パーフェクト・ドリーム

星野ステラ

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 人生のドン底は今であって欲しい。

 指輪を外してから三ヶ月が経った。びっくりするくらいすんなり離婚できてしまった。短いながらも家族であった人間が、紙切れ一枚で他人になる。結婚なんて所詮はそんなものかと俺の中で何かが音を立てて崩れ去った。だったら、もう結婚なんてしなくてもいいとさえ思ってしまう。
 自分でもびっくりするくらい気が滅入って、尾上さんに泣きついてしまった。仲が良いとはいえ、そこまで付き合いも長くないくせに慰めてもらおうだなんて図々しいだろう。昔からの知り合いでもない、職場が一緒なわけでもない。所詮は趣味の友達で、何かが一つ違えば会うことすらなかったかもしれない、そんな関係の人だ。露骨な素振りは見せなかったけど、迷惑だったよなと思う。余計な気も遣わせてしまったし反省している。

 なんだかんだ今日もゲースタに来てしまった。やることもなく、一人で部屋にいるのも耐えられず、気を紛らわせようとしたらここに居た。余計なことを考えずにいられるから楽ではあるが、昨日尾上さんに慰めてもらった手前、なんとなく気まずい気がしてしまう。ここに来たら高確率で尾上さんはいる。だから、尾上さんのいそうな場所を避けて、競馬ゲームに入り浸っていたのに、自販機の前でバッチリ鉢合わせてしまった。……気まずい。
「高松。コーヒー飲むか」
「え? あー……じゃあブラックで」
 尾上さんは五百円玉を自販機に入れると、微糖とブラックのボタンを押した。そんなに分かりやすく気を使ってくれなくてもいいのに。
「お前たまにコーヒーくれるだろ。だから、そのお返しだよ」
 照れたように笑って、缶コーヒーを差し出してくる。励まそうとしてくれるのは嬉しい。でも、今の俺はそれ以上に申し訳ないとも思ってしまう。
「尾上さん。その、別に、俺は大丈夫だから」
「こういうのは黙って受け取ればいいんだよ」
「いや、でも」
 申し訳なくて、柄にもなく遠慮してしまう。尾上さんの好意を無下にするのは良くないと、頭では分かっているのに。
「……うるさいぞ」
 尾上さんは眉間に皺を寄せ、こちらを見つめて小さくため息を吐いた。すると一直線に腕が伸びてきて、額の一点に衝撃が走る。
「いった」
 まさか四十一にもなってデコピンされるだなんて思いもしないだろう。
「俺がしたくてやってんだよ。だから良いの」
 尾上さんはひらひらと手を振って去って行った。意外と強引な人だ。
 それから尾上さんはちょっとした『優しさ』をくれるようになった。飲み物やアイスを奢ってくれたり、飲みに誘ってくれたり。たまにLINEでぶっきらぼうな連絡がきて、好きな映画や行きつけの定食屋を教えてくれる。本当にさり気ないことだ。でも、その方が嬉しかった。腫れ物に触るよう扱われたり、甲斐甲斐しく世話を焼かれたりするのも嫌だから。それを分かっているのか、たびたび感謝を伝えても、俺がしたくてやってるんだと返されてしまう。それがまたかっこいい。尾上さんとそれなりに仲良くなれたと思っていたが、その実、理解なんて出来ていなかったのかもしれない。なんて慈悲深くて繊細な人。



