大奥~牡丹の綻び~

翔子

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第六章 しきたり

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 【寝間入り床盃の儀】が滞りなく運んだことは大奥中に知れ渡った。お世継ぎご誕生の期待に胸を膨らませる女中たちをよそに、大御台所の泰子ひろこは脇息に寄り掛かりながら煙管を吹かしている、

「そうか、ようやく公方さんが腰をお上げにならしゃったかぁ~」朗らかに笑ったかと思えば、すぐに唇を真一文字に結んだ。「愚かな……」

 【壱ノ御殿】へ報告をしに訪れた東崎は居直りながら憮然と泰子を見上げた。

「都の生まれでありながら、何とふしだらなこと。初めての夜に事を成し遂げようとは」

「しかしながら」東崎が目を合わせないようにしながら口を開いた。「御台様は御台様として御役目を果たされたまでのこと。御祝いの御品を御送り遊ばしては如何でございましょうか」

「おほほほ、それは名案じゃ! 玉結び無しの産着でも差し上げようかのう~。経帷子きょうかたびらじゃ経帷子じゃ! どんな顔をするのか楽しみじゃのぉ~」

 煙管を灰吹きに叩き落とし、声高らかに笑った。東崎は初めてこのような姑を持った御台所を哀れに思った。


────────────────────

 鳥の囀る声が微かに聞こえ、小さく声を上げながら寝返りを打つと、身体中の痛みで目を開けた。ふと横を見やると、安らかに寝息を立てる夫の顔があった。
 幸せそうに眠るその顔は子供のようで、ふいに昨夜の情事が思い起こされて顔中が熱くなるのを感じる。このような愛らしい方がをするとは誰が想像できようか。藤子は袖で自身を煽いだ。

 しばらくすると、足音と共に衣擦れの音が遠くからし、次之間の障子が開けられた。直後、御中臈の声が上がった、

「御目覚めになって御宜しゅうございます」

 その声に家正は矢庭に上半身を起こし、寝惚け眼でこちらを見つめ軽い挨拶をして来た。返す間も無く、御中臈に先導されて御小座敷の南にある【蔦之間つたのま】へ覚束ない足取りで向かった。

 御台所付の御中臈に連れられて、次之間へ移動した藤子は手拭いで顔と身体を丁寧に拭いたのち、寝間着を脱がされて新しい着物に着替えた。空色絹紗地そらいろきぬしゃじの花散らし振袖打掛に、あんず色の絽小袖という装いだ。

 髪も新たに結い終えると、上段から家正が現れた。先ほどの白の寝間着に乱れた髪ではなく、紺地の紋付羽織袴という出で立ちにすっきり丁寧に結い直した髪が何とも凛々しかった。

 その後、二人は【御仏間】へと赴き、歴代将軍の位牌に手を合わせた。
 これは、将軍と御台所が毎朝行う大事な恒例行事の一つで、亡くなられた将軍の冥福を祈る。数々の位牌が安置されている位牌壇を見上げ、その荘厳な様に圧倒された。京で徳川将軍のことを学んだ折に覚えた将軍の戒名がちらほらとあり、書物での出来事ではなく実際にこの世に存在していたのだと改めて感じ入った。

 ふと家正を見ると、心を無にして焼香をし、信心深げに祈っている。その後ろ姿に胸がときめいたが必死で堪えた。このような厳かな場所で、乙女のような心地に浸るのは、余りにも不謹慎が過ぎるからだ。

 婚礼の儀式は本日を含めて残り五日ある。

 家正は【中奥なかおく】へ、そして藤子は居住である新御殿へとそれぞれ別れた。一時いっときの間、離れ離れになることに寂しさはあったが、家正の立ち姿や姿勢、香って来る髪油の匂いに酔いしれなくて済むと考えると、救われたような気分だった。


