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伊藤真の話

水族館デート、イレギュラーの宿命

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 夏休みと言えば何か。海、スイカ、青い空、台風、お盆、人によって色々意見が分かれると思う。
 僕にとっての夏休みは夏期講習だった。夏休みと言えば勉強漬け。学校の宿題、そして塾。祖父の家に行く時だって、僕はいつでも勉強道具を持っていった。どうせそこまで進まないだろうと思いながらも、持っていかないと母の機嫌が悪くなるから、持って行った。
 でも、今年は違う。僕には愛する彼女がいる。そんな彼女と過ごす夏休み・・・・・・僕は初めてカルピスの甘酸っぱさを美味しいと感じた。

 駅前の人混みの中で、僕は改札から出てくる人々を眺めていた。
 初めてのデート。ずっと探し求めていた理想の女性との、神聖なデート。ああ、これから起こることを考えるだけで胸が高まる。
「ごめん、ちょっと遅れるかも」そんなメールが僕の元に届いた。
 どうぞどうぞごゆっくり。時間はたっぷりありますから。はあ、この一人の待ち時間すらも、僕は幸せに満ちている。
「川越さん、遅いねー」
 ・・・・・・下から聞こえる女子の声。せっかくきれいな妄想にふけっていたのに、消し飛んでしまったじゃないか。
 どうして佐伯と一緒に、駅の前で待ち合わせをしているのだろうか。まあ、こいつがいたからこそ僕らの中が深まったという可能性は否定はしない。
 臆病な僕のことだから、こいつがあんな変なことをしてこなければ、自分から性癖を暴露するなんてことは、この先一生なかったかもしれないのだから。
 しかし、どうしてデートにこいつを連れていかなくてはならないのか。せっかくの川越さんとのデート。そこに部外者が一人入りこむ。女3人で姦しとは言うが、二人でも十分そうなってしまうというのを僕は経験済みだ。
 そうなってしまえば、僕は除け者になってしまうではないか。せっかくの川越さんとのデートなのに。
 そもそも、こいつと川越さんは仲が良かったのか? 小学校の時、佐伯は川越さんにいじめられていた気がするのだが。まあ、興味がないのであまり覚えていないが。
 ああ、佐伯、今からでも遅くないから、空気を読んで帰ってくれないか。
 じっと僕のことを見上げてくる佐伯に気が付いた。無表情でこちらをじっと見てくる。いけない、読まれたか?
「なに?」
「伊藤君いま、私のこと邪魔だって思ったでしょ」頭の中を覗かれて不快な気分になりながら、僕は小さく曖昧に頷く。
「あ、頷いた。正直だね」
 女の第六感というものなのか。まあ、変に隠すよりはばらした方が楽だし、バレたところで何もない。僕はもう一度、大きく頷いてやった。
「初デートなんだから、二人きりになりたいのは普通だろ」
「あー、普通・・・・・・そう。まあ、そうか」
 佐伯は意味深長にため息をつく。無表情ながらそれにかかる寂しい影に、僕は少し胸が痛んだ。意地悪しすぎただろうか。邪魔者というのは本音だが、もう少し言い方があったかもしれない。
「あ、悪い。なんか言い過ぎたかも」
「え? あー、ううん、まったく気にしていないよ」
 前言撤回、恥で顔が熱くなっていくのを感じる。
 そう、こいつはこんな奴だ。何を感じ、何を考えているのかわからない。そんな奴の心配をした自分の方が馬鹿だった。
「伊藤君は、川越さんのこと、好き?」
「は?」
 唐突な質問。こいつは僕らがデートに来ているというのを忘れているのか。
「もちろん、好きだよ。当然だろ」
「おふたり、いわゆる逆身長差だけど、関係ない?」
「関係ないっていうか、だから好きなんだよ。180㎝の女性なんてめったにいない。あ、別に身長だけが好きってわけじゃないから。誤解するなよ」