 まだ秋にしては暑い、九月のとある日のことだった。尾上さんに対する邪な感情を抱いたのは。

 時が流れ、精神的にも回復し以前の自分に戻った(と自分では思っている)。そのことを何度も伝え、断りを入れても、尾上さんの『優しさ』は細々と続くので、もはや甘えるようになっていた。格好を付けたい気持ちは分かるので、大人しく後輩面しておこうと思う。
 行きつけの居酒屋を覗くと、いつもより明らかに混んでおり、丁度カウンターが数席空いているだけだった。
「一応空いてるけど、ここでいいか」
「俺は気にしないですよ」
 そういえば、今週は三連休なのだと思い出した。この様子だと別の店も空いていないだろう。カウンターに詰めて座り、店員からおしぼりを受け取る。
「生二つ。あとだし巻き、お前は?」
「とりあえず唐揚げで」
 何度か通っていると、尾上さんはだし巻き、俺は唐揚げとメニューが大体決まってくる。串は後で決めることにした。
 あれやこれやとくだらない話をしていると、すぐに中ジョッキが二つ運ばれてきた。
「乾杯」
 キンキンに冷えたビールが喉を通っていく。仕事終わりのビールは格別だ。疲れた体にアルコールが染み渡ると、大袈裟だが生きている感じがする。
「ももとぼんじりと皮。あと欲しいのある?」
「俺、ネギマ欲しいです」
「じゃあ二本ずつな」
 カウンター越しに注文を告げた。先程から炭火の香ばしい匂いが鼻腔をくすぐっている。

 店内はあまり空調が効いておらず、アルコールが入っていることもあって少し暑い。尾上さんを一瞥すると、いつもは気にならない首元に目がいった。首も細いけど、この人ちゃんと飯食ってんのかなあ。
「なんかちょっと……暑いな」 
 シャツのボタンに手をかける、その指に目を奪われた。いつもより一つ多く外されたボタン。鎖骨より下、胸元がちらりと見えて、少し汗ばんでいるのが分かる。暑さかアルコールのせいか、肌は朱く火照り、妙に色っぽい。今なら少し覗いただけで、胸の突起まで見えてしまいそう。美味しそうな色をして、熟れたようにぷっくり主張しているとしたら───。
 濡れた唇から発せられる自分の名前。タバコを持つ指は筋張っていても細く、華奢な印象を受ける。
 ……今日の俺はおかしい。尾上さんの全ての動作に劣情を感じてしまう。どうしてこんなに尾上さんがエロく見えるんだよ!
「どうした。飲まないのか?」
「え? ちゃ、ちゃんと飲んでますよ!」
 そうは言っても、正直あまり飲む気にはなれなかった。これ以上酔ってしまったら、尾上さんに何をするか分からない。……もしかしたら襲ってしまうかもしれない。一抹の不安を抱え、ちびちびと酒を飲む。
「たかまつ」と少し舌っ足らずに呼ばれてドキリとした。
「おれ、お前の役にたててるのかな」
 不安そうに言うものだから、思わず胸が高鳴ってしまう。いつも俺のことを思って親切にしてくれる、そんな健気な尾上さん。
「俺、尾上さんに本当に感謝してるんです。いつもいつもよくしてくれてありがとう」
 心からの感謝を込めて頭を下げた。酒の席で言うことではないのかもしれないけど、いま尾上さんに伝えたいなと思った。どうか、俺の感謝をそのまま受け取って欲しい。
「そっか。それなら嬉しいよ」
 どこかはにかむように笑うのが可愛らしい。
「あれからもう一年もたったし、俺も流石に立ち直ってますよ~?」
 俺が離婚してから一年と少しの月日が流れた。尾上さんが支えてくれたのもあるが、時間が解決してくれるというのは本当だった。段々と元妻の影は薄れ、気力を取り戻していった。
 だから、あなたがそんなに気負わないで。俺のことは良いから、尾上さんは尾上さんのしたいことをして。ずっとそう伝えていたのに。
「それなら良いんだけどさ。俺は……お前に幸せになってほしいんだよ」
 顔色一つ変えずに大層な告白をするものだから、余計に分からなくなってしまった。俺にとって尾上さんは親切にしてくれた大切な友人だけれど、尾上さんはどうしてそこまで?
「なんで、そんなに俺のこと……」
 尾上さんは少しだけ考えて、重い口を開いた。
「理由はあるけど言わねえよ。大した理由じゃないし」
「なんですか、勿体ぶって」
 尾上さんはジョッキを煽っている。喉仏が上下してビールが吸い込まれていくのを、齧り付くように見ていた。噛み付いて、吸い付いてみたら、彼は嫌な顔をするだろうか。それとも───。
「あんま見んな。穴空くだろ」
 自分でも信じられないが、俺は尾上さんに見とれていた。時間にして五秒くらい、そりゃあ不自然だ。気づかれてしまうのも無理はない。……ダメだ、怪しまれる。怪訝な顔をして睨みつけてくるが、まさか尾上さんも俺が卑猥な妄想に気を取られていたなんて、全く思ってもいないだろう。
「あはは。首に穴空いたら大変ですね」
「あ? 顔見てたんじゃないのか」
 あれだけ暑かった店内が一瞬で極寒の地に変わる。嫌な汗をかいた。明らかに墓穴を掘ったのだ。
「いや。えーっと、うん! 首のあたりです。別に尾上さんは見てないですよ。その、あれです。向こうに知り合いっぽい人がいたんで。まあ、違ったんですけどね~、あはは!」
 とにかく早口で捲し立てた。怪しまれてはいるだろうが、この邪な感情さえバレなければもうなんだって良かった。
 


