大奥~牡丹の綻び~

翔子

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第七章 母の愛増

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 江戸に来て四ヵ月が過ぎた。

 少しはこの広い大奥にも馴染め、御台所付の女中たちとも打ち解けて来た。だが近頃、急な眩暈と気だるさに見舞われるようになった。大事を取り、髪を解いて横になった後、龍岡が奥医師を呼び寄せた。触診が終わると、医師は身を正して真剣な面持ちで言った。

 懐妊したとのことだ。

「宮さん!! おめでとうございまする!」

 我を忘れ、藤子のことを〈宮さん〉と呼ぶほどに龍岡は喜んだ。余りの歓喜ぶりに藤子は気圧されたが小さな命が宿る自身の腹を愛おしそうに撫でた。奥医師が去ると、報せを受けた万里小路が駆け付けた、

「藤子、ほんっまにおめでとさん! ここに、私の姪御か甥御がおられるんやなぁ。嬉しおす」

 目を細くさせながら喜ぶ次姉に、藤子は辛かった眩暈が嘘のように和らいでいくようだった。龍岡と佐登子、二人がいなければこの大奥でどれだけ心細く暮らしていた事かと、感謝してもしきれない藤子であった。

 御台所懐妊の報せは瞬く間に広まり、大奥中が御祝い気分に沸き立った。御坊主によって中奥にも知らされると、家正は心の底から藤子に感謝した。幕閣の老中たちも御世継ぎの誕生に大いに期待したのだった。
 
 ところが、たった一人、複雑な思いでいる人物がいた。

 壱ノ御殿に住む、大御台所である。


大奥・壱ノ御殿 ─────── 

「あれほど、夜伽が数多あれば産むこともあるであろう。小賢しい! 何を騒ぐ必要があるのじゃ」

 眼前に控える上臈御年寄たちを睨み付けながら泰子ひろこは扇を畳に叩き続けている。何度、御鈴廊下の鈴が鳴るのを耳にしたことか。二人の戯れを想像するだけで虫唾が走る思いだった。
 怒りを必死に抑え込んでいると、東崎が現れた。

「大御台様。御指図通り、御台様に御祝いの御品を届けましてございます」

「産着か」

「はい」

「おほほほ。驚きのあまり、子が流れでもすれば良いのじゃ。あやつと公方さんの子が産まれてはならぬのじゃ」

 しかし、泰子の思惑通りには事は運ばなかった。確かに東崎は産着を贈ったが、呉服之間頭の絹張に縫わせた上等な地の、上等な糸で縫われた物を贈った。

 東崎は大御台所のくだらない嫉妬心に付き合うつもりはなかったのだった。

────────────────────

 藤子の元へ、泰子、御三家、御三卿、直参の家臣から西国の藩に至るまで、祝いの品が届けられた。いずれも御世継ぎを期待してのことか、馬乗りや武具、新しい版の〈論語〉や〈大日本史〉がほとんどで、女児に向けた祝いの品は少数しかなかった。予想していたことだけに、藤子は溜息を吐いた。
 しかしただひとつ、嬉しい贈り物があった。母・淑子からだった。鷹司牡丹が描かれた箱の中には、安産祈願を施したお守りが入っていた。文も添えられており、その優しく慈愛に溢れた内容に心が温かくなった。

 しかし、様々な贈り物が送られても、藤子は気が晴れるどころか、ますます体調が悪くなる一方であった。とうとう悪阻が来てしまい、寝間着のまま〈御切形之間おんきりがたのま〉で横になることがほとんどであった。
 心配した龍岡は、徳川家祈祷所へ足を運び、平癒と安産祈願を行わせようと思い立った。それぞれの祈祷参拝の帰りには、長局の居室でお百度を踏もうとも考えた。

 不在がちになるため、龍岡は御台所の世話を万里小路と松岡に一任することにした。

「無理せずとも良いのだぞ? 都から戻ったばかりではないか。少しは身体を休みや」

 しばらく留守にすることを藤子に報告すると、心配そうな目を向けて来た。日に日に大きくなるお腹に驚きの連続のうえに身体は言う事が効かなくなる。自身のことで頭がいっぱいのはずなのに、何とも優しい宮さんだと、龍岡は胸が熱くなった、