「うん、わかってる。好きになったきっかけの一つ」
「そ、そういうこと」
 相変わらず、妙に鋭い。こいつと話していると、自分の心の内がどんどんバレていくようで怖い。
「ねえ、川越さんとは、どこまで行ったの? 教室だと、あまり話しているところ見ないけど」
「どこまでって、なんだよ」
「例えば、キスとかさ」
 顔が赤くなる。先に馬鹿にされないよう、僕は深呼吸をして平静を装う。
「まあ、そのうちやるだろうな」
「教室では、やらないの?」
 馬鹿か、と思った。
「キスなんて、普通人前でやらないだろ!」
「キスじゃなくても、手をつないだり、一緒にお昼を食べたり」
「僕は二人だけの時間を大切にしたい。だから、教室とかでは、極力接しないようにしている」
「・・・・・・そう」
 佐伯は小さくため息をついた。そして、悲しそうな表情を浮かべてきた。そんな顔を見ていたら、腹が立ってきた。これからデートだというのに、勘弁してくれ。
「逆身長差は、世間ではイレギュラーになるけれど、関係ない?」
 まだ、聞いてくるのか。それにこういう質問にはうんざりだ。
「関係ない。僕は僕の好きな人を選んだ。川越さんも、きっと同じ。それだけだ」
 わかり切っていることを他人に言われると、無性に腹が立つ。自分たちがイレギュラーだなんてそんなこと、僕らが一番よく知っている。そして、それがどんな苦難を生み出すのかも。
「うん、頑張って」
 そう言ったのち佐伯はポシェットから文庫本を取り出し、読書を始める。全く、自分勝手な奴だ。僕はスマホを起動させ、川越さんからのメッセージを何度も読み返していた。

「おまたせー! ごめんねー遅くなっちゃってー」
 改札前の人混みの中から、川越さんが手を振って、小走りでこちらへと向かってくる。
 やはり、川越さんは背が高い。人混みでも頭一つ抜けている。素晴らしい・・・・・・いや、何かがおかしい。
 2週間ぶりの再会する彼女はどこか新鮮で、それは初めて目にするかわいらしい私服によるものであったと思う。
 ・・・・・・いや、表情と服装、それ以外にも何かが変わっている。それは彼女が僕の目の前に立った時に自然と気が付いた。足元を確認すると、その予想は的中していた。
「・・・・・・ヒール、持っていたんだ」
「うん! 今日のために、買っちゃったー。いやー、やっぱ12㎝は高いねー。歩くの難しくて、ゆっくり歩いていたら遅れちゃった」
 現在の彼女の身長は195・7㎝、未知の高さの長身女性が僕の目の前にいる。普通に暮らしていれば、人生に一度で会うか出会わないかくらいの、それくらいの高さだと、僕は勝手に思った。それくらい衝撃的な人が、僕の目の前で僕らを見下ろしていた。
 素晴らしい。確かに素晴らしい。けれども・・・・・・今日は嫌だった。
「すごーい! 私よりも、50㎝高いんだねー」
「京子ちゃん、私の胸までしかないねー。かわいい!」川越さんが、佐伯の頭をポンポンと叩いた。
 その様子はあたかも、小学一年生の世話をする小学六年生といったところだ。
 そのまま2人が抱き着けば、佐伯さんの顔がみぞおちにすっぽりはまってしまうであろう。そんな驚異的な身長差の二人を、周囲の人々は物珍しそうに見ている。
 195㎝の女子高生がいる時点でかなり貴重な出来事なのに、そこに140㎝の女子までそろうと、あたかもテレビの企画であるかのように非日常的な光景がそこに広がっていた。
 佐伯、こいつがいなければもしかしたら僕がその位置にいたのかもしれない。川越さんのそばで彼女の高身長をん感じていたのかもしれない。そう思うと思わず歯ぎしりをしてしまう。そして、結局性欲に振り回されている自分が嫌になった。今日は普通のカップルとして、性癖を抜きにして普通にデートを楽しみたかったのに。
