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※第三章 内懐の友
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吉原・羅生門河岸・流う楼 ───────
吉原に、暑い夏が訪れた。
汗の混じる身体の絡み合いは、女郎にとっては呆れるほど堪えられないことである。臭いがキツくなるうえに、見ず知らずの汗だくの男と交わる行為に及ぶという、これ以上の嫌悪感を覚えるものは無いと言っても過言ではない。
出来るだけ、お客の欲求を満足させるため、対策は欠かさなかった。線香の代わりにお香を焚き染め、なるべく充満する臭いを抑えたり、湯屋へ行く回数も増やした。しかし、それは稼ぎの少ない【切見世】の女郎にとって苦労するばかりの日々であった。
団扇を扇いでも、引かない汗に苛立ちながら、よしは、姐女郎たちと置屋の二階で、賑わう仲之町を眺めていた。
今日は吉原の一大行事、【八朔】が催されている。
色々な屋台が出ているのでガヤガヤと賑わいを見せており、いかにも楽しそうな音が羅生門にも聞こえ、意識せずとも心が弾んでいく。
よしは、昨年も一昨年も足を運んだので今年は行かないことにした。そもそも、こんな暑い日に人だかりに出るのも億劫だ。窓を開け放した室内に潜み、団扇で扇いでいる方がまだマシだった。
しばらくすると、茶屋の方で、ある客の声が耳に届いた、
「よしぃ~俺だぞぉ~~! 参ったぞぉ~!」
ちょうど【源氏物語】を読もうと手を伸ばしかけたよしは、その甘ったるい濁声を聞いて天を仰いだ、
『うわっ、出た……とんちき』
【とんちき】とは、あまりありがたくないお客の事を廓言葉でそう言い表した。隣で窓から仲之町を眺めていたくれ葉と浮ふねがクスクスと笑い出した。
数か月前から毎日の様に訪れるその客は、年がら年中油臭く、その上汗っかきで、いつも異様な臭いを放つ。よしはその客が嫌で嫌で堪らなかった。
しかし、お客を選べる太夫でも無い限り、断る訳にもいかない。
「よしー! 大助様がおいでだよー!」
花辺が額の汗を手で拭いながら置屋へやって来て、階下から大声で呼び掛けてきた。
「ほら、よし! 野暮な大助様のご登楼だよ~」
浮ふねがよしを揶揄いだし、くれ葉も笑いながらよしの背中を押した。よしはため息をつきながら、身なりを整えて重い腰を上げた。
階段を下りて置屋を出ると、外の風が心地よく頬を掠めた。そう気持ちを切り替えずにはいられない程、嫌な気持ちで心が埋め尽くされていた。
仲之町一体が屋台で埋め尽くされる八朔の吉原には、遊び客以外のお客も訪れた。それは男女関わりなく、数年前から評判を呼び、瓦版でも「人気の行事」として大々的に謳われている。
仲之町で大きな行事が行われると、切見世へのお客の足取りはめっきり減る。売上が無くなる事は無いが、比較的少なくなり、暇になる。
その為、女郎には空き時間が増えた。源氏物語を読めるほどに。
「おぉ~~よし~!! 相変わらず美しいのう!」
『ぬしさん、良うおいでなんした』
愛想を振りまくと、大助はよしの手を勢いよく握り、頬擦りをしながら猫なで声で呻きだした。よしはなるべく鼻で息をしないようにしつつ、笑顔で迎えた。
「よし、何故、わしの名を呼んでくれんのじゃ~? もう何百回も、ここに足を運んでおるんじゃぞ~? なぁ、金はたんまり払うからのう?」
金を払ってくれるなら背に腹は代えれない。癇癪を起こされないだけマシだと、よしは自分に鞭を打った、
『ようざんすえ、なら、二階へ参りんしょう。大助様』
二階の廻し部屋に、大助を手引きし、自分で香炉に線香を立てた。その後で、よしは大助に向きなおり、首に腕を回しながら甘い声で誘い出した。
不格好な体勢になりながら大助は帯をせかせかと解き、接吻をして来た。太い舌を上下左右に動かしながら荒い息遣いでよしを抱いた。
『大助様ぁ……』
「っ! あぁ……ん」
甘い声で名前を呼ばれ、喜びと興奮で呻き声を上げた大助は、勢いよくよしの身体を舐め回した。徐々に裾から顔を出したよしの恥部に唇を這わせながら、太い指で掻き乱して行く。身体をくねらせたよしは、感じているふりをした。その反応を見た大助はニヤつきが抑えきれぬ様子であった。
─── お客を喜ばすんが女郎の務め。女郎は決して感じてはなりんせん
ここ数ヶ月で、よしは変わった。感じていては身が持たないと知ったよしは、生涯の格言を持つ様になった。
『ぁあっ……大助様ぁ、もう我慢できんせんっ……挿入れておくんなんしぃっ……』
油の臭いが漂う耳たぶを甘噛みしながらよしは、か細い声で懇願する。もちろん嘘だ。我慢してる訳でもなんでもない。ただ、ただ終わって欲しい、それだけ。
大助は顔を赤らめながら、褌から覗かせた太く大きくなった摩羅を急いたように挿入した。
『ぁぁああんっ!!』
大助の背にしがみつきながら、大きい摩羅が挿入って来るのが分かり、大袈裟な芝居を演じた。
