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由宇姫と無頼者
しおりを挟む奥越藩では、藩主結城勝兼の一人娘と加賀前田家五男 前田利章の縁談が進んでいた。
越中の小藩と加賀百万石の大大名では 格が違いすぎると結城勝兼はこの縁組に初めは消極的だった。
「父上、由宇は葛野藩の頼方様に嫁ぐものと、頼方様は紀州でも名だたる文武に優れし御方と聴いておりますのに、由宇は頼方様に置いて行かれぬよう武芸にも励んでまいりました…今更 加賀の優男など…」
越前の葛野藩主で紀州徳川家四男松平頼方とは、北國の藩政を相談する近しい付き合いをしていた勝兼は、葛野藩三万石との縁組を望んでいた。
しかし、紀州徳川家は藩主が短期間に3人も続けて亡くなり、四男頼方が紀州藩の世継ぎと決まった。
葛野藩3万石は頼方が紀州藩主となったのちは、幕府召し上げの廃藩となり、奥越藩との交流も消滅した。
徳川御三家紀州藩とのお家の格の違いは、由宇姫と頼方の縁組が叶わぬ証となってしまった。
その頃に、 加賀前田家から縁組の申し出が降って沸いた。
奥越藩にとっては申し分の無い縁組の条件だった。
「由宇っ 口を慎まぬか! 加賀大納言様は、利章様を既に 加賀藩支流の大聖寺藩 前田利直様と養子縁組なされておる。大聖寺藩7万石 我が藩5万石とは立場上も良きつり合いが取れるというもの、其方にはもってこいの縁組ではないか!」
由宇姫は、想像の中の凛々しく成長した松平頼方に傾倒し、大聖寺藩との縁組を何としてでも、破断にしたかった。
「父上… 幼き頃の微かにのこる頼方様の面影、由宇は、せめてもう一度 頼方様にお会いしとうございます。」
由宇姫の頼方への強い憧れは
勝兼が事あるごとに紀州からの頼方との書簡のやり取りを元に、頼方像を娘に覚え込ませてしまった結果と、勝兼は悔やんだ。
「頼方殿は、既に紀州55万石の政を動かす御身分とおなりじゃ、今其方が嫁いだところで大勢の側室の1人にすぎぬ。其方、遠く離れた見知らぬ国の城の中で頼方殿のお側近くにもおれず、この後、一生暮らせる覚悟はあるのか?」
「父上…」
………
由宇姫は、幼い頃から身体能力に秀で、軽々と馬を乗りこなし、馬上から飛び交う鳥を撃ち落とす事も難なくやってのける勇ましい姫だった。
小さな藩内で女武者だの 越前の巴御前だのとまことしやかに噂され近隣諸国もその噂を確かめずにはいられず、流鏑馬をもよおしたり、剣術大会に姫を招いては、噂が事実である事を認めざるおえない結果となっていた。領民から愛されていた由宇姫は 堂々と愛馬に跨り領地内を散策し、時には市にも出かけ 領地の農作物 越前の他国から入ってくる海産物 豊かな山の祥などを見物して領民とも近しく接していた。
領民からは、是非領地を守って婿を迎えて欲しいなどと望まれていた。
毎月10日には 御城下堀端通りに大掛かりな市が立った。その時は、藩内はもとより 近隣諸国からも人と物が流入し、目抜き通りは左右に様々な農作物 海産物 はては越中富山の薬種まで所狭しと並べ立てた屋台がひしめく。
「姫っ、 少しはお控えくださりませっ」
粗末なかすりの着物に帯びを結んだ娘の後を手拭いで頭からほっ被りした下男が 娘を引き止めようと擦ったもんだしていた。
「また 始まったよ、姫の酔狂が…」
由宇姫のカブキぶりもすっかり領民には知れ渡っていた。
由宇姫本人は至って真面目にお忍びで領民の暮らしを視察している気分だった。
「轟又兵衛 、何度も言わすなっ 今日は姫では無い。町娘だ、私の事は良いからさっさと城に戻っておれっ」
由宇姫と家臣轟又兵衛が 揉めていると、
…………
「畏れながら、奥越藩の由宇姫様で御座いますか?」
馬を引き連れ市を見物に来たと思われる軽装の若侍3人のうちの1人が突如 由宇姫の前に出て膝を曲げ頭を垂れた。
咄嗟に由宇姫の前面で仁王立ちした又兵衛が
「無礼者っ 何処の手の者じゃ 」
若侍を叱責した。
その背後から別の若侍が、
「驚かすつもりは 毛頭無かった。すまぬことをした。怪しいものではない。加賀前田の利章じゃ、内密にの…噂の由宇姫を見物しに参ったのよ…、このような往来で 其方らが揉め出したので仲裁しようと思ったのじゃ」
前田利章と名乗った若侍は 馬の手綱を家来に預けて 轟又兵衛を退かせると 由宇姫の姿をまじまじと見回した。
…なんともはや、酔狂も度が過ぎたいでたちよ…
女武者…巴御前… まるで噂と違うではないかっ…
色気のかけらも無い…小娘か……
穴が開くほど ジロジロと見回す利章に 由宇姫は黙っておらず、
「前田殿とやら、 貴方様がまこと前田利章様なれば 我が藩との縁組を所望されておられる御方、わざわざこのような所までお出ましになられ、私をジロジロと見回しておられますが、何か不都合でもござりましょうか?」
……気の強さだけは …女武者…か?
