
遊佐は刻み煙草を入れた煙管に火入れ炭で火を付け、一度吹かしてから続けた、
「新造の中でも振袖新造がお前さんには適任じゃな。そっから出直しだ」
『振新って……客が取れねえじゃねえか!』
「ぼぼを鍛える事も忘れずにの? ただし、休ませることも大切じゃ。向こうでは一日に何本もの摩羅を咥え込んだことだろう。これからは、仕える姐太夫から様々な事を学び、様々な事を見聞きし、中見世に慣れろ」
またしても遊佐に自分の言葉が聞き届けられず、よしは苛立ちを覚えた。女郎として何十人とお客を取ってきたよしにとって、お客を取れない振袖新造では、いままで培ってきた誇りと気概が無駄になってしまう、そう思ったのだ。
「──それと今日からお前は、奈桜藤だ」
遊佐は、よしの悲痛な叫びを無視し、唐突な一撃を与えて来た。
『なおふじ!?』
思わず大きな声を上げた。松枝と大助も遊佐の独壇場に呆れている風だった。
遊佐は新しい名前の由来を忽然と語り出した、
「よしは、吉野を連想させんだろう? 吉野と言えば、奈良の吉野山。吉野山と言えば桜。奈良の奈に、桜の桜だ! 藤は、まぁ耳障りも字面も良いからじゃ」
はぁ? と、よし、いや、奈桜藤は訝しげに言葉を漏らした。しかし、楼主の決定に逆らう事は女郎には出来ない。
これはそもそも古い習わしだ。鞍替えや一段高い上の女郎へと昇級すれば名前を変える、それが常だ。過去、女郎の中には、六回も名を変える者もいた。
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初めて会った楼主に見事丸め込まれてしまい、奈桜藤は腹の底からの怒りを抑えきれずにいた。「太夫の部屋へ案内してやれ」と、突っ慳貪にあしらわれ、大助と共に、来た廊下を戻って行った、
『一体何なんだい! あの楼主は、わっちを振袖新造にするなんて! わっちが今まで何人のお客を取って来たと思ってんだい!』
奈桜藤はベラベラと周りに聞こえる様に文句を垂れた。
階段に差し掛かり、裾を帯の下に詰め込みながら上っていくと、大助がこちらを向いた、
「お前の素性は既に調べ上げてある。お前が元は大見世の禿出で、太夫の客である大旦那に破瓜され、熱を出した。しばらくしてから快癒し、そこの女将の計らいで切見世にお預けを受け、今に至る」
大助の口から奈桜藤の過去を語られ、顔に熱が走る感覚がした。
『な、なんでそんな事知ってんだい!』
大助は唇の端を上げて、得意げに語り出した、
「吉原は知っての通り、お歯黒どぶに囲まれた狭い世界だ。情報は簡単に広まって行く。誰がお客と心中したかだの、誰が【足抜け】したかだの、誰が太夫になったかだの、つって忽ち広まる。お前も切見世で生きてきて、報せは飛ぶように入って来るだろう?」
確かに、以前【夕なみ屋】のお職・藤巻大夫が八朔の日に道中を張る事はすぐにも吉原中に報せが回った。奈楼藤が知らないだけで、自身の噂も吉原中に広まって行ったのだろう。
『じゃあ……「夕風屋」の楼主と女将も、わっちの事情は当に知っていたって事かい?』
「そういう事だ」
『知った上でわっちを新造にしたって事かい!』
「そうだって!!」
大声を上げながら、大助は苛立ちを覚えたように奈桜藤に再び向き直った、
「お前、さっきお二人と会って話をしたろう? 昨日言った事と今日の結果が噛み合わなくて申し訳ないと思ってるが、あれがすべてだ。お前の言葉遣いと行動、中見世の習慣を覚えて貰う為に振袖新造に任じたんだ。ちゃんと耳かっぽじって聞いとけ」
初めて見る大助の怒り顔に奈桜藤はとうとう観念し、苛立ちを納めた。
障子だらけの廊下から襖だけの廊に差し掛かった。すると奥の方から小柄な女がこちらに向かって、甘ったるい甲高い声を上げながら駆けて来た、