細いよしの腰を持った大助は勢い良く振りかぶり、腰の前後運動を続けた。身体を突き上げる度に身体をよがらせ、苦悶の表情を浮かべながら、大助が果てるのをよしはただ、ただ耐えた。
やがて、線香の一切が消えかけた時、大助はほとばしる思いをよしの女陰の中に放ち込んだ。
よしは、力を振り絞りながら大助の足元に這いずり、赤く火照った摩羅を口で綺麗にしてあげた。「あぁ……」と声を漏らした大助は、乱れた髪を片手で直し、虚ろな目でよしを見つめた。
渋々、大助の唇に自分のを合わせると、二回戦を仕掛けるつもりなのか、腰を鷲掴みにして来た。よしは、やんわりと太い腕を包んで拒否し、ようやく事を終わらせることが出来たのだった。
───────────────────────
『ちっ、とんちきめ……銭があんなら身体ぐらい洗ってから来いっての!』
大助は揚げ代と線香代を超える三分(約五万円) も支払ってくれた。売上の厳しい八朔の切見世にしては儲けが入り、花辺は笑みを溢した、
「まぁ、悪いお客じゃないんだから、耐えておくれ。大客を得たと思ってどんどん稼ぐんだよ」
花辺は煙管を咥えながらよしの背中を叩いた。よしは天を仰ぎながら花辺に苦笑をして見せ、茶屋を出た。
置屋の二階に戻ると、くれ葉と浮ふねが窓辺に頬杖をつきながら、仲之町の賑わいをまだ眺め続けていた。よしが声を掛けると、二人は早速揶揄って来た、
「お! おかえりー! 今日の野暮はどんな臭いだったんだい?」
二人は大口を開けて笑い出した。よしは愛想笑いをしながら、汚れた身体を清める為、湯屋へ向かおうと浴衣を取りに箪笥を開けた。そこに、再び窓に視線を戻したくれ葉と浮ふねが噂し合っているのが聞こえた、
「そういえばさ、【夕なみ屋】の藤巻大夫が道中張るってよ!」
「へぇ、八朔で道中!? また珍しい! きっと相当な金持ちだいね?」
突然の道中の報せ……『見てみたい』と、よしは思った。この四年の間、今までそんな機会も時間すらも無かったよしにとって『絶好の機会を得た』と思い、風呂敷を抱えて仲之町へ急いだ。
───────────────────────
八朔の【道中】は通常とは違って一段華やかなものだと噂で耳にした事がある。昨年も一昨年も、よしは見る機会を得られなかった。
八朔では太夫も遊女も白で身を包む。
白の小袖に白のし掛け……その着姿から【八朔の雪】【秋の雪】と称される。うだる暑さを払い除け、吉原に涼を誘い込む演出だ。
かつて、女郎たちのその白い着姿を、吉原通いの通人は「白無垢を着た花嫁のよう」と絶賛した。それを受けた遊女屋の楼主たちは、女郎らに馴染みのお客を吉原に誘い、その日一日中、夫婦の真似事をして仲之町に出た屋台を練り回させる。
地獄の中のほんの一時、女郎たちはお客との楽しい一日を過ごした。
羅生門河岸から仲之町に続く路地裏を出ると、そこにはすでにたくさんの人集りが出来ていた。ごった返す人たちの狭い隙間からしか見えなかったが、噂通りの美しい太夫がゆっくりと練り歩くのを目で捉えた。
前髪と髱に挿した十二本の簪は陽の光を受けてきらりと輝いていた。三枚の櫛や髷に挿した四本の簪も、すべて小袖に合わせて白の鼈甲で作られていた。
外八文字を描く、黒漆に赤い鼻緒の三枚歯高下駄が地の土を削る音、先導する【金棒引き】がシャンシャンと金棒を打ち鳴らす音がよしの耳を巡り渡った。
すべてがこの世の物とは思えないほど美しく、この道中をいつか歩きたいという四年前の思いが蘇ったのだった。
太夫が茶屋に入るのを見送った後、人混みをかき分けながら仲之町を通り、目的の湯屋へと向かった。その途中、見慣れた藤色の着物が目に入った、
『嬢香ちゃん!』
後ろから背を叩くと、朋輩の嬢香が声を張り上げながら振り返った、
「うわっ!! ……なんだよ、あんたか」
驚いた嬢香は、すぐにむすっとした顔になりそっぽを向いた。相変わらず、よしに対し敵意を抱いていた。
『道中見に来たの?』
「悪いかよ」
『悪くないよ? 太夫道中、綺麗だったよねぇ~! 華やかで! わっちも早く道中しとおす!』
「あんたが~? いんや! ムリムリ! 切見世から太夫に登り詰めるなんて、聞いたことないね!」
『絶対とは言い切れんよ? 信じれば叶うと思うんだ! わっちが太夫になってたくさんの新造や禿を引き連れる! それがわっちの夢さ!』
「勝手に言ってろ」
『嬢香ちゃんだって夢ぐらいあるでしょ?』
「あったとしても言うか!」
悪態をつきながら嬢香は、乱暴に腕を組んで路地裏に入ろうとした。
『あ~、嬢香ちゃん待って待って! これから湯屋行くけど一緒にどう?』
「い~や~だ!!」
舌を出して誹って来た嬢香は、颯爽と羅生門河岸へと消えて行った。気落ちしながらも、また次も誘おうと期待を抱いてよしは湯屋へと向かった。
切見世の中で唯一若手の女郎を抱える「流う楼」は、たちまち評判を呼んでいた。花辺は、嬢香とよしの二人に、お客の数を競わせた。そうする事でお互いをけん制させ、女郎としての生き方を教え込もうというのが狙いだった。