由宇の気の強さは 多少は利章の興味を引いた。
利章は、由宇の問いかけを無視して
「姫よ、姫はまこと 噂どおり 女武者がごとく 馬を乗りこなせるのか?」
「前田様 私の問いのお答えには なっておりませぬ、よって、由宇も前田様の問いにはお答えいたしかねまする」
由宇姫は …ふんっ…と、そっぽを向いた。
利章は目を見開いた。
くっくっくくく…あははははっ
利章が急に笑い出し、
「お前たち 余は納得した。よって帰るとしよう」
「御意」
控えていた若侍2人は 馬の手綱を利章に渡し 騎乗した。
利章も愛馬に騎乗すると、
「姫 また近々会おうぞ、楽しみにまっておれ」
由宇姫は
…なんと無礼な…
声に出して罵れずに口惜しがった。
ここ数日、雨の止む事が無く 紫陽花の薄紫が一面に広がる庭を望む奥向き書院で、孫子兵法を読み耽っていた由宇姫の元に 中奥の父君から参殿するよう伝えられた。
…父上…また何事か、城内に留まれば やいのやいのと煩わしき事この上もない…
奥女中に身支度を手伝わせて 奥越城内中奥の藩主の御前に向かった。
「父上っ 何事で御座りましょうや…大事ないお話しであれば 手短にお願い…」
上座に座していた藩主勝兼が無言で 頭を城内中奥庭園に向けた。
中奥上之間は 枯山水も見事な南側に面した庭に沿って30畳の部屋と手前30畳の次之間が狩野派の絵師により書かれた龍虎双眼図の襖でしきられていた。
襖を開ければ60畳の大広間となり 重要な詮議の場となる。
由宇姫は 勝兼が向けている視線の先に眼をやった。
「ちっ、父上様ぁっ もしや 兼ねてより 由宇が愛馬、翔(かける)が年老いた故 新しい駿馬をご用意くだされたのか!」
中庭には 葦毛と黒毛が僅かに混ざったいかにも精悍な駿馬が馬番頭の手桶から水を呑んでいた。
「余が 其方のようなお転婆に わざわざ飛び跳ねるのに格好の馬を与えると思うてか?… 其方 思い当たる節はないのか…?」
勝兼の僅かに探りを入れるような視線を避けながら 由宇姫は、最近の自らの行動を思い起こしてみたが、このような見るからに良血統の駿馬を送ってくるような相手は皆目見当がつかなかった。
「父上、やはり何かの間違いですっ、このような良馬、父上以外に 由宇に 贈ってくれる方は… (まさか、頼方さま…由宇を放っておいた罪滅ぼし…)… …よ、もしや頼方さま?」
由宇姫は空想の中の凛々しく美しい松平頼方の姿を妄想し頬を赤らめ俯いた。
「戯けめっ で、あろうはずが無いわっ!」
勝兼に一蹴され、 由宇姫の淡い夢が脆く弾けた。
「由宇 まこと思い当たる節はないのじゃなっ」
先月の十日市で若侍に絡まれた一件がふと脳裏をよぎった。
前田利章 … 馬を乗りこなせるか?と尋ねよった。
「父上様、父上様には申し上げていない一件、思い当たる節が御座います。」
町娘の姿で10日市を見物してきた経緯を 父君勝兼に説明した。
「誠の事なのだな…」
勝兼は含み笑を押し殺して あくまで由宇姫の前では、威厳を保ちつつ、
「この駿馬は、前田家からの贈り物じゃ、利章様は是非由宇の騎乗姿が見てみたいと御所望下された。噂によると 利章様はなかなかに奇天烈破天荒な若君らしく、御父君綱紀公も手を焼いて、叔父君前田利直殿に御養子に出されたのじゃ。
由宇 この縁組 お断りする事も出来るが、如何いたす。既に内々とは言えお忍びで其方は目通りしておる、いつまでも引き伸ばしていては、我が藩にどのような災いもたらすやもしれぬ」