大奥・新御殿 ───────

 新御殿に戻ると龍岡が待ち構えていた。藤子の姿を見た乳母はさっそく相好を崩した、

「おめでとうございます、御台様!」

 何事かと思ったがすぐに察した。上段のしとねに座るまで藤子は一言も発しなかった。

「如何でございましたか?」
 
 それでもなお、単刀直入に訊いてくる龍岡に、藤子は口ごもった、

「い、いかがも何も……い、痛かったわ……」

「しかしながら、お拒みにならなかったのでございましょう? 誠、よろしゅうございました!」

 藤子の気持ちをよそに上機嫌な乳母に急に苛立ちを覚え、寝間にいた女中のことについて訊ねた、

「何故、教えてくれなんだ?」

 はい? と、龍岡は首を傾げた。

ねやでのことじゃ! 人がいるなんて聞いておらぬ! そなた……よもや忘れておったのではあるまいな」

 目を細めて訴えると、龍岡は俄かに表情を変えた。一瞬その瞳に光が消えたように見えた。

「お添い寝役の存在をお教えしなかったことにつきましては、お詫び申し上げまする。されど、お分かりくださりませ。公方様は文字通り、おおやけの御方でございまする」

 それはそうだ。だから何だ、と藤子は負けじと抵抗した。

「それ故に、常に誰かが耳を澄ましておらなければならぬのでございます。一夜の寝息や、宮さんとの会話も全て……悉く」

 大奥に長く住んでいる松岡たちの方を見ると、皆揃って頷くだけで異論を唱える者は誰一人とていなかった。知らぬ間に、龍岡は大奥の慣わしについて熟知していた。

────────────────────

 その後の五日間は穏やかに進み、九月になった。

 婚礼の儀式を終えた大奥は日常を取り戻し、藤子は【呉服之間頭】である、絹張きぬばりという女中から新たに身幅などを採寸して貰っていた。もはや嫁入り道具で持ちた夏用の打掛と振袖が無くなりつつある。此度は秋と冬に備えたものを誂えましょう、と松岡が提案したのだ。

「恐れながら──」巻き尺を首に掛け、採寸表に書き足している絹張が言った。「都の御方であられながら、御台様は大変御立派な御身体つきでいらっしゃいますなぁ」

 急に体型のことを言われ、藤子は機嫌を損なうどころかくすりと笑った。

「父も祖母も身形が高いのじゃ。それ故であろうかのう」

「左様でございますか」そう微笑んでから、絹張は傍らに採寸表の小冊子を置き、両手を付いて畏まった。「それでは、頂戴致しましたこちらの寸法で見繕わせていただきまする。早ければ九月の中頃には、百ほどの打掛と二百の小袖を御用意出来るかと存じまする」

「よろしく御願いつかまつる」

 控えていた松岡が念押しするように絹張を見た。胸を張って絹張は「万事御任せを」と低頭して膝退した。そして入れ替わるように龍岡が入室した。藤子は上段に上がってしとねに座してから、入って来た龍岡に声を掛けた、

「のう龍岡、昼餉のあとで吹上へ参らぬか? あそこは広いゆえなぁ、一日では廻り切らぬ。一度は全てを見たいものじゃ」

 「いささか難しゅうござりましょう」と言いながら松岡が茶を差し出すと、何も応えぬ龍岡の方を振り返った。「龍岡?」と藤子が問うと、ようやく口を開いた、

「御台様……折り入ってお話が……」

 声が枯れているのか掠れて聞き取りずらかった。藤子は下段まで降りてよく聞こえるように身を近づける、

「どうしたのじゃ、そんなに改まって」

「その前に、お人払いを願います」

 よほど重大な話なのかと訝りながら、藤子は松岡の方を向き、人払いを命じた。

 障子が締め切られると、一気に辺りが暗くなる。藤子と二人きりになり、入側で障子を閉めた女中が立ち去ったのを確認すると、龍岡はひと呼吸おいて話し出した、

昨日さくじつ、実家の竹内たけのうち家から文が届きました」

 龍岡は公家・竹内家の三女である。藤子が幼少のみぎりに竹内家の人々と遊んで貰った記憶があった。

「おお、竹内か。家族らはどうじゃ? 皆、息災か?」

 しかし、龍岡は藤子の問いに答えずに続けた、

「その竹内家から内々に、鷹司家のことを調べさせましてございます。それが……」龍岡はごくりと唾を呑み込んだ。「大方様が……」

「お祖母さまがどうかしたのじゃ?」

「御隠れ遊ばされたと……」

 開いた口が塞がらなかった。目の前にいる龍岡の顔が揺らいだ。駕籠に乗った際に見た祖母の顔が思い浮かび、その顔は怒ってもおり、優しく微笑んでいた。
 急に祖母の死を知らされ、俄かには信じられず思わず笑いが込み上げた、