 しかし落ち着こう、これは初デートだ。川越さんとプライベートを一緒に過ごすのは初めてのことだが、こんな駅前の人混みで女性同士で頭を撫でてしまうくらいに大胆な人であるというのは初耳だ。
 これは収穫だ。川越さんは僕の彼女なのだから、これを踏み台にして今後より仲を深めることができれば良いじゃないか。これからの交際生活で、彼氏彼女としてもっと色々なことができるようになるかもしれないじゃないか。
「あ、伊藤君、いま何かエッチなこと考えたでしょ」いつの間にか、佐伯の目線は川越さんではなく僕を向いていた。
 いけない、こいつの前では油断できない。僕は無表情で目の前で手を振って否定して見せ、川越さんに本心が伝わっていないことを願った。
「それより早く、水族館に入ろうよ。入口が混んじゃうからさ」必死に、話題を逸らす。
「あーごめん。じゃあ行こうか!」
「うん!」僕は笑顔で返事をし、川越さんの手を取る。こんなに人通りの多いところで手をつなぐのは恥ずかしかったが、それ以上に嬉しくなった。
「私は後ろから観察しているだけの約束だから、おふたりで楽しんでね」
「うん! じゃあまたねー京子ちゃん」
 観察という奇妙な単語に一瞬違和感を覚えるが、どうでもいい。僕らは手をつないで水族館へと向かう。
 川越さんは手をぶら下げ、一方で僕は肘を90度近く曲げて彼女の手を握り締める。体が熱くなってきた。195㎝の女性と手をつなぐとこうなるらしい、なんというか、ぎこちない。しかしそれがかえって僕の脳内に幸福ホルモンの分泌を促した。幸せだ、でもどうして、よりによって今日なのか・・・・・・

 混むことを予想して朝一番に来たものの、チケット売り場にはすでに行列ができていた。
「うわー、混んでるねー」
 川越さんは額に手を立てて列を上から眺める。さすが、195㎝ともなればこの人混みでも周りから抜けるらしい。
「列の長さ、何人くらい?」
「うーん」と、目を細めて数える彼女。「20人くらいかな?」
「まあまあ? まあ、おしゃべりでもして、時間潰そうか」
「うん!」
 彼女の光り輝く笑みを、僕は見上げる。高い位置から降り注ぐそれ、首が少しばかりきつい。
 雑談をしながら僕らは列が進むに従い、当然僕らの後ろに人も増えてくる。人が増えても身長の分布に変わりはなく、相変わらず川越さんは周りから抜けていた。
「うわ、あの子デカすぎん?」
 そんな声が後ろから聞こえる。こういうところでは、嫌な目に合うことが多い。僕はいつも通り気にせず、川越さんと話を続けた。そもそも、川越さんを指しているかなんてわからないのだから。
「2メートルくらいあるんじゃね?」「巨人かよ」「でもヒール高くね」「いやでも高いでしょー」「つか手ーつないでる。かわいい」
 彼らの一言一言が僕の心にぐさりと刺さる。僕らの一挙一動が批判の対象になっているようで緊張し、心臓が痛くなってきた。
 でも、無視するしかない。苦情を言ったところで意味はないだろう。どうせ言葉は通じないし、悪化させるかもしれない。とにかく、無視。どうせそのうち飽きてくれる。
 予想通り、数分後には無反応な僕らに飽きたようで、やがて後ろのグループは別の話題で盛り上がっていた。
 列は順調に進んでいき、僕らはようやくチケットを買う。そしてまた入場口の列に並んで、とうとう僕らは水族館に入る。まだ入り口に過ぎないのに、僕はすでに疲れてしまった。
「やっと入れたね」
「うん、楽しみだね!」
 川越さんが笑顔を輝かせてそう言った。その瞬間僕の疲労は吹き飛んだ。僕の選んだデートスポットを喜んでもらえて良かったと、僕は心から思った。
 視界の端に顔出しパネルが映る。普通なら真っ先にここで写真を撮るのだろうか。通りすがりの人に頼んで、自分らの写真を撮ってもらうのだろうか。