「御台様、何を仰せです。立派な姫君様か若子わこ様が御産まれ遊ばすよう御祈りするのが私の務めにございますれば。御心配には及びませぬ」

 胸に手を当てて自信たっぷりに言う龍岡を見て、藤子は余計な心配をせず、したいことをさせようと考えを改めた。
 
 この後、祈祷のおかげか、藤子の体調は少しずつ回復して行き、上段之間に座れるまでになった。

────────────────────

 藤子を見舞いに家正は足繁く新御殿へ通った。

 将軍が直々に御台所の居住所へ出向くことは余りなく、御台所付の女中たちは慌てふためいた。だが、当の藤子は夫である家正に一目会えるだけで心が晴ればれとし、政務の忙しい中で暇を見つけては大奥へ渡ってくれる家正を愛おしく思った。

 内密に大奥へ渡っているつもりの家正だったが、将軍以外男子禁制の大奥には通用せず、忽ち大御台所の知るところとなった。仲睦まじい二人の様子に、それが嫉妬であることに気付くことがなかった泰子は行動に打って出たのだ。

 藤子を見舞って三日目の朝。家正は仏間での参拝を済ませた後、いつものように新御殿へ向かおうとした──、

「母上? このようなところで何をしておられます」

 泰子が廊下の端で両手を付いて家正を待ち構えていた。久しぶりに会う母に驚き、家正は目を剥いた。

「公方様、今少し御時間よろしゅうございますか。御話があるのです」

 たとえ実母といえど、将軍相手に馴れ馴れしく名を呼ぶことは許されない規則きまりだった。
 首を傾げながらも、さっさと歩いて行く泰子に家正はついて行った。この道筋は壱ノ御殿に続いてる。廊下を渡る間、何も言わぬ母に家正は痺れを切らした、

「話とは何ですか、母上。私は御台の様子を見に参らねば」

「然様に御台さんの所へ足繁く通われて、何になるのでございますか?」

「はい?」

「身重の体で其方に会えば、御台さんは休むにも休めぬではないですか。それに── 」泰子は打掛を翻して振り向いた。「世継ぎとは限らぬではありませぬか」

 家正は小さく息を吐いた、

「世継ぎであれ姫であれ、無事に産まれればそれでよいこと。母上にとって初めての孫ではありませぬか。喜んでくださらないのですか?」

 反論して来る家正に泰子は目を細めた、

「ほう、そのような口の利き方をするようになったのですね? 御台さんの影響ですか?」

「母上は御台がお嫌いですか? 同じ五摂家の出ではありませぬか。何故なにゆえそのような──」

「よろしいですか。御台に構い過ぎてはなりませぬ」そう言ってにじり寄ると、泰子は薄ら笑いを浮かべた。「其方、側室を持て」

「なッ……?」

 思ってもみなかった事を言われ、家正は顔をしかめた。

「人の上に立たれる御身おんみなれば、側室の一人や二人を儲けるのもなんら不思議なことではない。御世継ぎであれ、姫であれ、これからは御台さんには安静にして頂かねばなりませぬ。それならば、万一のことを考えて、側室という便利なものがあるのですよ。二百数十年続いて来た大奥が今日こんにちまであるのは何故だと御考えか」

 側室の有りようをまざまざと説かれ、その異常なほどの凄みに家正は御台所の面目のため、母を宥めた、

「御言葉ながら母上。父上は一人も側室を儲けてはおられなかったではありませぬか。母上だけを御傍におかれ、私を大切に育ててくださいました。私も御台と腹の子と共にその様に──」

「大御所様の真似事をしてなんとするのです!」泰子は首を勢いよく振って家正の言葉を制した。息を整え、泰子は念押しした。「とにもかくにも、側室をこちらで見繕っておきまする故、今宵は御渡りくだされ。くれぐれも、私に黙って御台さんの所に行かれるようなことはなさいませぬように……よろしいですね?」

 母の勢いに圧され、家正は後退った。これ以上何を言っても無駄だと察した家正は新御殿へと向かわず、下御鈴廊下を通ってそのまま中奥へ引き返したのだった。

 その夜、泰子付きの一人、お由利ゆりという御中臈が家正の夜伽の相手として選ばれた。御台所には知られぬよう、泰子は御鈴番に命じて御鈴廊下の鈴は鳴らさせないようにした。家正は御小座敷へ重い足取りで入って行った。