「な、何を申しておるのじゃ藪から棒に!」

「日に日に増す暑さと疲労に耐え兼ね……お熱が下がらんまま……」

 項垂れる龍岡の肩を藤子は揺さぶった。もはや笑いごとではなくなり我を忘れて声を荒らげた、

「しっかりせよ、龍岡! いつじゃ……いつのことなのじゃ!」

「七月……十日にございます」

「ふた月以上前……」藤子は呟いた。大奥に入った時から、いや、江戸に向かう道中には既に病に伏していたということになる。胸の奥がちくちくと痛んだ。「何故じゃ……なにゆえ報せてくれなんだのや!!」

「これが、徳川さんの成さり方なのです……御台さんの御身内さんが亡くならはったことを公にするんはあかんいう……が──」
 
「もうたくさんや! そないなこと……私には関係あらへんことや」

「宮さん……」

 藤子は俄かに立ち上がり、御殿を出て行った。勢いよく障子が開かれるのを聞きつけた松岡たちは、東にある老女詰所から現れ、右往左往する御台所の許に駆け寄った、

「御台様、どちらへ向かわれるのでございます」

「退け……退くのじゃ!」

 松岡は御中臈たちに目配せし、御台所の肩を押さえて行く手を阻むも、藤子は袖を振り乱して抵抗した。

「離せ!! はなせ……!」

 龍岡が障子伝いに御殿から出て、藤子に声を掛けるが荒らげる声々に掻き消された。

 藤子は京へ帰りたいと願った。今すぐにでも祖母が亡くなったことが真実なのかどうかを確かめたかったのだ。しかし、警備の厳しいこの江戸城から出ることなど到底出来るはずがない。そんなことは先刻承知だった。しかし、この衝動を止めることは出来なかったのだ。

 新御殿と御座之間まで続く廊下に差し掛かったとき──、

「藤子!」

 御台所の名を呼ぶ一声で、騒ぎが止んだ。

 恐る恐る振り返ると、そこには佐登子が立っていた。その姿は他の女中と見紛うほどの恰好をしていた。打掛の衿先を持つ掻取姿に、髪型がおすべらかしではなく、丁寧に髷を結っている。唯一佐登子だと分かり得たのは、声と、葵髱に映える顔のおかげだった。
 ゆっくりと藤子に近付き、佐登子は宥めるように言った、

「落ち着きゃれ。どうであれ、お祖母さまが亡くならはったことは紛れもない事実なのや」

「おねいさん……おねいさん!!」
 
 松岡たちが抑えていた手を放すと、藤子は一歩ずつ重い足取りで佐登子に歩み寄り、胸に身体を預けた。赤子のように泣きじゃくる妹の背を摩りながら、佐登子は何度も「大丈夫」と言って優しく抱き締めた。 

────────────────────

 再び新御殿に場所を移した。今度は上段之間を閉め切り、龍岡を交えて三人膝を突き合わせた。

「おねいさん……。お祖母さまのご最後を……お聞かせください」

 手を固く握り締め、訥々と藤子は訊ねた。佐登子は妹の顔を窺いながら慎重に言葉を選んだ、

「お祖母さまは、最後の最後までそなたさんの事を気に掛けていらしゃった。そしてこう仰せになられた、大奥へ上がり、藤子を助けよ、と……」
 
 藤子は衰退していく祖母の姿を想像した。どれほど苦しかったことか、どれほど辛かったことか。藤子はとめどなく流れる涙を抑えられなくなった。
 嗚咽する妹を憐憫の情を込めて見つめながら佐登子は続けた、

「お祖母さまは、婚礼の儀で〈お生家さとびらき〉を済まされた後、大奥へ再び上がることを考えてあらしゃったに違いあるまい。──ご公儀に口止めされたからとはいえ、そなたと龍岡に嘘を申したこと……許してたもれ」

 既に承知でありながら、祖母の死を今日の今日まで打ち明けなかったことを佐登子は詫びた。涙を拭きながら、藤子は首を振った、

「おねいさんは悪くはございません……これは徳川の……なのです……」

 徳川将軍家に嫁いだ身でありながら、藤子は公儀に対し、憎しみを抱いた。吉凶を重んじる家なれば、婚礼が控えている嫁の家族が亡くなったことを、ひた隠しにするのは仕方のないこと。だとしても、人道というものが欠けている。藤子は必死にこの思いを抑え込んだ。