「大助さまぁ~~! お帰りなんし~! どこに行ってたでありんすか~?」
他の見世の女郎を間近に見て、奈桜藤は目を疑った。濃い化粧に、派手な着物、歯をにっこり見せているのにもかかわらず目の奥は笑っていなかった。
「よお、菊葉。ちょっとした女将の御用でな、出掛けてたんだ」
大助は気さくな態度で応えたことに、奈桜藤は胸に違和感を覚えた。
「おっかさんの? それはご苦労でありんしたなぁ。どう? おいらの部屋で休んでかないかい?」
「馬鹿ほざくんじゃねえよ、俺はこれから太夫に会って今日の予定を報せにゃいけねぇし、お前さんだって昼見世控えてんだろ」
体よく断られるも、菊葉は挫けず、大助の隣にバタバタと立ち、強引に組んだ二の腕に鼻をくっつけ大きく息を吸い出した、
「はぁ、今日も良い香りでありんすなぁ」
奈桜藤は、蚊帳の外に置かれたような気分になり、大きなため息をわざとついた、
『さっさとしておくれよ。立ち話してる場合か?』
ようやく奈桜藤の存在に気付いた菊葉は、先ほどまでのおべっかな表情を険しくさせ、奈桜藤を睨み付けた。
「はぁ、なんだえ? この女。えらく大口叩くじゃないのさ」
『おうおう、てめえこそ、でけえ口叩くじゃないのさ、え? 派手な顔をして、客でも無えこの男にまでおべっか使っちゃってさ。へぇ~、最近の中見世の女郎ってのはそんな奴らばっかなのかねぇ?』
「なんだってえ!? もう一度言ってみな!!」
喧嘩腰にベラベラと嫌味を言われた菊葉は腹を立てながら、奈桜藤の胸ぐらに掴みかかった。
「あーー!! お前らもうそのくらいにしとけ! 廻りが迷惑だ!」
傍にいた大助は大声を出して、奈桜藤と菊葉を引き放させた。大助は菊葉に準備に戻れと伝え、奈桜藤の腕を引き、先へと進んだ、
「初日から問題起こすんじゃねえよ! 遣り手に折檻されちまうぞ!」
廊下を渡りながら、大助は小声で奈桜藤に言い含ませるように言った。
『折檻が怖くて女郎が務まるかよ!』
大助は奈桜藤の呟いた一言を無視し、廊下の一番端にある部屋の前に立ち止まった。襖には白黒の市松と曼珠沙華が艶やかに描かれていた。息を呑むほど大きく描かれた彼岸花は誇り高くも切なく、見るものに何かを訴えかけているように感じた。
「座れ」と大助に促された奈桜藤は、少し後ろに下がった所に着座した。大助は大きな声を張り上げ、部屋の主に入室の挨拶をした、
「夕顔太夫、番頭の大助でごぜえやす」
『(夕顔…)』
源氏物語に出て来る、光源氏が愛した女の一人、それが夕顔である。何度も小説を読んで来た奈桜藤にとって、この夕顔という女性は、忘れることの出来ない存在だった。
しばらくすると、襖が両側に勢いよく開いた。朱色の振袖に身を包んだ二人の禿が両端にちょこんと座り、恭しく大助に対し頭を下げた。大助は両手をついて続けた、
「先日、楼主様よりお話がごぜえやした、本日より新たに振袖新造となった奈桜藤でごぜえやす」
大助から目配せを受け、奈桜藤は両手を付いてようやく、自分の口で挨拶を述べた、
『よし……いや、な、奈桜藤でござんす。よ、宜しゅうお願い致しんす』
「お入りなんせ」
禿の愛らしい声の後、奈桜藤は静々と太夫の部屋へと入室した。太夫からの一声は未だに無いままだ。奈桜藤が部屋に入ってしばらく、大助は本日の予定を報告した。
「夕顔太夫、今宵、田藤屋の治左衛門様がお越しになられやす。引手茶屋へ是非にいらして頂きたいとの事でごぜえやす」
奈桜藤は両手をつきながらちらっと部屋の主を見やると、ただただ、ぼうっと窓の外を眺めるだけで返事はなかった。高く結われた勝山髷に挿された美しい簪がキラキラと靡いていて、その異様な存在感を背から放つ太夫に、溜息が漏れそうだった。