嬢香と争う事に、初めは気が進まなかったが、負けず嫌いの性格からか、勝負に乗りかかる事にした。
結果はよしの圧勝。
すんでの所で負けた嬢香は、よしに対する敵対心を更に強めることとなった、凍り付いていた二人の関係は尚一層悪化したが、よしはその後も、嬢香を朋輩の女郎として良い関係を築こうと骨を折った。ただし、嬢香は決して応じようとはせず、悪戦苦闘しているのである。
───────────────────────
その夜、ある騒ぎが起きた。八朔の夜も昼間と変わらず河岸の人通りは少なかった。いつも通りの夜だと誰もが思った。
流う楼 ───────
「っんだよ! 触んなっ!」
よしが馴染みのお客にお酌をしていると、嬢香の声が茶屋中に響き渡った。お客に対してそのような口の利き方は今まで無く、聞いたことない程の荒らげように、よしは思わず顔を上げた。
「このアマ、付け上がりやがって! 鉄砲女郎のくせによ!!」
男は突然、嬢香に殴り掛かった。その勢いで、手前にあった懸盤がひっくり返った。近くにいたくれ葉は被害を避ける為、お客を誘導しその場から離れた。
花辺は暴れ回る男を窘めに、間に割って入ろうとしたが、その行動が男を逆上させた。男は吼えながら、嬢香の髷を引っ掴み、誰も近寄らせない様に前方に振り回した。嬢香は叫び声を上げながら、男に引かれるがまま、もがき続けた。
「離せっ!! 離せぇぇえ!」
「うるせぇ!! ピーピー泣くんじゃねぇ!!」
よしは、その暴れる男に禿時代の大旦那、坂垣藤右衛門と重ね合わせた。あの頃は子供だった為、抵抗も出来ず、恐怖と支配に雁字搦めにさせられた挙句、深い心の傷を負わされた。
よしは無性に怒りがこみ上がって来た。昔の恨みを果たすように自分に鞭を打った。
外に出たよしは、気付けば、見世の前は騒ぎを聞き付けた通り掛かりのお客たちでごった返し、野次馬と化していた。それでもなんとか人波をかき分け、近くにあった桶を引っ掴み、お歯黒どぶの水で満杯にした。再び、野次馬を抜けて見世に戻り、男の前に立ち塞がった。
男はよしに向かって噛み付いた、
「あぁん? なんだよ、クソアマ!! 襲われてえか!!」
『嬢香ちゃん、目瞑って!』
よしが声を張り上げて、恐怖で打ち震える嬢香に向かって言った。嬢香が目を瞑るのを確かめると、よしは男に向かってどぶの水を頭からぶっ掛けた。男は一瞬何が起きたのか分からない様子で、一点を見つめて立ち尽くしていた、
「なにすんだよっ!!」
ようやく事態を把握した男は野良犬の様に頭を振り、よしに鼻息荒く吼えた。
『出ていきな!! 他のお客にも迷惑だ、さっさと帰りやがれっ!』
心臓をバクバクと鳴らしながら、強い口調で男を責め立てた、
『ここはお客と女郎が楽しむ場所だ、暴れる為じゃねえ! これ以上、見世を滅茶苦茶にしようもんなら、岡場所にでも行ってくんな! あんたの言う鉄砲女郎は、ここには誰一人として居やあしないんだよ!!』
よしの言葉に同調するように、外にいた客たちが「そうだそうだ!」「おとといきやがれ!」とヤジを飛ばした。
「チッ、寄ってたかって俺のこと馬鹿にしやがって! こん畜生がっ!!」
周りの態度に腹が立った男は、拳を振り上げてよしに襲い掛かろうとした。
その瞬間、会所に駐在している【町奉行所】の同心と岡っ引きが「御用だ! 御用だ!」と威勢のいい声を上げて茶屋に押し入り、男を取り押さえた。誰かが助けを求めに会所へ走ってくれたようだ。
岡っ引きにお縄にされた男は、足をバタつかせ、「離せ!! はなせよっ!!」と藻掻き叫んだ、
よしはその隙に嬢香を抱き寄せ、男から離れた場所に避難させた。
やがて男は、同心の手によって「流う楼」から追い出されたのだった。
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騒ぎの後、花辺は「流う楼」の営業を終了させ、滅茶苦茶にされた店内の清掃を皆で行った。
花辺は嬢香の傷の手当てをしながら、事の経緯を訊ねた、
「一体全体何があったんだい嬢香? 説明しておくんな」
手傷を負い、顔に痣が出来た嬢香は肩を落としながら説明した。雑巾でこびり付いたどぶを拭きながらよしは聞き耳を立てた、
「あの客、熱々の煮汁をわっちに掛けて舐め回したいと言い出して来やがったんだ……そんな気色の悪い事、したくなかった。「嫌だ!」って抵抗したら、さっきみてぇに逆上して来たってわけさ」
「ひどっいやっちゃなぁ」
聞いていたくれ葉は、やるせない怒りを込めて勢いよく膝を叩いた。
よしは雑巾がけに力を込めた。女郎を下に見ている客に対し、憤りを感じた。それは、浮ふねも同様だった、
「あっしも昔、同じ事されたよ。宴会で食べ残した天婦羅をアレに突き挿して食べたいって言い出してきてさ」
「で、どうしたんだい? 応じたのかい?」
くれ葉が聞くと、浮ふねは苦笑しながら応えた、
「冷めてたし、お大尽だったから……断れねぇだろ」
話を聞いたくれ葉は溢れてくる憎悪を、割れた皿に込めて、桶に勢いよく投げ捨てた。