 せっかくなので取っておくべきか・・・・・・でも、もしかしたら川越さんは写真が苦手かもしれない。彼女が望むかわからない。そんなことを考慮して僕はそれを無視する。彼女が言ってきたら、撮ることにしよう。
 パンフレットを開き、川越さんと相談する。他にも、こんな風にしているカップルがいて、少し照れ臭い。でも、僕らでもちゃんとカップルをやれているようで、嬉しくなった。
「どこ行こうか」
「どれどれー。うーんと」
 川越さんが大きくかがむ。僕の頭の高さまで、彼女の頭が降りてきた。
「あ、ごめん」僕は慌ててパンフレットをもっと高い位置で持つ。
「いや、大丈夫だよー。まずは・・・・・・大水槽とか?」
「あー、いいね」
 僕はパンフレットを閉じて斜めがけのカバンにしまい、それから彼女の手を取る。
「じゃあ、行こうか!」
 彼女は返事の代わりに笑顔を返してくれた。

 大水槽。視界いっぱいに広がる巨大なアクリルガラス。ガラスの周りに人は多いが、離れたところからでも十分見ることができる。
 僕らは今、後ろの方から大水槽を眺めている。
 まず初めに目に映るのは小魚の大群。天敵から身を守るために大群になるとは言うけれども、そんな天敵はここにはいない。そんな、平和な水槽。
「きれいだね」川越さんがぼそりとつぶやく。僕はそれに頷いて肯定した。
 しばらくして、前のカップルが移動し、そこに隙間ができた。すぐに、そこに入ろうとする人はいない。僕はチャンスだと思った。
「もっと、前で見ない?」
 ここも良いが、やっぱり、前で見た方がきれいだと思う。
「え? あー・・・・・・」上方を見て暫時考えてから、「うん、行こうか」
 僕らは先ほどまでカップルのいた隙間に入り、アクリルガラスの目の前に立つ。視界いっぱいに広がる海の風景。やっぱり、移動して正解だったと思った。
 ガラスの下部には案内板があり、そこに八種類の魚とその説明が書かれている。どんな魚がいるのか、彼女に聞かれたときに答えられるよう、それを速読する。
「うわあ!」川越さんの感嘆の声。僕はすぐさま顔を上げる。アカエイが目の前を悠々と泳いでいた。川越さんはそれに目を輝かせていた。
「やっぱり、近くで見ると違うね」
「うん」にこりと穏やかにほほ笑む彼女。
「ねえ前見えないよー!」
 後ろから男の子の声。振り返ると、小学校低学年くらいの男の子が川越さんの後ろでぴょんぴょんと飛び跳ねている。後ろから見ればよいのに、わざわざ僕らの後ろに来て、文句を言っている。
 邪魔だ、僕は正直そう思った。僕らだって並んでここの位置を獲得したんだから、お前も並べ。僕は男の子に目でそう語った。
 すると、川越さんがしゃがみ込んで、男の子に声をかけた。
「ごめんねー、見えないよねー。今どくからねー」
 そう言って川越さんは再度立ち上がり、僕を見下ろして言う。「行こうか」
 川越さんはすたすたと、どこかへ向かって歩いていく。まずい。僕は彼女を追いかける。
 その時、僕は川越さんと手をつないでいなかったことに気が付いた。最初はつないでいたのに、いつの間にか離していた僕らの手。それが、この人で溢れた水族館において、未来の出来事を反映しているようで、僕は恐ろしくなった。
「川越さん!」
 トットッと歩くの彼女を小走りで追いかけ、僕は思わず声を上げた。周りが僕を見てきた。
「ん?」川越さんがピタッと立ち止まり、こちらを振り返る。その様子はいつもの彼女。怒っていないと良いのだが。
「次、どこ行こうか?」咄嗟に出てきた言葉がそれだった。
 僕はリュックサックからパンフレットを取り出して、高い位置に固定しながら、無難なスポットを探した。
「クラゲとかどうかな?」ここならおそらく、小さな水槽を入口から順々に見ていくことになるから、今のようなことは起きないだろう。川越さんは微笑んだ。
「うん、でもまだ、ここにも見るところはあるから」