返事を得られなかった大助は呆れたような素振りをし、こちらを向いた奈桜藤に目配せをした後、太夫に向かって頭を下げ、ぴしゃりと襖を閉めた。
突然一人取り残され、奈桜藤は鼓動が早くなって行くのを感じ、久方ぶりに緊張が全身を駆け巡った。大助が去ってすぐ、夕顔太夫が優雅に振り向いた。
その瞬間、華やかな風が吹いたような衝撃が走った。
多くの太夫を道中で見て来た奈桜藤だったが、これほどまでに天女の様な美しさを兼ね揃えた太夫は見た事が無かった。艶やかな唇、切れ長の目、小さな鼻、匂い立つような妖艶さ、着物の着方から座り方まで、すべて完璧その物であった。
真っ直ぐと瞳を見据えながら、夕顔はゆったりとした言葉遣いで奈桜藤に話しかけた、
「お気張りなんし」
『な、奈桜藤と申しんす! よ、宜しゅうお願い致しんす』
「ふふふ、そんなにかしこまらなくてもよろしんすよ? ゆるりとしておくんなんし」
美しさの反面、愛らしい子供のような可愛らしい声を上げた。奈桜藤は満たされる思いになりながら、流れるような夕顔の労いの言葉に陶酔した。
そして、夕顔太夫は徐に【次の間】に控えている新造たちの一人に声を掛けた、
「蘭香、この子に着替えをさせておやりんす」
蘭香という振袖新造は「あい」と返事をしてスッと立ち上がった。
「こちらへおいでなんし」と言うので、奈桜藤は夕顔に一礼してその新造に付いて行った。
───────────────────────
太夫にはどの女郎よりも広い部屋が与えられた。
先ほどまでいた部屋は太夫の居室。襖を境に隔てた次の間は、新造や禿が控え、そして彼女たちが眠る部屋だ。その他、衣装が保管されている【し掛け之間】・客人を迎える【座敷】・雪隠がある【不浄の間】・家具調度がある【調度之間】と続いた。他の女郎は階級に応じて部屋割がされており、「夕風屋」に至っては二~三人の相部屋がほとんどだ。
蘭香という新造は他の者と比べて端麗な顔立ちをしており、目鼻立ちがすっきりとしていた。ところが、その顔に似合わず、言動や行動には何処かピンと張り詰めていて、捉えどころが無いように見えた。
蘭香の手を借りながら、奈桜藤は縹色の裾引き紋付振袖に着替え、在職の髪結い師の手によってつぶし島田になり、装いを新たにした。
振袖新造だけに許される色と髪型で、全員同じ格好をしている。
『ありがとうござんす』
奈桜藤が礼を述べると、蘭香は一瞬目を合わせてすぐに逸らし、「次からは自分で着なんし」と冷たく言い放ち、衣装櫃を片手で持って部屋を出て行った。
奈桜藤はふと、切見世時代の朋輩・嬢香の言葉を思い出した、
~~「あんたの様に、ダチを作る為にここに売られて来た訳じゃねえんだよ!」~~
傍で言われているかのように耳元で聞こえ、望郷の念に駆られた。
しかし、太夫になる道は遠のいてしまったとしても、ぬけぬけと戻る訳には行かない。これからは、耐え忍ぶ毎日だ。
懐かしさを振り払い、奈桜藤は夕顔太夫の部屋へと戻って行った。
ところが、これから振袖新造として努めて参ろうと覚悟を新たにしたのも束の間、夕顔太夫は依然として腰を上げようとはせず、じっとひたすらに煙草盆の前に座り、動かなかった。
昼見世の営業が終わっても、夜見世が始まっても同じだった。
他の新造や禿たちと共に、昼餉と夕餉を食して戻って来ても、まるで置物の様に微動だにしなかった。
本当に生きているのかと疑い、一瞬咳払いしたが、目は瞑り、煙管の煙をモクモクと吐き続けるので、生きてはいるらしかった。
いても立ってもいられず、奈桜藤は蘭香に訊ねようと思い立った。ちょうど、太夫が「湯を持ってくるように」と命じたので、二人で運び入れようと、共に部屋を出た時に話を切り出した、