「あ、おはようございます」
 ゲースタの喫煙所でたまたま一緒になった。尾上さんの一挙手一投足がいやらしく見えるようになってから、自然と尾上さんを避けるようになっていた。だって見てしまう。指も唇も首筋も無防備でいやらしく見えてしまう。
「ん。おはよう」
 メビウスのソフトパッケージからタバコを取り出し、ライターで火をつけ、ため息をつくように煙を吐き出す。何度も見た一連の動作すら、指と唇にばかり目がいってしまう。
「あれ……尾上さん、唇荒れてますよ」
 乾燥してカサカサになった唇に少し血が滲んでいる。痛くないのだろうか。
「あ? 別にいいよ」
 唇から赤い舌がちろりと顔を出し、血を舐めとっていく。尾上さんはきっと無意識だろうが、俺はいとも簡単に劣情を抱いてしまった。……いや、えっちすぎないか? 今すぐ口付けて舐めて、吸い付きたい。そうしたらどんな反応をするだろうか、怒るだろうか。
「どうしたんだよ、ボケっと突っ立って。タバコ吸わないのか?」
「タ、タバコは吸うんですけど! その……リップクリーム使ってください。新品あるからあげます」
 スーツの内ポケットから新品のリップクリームを取り出した。使っているものがなくなりそうだからと買っておいたのだが、こんな形で功を奏すとは。目の毒だから唇舐めないで、とは言えないし、我ながら良いアイディア。あくまでも俺は、尾上さんの荒れた唇を心配した可愛い年下なのだ。俺は可愛い年下、気の使える可愛い年下だと言い聞かせる。
「いや、別にいらないし……」
「もう一個あるから、是非」
「大丈夫だって」
「痛いでしょ、良くないですよ」
「うーん。そうは言われても使わないしなあ」
「お、俺のためだと思って!」
 尾上さんが全く引いてくれないから、俺もムキになってしまった。あまりに必死になってしまい、ちょっと引かれたかもしれない。俺の剣幕に押された尾上さんは黙ってリップクリームを受け取った。
「そんなに言うなら貰うよ。……そういやリップクリームなんて初めて使うかも」
「え? 使ったことないんですか」
「記憶にはない。ガサツだからなあ」
 尾上さんはリップクリームの蓋を開けて、くるくると回して中身を繰り上げた。乾いた唇の輪郭をなぞり、クリームが溶けていく。無防備に少しだけ開いた口元はほんのりと艶が増した気がする。
 その一部始終に目を奪われていた。尾上さんから目を離せない。ずっと見てしまう。自分で考えているより、相当重症なのだろう。
「なんかスースーして変な感じ……。まあ慣れると思うけど」
 そう言って顔を顰めている。メンソールが含まれているタイプは苦手だっただろうか。
「ありがとな。こういうの自分じゃ買わないし、助かるよ」
 少しはにかんで言うものだから、今度は心奪われてしまう。……可愛い。これくらいのことで喜んでもらえるなら、いくらでもしてあげたい。
「どういたしまして」
 自分の中で最上級に爽やかな笑みを浮かべても、頭の中は煩悩に塗れていた。
 あー、もう……キスしてえ!!
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