「あー、そうだよね。じゃあ、見ようか」
「うん!」彼女の元気な返事に、僕はほっと、胸を撫でおろす。怒っているわけではないらしく、安堵した。
「にしても、嫌な子だったよねー。僕らだって並んだのに」
「うーん・・・・・・」
 しばらく考えてから、彼女は口を開く。「でも、後ろから見えないのは、事実だからさ」
 川越さんはにこりと微笑んだ。その笑顔は少しばかり悲しそうで、また申し訳なさそうに見えた。こんな時、普通のカップルならどうするのだろうか・・・・・・考えても僕の頭では答えを出せない。
 もっと空いているときに来ればよかった。そんな後悔だけが僕の中に残っていた。

 大水槽のある展示場を見終えた僕らはクラゲ館に向かう。クラゲ館ならもう少し人が少ないだろうかと期待したが、建物自体が小ぶりなこともあってか、人であふれている。
「いたっ」川越さんの、短い悲鳴。彼女は額を手で押さえながら、歩き始める。
「案内板みたいのに、ぶつけちゃった」額をさすりながらそう言う彼女。僕は自然と体が熱くなるのを感じた。
 今日はデートだ。デートは今までも何度かしてきたが、今日は特別だ。そしてそんな特別なイベントに、性欲をむき出しにはしたくない。それなのに、彼女と一緒にいるだけで僕の本能が反応してしまう。フェティストの性か。
「大丈夫? 気を付けてね」
「うん。あーでも、伊藤君はこういうの、好きそう」
 意地悪そうな笑顔で、川越さんは僕に尋ねてくる。もちろん好きだ、ただしそれは性欲として。
「まあ好きだけど。今日はそういうのは抜きに、普通に楽しみたいから」
「ん? そうなの?」キョトンとした様子で、彼女は首をかしげた。彼女の中にはフェティストとしての僕しかいなかったらしく、少し悔しい思いになった。
「クラゲ館は小さいけど、展示の数は多いみたい」
「そうなんだ。楽しみだねー」
 僕らは薄暗い展示場をゆっくりと歩き出す。クラゲの中には光るものがいるのでそういうものを展示している部屋が薄暗いのは分かるけれど、どこを見ても薄暗い。しかしそれが、バックライトに照らされたクラゲを一層幻想的なものにしていた。
「きれいだね」
「ねー。癒される」小さな水槽を、川越さんは腰をおばあちゃんのように曲げて見ている。
「川越さん、腰、きつくない?」
「え?」と、意外そうに返事をしてから「あ、ちょっときついけど、大丈夫だよ。慣れているし」
 それからも川越さんはずっと、猫背気味で水槽を見て回っていた。それを心配する僕と、喜ぶ僕。デートに集中したいのに、そういうことしか考えられないもどかしさ。
 クラゲ館は小さいけれど、順々に見ていく展示形式なので、周りから何かを言われるというのはあまりない。相変わらず子供やカップルに煽られることはあるが、ここまできたらもう慣れっこだ。言いたきゃ好きに言え、僕はそいつらに向かって心の中でそう叫んだ。
 20分くらいで全てを見終え、僕らは明るい外に出る。ボリュームがあり、思ったよりも疲れたというのが本音だった。
「あー、背中伸ばせるー!」
 川越さんは曲げていた背中を思い切り逸らして、手を空に向かって伸ばす。高かったものがさらに高くなった。僕はドキドキした。
「・・・・・・はあー」背伸びを終えて、息を吐く彼女。周りの目線が彼女に集まっている。
 そして僕の方を振り返って、笑顔でこう言った。
「次、どこ見ようか」
 楽しそうな川越さんに対して、僕は目を細めることができた。。

 クラゲ、サメ、ホッキョクグマ、アザラシなど、僕らは片端から色々な動物を見ていく。後ろから文句を言われたのは最初の大水槽の時くらいで、他の展示では、入口から順々に見ていく形式となっていた。周りからコソコソと噂をされることはあっても、見えないと文句を言われることはなかった。
 僕らは今、ペンギンの展示場に向かっている。そしてその途中の、自動販売機とその隣のベンチに目がいった。
