3度目の初恋

床間四郎

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友人の初恋

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 木曜日に部活に行って以来、しばらく手芸から離れる日が続いた。部室に行っても特にやることもやりたいこともなかった。たまに本をパラパラめくったり、インターネットで調べ物をするくらいで、次の製作に向けての具体的な準備をする気にはなれなかった。
 たまに、もしも部室に行って18時半まで残っていたらまた市村が来るのかもしれないと思う時があった。その度に、未だ市村に執着している自分が嫌になった。しかし同時に、どうして恋心自体に疑問を抱いた自分が執着できるのかと不思議に思った。市村が嫌いになったというわけではない、しかし以前のように尊敬しているわけでもない。普通の友達と考えられるかと思えば、そういうわけでもない。この微妙な心境がさらに自分をイライラさせる。
 ちょうど一週間が過ぎた木曜日の昼。弁当を食べながら僕はゆったりとした時間を過ごしていた。学校の課題をやり、手芸の本をパラパラと眺め、それに飽きたら今度は音楽を聴く。時間がゆっくりと眺めていく。こういう時、音楽は偉大だといつも思う。頭がぼんやりして、余計なことを考えずに済む。市村のことを考える時間も段々と減っていった。
「なあ健」
 肩を叩かれて、僕はゆっくりと目を開ける。浩一が真剣な表情で僕を睨んでいて、慌ててイヤホンを外し、音楽を止める。
「な、なに?」
「……この前の、手芸部の先輩の名前を知りたい」
 唐突なお願い。手芸部、という単語に僕は少しイラついた。せっかく過去を忘れて前を向こうとしているのに、浩一が邪魔をしているように思えた。しかし浩一の表情は、そんな僕の身勝手を許すまいとでも言いそうなほどに真剣で、しぶしぶ僕は手芸部のことを思い出す。
「先輩……平岩先輩のこと? 2年生、クラスは知らない」
「平岩さん……下の名前は?」
「えーと……ちょっと待って」
 普段、先輩を下の名前で呼ぶことなんてないので急に言われても思い出せない。僕はスマホを起動してメッセージアプリを開き、先輩の名前を探した。
「平岩菜月、だって……って、どうしてそんなことが知りたいの?」
 言われるがままに探してから、またイライラが再燃する。どうしてこんなことをさせられているのか、理由がわからない。それがまた僕をイラつかせた。
「平岩菜月さん……平岩菜月さん……」
 浩一は先輩の名前を小声で何度もつぶやいてから、再び僕の方を振り向く。凛々しい表情で瞳を輝かせる浩一がまるで別人に見えた。
「俺、未だに平岩さんのことが忘れられないんだ」
「……は?」
 意味がわからなかった。浩一は目を瞑ってしばらく考えた後、また僕を目を見据えてきっぱりと言葉を発した。
「俺、平岩さんのことが好きかもしれない」
「はあ……おめでとう……」
 勝手にしろ、と心の中で呟く。自分は今、恋愛のことは考えたくない。浩一から目を逸らして音楽を聴いていた。……音楽が頭に入ってこない。浩一は僕の機嫌が悪いと知ってすでに前を向いており、僕はその背中をぼんやりと見つめる。
 人を好きになる気持ちがわからない、浩一は以前そう言っていた。僕はその時、好きになるとは尊敬することだと答えた。今、僕らの立場は全く逆転している。僕は恋愛感情に疑問を抱き、浩一は先輩を好きになった。浩一がどういう経緯を経てそうなったのか、疑問をいかにして解決したのかについて興味が湧いてくる。
「……浩一」
「うん?」
 名前を呼ぶと、浩一はゆっくりと振り返る。僕は音楽を聴くのをやめて、浩一に質問をする。
「先輩の、どこが好きになったの?」
「どこ……」口元に右手を添えて考える。しばらくして返事があった。「全てかな」
 予想外の返答だった。顔とか声とか冷静さとか、そんなものだろうと予想していた。浩一が先輩と話したのは、僕が知る限りでは先週の1回きりだったはずだ。
「え、浩一って先輩とあの後話したの?」
「いや、木曜日の、ちょうど1週間前のあれだけ」
「それで、全てが好きになったと」