────────────────────

 一ヵ月経って、悪阻がだいぶ落ち着いた藤子は、長らく不参加にしていた朝の総触れへ出向こうと準備をした。
 
 松岡らは心配して安静にするよう進言して来たが、出来る限り公の場に出なければと、なんとか説得した。
 目立ち始めた腹に、着付けに時間を取られている御中臈を励ましながら、なんとかお召し替えを終えた。そこへ、龍岡が現れた。美しい打掛に身を包み、髪を丁寧に結われた御台所の姿を見て、慌てて駆け寄って来た、

「御台様!! もう、お身体は大丈夫なのでございますか?」

 御中臈から筥迫はこせこを受け取りながら、眉を曇らす龍岡に藤子は微笑みかけた、

「もう大丈夫じゃ、今日はすこぶる具合が良い。それに、上様に御目にかかりたいしのう」

 気丈に振る舞ったが、藤子には気掛かりなことがあった。

 「また明日会いに来る」と告げてから一ヵ月も時が過ぎていた。あれからぱったりと家正の御渡りが無くなったのだ。何かあったのではないかと気を揉んだ藤子は、中奥とを行き来できる御坊主にそれとなく訊ねてみたが、政務が忙しいとの報告だけしかして来ず、強引に納得した。

 公の場に御台所が顔を出さなければならないとの考えもありつつ、家正に会いたいという思いの方が強かった。
 
 それは何よりにございます、と龍岡が胸を撫で下ろした後、辞去した。これから祈祷所へ向かうのだという。
 
 準備が整った藤子は新御殿を出ようとしたが、松岡に引き止められた。どうやら、駕籠を用意してくれたらしく、それに乗れと言って来た。藤子は御年寄の気遣いに礼を述べてから駕籠に乗り込んだ。


大奥・御座之間 ───────

 御台所を乗せた駕籠が御座之間ござのまに近付くと、女中たちは一斉に道を譲り、平伏した。ここは婚礼の儀式でも使われた諸行事を執り行う場であり、御台所の居室とは目と鼻の先なのだが、今回は初めて駕籠で向かった。

 〈総触れ〉というのは、大奥の女中たちが将軍に挨拶を交わす公の儀式である。大奥総取締がその日の予定や事柄を告げ、さらには、将軍の御機嫌を窺うという名目もあった。

 平伏す女中たちの間を藤子が素通りして行くと、見慣れない顔の女中に目が行った。上段付近に控えていて、誰よりも豪華な打掛を身に纏い、前髪と髷には数多のべっ甲や銀簪が挿され、きらきらと輝いている。
 藤子に気付くと、その女中は化け物でも見たかのように目を見開き、慌てて畳に額を突っ伏した。不思議に思いつつ、藤子はそのまま女中の前を通り過ぎて上段の西側に座った。

 まもなく、御鈴廊下の鈴が聞こえた。将軍の奥入りだ。

 家正を先頭に東崎が御座之間に入ると、序列順に座していた女中たちがゆっくりと平伏し、藤子もそれに倣った。家正が上段の中央に座った。久しぶりの対面に嬉しく思ったが、家正はいつもより素っ気ない。いつもなら、目配せをしてくれるのだがそれが無かった。

 東崎が挨拶をし始めた。藤子は家正を見つめるのを止め、姿勢を正した。

「上様、御台様におかれましては、本日も御機嫌麗しゅう恐悦至極に存じ奉りまする。御台様には、殊に御体調御優れになられた由、大変喜ばしい事に存じます」

 堅苦しい挨拶の後、下段に控える奥女中たちが一斉に頭を垂れた。再び顔を上げると東崎は続けた、

明後日みょうごにちに控えましたる冬至の支度に際し、商人あきんどらが出入りする手筈となっておりまする。迎えの支度もすべて相整いましてございまする。奥の者一同、不作法無きよう、実義を第一に御勤め仕りまする」
 
 再度一同が平伏すと、東崎が締めの言葉を述べた、

「それでは諸事万端、洩れなく御伺い致しました」

 東崎の号令によって、朝の総触れが終わったことが告げられると、家正は一度もこちらを振り向かずに腰を上げた。ふと、上段付近にいた先ほどの女中を見やると、家正のことを慈しむような、懇願するような目で見つめている。何故そのような顔をするのか? 藤子は疑問を抱いた。
 御座之間を出る家正を追いかけようと藤子が立ち上がりかけたが、松岡が懸念の目をこちらに向けてくるので動くに動けなかった。
 