由宇姫は、送り主の事より、目の前の駿馬が無性に欲しいと思った。
「父上、この縁組お受けしとうござります。利章様には、由宇からこの駿馬で遠乗りでもお誘い致し、お近づきになれますれば、利章様の方より 由宇の跳ねっ返りに呆れて、御逃げになるやも知れませぬ。さすれば 奥越は加賀様に恩は売れど 禍なされること、なかろうかと存じます。」
…由宇め、さては狩場の荒地にでも 若君をお誘い申し上げ、挙句 あまりの悪路に 若君 お困り申されるように仕向けるつもりか?…
常より 由宇姫は、慣れた悪路にわざと入り込んで 父君が護衛に差し向けた供を煙に撒き 単騎で領内を駆け巡り優々と城内に帰ってくる事も茶飯事だった。
「由宇…それはよい考えじゃ 若君と二人、遠馬もまた楽しかろう。 これを機によしみ通じるやもしれぬな…では、この縁組の事 由何(よしなに)と返事致してよいのじゃな? 後から否(いな)は 罷りならぬぞっ」
「お願いいたしまする…」
加賀前田家へ 勝兼は書状を二通したためた。
一通は縁組の了承 もう一通の方は、利章宛てに 由宇姫の企みに用心されたし と …
由宇姫もまた、利章に 駿馬の贈り物に感じ入った事 その返礼に奥越領内の物見遊山の誘いの書簡を早馬で送った。
時は5代将軍綱吉の後を継いだ家宣治世。 生類憐みの令は廃令となり、再び武芸の嗜みとした鷹狩が復活していた。
由宇は利章から贈られた駿馬を《残雪》と名づけ毎日のように1人で遠駆けに出かけていた。
利章との野駆け山駆けで 遅れを取らないよう残雪と鍛練する事が日々の楽しみになっていた。
…加賀の優男 奥越領内の荒れ野原を駆け回り必ずや根を挙げさせて あわよくば破談にもっていこう…
あえて悪路の野山を探索し 来る利章との遠駆けの計画を企んでいた。
父君勝兼は 由宇姫が紀州殿への恋慕を断ち切り 大聖寺藩へ何事も無く嫁いで行ってくれれば、奥越藩は最悪でも加賀の支藩として領地お取り上げは免れるだろうと 考えていた。
…綱紀公すら手に負えぬ暴れん坊と、頂きし加賀大納言殿の書簡にはしたためられておったが、……利章殿…悪評はたてど、由宇と一目会っただけで 由宇が喉から手が出るほど欲していた 駿馬を寄越すなど…やはりただの無頼者では無いはず、
案外 …天は、まことに良き縁組を授けてくだされたやも…
加賀藩前田氏の居城。
寛永の大火の痕、二の丸御殿が城の中枢となり、藩主の居所となっていた。幕府との緊張関係もあり 天守閣は再建されていないが、利章様父君、五代藩主前田綱紀公は城内敷地の傾斜地を利用して別邸を建てた。[蓮池庭(れんちてい)]のちの兼六園である。
支藩大聖寺藩ご養子となった今も 金沢城内で住まわれていた利章様は、度々[蓮池の上御露地(はすいけのうえおろち)]と呼ばれていた蓮池庭に忍び込み、怪しげな遊侠に耽っているところを 父君綱紀公から厳しく叱責されていたが、意に介さず一向にその行状改まる事が無かった。
その蓮池庭の利章の元に 奥越藩由宇姫からの書簡が届けられた。
「ククククククッ…これは…これはっ 誠、愉快千万じゃ おやじ殿は姫の悪巧みに用心せよと文をよこし、其のすぐ後 姫から 〝逢瀬〟の誘いよ…これに乗らぬ手はあるまいよ、なっ 小次郎っ
お転婆姫の手並み拝見と参ろうぞっ! アハハハハ 愉快っ愉快っ」