 浩一は瞼を閉じてしばらく俯いてから、ゆっくりと顔を上げる。「そうなんだよ」
「……すごいね」僕は皮肉を込めてそう言った。
「自分でも不思議なんだよ、どうして俺が1人の女性にこんなに夢中になっているのかって……ついこの間まで、恋愛感情がわからなかった俺が……」
 僕は黙って、浩一が頭を抱える様子を観察する。何が浩一をこうさせたのか、それを知りたかった。どのようにして恋愛感情を得たのか、それを。
「俺は以前こう思っていた。人が人を好きになるにあたって、面食いとか内面重視とか言われるけど、俺はこう思っていた。顔やスタイルは物理的に変形させることができる、人間性は化学物質で変えることができる、と。極端なたとえだが、事故で骨格が変わった前例も精神疾患で性格が変わった前例もある。そういう例がある、というのは否定できない事実だ。
 つまり好きな人の好きなところはその後いくらでも変わりえる不安定なものだ。となれば、人に対する好意というものに意味はない。そもそも人は多面的であって、ある人の全てを好きになることなんてないし、仮にそれが起こったとしてもそれは今後変わりえる可能性がある。俺はこう考えて恋愛感情というものを無意味と結論した。
 しかし、人々は恋愛をする。俺はそれがつい最近までわからなかった。お前も恋愛しているよな、はっきり言ってずっと意味不明だった。でも、今なら気持ちがわかる。でもその一方で合理的な理由が見当たらない。これは非常にもどかしい、しかし別に理由が見当たらずとも俺が平岩さんを好きという事実は確かに今ここに存在している」
 一気に言い終えた浩一は、大きく息を吸って吐き出し、それから目を瞑って再度俯いた。正直、彼の言っていることをすぐに理解することはできなかったが、言わんとしていることはなんとなくわかった。そして衝撃的だった。面食いを否定することは僕も同意できる。しかし浩一は内面重視も否定する。しかも僕の目の前で。理由は、どちらも簡単に変わるものだから。外見はよくわかる、内面も……一理あるかもしれない。どちらかというと、そもそも具わっていた内面が出てくるか出てこないかの方が大きい気もするが。
「男同士で真面目に恋愛語っているの、言い方悪いけどちょっと気持ち悪いよ……」
 白井が冷ややかに僕らを見下ろしていた。友人と気楽に真面目な話をしていたところを女子に乱入されると、一気に恥ずかしい気持ちになった。浩一は顔を上げて白井を澄んだ目で見上げる。
「いいよ、気持ち悪く思ってもらって。それくらい切実だから」
「それ、平岩さんにも同じこと言える?」
「言える。それでキモイって言われたら、俺はあの人の目の前から消える。あの人を不快にさせたくないから」
「うわ、なんか純情っていうか、重いっていうか……すごいね。切実だね」
「うん、切実な悩みだよ。お前は、恋愛したことありそうだよな」
「まあ、経験くらいなら大抵の女の子はあると思うよ。多分その平岩さんも」
「平岩さんが選んだ人なら、きっといい人なんだよ。少なくとも平岩さんにとっては」
「うわ、なんか青木キモイ! てか怖い。平岩さんが家でDVされていたらナイフ持って家庭内に踏み込んでいきそう」
「……するかも。できるかもしれない。そう考えると、俺やばいな。どうしたんだろう」
 真剣な表情で、冗談みたいなことを言い出す浩一に、僕は白井に若干の共感を示す。中学校3年間のブランクがあるとはいえ、小学生の頃からの親友だ。こんな一面があるとは思わなかった。浩一はさっき、人間性は化学物質で変えられるといったが、化学物質がなくても恋愛でこんなにも変えられるのだなと感心してしまう。
「うわー、ちょっと引くわー……まあそれはさておき。で、その平岩さんってどんな人なの?」
 汚いものを見るような目で見た後で、白井はニヤニヤと笑いながら浩一に尋ねた。恋の話をする時、人はいつもこうなるらしい。浩一も平岩先輩も、僕の恋に関して尋ねるときはこんな感じだった。
「手芸部部員2年生」
「……で。なんていうか、スタイルとか性格とか、そういうのは?」
「スタイル……身長は確か低めで150cmくらい。体型は……たぶん普通。性格は、なんていうか、好きなことになると早口になる感じ」
「なるほどー。ちなみに、眼鏡かけてる?」