『あの……蘭香さん? 夕顔太夫は夕風屋ではあんまり人気のない太夫なんでありんしょうか?』
裏手の階段を下りながら、奈桜藤の問いに蘭香は答えた。以外にもちゃんと答えてくれて、奈桜藤は拍子抜けした、
「そんな事ありんせんよ。いずれ……分かりんす」
『いずれ?』
いずれとはどういう事だろう? このままじっと座り続けるという訳では無いのは確かだが、妙に不思議な言い回しに奈桜藤は混乱した。蘭香は続けた、
「夕顔姐さんの闇がいずれ分かりんすよ……いずれね……」
朋輩の、含みを帯びた笑みを見せた瞬間、奈桜藤は身の毛がよだった。闇……? 何か深い訳があるのかと奈桜藤は気になったが、台所に着いたのでこれ以上の追求は控えた。
夜更けになり、奈桜藤の初日は終わりを告げた……かに思えた。
何も勤めも果たせなかった奈桜藤は、燃え尽きた炭のように心がバチバチと音を立てるので、眠れずにいた。周りの寝息を聴きながら、身を起こしてじっと胡座をかき、腕を組んで考え事をしていると、夕顔太夫が寝ているはずの部屋から衣擦れの音がした。そして瞬く間に、向こう側の襖が引かれ、閉じられた音がした。
こんな夜更けにどこへ行くのだろう? 雪隠なら反対側の間に備えられてるはず。そう思った奈桜藤は、同輩らを起こさないように、次之間からこっそり出て、後を付けた。
妓楼の仄暗い橙色に輝く、スラっとした後ろ姿はゆっくりとある方向へと進んで行った。そして細長い指でその襖に手を掛け、周りを警戒しながら、その一室に消えて行った。奈桜藤にはその室がどんな場所なのか知っていた。数刻前、蘭香が教えてくれたのである。
【廻し部屋】
『(太夫が廻し部屋に!? どうして? )』
奈桜藤は混乱した。下の女郎でもあるまいし、何故、安い金しか払えない男と寝る場所に入るんだ? そもそも、同衾している女郎は? この事を知っているのだろうか?
「見いんしたでありんしょう?」
急に後ろから声がし、飛び上がって思わず声が出そうになった奈桜藤だったが、とっさに袖で口を覆い隠した。
『ら、蘭香さん……』
眠そうに欠伸をしながら、蘭香は柱に身体を預け、奈桜藤を哀れんだような目で見て来た、
「夕顔姐さんは廻し部屋でお客を取るのが大好きなのでありんすよ。それも毎晩、毎晩、店仕舞いの丑の刻過ぎに必ず」
聞いてもいないのに語り出すので、奈桜藤は一瞬戸惑いながらも、蘭香に質問を投げかけた、
『でも……その客と寝てる女郎は?』
「他の女郎も同意の上だと聞いた事がありんす。太夫の為に客を選び出す姐さんらもいるってもっぱらの噂でありんすよ」
『そんな、だって太夫でしょ? 客なんて選び放題じゃ?』
「夕顔姐さんは若い摩羅がお好きなのでありんすよ。ジジイの摩羅は臭くて嫌だって申されもしんした。大概のお大尽様は洗わずにやって来なんすからね。ここは中見世でも、変な趣味のお客も多いのでありんす」
思ったよりも闇が深い「夕風屋」の客層に、奈桜藤はため息を漏らし、更には呆れた。中見世も切見世も大して変わらないのだと、奈桜藤は思い知った。
楼主もおおよそこの事情を知らない、と話した時の蘭香の笑みも不気味にさえ感じた。
何とか出来ないものなのだろうか……。このままでは、夕顔は太夫失格とみなされ、さらには廻し部屋の女郎しか買えない男から病気を貰って切見世に送り込まれでもしたら?
それだけは避けたい。
翌朝まで煙草を吹かしながら奈桜藤は考えた。
そして、ようやく、一つの名案が浮かんだ。奈桜藤は一世一代の大勝負に出た。
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