「藤子── いいえ、御台様」様子を窺っていた佐登子が途端に背筋を伸ばした。「本日より、私は御台様の上臈としてお仕えする事となりました」


 婚礼の儀が尚も続く八月二十六日のこと──。

 佐登子は大奥総取締、東崎が執務する部屋【千鳥之間ちどりのま】を訪ねた。大奥【御対面所ごたいめんじょ】にある一室で、大奥総取締が代々継承する部屋だ。

 東崎とは上屋敷に藤子を迎えに参った折に初めて対面したきりだった。佐登子はその鋭い眉をよく覚えていたが当の本人は煩わしそうにこちらを見下ろしている。しばらく沈黙が続いたあと、東崎は手前にある煙草盆から煙管を取り出し、それに煙草を詰め出した。

「お生家さとびらきはまだ先でございまするが、何かご不安に感じられることでも?」

 唐突に口を開いたかと思えば、にべもなく東崎が切り出した。透き通るような声の面影はなかった。

「東崎殿に折り入ってお願いしたき儀がございまして──」佐登子がそう口を開くと東崎は「ほう」と言って煙管を吹かした。「私を上臈御年寄にして頂きたいのです」

 真剣な眼差しで見つめる佐登子を、東崎は出し抜けに目線をそらし肩を揺らした。首を傾げて様子を見ているとそれは笑っているのだと分かった。

「何を仰るかと思えば……ククク……笑止!」口元に袖を持って行き、東崎はこれでもかと冷やかすように笑った。「上臈はすでに、龍岡殿が勤めておられまする。その他にもう二人、三人が定員と決まっております。それ以上を認めれば表向から支払われる御禄が無うなってしまいまする故に、そう容易く、登用することは罷り成らぬでしょう」

「ならば、俸禄など必要ありませぬ」

「無償で奉公する気でございまするか? 取締の私が申すのも憚りますれば、大奥に暮らすおなご衆は着る事と食べる事こそが生き甲斐なのでございますよ。都育ちの、しかも宮中の女官上がりの貴方様に耐えられますかどうか」

「妹── いいえ、御台様がおいでなら私は修羅の道でも、地獄へでも参りまする」

 佐登子の言葉に、一瞬だが東崎は感心したような表情になった。「どうか御願い申し上げます」そう頭を下げるのを見て、東崎は特別に彼女を上臈御年寄とすることを決めたのだった。


「お祖母さまのご遺言を果たすべく、御所を離れることと相成りました。これより後は、御台様をお守りするため、この大奥で骨を埋める覚悟でおりまする」

 話を聞いていて、藤子は心強く思った。佐登子がいれば、この大奥で安心して過ごせると考えたからだ。「おねいさん……」そう呼びかけて、駆け寄ろうとすると佐登子は袖で隠した手を出して制した、

「御台様、これより私の事は〈万里小路までのこうじ〉とお呼び捨てくださりませ。龍岡殿もです」

 二人は動揺を隠せなかった。藤子に至っては、姉として接することは出来ないのかと肩を落とした、

「……もう ”おねいさん” と呼べぬのでございますか? 京で過ごしたあの頃のように、親しく話すことも出来ぬのでございますか?」

 悲しそうに言う藤子を見つめ、佐登子改め万里小路は、優しい笑みを湛えた、

「龍岡と、三人でおる時はそうお呼びや。その時は藤子の ”おねいさん” として傍に居よう。せやけど、松岡殿や御中臈がおる前では、私を一人の上臈もとい奥女中として扱うようにし」

 喜びと同時に多少の骨折りが必要だと覚悟した藤子は、俯きながら小さな溜息を洩らした。そんな妹に、万里小路はそっと手を重ねてた、

「しっかりしいや! もはや、あんたさんは御台さんなんやで? 高みに御座す御方が、女中一人に馴れ馴れしゅうすると、他の者達の士気いうもんが無うなってしまう。東崎殿からも言われたはずや」

 藤子は、小田原御殿での一件を思い出した。

 相手の事を慮って、労いの言葉をかけたあと、東崎は感謝するどころか藤子の言動を拒否した。あれは、東崎自身の立場が悪くなることと、御台所としての立場を護るための助言だと悟り、初めて東崎の心意を知れたような気がした。