「俺が見たときは掛けていなかった。普段はかけているのかな。健、どうだ?」
「いや、かけているところは見たことないよ」急に質問されて、少し驚いた。
「ん? なんか、色々曖昧なんだけど。てか手芸部の先輩とどうやって知り合ったの?」
「ちょっと野暮用があって、その時に話した」
「……何回話した?」
「1回」
「うわー、一目ぼれでそこまで……内面重視の荒井くん、こういう人どう思いますか?」
 急に話を振られる。正直こういう話をする気分じゃないが、無視する気にもなれなかった。こういう話題で女子の意見を聞ける機会はとても貴重だから。
「いや、別に何とも、浩一が好きになったならそれでいいと思う。てか、内面重視とか、今はそういうわけでもないし」
「え……」白井の表情が凍り付く。そんなに大層な発言だったのだろうか? 浩一の好意を否定しない、白井よりも優しい意見だったと思うのだが。
「もしかして真奈のこと、もう好きじゃなくなったとか……」
「え? ああ、そういうわけじゃないよ。ただ、好きとか、よくわからなくなってきただけ。前の浩一みたいに」
「健、そうだったのか……それで最初話を振った時、あんな不機嫌だったのか。悪かった」
「いや、別に大丈夫」
 僕と浩一のやり取りを見て、白井はわざとらしくため息をつく。僕らの間にわずかに緊張が走る。
「あなた達は、恋愛を大げさに考えすぎていると思う。恋愛なんて、テントウムシでもやることなんだから、そんな複雑に考える必要ないの。感情的に、好きなら好き、興味ないなら興味ない、それだけ」
「さっき俺の恋をキモイと言った奴に言われてもな……」小さめの声で浩一が呟いた。白井は彼を睨みつける。「もう、そんなんだからあんたはモテないのよ」
 浩一は一瞬イラっとした表情をするが、何も言わずにコクコクと頷く。
「それでね、恋愛っていうのは、ただ楽しいからやるものなの。オトナの遊びよ。子供のあなた達にはわからないかもしれないけど。テレビを見て笑ったりするのと同じ。かっこよくて面白そうな人を見つけて一緒にいる内に内面を知って、好きになって、告白して、付き合うの」
「なるほど。告白する前から距離が近いのが普通か」
「まあ、普通はね。もちろん色々な場合があるけど……って別にそれが言いたいんじゃなくて、恋愛っていうのは楽しいからやること。以上」
 浩一が曖昧に頷く。わかったような、わからないような、そんな曖昧な頷き。浩一の心情がよくわかる、なぜなら僕も同じ心境だから。テレビを見るのと同じで、楽しいからやることだと白井は言った。……確かに白井にとってはそれだけかもしれないが、僕らにはどうしてもとても高尚なものに思えてしまう。
 しかし、白井が言うことも一理ある気がする。つまり、僕らは恋愛を大げさに考えすぎているらしい。もっと気楽に考えた方が良いらしい。好きか、そうでないか……最も僕は好きという感情自体わからないので、何もできないのだが。
 教室がざわつく、人が増えてくる。時計を見るともう少しで授業が始まる。そしてそのくらいの時間になると……
「あ、彩名ちゃん」
「真奈、これ返しに来た。ありがとう」
「あ、これね。机の上に置いてくれればよかったのに」
「まあ、なんとなく手渡ししたかった。いま来たばっかだし」
 視界の外で行われる書物の手渡し、おそらく教科書か何か。僕は顔を上げて2人を見上げる。まず白井が視界に入り、さらに顔を上げていくと市村が映る。市村と目が合った、少し緊張した。彼女は口角を上げて、首を傾げる。
「ん? 健くん、どうしたの?」
「あ、いや、別に……」
 市村の顔から目を逸らすと、白井の顔が視界に入った。白井は冷たい目で僕を見くだしていた。表情だけで、何を言いたいのか予想が付く。意気地なし、きっと白井は心の中でそう言っている。
「じゃ、バイバイ」
「うん。てか、授業間に合う?」
「走れば大丈夫。じゃ!」
 白井は市村に手を振ってから、走って隣の教室に向かった。白井と入れ違いで先生が入ってくる。ちょうどそのタイミングでチャイムが鳴った。廊下を走る白井をぼんやりと眺めて、さっき白井が言ったことを思い出す。恋愛は楽しいからやる、以上。
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