 新御殿へ戻ると、藤子は松岡にかの女中について訊ねてみた。松岡は「さぁ……」と首を傾げただけだった。松岡は大奥に二十九年間仕えていると聞く。

「『さぁ』? そのほうですらも知らぬと申すか?」

「初めて見かけた御中臈にございました。されど、どことなく気品溢れていると申しましょうか……普通の御中臈ではない様に見受けましてございます」

 松岡ですらも知らない御中臈とは、一体どのような素性の者かと藤子は気になった。確かに、他の女中より着飾ってはいたが、その他に溢れるひんというものがあの女中にはあった。

 それよりなにより、家正が素っ気ない態度をこちらに向けて来たことが理解できなかった。いつもならば、恥ずかしくなるほどに見つめて来たり、手を取ったりと熱烈的に誘惑して来るのだが、このひと月の間でいったいどんな心境の変化があったというのか。やり切れなくて仕方がなかった。

 藤子は松岡に命じて、万里小路を呼ばせた。今日は非番で長局にいるはずだ。

 しばらくして万里小路がやって来ると藤子は御中臈の素性を調べるよう依頼した。姉は断るでもなく、二つ返事で了承した。

────────────────────

 大奥に来て、初めてと言っていいほど、御台所付以外の奥女中たちに話しかけに回った万里小路だった。〈総触れ〉に臨席した女中たちを調べ上げ、長局の居室を片っ端から訪ね廻った。乳母であり、万里小路の部屋方総括となっていた中島にも協力してもらい、なんとか御中臈の情報を得ることが出来た。

 すべてを知った時、この事を藤子に話して良いのかどうか迷った。しかし、御台所の命である以上、伝えぬ訳にはいかなかった。

 三日経って、万里小路は新御殿へ出向いた。藤子はあの件だとすぐに察したのか、読んでいた書物を閉じた。
 松岡同席のもと、万里小路はかの女中について報告した。真剣な眼差しを向けてくる妹に万里小路は胸の鼓動が速まった。

「そくしつ……?」

 藤子がそう呟いた。呆気に取られている表情をちらと見ただけで万里小路は藤子の膝元に視線を移す、

「かつては大御台様付きの御小姓でございました。成長し御中臈へと上ったのを機に、公方様のご側室とされたそうにございます」

 大御台所が用意した側室であると知ると、藤子は思わず脇息に身体を預けた。万里小路はすぐさま駆け寄りたかったが、松岡の手前、出来なかった。しかしその松岡も、然様な事実があった事に驚いている様子だった。

「名はなんと?」

 名を訊ねる藤子に万里小路は虚を突かれたが、はっきりと答えた、

「お由利の方と、申すそうにございます」

「おゆり……。いつから上様の側室に?」

「ひと月ほど前、御小座敷にて床を共にされたとの事にございます──」

 それ以降はありません、と続けようとしたが、藤子は俄かに立ち上がったので万里小路と松岡は思わず声を上げた。松岡が如何したのかと訊ねると、

「義母上様に会う。松岡、取り計らってくれ」

 そう言って、藤子は上段之間の襖を開け放った。万里小路は藤子の背中を見送ることしか出来なかった。


大奥・壱之御殿 ───────

 急な御台所の訪問に泰子は一瞬たじろいだが、すぐに身を正して迎えた。彼女とは婚礼の儀の前の饗宴で御殿を訪れて来た日以来である。
 お付きの御年寄と共に参上した御台所は腹が目立っており、西陣の帯を締めず、楽そうな帯を締めている。刺繍の振袖にそぐわない恰好に泰子は不快に思った、

「久方ぶりやなあ、御台さん。突然の御成りどないしやはったんどす? ──ああせや。改めて、ご懐妊おめでとさん」

 平静を装いつつ適当な言葉を告げた。しかし、藤子は暗い顔で単刀直入に質問を投げかけて来た。挨拶と前置きを省いていることに、泰子はさらに気分を害した、

「畏れながら義母上様。上様に側室を御進めしたのは、誠に義母上様なのでございましょうか」

 どこからその報せを受けたのか、泰子は御台所のことを睨みそうになるのを堪えた、

「それが何え?」

何故なにゆえでございますか? 私では御不満なのでございましょうか! なにゆえ──」

「付け上がるでない!!」

 とうとう堪忍袋の緒が切れ、泰子は持っていた扇を投げつけた。惜しくも御台所には当たらず、一寸手前で落ちた。

「付け上がるなど……」

「将軍である上さんは公の御方や! 御国を護るのも大切やが、側室を儲け、子を幾人もお作り遊ばすのも大切なお役目なのや!! 御台さんであるあんたさんが、不満やらなんやらと口答えするんは許さへんで?」