「のど、乾いていない?」
「あ、飲み物買いたい!」
 川越さんは自動販売機の前に立って、僕はその隣のベンチに腰掛ける。
 目の前にはペンギンの展示がある。彼女はペンギンが好きだと聞いていたので、本日の目玉といったものだ。
 ・・・・・・と、そんな彼氏らしい発想の裏で、僕は彼女の頭を意識してしまう。
「今日は暑いから、水分補給!」
 そう言いながら、軽く膝を曲げて自動販売機にお金を入れて、スポーツドリンクを買う彼女。自動販売機の方が額一つ分ほど背が低い。公園デートの時に見ているとはいえ、やっぱり意識してしまう。
 僕は頭を振って意識を逸らした。そして時計を見れば午前12時50分、そろそろお腹が空いてきた。何を食べようかと悩みながら、彼女と一緒に僕はペンギンの展示へと足を運ぶ。岩の上にペンギンが何匹かいる一方で、その他は水中を泳いでいる。
「あ、いま卵を育てているんだって」案内板を、腰を曲げながら見る川越さん。
「どれ?」
「ナツミていう女の子とヤナギっていう男の子。どれだろう?」
「卵を守るので、忙しいんじゃない?」
「いや、卵は飼育員さんが人工孵化しているらしいよ、ほら」案内板を指さす川越さん。ペンギンのマスクを被って飼育する様子の写真がそこにあった。
 案内板には30羽のペンギンの写真と一緒に名前が書かれているが、実物と照らし合わせても、どれがどれだか見当がつかない。
「いないってことは、ないよね」
「うーん、あの子かな?」
 川越さんの指さす先に、陸上で突っ立つペンギンがいる。違いがよくわからないけれど、言われてみれば、なんとなくそれのような気がしてきた。
「あー、うん、そうかも」
「赤ちゃん、いつ生まれるんだろうなー」
 赤ちゃん、その単語に一瞬胸がざわめいた。性欲の次には、別の性欲が僕を支配するのか。僕は手を振ってそれを霧散させた。
「あれ、伊藤君どうしたの?」
「あ、いや。なんでもない。赤ちゃんが生まれたら、また見に来たいね」
「うん! 私、動物だとペンギンが一番好きで。ピングーっていうアニメが好きだったから」
「そうなんだ。ピングー、僕も好きだった」と、視界の端に映った時計を見ると13時を回っており、腹が音を鳴らす。
「そろそろお昼にしない?
「あ、そうだね。売店、混んでるかなー?」

 少し遅めのお昼に訪れた売店は相も変わらず人でわんさしていた。
 フライドポテト、巨大なたこ焼き、冷たいスープ。スープの中央にはペンギンの形をしたクラッカーが2枚添えられている。こういうところの料理はコスパは悪いけれど一風変わっていて面白い。
 川越さんはペンギンをいじりながら「かわいいねー」といいつつスープを飲む。そして、もぞもぞと脚を動かし、机が揺れる。
「あ、ごめんね。机揺らしちゃって」
「いや、大丈夫。でも、大変だね」
「うん。学校の机とかも、小さいなって思うし」
 ハイヒールでさらに長くなった脚を斜めにして机の下に収める彼女。遠くから見ているだけではわからない彼女の苦労。僕はより一層、複雑な気持ちになった。
「アシカのショーって、14時からだったよね」
「うん。あ、もうあと30分か。急いで食べないとね」
 と言いながら、真っ先にクラッカーと一緒にスープを飲み干す彼女。パクパクと早いペースで、平らげていく。
 僕はそれに追いつこうとはいペースでたこ焼きを食べながら、彼女の食べる様子を見ていた。普段から見られるものだけれど、環境が違うといつもの風景もまた違って見えるものらしい。
「ん? 伊藤君どうしたの、食べないの?」
「あ、いや。早く食べないとね」
「うん! これ逃したら、次は2時間後だもん」
 川越さんも、たこ焼きを食べはじめる。味は普通。でも、好きな人と一緒に食べる食事はなんでも美味しい。