「それにしても、よし? あんたは凄いよ」
花辺が、よしに向かって声を掛けた。急に褒められたよしは、照れ隠しから謙遜した、
『おっかさん、わっちは何にも凄くはないよ。ただ、あの男が許せなかっただけさ。まぁそのせいで、店をどぶまみれにしちまったけど』
「いいや、気にしなさんな。ちょうど秋に塗り替えを頼もうと思ってた所だから。ともかく、あんたの勇気ある行動には礼の言葉もないよ」
花辺が更に褒め称えると、くれ葉と浮ふねも続けた、
「本当さ」
「感心したよ、よし」
姐女郎から称賛の言葉を貰い、よしは温かな気持ちになった。しかし、よしは嬢香の事が気がかりで優越感になどには浸っていられなかった。一度傷付けられた女郎の心は、その後癒えても、深い傷となって一生を背負う事となる。
ふと嬢香を見ると、花辺に笑顔を見せていながら、心は泣いているように見えた。よしには嬢香の気持ちが分かった。取り繕っているという事に。
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茶屋内の掃除が一段落し、置屋の二階に戻って行ったよしだったが、なかなか寝付けないでいた。暴れ客は今に始まった事では無いが、女郎が傷つけられる事件は初めての事だった。聞こえて来る鈴虫の音が、煩わしく思えた。
寝返りを打つと、隣で寝ているはずの嬢香がいない事に気付き、もしやと思ったよしは、置屋の外に出た。すると、見慣れた藤色の着物の女郎が、物悲しそうにお歯黒どぶを見つめていた。
『嬢香ちゃん、こんな所でどうしたの?』
「……眠れなくてさ」
『わっちもだよ。なんかこう、もやもやするって言うか……』
よしが嬢香の隣にしゃがみ、一緒にお歯黒どぶを眺めた。曇り空から差し込む仄かな月光と秋めいた風がゆらゆらと吹いていて心地よかった。
しばらくすると、嬢香が口を開いた、
「なぁ、聞いてもいいか?」
『ん?』
「なんで、わっちを助けようとしてくれた? わっちは姐さんらと違って、あんたの事嫌いだって気付いてるはずだろ?」
よしは「んー」っとしばらく考えてから答えた、
『友達だからさ』
思いがけない言葉に、嬢香は驚いた、
「はぁ~? 友達だぁ? あんたとわっちが!? ありえねえ!」
『だって同い年じゃんか。「流う楼」で同じ釜の飯を食って、同じ置屋で寝起きしたら、もう友達だよ!』
屈託のない笑顔でよしがそう言うと、嬢香は俄かに怖い顔になってよしを睨み付けた、
「あんた、女郎を舐めてるよ……。廓はあんたの考えてるような甘い世界じゃないんだ。誰よりも先にお大尽に身請けされて、誰よりも先に借金チャラにして、誰よりも先に上がりになるんだ」
嬢香は唾を飛ばしながら、興奮めいた声でよしの考えを否定した。嬢香はさらに続けた、
「けど分かってる。そんなのほんの一握りなんだって。わっちらより、辛い思いをして生きてる女郎もたくさんいる! あんたも覚えてんだろ? 数日前、三軒先の女郎が瘡毒で逝っちまったことを!」
瘡毒というのは梅毒の別称。性行為や接吻、または口淫で客から貰う事がほとんどだが、不特定多数の男と交わる女郎にとって、誰から貰ったかを判断するのは不可能。廓に蔓延る怖い病だ。
「あんたは太夫になるのが夢かもしんないけど、わっちの夢はこっから抜け出す事だ! あんたの様に、ダチを作る為にここに売られて来た訳じゃねえんだよ!」
嬢香の言う通りだ。女郎はお互いの足を引っ張り合って生きて行く。時には朋輩の客を奪うのも厭わない、泥沼な世界だ。友情なんて生まれる訳がない。
しかし、よしは、友情があってもいいのではないかと考えていた。お互いを貶し合い、嫉妬心を抱える女郎たちをこれまで見て来たよしにとって、この苦界を変えたいと願っていた。
よしは、嬢香を見つめながら、変わらない自身の思いを吐露した、
『それでも、わっちらはここで出会った。嬢香がどういう理由で切見世に来たのかは知らないし、この廓が甘い世界じゃないのは分かってるよ。でも、現にこの苦界の中でわっちらは出会えた。女郎を友達として思うのも、なんら悪い事じゃないんじゃないかな?』
「ふんっ、ばっかじゃねぇの」
嬢香は、熱弁するよしに向かって、冷たい言葉を吐き捨てながら置屋に向かって踵を返した。よしも後に続こうと追いかけると、嬢香は急に立ち止まった、
「ともかく……ありがとよ……助けてくれて」
嬢香の言葉を受けたよしは、心がむず痒くなる様な心地がした。それが、嬢香に対する友情による物だと感じた。
この日を境いに、よしと嬢香は内懐の友となった。
───────────────────────
【揚屋町】にある、とある遊女屋。そこで、ある思惑が繰り広げられていた、
「それで、その女郎は下客を成敗したんだね?」
煙管を咥えながら、黒引き摺りの女人が言った。
「へえ、それはそれは強い口調で、暴れ客を打ちのめしやした。その勇気ある行いこそ、新たな太夫に相応しいかと思いやす」
「うん、良いだろう。明後日決行だ、宜しく頼んだよ」
「へえ!」