 初めてと言っていいほど声を尖らせ、喉が痛くなった。下段で両手を付いてこちらを見つめる藤子の瞳にはよく見れば涙で溢れていた。

「義母上様……私は上様の妻です!! 上様を……心の底から慕うておりまする。どうか、上様に会わせてくださいませ」

 口ごもりながらも必死に訴えようとする藤子に、泰子は昔の自分を重ねた。

 夫に会いたい……。会って誠の心の内を聞きたいと願っているのであろう。しかし、そのようなことを大御台所の自分に願っても容易に叶えることは出来ない。それを知ってか知らずか、藤子は低頭したまま動かないでいる。そのように身体を折らせては腹の子供に影響が……。

「私には関わりあらぬ……下がりおれ!」

 そう吐き捨てたが、藤子は畳に額を付けたまま微動だにしなかった。心が打たれる思いだったが、悟られぬよう再度声を張り上げた、

「下がるのじゃ!!」

 すると、ようやく藤子は観念したのか、ゆっくりと頭を上げ、御年寄に支えられながら壱之御殿を去って行った。

 四人の子を儲けた後、寂しい思いでいた泰子は、義理の母である天璋院に夫・家達いえさとに会いたいと願った事が一度だけあった。
 政務に掛かりきりで、奥へ出向く日はあっても、後見役を担っていた天璋院が住む新座敷へと通うだけで泰子の元へ赴いてはくれなかった。単に政の件で相談しに行ってるだけなのは分かっていたが、泰子は複雑な思いだった。

 家達と天璋院は当時、親子以上に信頼し合っており、泰子は天璋院に対し感じてはいけない嫉妬の念を覚えた。
 夫に会いたい旨を告げた途端、天璋院は御台所が将軍に会いたいと願うのは下賎だと責め、一蹴した。総触れには毎朝参席したが、一度も目を合わせず、こちらを振り返らずに大奥を去って行く日々がほとんどだった。

 寂しさを紛らわせてくれたのは、家正ただ一人であった。

 世継ぎである家正が将軍になってくれれば、泰子が天璋院の力を超える権勢を振るえる。そう思うようになった。天璋院や乳母の養育を断り、手元で護り大切に育て上げた我が子。そんな我が子を他所の公家の娘に取られてしまうのではないかと恐れたのだ。

────────────────────

大奥・新御殿 ───────

 御殿へ戻っても、藤子は意気消沈の様子で、着替えもせぬまま入側に座り込んだ。庭を眺めるでもなく空を見るでもなく、縁側に目を向けた。万里小路はそっと身を寄せて声を掛けた、

「藤子……そなた、然様に公方さんのことを……」

「当然です……夫の事を好かぬ妻など、おりませぬ」

 か細い声でそう言うと、万里小路は渇を入れる様に優しく諭した、

「しかしなぁ、藤子? まずは、そなたさんの身体を大切にせんと行かんえ? いずれ、公方さんにもお会い出来よう。大丈夫やて!」

 元気付けてくれようとする姉の言葉に藤子は自然に笑みがこぼれた。しかしその心中では、寂しさと、家正に会いたいという思いが強くなっていくのを感じた。

 京の都で、未だ見ぬ夫の事を想っていた頃から、家正を慕っていた。

 大奥に上がってからは、どの様な方かと想像した折の、庭での初めての対面。婚儀の後の熱い夜。愛を囁き合った日々の事を藤子は忘れずにいた。他のおなごにも同様の事をしていると想像する、寂しさと恨めしさに苛まれた。

 会って話したい、その気持ち一筋であった。

────────────────────

 その夜、大奥の御小座敷では、家正とお由利の方の二度目の夜伽が行われようとしていた。

「御静まりませ」

 東崎の言葉で御小座敷の上段の襖が閉められた。将軍と側室の両側には、御坊主と御中臈が後ろ向きで屏風を隔てて横になって控えている。お由利は夜伽のことを大御台所から厳しく教えられていたので緊張することはなかった。