 祖母の死を改めて弔いつつ、その死が、姉と引き合わせてくれたことへの感謝に変わり、三人は徐に手を合わせた。

────────────────────

京 ───────

 賽が振られ、盆茣蓙ぼんござの上に勢いよく叩き付けるとざるの中でからからと転がった。

「さあ、張った、張った!! どっちも、どっちも!! 丁方無いか、無いか。無いか丁方!!!」

 威勢よく煽ってくる出方に、客たちは思い切ってコマ札を置いて行く。幾重にも積み重なった、今にも壊れそうな小さな札が次々に賭けた盆布ぼんきれの上に置かれて行く。

「丁!」

 粗末な狩衣を召した大柄な男がコマ札を〈丁〉と書かれた手前の盆布に押し置いた。ツボ振りがもったいぶりながら笊を開く。男はこの瞬間がたまらなかった。賽の出目は三と六とある。

「サブロクの半!」
 
 客たちを睨め付けている出方が、そう高々と告げると〈丁〉にコマ札を賭けた数人が嘆声を上げる。男も額に手を当てて嘆いた、

「かぁああ!! また負けたわぁ~!」

「弱うおますなぁ、ウダイさんは」

 男は自身の身分である〈右大臣〉から取って、と賭場の者たちに呼ばせていた。ここでは本当の名を明かさないのが決まりとなっている。

「なんか、ズルでもしてへんやろなぁ?」

「なにを阿呆さんなことを言わしゃる! 運の尽きというもんどす」

 そう得意げに出方が言うと、手であしらうような仕草をした。周煕は仕方なく結んでいた袖括りの紐を解いて、背中を丸めながら賭場を去って行った。

 ここは、宝ヶ池通沿いの下級公家の屋敷である。幕府の追手から逃れた博徒たちによって持ち込まれ、密か事の賭場が設けられていた。丁半ばかりでなく、花札や双六、少し離れた広大な敷地には闘鶏とうけいが行われている。  
 先程の丁半賭場には、女官風情の女もおれば、周煕と同じように宮中に参内するやんごとなき身分、庶民から、町民まで様々な人間が賭け事を楽しんでいた。

 いつもなら公達仲間三人と来るのだが、今宵は方違えで来られないといって断られた。

 帰る気にもなれなかった周煕は、近くの茶屋に入った。そこは賭場で負けた者、勝った者が集まるとなっており、公家の屋敷にほど近かった。

 周煕は淑子には内緒で、ご公儀からの賜り金の余りをこっそり持ち出しては賭けに使っていた。それも小さく賭けに出るので、懐にある巾着にはまだ十両少し残っている。
 高い酒でも百文とあったので、周煕はそれを二本と肴を注文した。顔を赤らめて出来上がって行くと、傍に近寄ってくる人影に気づいて周煕は思わず身構えた。

「失礼してもよろしおすか」

「誰やねん、あんたさん」

 周煕が怪訝そうに尋ねると、男は二条家に出入りする家僕かぼくだと身分を示した。前触れもなく、藤子の将軍家輿入れの祝いを述べてきた。しかし、周煕は浮かない表情を見せた、

「せやけどなぁ、そないな大して嬉しいもんやないんや。たあさんは亡くならはったし、真ん中の二之宮も関東へ行ってしもうて」今にも泣きだしそうな顔をしたかと思えば、途端に肩をぶるっと震わせた。「やけど、今、わてのことを嫌うてはる一之宮と北之方が屋敷を牛耳はって困っておるんや」

 自業自得である。

「ほな良い考えがあります。聞きとうおますか?」

 男は、お猪口を振りながら含み笑いを浮かべた。周煕は身を乗り出した、

「なんやねん、良い考えっちゅうんは」

「今、二条家では娘御はんが欲しいらしいんどす。ご子息がおりましてな、嫁の貰い手が見つからんくて困ってはるとかで……」

 これは好都合や。周煕は思った。

 関白、道定卿は同じ五摂家として親しくしているつもりだったが、その事については一度も話した事はなかった。多少疑問に思ったが、鷹司家が江戸への輿入れに関して忙しくしていると気遣ってのことやろと、呑気に疑問を消化させた。