女人に仕えるその男は、恭しく頭を下げその場を去って行った。
よしに、新たな風が舞い込まれようとしていた。
吉原に、暑い夏が訪れた。
汗の混じる身体の絡み合いは、女郎にとっては呆れるほど堪えられないことである。臭いがキツくなるうえに、見ず知らずの汗だくの男と交わる行為に及ぶという、これ以上の嫌悪感を覚えるものは無いと言っても過言ではない。
出来るだけ、お客の欲求を満足させるため、対策は欠かさなかった。線香の代わりにお香を焚き染め、なるべく充満する臭いを抑えたり、湯屋へ行く回数も増やした。しかし、それは稼ぎの少ない【切見世】の女郎にとって苦労するばかりの日々であった。
団扇を扇いでも、引かない汗に苛立ちながら、よしは、姐女郎たちと置屋の二階で、賑わう仲之町を眺めていた。
今日は吉原の一大行事、【八朔】が催されている。
色々な屋台が出ているのでガヤガヤと賑わいを見せており、いかにも楽しそうな音が羅生門にも聞こえ、意識せずとも心が弾んでいく。
よしは、昨年も一昨年も足を運んだので今年は行かないことにした。そもそも、こんな暑い日に人だかりに出るのも億劫だ。窓を開け放した室内に潜み、団扇で扇いでいる方がまだマシだった。
しばらくすると、茶屋の方で、ある客の声が耳に届いた、
「よしぃ~俺だぞぉ~~! 参ったぞぉ~!」
ちょうど【源氏物語】を読もうと手を伸ばしかけたよしは、その甘ったるい濁声を聞いて天を仰いだ、
『うわっ、出た……とんちき』
【とんちき】とは、あまりありがたくないお客の事を廓言葉でそう言い表した。隣で窓から仲之町を眺めていたくれ葉と浮ふねがクスクスと笑い出した。
数か月前から毎日の様に訪れるその客は、年がら年中油臭く、その上汗っかきで、いつも異様な臭いを放つ。よしはその客が嫌で嫌で堪らなかった。
しかし、お客を選べる太夫でも無い限り、断る訳にもいかない。
「よしー! 大助様がおいでだよー!」
花辺が額の汗を手で拭いながら置屋へやって来て、階下から大声で呼び掛けてきた。
「ほら、よし! 野暮な大助様のご登楼だよ~」
浮ふねがよしを揶揄いだし、くれ葉も笑いながらよしの背中を押した。よしはため息をつきながら、身なりを整えて重い腰を上げた。
階段を下りて置屋を出ると、外の風が心地よく頬を掠めた。そう気持ちを切り替えずにはいられない程、嫌な気持ちで心が埋め尽くされていた。
仲之町一体が屋台で埋め尽くされる八朔の吉原には、遊び客以外のお客も訪れた。それは男女関わりなく、数年前から評判を呼び、瓦版でも「人気の行事」として大々的に謳われている。
仲之町で大きな行事が行われると、切見世へのお客の足取りはめっきり減る。売上が無くなる事は無いが、比較的少なくなり、暇になる。
その為、女郎には空き時間が増えた。源氏物語を読めるほどに。
「おぉ~~よし~!! 相変わらず美しいのう!」
『ぬしさん、良うおいでなんした』
愛想を振りまくと、大助はよしの手を勢いよく握り、頬擦りをしながら猫なで声で呻きだした。よしはなるべく鼻で息をしないようにしつつ、笑顔で迎えた。
「よし、何故、わしの名を呼んでくれんのじゃ~? もう何百回も、ここに足を運んでおるんじゃぞ~? なぁ、金はたんまり払うからのう?」
金を払ってくれるなら背に腹は代えれない。癇癪を起こされないだけマシだと、よしは自分に鞭を打った、
『ようざんすえ、なら、二階へ参りんしょう。大助様』
二階の廻し部屋に、大助を手引きし、自分で香炉に線香を立てた。その後で、よしは大助に向きなおり、首に腕を回しながら甘い声で誘い出した。
不格好な体勢になりながら大助は帯をせかせかと解き、接吻をして来た。太い舌を上下左右に動かしながら荒い息遣いでよしを抱いた。
『大助様ぁ……』
「っ! あぁ……ん」
甘い声で名前を呼ばれ、喜びと興奮で呻き声を上げた大助は、勢いよくよしの身体を舐め回した。徐々に裾から顔を出したよしの恥部に唇を這わせながら、太い指で掻き乱して行く。身体をくねらせたよしは、感じているふりをした。その反応を見た大助はニヤつきが抑えきれぬ様子であった。
─── お客を喜ばすんが女郎の務め。女郎は決して感じてはなりんせん
ここ数ヶ月で、よしは変わった。感じていては身が持たないと知ったよしは、生涯の格言を持つ様になった。
『ぁあっ……大助様ぁ、もう我慢できんせんっ……挿入れておくんなんしぃっ……』
油の臭いが漂う耳たぶを甘噛みしながらよしは、か細い声で懇願する。もちろん嘘だ。我慢してる訳でもなんでもない。ただ、ただ終わって欲しい、それだけ。
大助は顔を赤らめながら、褌から覗かせた太く大きくなった摩羅を急いたように挿入した。
『ぁぁああんっ!!』
大助の背にしがみつきながら、大きい摩羅が挿入って来るのが分かり、大袈裟な芝居を演じた。
細いよしの腰を持った大助は勢い良く振りかぶり、腰の前後運動を続けた。身体を突き上げる度に身体をよがらせ、苦悶の表情を浮かべながら、大助が果てるのをよしはただ、ただ耐えた。
やがて、線香の一切が消えかけた時、大助はほとばしる思いをよしの女陰の中に放ち込んだ。