 昼食をさっと食べ終え、ソフトクリームを食べながら僕らはアシカショーに向かう。混んではいる、けれども満員ではない。
「後ろの方で座る?」
 先の反省から立ち見をしようとも思ったけれど、これくらい空いているのなら座っても問題ないと思った。
「うん。そうしよっか」
 僕らは階段を上がって後ろの方へと向かう。観客席にありがちな、角度の小さい階段。川越さんは無意識に二段飛ばしで上がっていくので、僕は小走りでついていく必要がある。
 座ったところでちょうど14時になったらしく、女性の飼育員の声がマイクを通して会場に響き渡る。と同時に、5匹のアシカが1列になって参上した。
 ショーの始まりだ。僕はこっそりと、川越さんと手をつないだ――

 夕方の明るい時間帯を、僕は川越さんと見慣れた風景の中を、手をつないで歩いている。そして、白い家の前で立ちどまり、ゆっくり手を離した。
「伊藤君、いつもありがとう。じゃあまたね」
「うん、ばいばい」
 微笑の後に家の中に入っていく川越さんを見送ってから、僕は来た道を戻って駅へと向かう。
 夢のような時間だった。しかし終わってしまうとあっけない。
 可愛い彼女と一緒に過ごした6時間、水族館に6時間いるのは普通の僕だったら飽きると思う。しかし今日の6時間はあっという間に過ぎてしまった。6時間で切り上げたのは、帰りが遅くなりすぎないようにするためで、その縛りがなかったら僕は今でも川越さんと一緒に何週目かの水族館を楽しんでいたと思う。
 夕日があたりを赤く染める。そんな幻想的な光景を見ながら一人で電車を待っていると、涙が出そうになってきた。さっきまでの出来事があまりに華やかで、その思い出が今の自分をあまりに惨めにしていた。
「あ、伊藤君」
 下の方から、聞きなれた声。こんな時に出会いたくなかったと思いながら、僕はそれを見る。帽子をかぶったそいつが、僕のことを見上げていた。そいつを見たら、今日の始まりのことが思い出されてまた涙腺が緩んだ。
「ああ、佐伯さん。今帰り?」
 泣き顔を見られるのは嫌だ。こいつと話すのも嫌だが、涙に気づかれることの方が嫌だった。どうせバレてしまうのだろうが、涙をごまかすために、僕は話しかける。
「うん、最後にアシカショー見たくて。14時のを見逃したから、16時までぶらぶらしていた」
「最初に、アシカの行列が見えるやつ」
「うん、それ。面白かった」
 そして沈黙。涙は引っ込んでくれたが、退屈なのには変わりない。彼女でない女子との会話なんてこんなものだ。
「佐伯さんは、普通に楽しんだんだ。観察とか、なんか言っていたけど」
「うん、でも12時くらいには飽きた。普通にカップルしていたよ」
「それは、よかった」
 ほっと、安堵のため息が出た。傍から見ていれば、僕の目指していた普通のカップルになっていたようで、良かった。
「うん、いい感じだった。随分目立っていたけど」
「目立って・・・・・・ああ、まあ。そうだよな」
 195㎝超の長身の女性がいれば、誰でも珍しがってそちらを見てしまう。僕だって見る。そしてそんな女性と交際しているのが僕みたいな小さい男だと、そのインパクトはより強力なものとなる。これは、仕方がない。
 水族館は幼い子が多く、川越さんを見上げて無邪気に巨人とか指さして言いだすのがいた。川越さんはそのたびに子供に微笑みかけるのだ。そんな川越さんの強い一面を見られて、僕は嬉しかった。
 もっとも、子供はまだかわいげがある。問題は中学生以上だ。明確な悪意が僕らに向けられる。でも、そんな風に悪目立ちしようが、僕らには関係ない。どんなにからかわれたところで、僕らの幸福はそれらをはねのけてしまうのだから。実際、僕の記憶には川越さんとの楽しい記憶ばかりで、悪意の記憶はすべて消えてしまった。
 ふと下を見ると、佐伯さんが僕をじっと見上げてくる。嫌な予感がした。今までの経験から、こういう時は僕の心を読んでいるときだ。
