物好き少女の引力相互作用

床間四郎

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エピローグ

久住礼二

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 街中で偶然出会った最後の教え子の少女が高校生であると聞いた時、僕は時の流れの速さを実感した。新米教師だった数年前。教員をやめて早数年、気が付けばもう30も目の前になっている。人々の幸福のためにと教師になったものの願いは叶わずクビになり、今は会社で人の下で働く平凡なサラリーマン。身の丈に合わない巨大な目標を掲げて4年で破れた。こんなこと実現するにはそれこそ国家レベルの力が必要であり、個人でできることなんて皆無に等しい。それに僕はわからなかった、そして失敗した。自分を過信しすぎていた。僕にできることなんて、何もないのに。
 こんな失格人間は今、元教え子にジュースをおごっている。彼女は一番安いのを選んだ。良い子だと思った。小学生の頃はもっとおどおどした感じの子だったのに、やけに落ち着いていて、でもって表情が豊かで、それゆえに何を考えているのかよくわからない。さっきの出来事を思い出して、僕は頭の中で手を振ってそれを否定する。何かの間違えだろう。僕は彼女に、嫌われるようなことしかした覚えがないのだから。
 彼女はしばらく目を瞑り、やがて考えがまとまったのか、僕の目をじっと見つめてきた。
「先生、もう一度言わせてください。好きです」
 その目は真剣そのものだった。ゆえに恐ろしくかった。首になったとはいえ元小学校教師。法的に罪ではないが、世間は良くは思わない。これはタブーだ。タブーを犯した者は、いつの時代でも罰を受けるものだ。私は彼女のためにも、これを阻止しなくてはならない。
「卒業式のスピーチの時から、先生のことしか考えられなくなってしまいました」
「スピーチ・・・・・・ああ、いじめの話でしたっけ?」
「はい、そうです」
 その言葉がぐさりと僕の心臓を刺す。恐怖だった、彼女から恨まれても仕方がない。結果的に僕は彼女を助けなかった。本当は教師として、助けるべきだったと思う。それが、僕の仕事だったのだから。
「懐かしいですね。あれが原因でクビになったんですから、とてもよく覚えています」
「クビ・・・・・・噂は本当だったんですね」
 どうやら僕の解雇は噂になっていたらしい。厳しい先生が責任問題でクビになる。教え子たちはそんな僕を、バカにして笑って、すがすがしい気分に浸っているのだろうか・・・・・・もしそうだとしたら、僕は本当に何も、変えることができなかったのだろう。結局僕は無力だったのだ。微力ですらなく、無力だったのだ。
「はい。PTAで問題になって、それでそのまま。あ、再就職はしていますから、お気になさらず」
「それは、良かったです・・・・・」いったん黙ってから、また口を開いた。「あの、昔、いじめを一回だけなら助けてくれると、おっしゃいましたよね」
 また、心臓に刃物が刺さる。僕は無言でうなずくしかなかった。一回だけ、確かにそんな約束をしたことがあった。しかし結局何をしても何も変わらないのなら、何度でも助けてあげるべきではなかったのか。いや、もしかしたら、一回だけというのも正しいのかもしれない。ポテンシャルがあれば、その一回でその人の生命力を上げることができるかもしれない。しかし、ポテンシャルがなくても助けるのが教師というものではないのか。
「卒業式の日から、私もう、先生のことしか考えられなくて。それで、お願いです。人助けとして、私と交際をしてもらえませんか?」
 彼女が頭を下げる。どうして頭を下げるのか。これではまるで契約だ。この子にとって交際とはなのか。相変わらず、わけのわからない子だ。とりあえず、無難なアドバイスをしておこう。店長の視線が痛い。
「あなたはまだ若いのですから、こんなリスクあることをするよりも、もっと普通に恋愛したらどうですか?」
「いえ、若いからリスクを背負いたいんです。どうせ後2年でみんなとは別れるんですから。それなら、多少のリスクを背負っても、取り戻せます」
「たった一度だけの高校生活ですよ。取り返しは尽きません。リスクを背負いたいと言いましたが、普通の学校生活は試しましたか? 案外、普通の日々も楽しいかもしれませんよ。もっと冷静になってください」