手に持った書簡の文を お側近衆筆頭の大石小次郎に渡した。
「由宇姫様の御文 読み解きますれば、相当な馬の乗り手やもしれませぬ、姫様らしくしとやかなる文面なれど、内容は自信に溢れた遠乗りの誘い…しかも、殿自ら由宇姫様に、塩を送って参りますれば…」
利章が庶子として早くに養子先に放逐されないのは、大石小次郎が乱行をぎりぎりのところでくい止めているからと言える。
「…かの葦毛…か、」
脇息に自堕落にもたれ掛かりながら、折り畳んだ扇でぽんぽんと膝打ちし、涼しげな目元の抜け目ない眼(まなこ)が宙に泳ぐ。
凛々しく弧を描くように まるで墨汁で一筆にざっと引かれたような眉。切長でやや吊り上がり気味の瞼。漆黒の瞳が 抜け目無く鋭い眼光を放っている。
前田家嫡男はじめ大勢の庶子の中でも一際目立つ美しき若君であった。この容姿で、実直勤勉であるならば、現嫡男に代わろうと、絢爛豪華京の雅を兼ね備えた加賀百万石の総大将に相応しいものを、天は二物を与えずの諺どおり 其の乱行 無頼には 打つ手が無かった。
「…由宇姫に会う折は、[風磨]を連れて行こう…」
暫く思案していた利章からでた言葉に、
「若君っ、風磨は…乗り手を見る事この上なき、かの[松風]の血を引く名馬…由宇姫との競い合いで怪我でも負いますれば…」
大石小次郎が 眉間に皺を寄せて 利章に注進する。
「確かにな…怪我などはせぬであろうが、この間抜けた競い合いに風磨が乗ってくれようか… が あの葦毛とて、幾分か松風の支流よの…
……しかし、女武者に負ける訳にはいくまいよ…クククククク」
…若君様のこの様な真剣なお姿を拝見つかまつるわ、幾年月ぶりであろうか…
※名馬[松風]
藩祖前田利家の兄に養育されたカブキモノ前田慶次の愛馬
前田利家を騙して前田家から盗んだ馬🐴
半夏生の頃 前田利章とその複数名の家臣は騎馬にて奥越領内に入り、藩主結城勝兼に内々の目通りを行った。
加賀前田家支藩大聖寺藩ご養子とは言え、外様の大大名加賀百万石前田家の藩主前田綱紀を父に持つ前田利章(としあきら)お家柄は格段の差があり、結城勝兼も下手に控えた持て成しで利章を城内に招いていた。
奥越城内中奥御座の間にての両名の初対面の場が設けられていた。
正面上段の間の金屏風を瀬に艶やかな浅葱色の素襖装束で座して居る利章の左下手(しもて)に藩主結城勝兼が控えていた。
由宇姫は華やかな緋色に青雲の青と白を、配した打ち掛けを羽織った姿で 利章の眼前に現れるや 御座の間全体に白檀の香が一同の鼻腔を擽り、何とも言えない夢幻の境地に誘うが如くの優雅な初対面となった。
真正面を其の涼しげな眼(まなこ)が一糸も見逃すまいぞと、由宇姫の所作を見詰める。
俯き加減ながら、由宇姫も其の所作が、加賀百万石京雅好みであろう優男の若君に謗られぬよう些かの不作法も無く 床の間真正面で正座すると、深く座礼した。
早くその顔を見てみたいと 早流利章は、
「苦しゅうない 面を上げよ、前田利章じゃ」と、名前すら呼ばずに由宇姫に声をかけた。
……っ!利章、無礼な…
今に見ておれ…
由宇姫は、既にこの縁談を戦(いくさ)と捉えていた。
上座と下座での二人の顔合わせが形式的に済めば 、利章は上段の間をすくっと立ち上がり、ツカツカと由宇姫の真正面で 仁王立ちし、長く伸びた腕を差し出し、座礼している由宇姫を見下しながら、