「・・・・・・何?」
「欲求不満」
 ギクリとした。相変わらず、鋭い。でもって表情がなく、何を考えているかわからないから、心臓に悪い。
「本当はもっと、色々なことを期待していたんでしょ」
「期待って・・・・・・」
 嘘ではない。しかし、本当はもっと普通にデートを楽しみたかった。でも、性欲が僕のそんな切実な願いを邪魔するのだ。
「・・・・・・僕だって本当は、もっと普通にしたかった。でも、できない。フェティストの性だよ」
「あ、そうなんだ。普通・・・・・・じゃあ、天井の低いところに連れていったり、自販機の横に立たせたりしたのは」
 また、ギクリとした。両方とも、僕が普段川越さんの背の高さを実感するためによく使う比較対象が必要だから。でも、今日は違う、そう信じたい。
「本当に、偶然・・・・・・多分。無意識かもしれないけど」
「そう」
 佐伯の方をチラッと見ると、目を瞑っていた。嫌な予感がした。
「伊藤君って、けっこう敏感だよね」
「え?」
「積極的な半面で、周りの目をすごく気にしている。手も、最初はずっとつないでいたのに、周りからからかわれて、さりげなく離した」
「あー」
 確かに手を離したのは事実だ。それに気が付いた時、とても不安になったのを覚えている。つまり、こいつは自意識過剰と言いたいのか。確かにもっと赤裸々に、自分に素直になれたら、どんなに生きやすいことか。そう、川越さんのように。
 川越さんはいつも、自分の楽しいことをやっているようで、うらやましい。それに、なんというか、大人だと思った。
 今日のデートで一層分かったが、川越さんは大胆だ。子供の悪口を笑顔で受け流したり。そういえば、最初に教室で告白してきたのも川越さんだ。二人きりとはいえ、あんなにあっさりと告白なんて、僕にはできない。
 しかし日本人なら誰だってそんなもんだろう。それに、そんなことを、どうしてこいつに言われなきゃいけないんだ。
 だんだんと、イライラが募ってくる。
「あのさ、佐伯さんは何なの? 人の恋愛ごとに口を出して。今日も観察とか言って付いてきて、挙句の果てに12時で飽きて。何がしたいの? 気持ち悪いんだけど」
 少し言い過ぎた気もしたが、これくらい言わないと気が付かない馬鹿もいる。後悔はしていない。佐伯は相変わらず、むかつく無表情で僕を見上げていた。
「応援しているの、ただそれだけ。二人とも好きだから。二人に幸せになってほしいから」
「はあ」
「あ、別に恋としてって意味じゃないから。なんというか、人間として」
「まあ、わかっている」
 何も言えなかった。応援してくれているというのはありがたいのかもしれない。しかし、意図がわからないから不気味だ。好きだから? 佐伯と僕らの間に、そんなわかりやすい接点があったのか?
「ねえ伊藤君、本当にそれでよかったの? イレギュラーになってしまった以上は、普通では守り切れない。そう思うの。あなたも川越さんも、私も」
「はあ・・・・・・」
 意味がわからなかった。なんだ、イレギュラーなら普通なんて目指さずに、イレギュラーを貫けとでも言っているのか。まあ、一理あるかもしれないが・・・・・・いや、そんなものはない。そんなに深い意味なんてないんだ。
 こいつは自分に酔っているだけだ。同い年のやつに深そうなことを言われても、何も響かないし痛いだけだ。
 なるほど、こういうやつだからいじめられていたわけか。そして中高でキャラを変えても、結果クラスで馴染めず浮いている。数年越しの疑問が今、氷解した。つまり、こいつはバカだったんだな。
 僕は佐伯を鼻で笑ってから、スマホいじりを始める。あいにくこいつとは同じ路線なのだが、僕は最後まで無視を通した。
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