 厄介者の正子を家から出すことが出来れば、少しは羽を伸ばせるかもしれないと周煕は考えた。急いで詳しい話を聞き出そうとすると、男は手を周煕の眼前に差し出した、

「賭けをしまへんか?」

「は?」

「せやから、賭けどす。ウダイさんが勝ったらこの話は進める。あんたさんが負けなはったらこの縁談は無しっちゅうことでどうでっしゃろ?」

 周煕は賭け事については熱くなる性格であったため、この話に乗った。会計を済ませた後、二人は丁半賭場まで戻って行った。

 そして結果は……。

「何を考えてるんどす!」

 初めて勝ったものの、淑子の怒りを買ってしまった。

「落ち着いて聞きや──」

「お黙りなされ!!」淑子は手元にあった盆を周煕の顔面に向かって投げつけた。「あくまでも大事な娘を……賭場で決めなさるとはどういう考えなんどすか!?」

「せ、せやけど正子は嫁入りしたい、嫁入りしたいと、しつこう言うてはったやないか! しかも、関白の二条家や、辛い思いはせえへんやろ」

 淑子は娘の結婚相手がどうのというより、藤子が父親に向かって言った言葉を守ろうとしない周煕と万寿子が亡くなってから六七日むなのかに、この話を持って来たということに憤りを感じていたのだった。当主として、夫として、父として何と情けないことかと。

 その後、二条家から使いが参り、鷹司正子と二条家の子息、二条定兼にじょうさだかねとの結納の約束が交わされた。
 それは、万寿子の死から六七日むなのか安久あんきゅう十年(1901) 八月二十日のことであった。

───────────────────

 祖母の死を乗り越えようと、藤子は絹張が誂えてくれた打掛や小袖を着て日々を過ごしたが、どうしても心が華やぐことはなく、喪に服したいと考えるようになった。東崎に祖母の死を告げたうえで願ってみたが、許可されなかった。

「婚礼を終えたばかりの御台所が喪に服すとは前例もないこと」

 それが東崎が放った言葉の鋭さだった。

 しかし、奥泊まりの方は、藤子の気持ちとは裏腹に往々にして催され続けた。

 婚礼の儀があった五日間の夜も、ひたすら家正の身体に酔いしれ熱い時を過ごした。思えば、万寿子が亡くなっていたのに身体の赴くままに感じ入っていたことに、気恥ずかしくさえ思った。

 しかし、何度断ろうと思っても、家正の優しい声と愛ある触れ合いに冷静な考えが回らなくなり、結局は布団の上で交わされる戯れの中に悶えてしまった。毎情事後の藤子が感じる虚無の類は筆舌に尽くしがたい。

 側室ならともかく、御台所は添い寝役の御年寄たちを払わせることが出来る。それを松岡から聞いた藤子はこれから先も人払いをするように命じた。

 誰もいなくなった御小座敷・次之間には虫の鳴く声がするのみで、人のいる気配も息遣いも感じなかった。藤子は折を見て、口づけを終えたばかりの家正に祖母の死を告げた。

 家正は、上目で見つめる妻を見返し、追悼の言葉と共に優しく諭した、

「御台の気持ちを分かってやる事は出来ぬ。分かろうとも出来ぬ。なぜなら、男とおなごは理解し合う事が難しい故じゃ」冷たく聞こえたが、藤子は次の言葉に心が震えた。「ただ、そなたの悲しみを受け合う事は出来る。もし、この大奥で辛い事があればわしに話すがよい。わしがそなたの盾になってやろうぞ」

 家正の温かい言葉に、藤子はこの方と一生を終えるまで共に生きていきたいと願い、胸に顔を埋めた。

 紛れもなく藤子の夫は家正だ。その夫がご公儀の長であるかぎり、恨みという感情は持つべきではないのだ。この、誰にも言えない気持ちを墓まで持って行くと決めた。そして新たに、妻として、一人の女として、家正を支え愛したいと誓った。

────────────────────

 十月、将軍・家正の計らいで龍岡が鷹司家へ弔問することが許された。本来なら藤子も出向きたかったのだが、逸る気持ちを抑え、御台所の名代として龍岡に江戸の菓子や反物を持たせることで気持ちを落ち着かせた。


京・鷹司屋敷 ───────

 ここ三ヵ月の間で、二人の姫宮がいなくなった屋敷は余りにもしんとしていて、身動きをする度に音が反響するほどだった。久方ぶりに戻った龍岡が寂寞せきばくの想いを抱いたのは言うまでもない。