「それは、たしかに可能性はありますが・・・・・・」
 彼女はうつむき、ジュースを手に取る。可能性・・・・・・僕は自嘲な笑いを漏らすしかなかった。可能性だけなら、何にでもある。僕が理想の教育者になれる可能性だって。問題は、どれくらい可能性が大きいかなのに。
 ――沈黙が長く続く。さっきの自分の言ったことを思い返してみるが、特に何かを言った覚えはない。ただ教師として、無難なアドバイスをしたに過ぎないと思う。まあ、もう教師ではないのだが。しかし、彼女はなぜ話さないのか。
 周りの音がやけに大きく聞こえる。彼女は依然として、うつむいたまま黙っていた。僕はふと彼女の机が不自然に濡れているのに気が付いた。最初は結露だと思ったが、違う。それは彼女から流れ出していたのだ。その時僕は事の大きさにやっと気が付いた。この子は本気で僕のことを好いてくれていたのかもしれない。その本気がどれくらいのものかは知らないけれど、少なくとも、音を出さずに涙を出せるくらいには、強い感情だったようだ。彼女は僕に見えないようにハンカチで目元を拭いてから、バッグを探る。おそらくティッシュを探している。しかし、見つからないらしい。僕はカバンの底に眠っていたティッシュを取り出す。一番上のけば立ったものを捨ててから、彼女に手渡す。
「良ければどうぞ」
「あ、ばい」
 鼻提灯をティッシュで覆い、控えめに鼻をかむ。少女の涙というものには不思議な効果があるようで、泣いている彼女を見ているだけで、この子を助けたいという思いが沸いてきた。さっきまでは、こんな人間とかかわるべきではないと言っていたにも関わらず。人助け、最初に彼女が言っていたのはこういう意味だったのか。僕でなくては、彼女を救えないのかもしれないのだ。そんな自分勝手な考えが雨雲のごとく、次第に僕の真っ白な脳内を占領していきしとしとと梅雨の雨を降らせた。
「・・・・・・先生」
「はい」
 とりあえず、まずは話を聞こう。
「私、中学に入ってから勉強をすごく頑張りました。賢くなれるように頑張りました。そして、幸せになれるように努めました。もっといい高校も通えたけど、ここにいれば先生と会えるんじゃないかと思い、この高校に来ました。高校生になってからは、ずっと、先生の言ったことを理解しようと、不幸について考えていました・・・・・・」
「それで、何かわかりましたか? 幸せになれる方法が」
「はい、私の幸せは、好きな人を幸せにすることです」
「・・・・・・はい」
 なら幸せとは結局何か。そんな問いかけは、今はまだする時ではない。
「先生。先生は今、幸せですか? それだったら、私はもう不必要です」
「そんなこと、言わないでください」
 不必要。自分で言うのは平気だが、彼女に言われると、鉛の塊を飲み込んだような気分になる。
「すみません。それで、先生は・・・・・・」
 幸せ・・・・・・結局僕は今になっても幸せとは何なのかよくわかっていない。今の僕に、幸福について語る権利はない。
「・・・・・・僕は未だに、幸せというものの定義がよくわかっていません。僕が幸せかと言われれば、幸せと言えば幸せだし、不幸と言えば不幸です」
「・・・・・・」
 少女は黙り込む。答えになっていない、あまりに幼稚な回答に、僕は自分の無能さを呪った。
「ですが、私はあなたが泣いているのを見て、不幸な気分になりました。言ってしまえば私の幸福は、あなたが笑顔でいることだと思います。ここで最初の質問に答えます。人助けをしてくれないか、でしたね」
 彼女はこくりと小さく頷く。涙目で顔を赤くして、目をキラキラと輝かせながら、僕の目をじっと見てくる。僕は目を瞑ってしばらく考えた。
 よし、腹を決まった。人類の幸福なんていう壮大すぎる難問には僕は無力だった。しかし、この目の前の少女だけなら、僕は幸せにすることができるかもしれない。それは結局僕の自信過剰な試みに過ぎないかもしれない。それでも僕は、それを試してみたいと思った。何より僕はもう、彼女が泣くところは見たくないのだから。
「最後にもう一度訪ねますが、本当に僕で、良いのですか?」
「はい」少女は素早く、そして確実に首を縦に振った。
ため息を一つついて呼吸を整えてから、僕は彼女に返事をした。
「よろしくおねがいします」
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