よしは、力を振り絞りながら大助の足元に這いずり、赤く火照った摩羅を口で綺麗にしてあげた。「あぁ……」と声を漏らした大助は、乱れた髪を片手で直し、虚ろな目でよしを見つめた。
渋々、大助の唇に自分のを合わせると、二回戦を仕掛けるつもりなのか、腰を鷲掴みにして来た。よしは、やんわりと太い腕を包んで拒否し、ようやく事を終わらせることが出来たのだった。
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『ちっ、とんちきめ……銭があんなら身体ぐらい洗ってから来いっての!』
大助は揚げ代と線香代を超える三分(約五万円) も支払ってくれた。売上の厳しい八朔の切見世にしては儲けが入り、花辺は笑みを溢した、
「まぁ、悪いお客じゃないんだから、耐えておくれ。大客を得たと思ってどんどん稼ぐんだよ」
花辺は煙管を咥えながらよしの背中を叩いた。よしは天を仰ぎながら花辺に苦笑をして見せ、茶屋を出た。
置屋の二階に戻ると、くれ葉と浮ふねが窓辺に頬杖をつきながら、仲之町の賑わいをまだ眺め続けていた。よしが声を掛けると、二人は早速揶揄って来た、
「お! おかえりー! 今日の野暮はどんな臭いだったんだい?」
二人は大口を開けて笑い出した。よしは愛想笑いをしながら、汚れた身体を清める為、湯屋へ向かおうと浴衣を取りに箪笥を開けた。そこに、再び窓に視線を戻したくれ葉と浮ふねが噂し合っているのが聞こえた、
「そういえばさ、【夕なみ屋】の藤巻大夫が道中張るってよ!」
「へぇ、八朔で道中!? また珍しい! きっと相当な金持ちだいね?」
突然の道中の報せ……『見てみたい』と、よしは思った。この四年の間、今までそんな機会も時間すらも無かったよしにとって『絶好の機会を得た』と思い、風呂敷を抱えて仲之町へ急いだ。
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八朔の【道中】は通常とは違って一段華やかなものだと噂で耳にした事がある。昨年も一昨年も、よしは見る機会を得られなかった。
八朔では太夫も遊女も白で身を包む。
白の小袖に白のし掛け……その着姿から【八朔の雪】【秋の雪】と称される。うだる暑さを払い除け、吉原に涼を誘い込む演出だ。
かつて、女郎たちのその白い着姿を、吉原通いの通人は「白無垢を着た花嫁のよう」と絶賛した。それを受けた遊女屋の楼主たちは、女郎らに馴染みのお客を吉原に誘い、その日一日中、夫婦の真似事をして仲之町に出た屋台を練り回させる。
地獄の中のほんの一時、女郎たちはお客との楽しい一日を過ごした。
羅生門河岸から仲之町に続く路地裏を出ると、そこにはすでにたくさんの人集りが出来ていた。ごった返す人たちの狭い隙間からしか見えなかったが、噂通りの美しい太夫がゆっくりと練り歩くのを目で捉えた。
前髪と髱に挿した十二本の簪は陽の光を受けてきらりと輝いていた。三枚の櫛や髷に挿した四本の簪も、すべて小袖に合わせて白の鼈甲で作られていた。
外八文字を描く、黒漆に赤い鼻緒の三枚歯高下駄が地の土を削る音、先導する【金棒引き】がシャンシャンと金棒を打ち鳴らす音がよしの耳を巡り渡った。
すべてがこの世の物とは思えないほど美しく、この道中をいつか歩きたいという四年前の思いが蘇ったのだった。
太夫が茶屋に入るのを見送った後、人混みをかき分けながら仲之町を通り、目的の湯屋へと向かった。その途中、見慣れた藤色の着物が目に入った、
『嬢香ちゃん!』
後ろから背を叩くと、朋輩の嬢香が声を張り上げながら振り返った、
「うわっ!! ……なんだよ、あんたか」
驚いた嬢香は、すぐにむすっとした顔になりそっぽを向いた。相変わらず、よしに対し敵意を抱いていた。
『道中見に来たの?』
「悪いかよ」
『悪くないよ? 太夫道中、綺麗だったよねぇ~! 華やかで! わっちも早く道中しとおす!』
「あんたが~? いんや! ムリムリ! 切見世から太夫に登り詰めるなんて、聞いたことないね!」
『絶対とは言い切れんよ? 信じれば叶うと思うんだ! わっちが太夫になってたくさんの新造や禿を引き連れる! それがわっちの夢さ!』
「勝手に言ってろ」
『嬢香ちゃんだって夢ぐらいあるでしょ?』
「あったとしても言うか!」
悪態をつきながら嬢香は、乱暴に腕を組んで路地裏に入ろうとした。
『あ~、嬢香ちゃん待って待って! これから湯屋行くけど一緒にどう?』
「い~や~だ!!」
舌を出して誹って来た嬢香は、颯爽と羅生門河岸へと消えて行った。気落ちしながらも、また次も誘おうと期待を抱いてよしは湯屋へと向かった。
切見世の中で唯一若手の女郎を抱える「流う楼」は、たちまち評判を呼んでいた。花辺は、嬢香とよしの二人に、お客の数を競わせた。そうする事でお互いをけん制させ、女郎としての生き方を教え込もうというのが狙いだった。
嬢香と争う事に、初めは気が進まなかったが、負けず嫌いの性格からか、勝負に乗りかかる事にした。