「そなたさんが来てくれはるとはなぁ。義母上様は、あちらさんできっと喜んでおられよう」

 仏間に手を合わせる龍岡を見つめながら、淑子としこが言った。淑子は躊躇いがちに訊ねた、

「藤子さん── いいえ、御台さんは如何しておいでや?」

「ただただひたすらに、大方様のことを弔っておいでにございます」

 藤子は毎朝、仏間で家正と並んで手を合わせた後、新御殿に戻り、【御清之間】で鷹司家から持参した普賢菩薩ふげんぼさつの前に座り、祖母のために祈りを捧げた。喪に服せぬことへの赦しと、祖母が安らかに眠れるようにと。

「御台さんの御心を変えて下さった恩人であるゆえな……なんともおいたわしや」

「万寿御殿は、どうなされたのでございますか?」

 龍岡が訊ねると、淑子は袖で涙を拭って途端に表情を曇らせた、

「お屋敷、お調度一式、着物共々売りに出した」

「え?」

 龍岡は衝撃を受けた。淑子は続けた、

「御台さんが都から出る前、義母上様が私を呼び寄せて申されたのや。ご自身のお命が短いことをご承知であらしゃったのやろ」

「さよう……ですか……」

 龍岡は、あの美しい万寿御殿が無くなったと知り、残念に思った。藤子にこの事を告げたらどんなに悲しむか、想像したくもなかった。淑子は徐に、万寿子の位牌に目を向けた、

「あの方は最後の最後まで、鷹司家の事を考えておられた。佐登子さんが大奥へ赴く事も、御台さんが徳川さんへ嫁がれることも、すべて鷹司家のためにやらはったことなのや」

 二人で位牌に手を合わせた後、龍岡は正子の部屋を訪ねた。

 龍岡と正子は言葉を交わした事はほとんど無かったが、三姉妹の中で長姉である正子の事は敬意を表しているつもりだった。
 声を掛けてから襖を開けると、正子は脇息に寄りかかりながら書物を読んでいる。
 
「龍岡か、久しいのう」

 一瞬こちらに顔を上げてすぐに、本に視線を戻した。傍らでは乳母の篠田が龍岡に向かって低頭した。

「一之宮さん、ご機嫌麗しゅうおいでであらしゃいますなぁ」龍岡は正子が毛嫌いしているという江戸言葉を抑えて、なるべく京言葉で話した。「本日、御台さんからのお土産をお持ち致しました。お納めくださいまし」

 龍岡は脇に寄せていた三方を手に持ち、正子の前に置いた。その上には葵御紋が染められた風呂敷で被されている。篠田がにじり寄って風呂敷を開いた。

「ギヤマンかえ……」

 正子はガラス細工で出来た小さな盃を手に取り、その輝きに見入っている様子だった。

御酒ごしゅを近頃召し上がられると二之宮さんから伺いましてなぁ。大奥に出入りのあるギヤマン職人に作らせましてございます」

 ふっと笑みを浮かべる正子を見て、龍岡は気に入ってくれたのだと直感した。しかし次の瞬間、正子は徐に立ち上がり、濡縁先の小さな庭に向かって投げつけた。盃は瞬く間に高い音を立てて粉々になった。

「宮さん!!」

 篠田は余りの出来事に声を枯らした。一方、龍岡は平然としていた。このような事になることは予想済みであったのだ。

「出過ぎるでない、龍岡!!」

 正子は、茵の上に放った本を拾い上げ龍岡に投げつけた。胸に当たった書物が目の前に落ち、龍岡はゆっくりと拾い上げた、

「”出過ぎる” とは、どういう事にございましょうか」

 正子を見る龍岡の目を見て篠田は途端に背筋が凍った。上屋敷で共に過ごした折の物腰の柔らかかった龍岡はそこには居なかった。冷たいその目は、人の心が通っていないように思えた。