「上様、今宵こそ私を……」

 お由利の方の甘い言葉掛けを受け、家正はゆっくりと近付いてきた。お由利は目を瞑った──。

「きゃっ! う、上様!?」

 突然、押し退けられ、無様に布団へ大の字になった。

 家正は俄かに立ち上がり、御小座敷を出て行った。

 狼狽する女中たちを東崎は冷静に押し止めた。訳も分からないでいる女中たちとお由利の方を御小座敷に置きざりにして、家正はひと月前まで通い慣れた場所へと走って行った。その姿を見て、東崎は密かに笑みを浮かべた。

 同じ頃、新御殿では龍岡が久方ぶりに出仕していた。万里小路から側室の件と大御台所とのひと悶着を聞いて、すぐさま寝間の夜伽を買って出た。日がな一日祈祷していて身体は疲れ切ってはいたが、そんなことはどうでもよかった。

「なんとお労しや……」

 龍岡は思わず藤子の手を取ったが、顔を俯かせるだけでこちらを見ようとしなかった。よく見れば、頬に涙の跡が筋状に残っている。励ましの言葉を掛けてやりたかったが、言葉が見つからなかった。

 しばらくすると、遠くからバタバタと衣擦れと共に早足で駆けてくる音がした。すぐに、慌てる御中臈の声が響いた。「上様!」と。

「久しぶりじゃのう、御台」

 ゆっくりと振り返ると、目の前には待ち望んでいた御人が立っていた。愛する人の声を久々に聞いて、唇が震えた。

「そなたに会いとうて会いとうて仕方が無かった。それ故、わしが参ったぞ」

 藤子の前に跪いたと思うと、突然暗闇に包まれた。家正の胸に抱かれ、愛しい人の香りが鼻をくすぐった。

「上様、なりませぬ……」

 すぐに我に返り胸を押すも、家正は背中に腕を回した腕を離さなかった。そして、じっとこちらを見つめた。

「側室を儲けたことを怒っておろうな。すまないことをしたと思うておる。そなたを傷つけてしまい、心苦しく思うておる」

 聞きたかった言葉を言われ、藤子は思わず俯いた。

「そのような……ご側室を儲けるは上様なら当然のこと。されど──」

「されど?」

 家正は訊き返した。藤子はゆっくりと夫の瞳を見つめた、

「寂しゅうございました」

 胸の奥が熱くなるのを感じた。正直な想いを口にして恥ずかしさで頬を染めていると、家正はゆっくりと頬に手を添えた、

「可愛いのう、そちは」

 優しく抱き寄せられ、家正は耳元でそっと囁いた、

「安心せよ。側室とは何もしておらぬ。これからも……いや、一生、御台のことしか愛さぬ」

 そしてその夜。二人は新御殿で眠りについた。将軍が御台所の御殿で休むのは前代未聞の事であった。

────────────────────

 翌朝、総触れの後、泰子は壱之御殿に家正を呼び寄せ、昨夜の事について厳しく咎めて来た、

「東崎から報告を受けました。何故、御台と会うたのですか! しかも、お由利との夜伽を飛び出してまで!!」

 家正は怯むことなくはっきりと応えた、

「御台に会いたかった、ただそれだけでございます。それに、あの女中とは身体の交わりは致しておりませぬ。母上の方から、着飾らぬよう言っておいてくだされ。あと、目障りであるとも」

 泰子は驚愕した。お添い寝役からは滞りなく事が運ばれたとの報告を受けていた。それが虚偽であった事を知り、泰子は憤慨した。

「そなた……私を愚弄する気か!?」

「母上!!」家正は初めて母に向かって声を荒らげた。「私は将軍です! もう、あの頃の竹千代ではありませぬ! 今後、母上の言う通りになるとは思いませぬように!」

 泰子に楯突いた家正は、藤子への愛を貫こうと心に決めた。たとえ、この世でたった一人の母といえど、二人を引き離そうとする者は断じて許すことは出来なかった。

 家正は泰子を一瞥した後、颯爽と御殿を去って行った。

「……家正!!」

 泰子の呼ぶ声も空しく、去って行く後ろ姿しか見送る事が出来ないことに愕然とした。

 母の愛は時に度が過ぎ、子供を悩ませてしまう。親の心子知らずとはまさにこの事を言うのだと、思い至った泰子なのであった。


つづく
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