結果はよしの圧勝。
すんでの所で負けた嬢香は、よしに対する敵対心を更に強めることとなった、凍り付いていた二人の関係は尚一層悪化したが、よしはその後も、嬢香を朋輩の女郎として良い関係を築こうと骨を折った。ただし、嬢香は決して応じようとはせず、悪戦苦闘しているのである。
───────────────────────
その夜、ある騒ぎが起きた。八朔の夜も昼間と変わらず河岸の人通りは少なかった。いつも通りの夜だと誰もが思った。
流う楼 ───────
「っんだよ! 触んなっ!」
よしが馴染みのお客にお酌をしていると、嬢香の声が茶屋中に響き渡った。お客に対してそのような口の利き方は今まで無く、聞いたことない程の荒らげように、よしは思わず顔を上げた。
「このアマ、付け上がりやがって! 鉄砲女郎のくせによ!!」
男は突然、嬢香に殴り掛かった。その勢いで、手前にあった懸盤がひっくり返った。近くにいたくれ葉は被害を避ける為、お客を誘導しその場から離れた。
花辺は暴れ回る男を窘めに、間に割って入ろうとしたが、その行動が男を逆上させた。男は吼えながら、嬢香の髷を引っ掴み、誰も近寄らせない様に前方に振り回した。嬢香は叫び声を上げながら、男に引かれるがまま、もがき続けた。
「離せっ!! 離せぇぇえ!」
「うるせぇ!! ピーピー泣くんじゃねぇ!!」
よしは、その暴れる男に禿時代の大旦那、坂垣藤右衛門と重ね合わせた。あの頃は子供だった為、抵抗も出来ず、恐怖と支配に雁字搦めにさせられた挙句、深い心の傷を負わされた。
よしは無性に怒りがこみ上がって来た。昔の恨みを果たすように自分に鞭を打った。
外に出たよしは、気付けば、見世の前は騒ぎを聞き付けた通り掛かりのお客たちでごった返し、野次馬と化していた。それでもなんとか人波をかき分け、近くにあった桶を引っ掴み、お歯黒どぶの水で満杯にした。再び、野次馬を抜けて見世に戻り、男の前に立ち塞がった。
男はよしに向かって噛み付いた、
「あぁん? なんだよ、クソアマ!! 襲われてえか!!」
『嬢香ちゃん、目瞑って!』
よしが声を張り上げて、恐怖で打ち震える嬢香に向かって言った。嬢香が目を瞑るのを確かめると、よしは男に向かってどぶの水を頭からぶっ掛けた。男は一瞬何が起きたのか分からない様子で、一点を見つめて立ち尽くしていた、
「なにすんだよっ!!」
ようやく事態を把握した男は野良犬の様に頭を振り、よしに鼻息荒く吼えた。
『出ていきな!! 他のお客にも迷惑だ、さっさと帰りやがれっ!』
心臓をバクバクと鳴らしながら、強い口調で男を責め立てた、
『ここはお客と女郎が楽しむ場所だ、暴れる為じゃねえ! これ以上、見世を滅茶苦茶にしようもんなら、岡場所にでも行ってくんな! あんたの言う鉄砲女郎は、ここには誰一人として居やあしないんだよ!!』
よしの言葉に同調するように、外にいた客たちが「そうだそうだ!」「おとといきやがれ!」とヤジを飛ばした。
「チッ、寄ってたかって俺のこと馬鹿にしやがって! こん畜生がっ!!」
周りの態度に腹が立った男は、拳を振り上げてよしに襲い掛かろうとした。
その瞬間、会所に駐在している【町奉行所】の同心と岡っ引きが「御用だ! 御用だ!」と威勢のいい声を上げて茶屋に押し入り、男を取り押さえた。誰かが助けを求めに会所へ走ってくれたようだ。
岡っ引きにお縄にされた男は、足をバタつかせ、「離せ!! はなせよっ!!」と藻掻き叫んだ、
よしはその隙に嬢香を抱き寄せ、男から離れた場所に避難させた。
やがて男は、同心の手によって「流う楼」から追い出されたのだった。
───────────────────────
騒ぎの後、花辺は「流う楼」の営業を終了させ、滅茶苦茶にされた店内の清掃を皆で行った。
花辺は嬢香の傷の手当てをしながら、事の経緯を訊ねた、
「一体全体何があったんだい嬢香? 説明しておくんな」
手傷を負い、顔に痣が出来た嬢香は肩を落としながら説明した。雑巾でこびり付いたどぶを拭きながらよしは聞き耳を立てた、
「あの客、熱々の煮汁をわっちに掛けて舐め回したいと言い出して来やがったんだ……そんな気色の悪い事、したくなかった。「嫌だ!」って抵抗したら、さっきみてぇに逆上して来たってわけさ」
「ひどっいやっちゃなぁ」
聞いていたくれ葉は、やるせない怒りを込めて勢いよく膝を叩いた。
よしは雑巾がけに力を込めた。女郎を下に見ている客に対し、憤りを感じた。それは、浮ふねも同様だった、
「あっしも昔、同じ事されたよ。宴会で食べ残した天婦羅をアレに突き挿して食べたいって言い出してきてさ」
「で、どうしたんだい? 応じたのかい?」
くれ葉が聞くと、浮ふねは苦笑しながら応えた、
「冷めてたし、お大尽だったから……断れねぇだろ」
話を聞いたくれ葉は溢れてくる憎悪を、割れた皿に込めて、桶に勢いよく投げ捨てた。
「それにしても、よし? あんたは凄いよ」
花辺が、よしに向かって声を掛けた。急に褒められたよしは、照れ隠しから謙遜した、