「藤子と佐登子は私らより良い生活をしておる。貧乏な私らへの当て付けで、あないに下品なギヤマンを贈り付けて来たのやろ」

 龍岡は薄らと口角を上げ、滅相もあらしまへん、とかぶりを振った、

「御台さんは一之宮さんの御為に、今そうして投げ捨てはった盃を作らせたのでございます──」

「下がれ!!」

 正子は鋭い声を上げた。龍岡はそれ以上弁明することなく、辞去した。

 障子がぴしゃりと閉められると、篠田は袿の裾を絡げて庭へと降り、粉々になったギヤマンの片付けに掛かった。

「宮さん、なにゆえあないな事を言わしゃったのです。ギヤマンが欲しいと、前にあれほど言うてはったやないですか──宮さん?」

 ふと振り返ると、正子は茫然とあらぬ方向を見ていた。近付くと泣いているのが分かった。

 元来、正子は情に熱く、寂しがり屋で強がりな性質だ。

 周煕から二条家への縁談が持ち上がった際、正子は喜ぶどころか切ながっていた。嫁入り道具もそこそこに済まされ、厄介者扱いされていると感じたのだろう。乳母の篠田でさえも感じ取れたのだから本人なら猶更だ。篠田はこの方に一生を捧げようと誓ったのだった。

 それから安久あんきゅう十年(1901) 十月二十日、正子は二条家へと嫁いで行った。


つづく

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翔子
歴史・時代
本作のあらすじ: 平安の昔、六条町にある呉服問屋の女主として切り盛りしていた・有子は、四人の子供と共に、何不自由なく暮らしていた。 ある日、織物の生地を御所へ献上した折に、時の帝・冷徳天皇に誘拐されてしまい、愛しい子供たちと離れ離れになってしまった。幾度となく抗議をするも聞き届けられず、朝廷側から、店と子供たちを御所が保護する事を条件に出され、有子は泣く泣く後宮に入り帝の妻・更衣となる事を決意した。 御所では、信頼出来る御付きの女官・勾当内侍、帝の中宮・藤壺の宮と出会い、次第に、女性だらけの後宮生活に慣れて行った。ところがそのうち、中宮付きの乳母・藤小路から様々な嫌がらせを受けるなど、徐々に波乱な後宮生活を迎える事になって行く。 ※ずいぶん前に書いた小説です。稚拙な文章で申し訳ございませんが、初心の頃を忘れないために修正を加えるつもりも無いことをご了承ください。

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

『帝国の破壊』−枢軸国の戦勝した世界−

皇徳❀twitter
歴史・時代
この世界の欧州は、支配者大ゲルマン帝国[戦勝国ナチスドイツ]が支配しており欧州は闇と包まれていた。 二人の特殊工作員[スパイ]は大ゲルマン帝国総統アドルフ・ヒトラーの暗殺を実行する。

蘭癖高家

八島唯
歴史・時代
 一八世紀末、日本では浅間山が大噴火をおこし天明の大飢饉が発生する。当時の権力者田沼意次は一〇代将軍家治の急死とともに失脚し、その後松平定信が老中首座に就任する。  遠く離れたフランスでは革命の意気が揚がる。ロシアは積極的に蝦夷地への進出を進めており、遠くない未来ヨーロッパの船が日本にやってくることが予想された。  時ここに至り、老中松平定信は消極的であるとはいえ、外国への備えを画策する。  大権現家康公の秘中の秘、後に『蘭癖高家』と呼ばれる旗本を登用することを―― ※挿絵はAI作成です。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

幕末博徒伝

雨川 海(旧 つくね)
歴史・時代
江戸時代、五街道の内の一つ、甲州街道が整備され、宿場町として賑わった勝沼は、天領、つまり、徳川幕府の直轄地として代官所が置かれていた。この頃、江戸幕府の財政は厳しく、役人の数も少なかったので、年貢の徴収だけで手がいっぱいになり、治安までは手が回らなかった。その為、近隣在所から無宿人、博徒、浪人などが流れ込み、無政府状態になっていた。これは、無頼の徒が活躍する任侠物語。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
国を、民を守るために、武田信玄は独裁者を目指す。 独裁国家が民主国家を数で上回っている現代だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 純粋に国を、民を憂う思いが、粛清の嵐を巻き起こす 【第弐章 川中島合戦】 甲斐の虎と越後の龍、激突す 【第参章 戦争の黒幕】 京の都が、二人の英雄を不倶戴天の敵と成す 【第四章 織田信長の愛娘】 清廉潔白な人々が、武器商人への憎悪を燃やす 【最終章 西上作戦】 武田家を滅ぼす策略に抗うべく、信長と家康打倒を決断す この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です))

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