『おっかさん、わっちは何にも凄くはないよ。ただ、あの男が許せなかっただけさ。まぁそのせいで、店をどぶまみれにしちまったけど』
「いいや、気にしなさんな。ちょうど秋に塗り替えを頼もうと思ってた所だから。ともかく、あんたの勇気ある行動には礼の言葉もないよ」
花辺が更に褒め称えると、くれ葉と浮ふねも続けた、
「本当さ」
「感心したよ、よし」
姐女郎から称賛の言葉を貰い、よしは温かな気持ちになった。しかし、よしは嬢香の事が気がかりで優越感になどには浸っていられなかった。一度傷付けられた女郎の心は、その後癒えても、深い傷となって一生を背負う事となる。
ふと嬢香を見ると、花辺に笑顔を見せていながら、心は泣いているように見えた。よしには嬢香の気持ちが分かった。取り繕っているという事に。
───────────────────────
茶屋内の掃除が一段落し、置屋の二階に戻って行ったよしだったが、なかなか寝付けないでいた。暴れ客は今に始まった事では無いが、女郎が傷つけられる事件は初めての事だった。聞こえて来る鈴虫の音が、煩わしく思えた。
寝返りを打つと、隣で寝ているはずの嬢香がいない事に気付き、もしやと思ったよしは、置屋の外に出た。すると、見慣れた藤色の着物の女郎が、物悲しそうにお歯黒どぶを見つめていた。
『嬢香ちゃん、こんな所でどうしたの?』
「……眠れなくてさ」
『わっちもだよ。なんかこう、もやもやするって言うか……』
よしが嬢香の隣にしゃがみ、一緒にお歯黒どぶを眺めた。曇り空から差し込む仄かな月光と秋めいた風がゆらゆらと吹いていて心地よかった。
しばらくすると、嬢香が口を開いた、
「なぁ、聞いてもいいか?」
『ん?』
「なんで、わっちを助けようとしてくれた? わっちは姐さんらと違って、あんたの事嫌いだって気付いてるはずだろ?」
よしは「んー」っとしばらく考えてから答えた、
『友達だからさ』
思いがけない言葉に、嬢香は驚いた、
「はぁ~? 友達だぁ? あんたとわっちが!? ありえねえ!」
『だって同い年じゃんか。「流う楼」で同じ釜の飯を食って、同じ置屋で寝起きしたら、もう友達だよ!』
屈託のない笑顔でよしがそう言うと、嬢香は俄かに怖い顔になってよしを睨み付けた、
「あんた、女郎を舐めてるよ……。廓はあんたの考えてるような甘い世界じゃないんだ。誰よりも先にお大尽に身請けされて、誰よりも先に借金チャラにして、誰よりも先に上がりになるんだ」
嬢香は唾を飛ばしながら、興奮めいた声でよしの考えを否定した。嬢香はさらに続けた、
「けど分かってる。そんなのほんの一握りなんだって。わっちらより、辛い思いをして生きてる女郎もたくさんいる! あんたも覚えてんだろ? 数日前、三軒先の女郎が瘡毒で逝っちまったことを!」
瘡毒というのは梅毒の別称。性行為や接吻、または口淫で客から貰う事がほとんどだが、不特定多数の男と交わる女郎にとって、誰から貰ったかを判断するのは不可能。廓に蔓延る怖い病だ。
「あんたは太夫になるのが夢かもしんないけど、わっちの夢はこっから抜け出す事だ! あんたの様に、ダチを作る為にここに売られて来た訳じゃねえんだよ!」
嬢香の言う通りだ。女郎はお互いの足を引っ張り合って生きて行く。時には朋輩の客を奪うのも厭わない、泥沼な世界だ。友情なんて生まれる訳がない。
しかし、よしは、友情があってもいいのではないかと考えていた。お互いを貶し合い、嫉妬心を抱える女郎たちをこれまで見て来たよしにとって、この苦界を変えたいと願っていた。
よしは、嬢香を見つめながら、変わらない自身の思いを吐露した、
『それでも、わっちらはここで出会った。嬢香がどういう理由で切見世に来たのかは知らないし、この廓が甘い世界じゃないのは分かってるよ。でも、現にこの苦界の中でわっちらは出会えた。女郎を友達として思うのも、なんら悪い事じゃないんじゃないかな?』
「ふんっ、ばっかじゃねぇの」
嬢香は、熱弁するよしに向かって、冷たい言葉を吐き捨てながら置屋に向かって踵を返した。よしも後に続こうと追いかけると、嬢香は急に立ち止まった、
「ともかく……ありがとよ……助けてくれて」
嬢香の言葉を受けたよしは、心がむず痒くなる様な心地がした。それが、嬢香に対する友情による物だと感じた。
この日を境いに、よしと嬢香は内懐の友となった。
───────────────────────
【揚屋町】にある、とある遊女屋。そこで、ある思惑が繰り広げられていた、
「それで、その女郎は下客を成敗したんだね?」
煙管を咥えながら、黒引き摺りの女人が言った。
「へえ、それはそれは強い口調で、暴れ客を打ちのめしやした。その勇気ある行いこそ、新たな太夫に相応しいかと思いやす」
「うん、良いだろう。明後日決行だ、宜しく頼んだよ」
「へえ!」
女人に仕えるその男は、恭しく頭を下げその場を去って行った。
よしに、新たな風が舞い込まれようとしていた。
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