「姫っ、姫は[松風]をご存知か?」
その無礼千万な行動が余りに堂に行って居る為、同席している藩主勝兼はじめ、奥越の主だった重役も呆気に取られる始末だった。
…なっ、なんと…無礼なっ
中には脇差に手を添える奥越藩士もいたが、
「松風……と申されれば、由宇は、かの前田慶次様が 加賀藩祖利家公を誑(たぶら)かされ、我が物としたと…伝説の名馬っ…を思いうかべまする。」
僅かに上げた由宇姫の顔は喜色を浮かべ 大きな瞳は輝きを増した。
「流石…余が見込みし姫、松風の逸話ご存知とみえる。其の松風の直系の駿馬、[風磨]をな…
父君に無断で連れて参ったのじゃっ」
いつや知らずに 利章の顔が俯き加減の由宇の眼前近くにあった。
「どうじゃ…由宇 乗ってみとうかいか?」
驚きながら顔を上げると、
……なんと涼やかな眼差し…
……曇りなき漆黒の眼(まなこ)
由宇姫こそが その眉目秀麗な顔を間近で拝顔し、呆気に取られた。
「利章様っ 無断っとは、いかにも乱行!加賀様のお怒りや如何なものかっ…おわかりになりませぬやっ!」
利章の乱行に由宇なりに 注進したが、全く意に返さない。
「さぁ 参ろうかっ 」
利章は由宇姫の手を掴むとその場を強引に立たせて、
「誰かっ 姫の召し替えじゃぁ!」
………
「小次郎っ、風磨を馬場まで連れて参れっ、結城のおやじ殿、姫を一時お預かり申す。前田精鋭の手練れの者を同行させるゆえ、御心配めされるなっ…では、御一同 御免仕る。」
…… まさに 破天荒 奇天烈…
思いつくがまま 後先考えず動かれる
多戯け… 織田信長殿に似たり…
果たして この縁組…吉とでるか…
はたまた… いいや 考えまいぞ、所詮お家存続は
由宇の肩にかかっておる…
由宇姫は、利章の予想外の言動に動揺し、企んでいた 荒野の遠乗りも、
「利章様、これからお連れする原野は広大なれど、相当な負担と成りまするが、如何致しましょう… 若君様が のんびり領内の見物を御所望なれば 其方のご案内も致しまするが…」
この時ばかりは、元来、善良で思いやり深い由宇姫の性根が露呈した。
「折角、風磨を連れて来たのじゃ、一度 其方の騎馬姿を余に見せてはくれぬか?」
風磨の背から降りて 手綱を弾きながら 残雪に跨った姫の勇姿へ
愉快そうに視線を向ける利章に、
「では、由宇が常日頃から馬駆けさせる原野に参りましょう…」
こうして 由宇姫と若君のそれぞれの糸は結ばれ 暫くの間は、一筋の細い絹糸のような輝きに満ちた、それでいていつ途切れてしまうかもわからない危うさを秘めながら 縁を紡ぎ始めた。
其の年の十月十日
何度目かの利章の奥越下向となった。
お互いを 由宇 利章様と呼び、遠馬の時は、肩書きのない娘と若者のように自由気ままに野を駆け、山を散策し、時はあっという間にすぎ、利章が大聖寺へ帰る時刻になろうとして、辺り一面陰り出したかと思うと いきなり東信濃の険しき山々に雷鳴が鳴り響いた。
ザーッと土砂降りの雨が滝のように降り出し、一寸先も見えない有様。
雨宿る場所もなく利章は素早く馬上から降りて由宇姫を残雪から抱きおろし
「何処ぞ 雨を避ける場所はないか…探して参れ」
と共の配下に下知した。
由宇姫は いきなり馬上に向かって両腕を広げ、
「参れ」
と、一言、言った利章に抱きかかえられて馬を降りた一瞬で好意が、恋慕に変化した。
「と、利章様、この近くに由宇が存じ上げる炭焼きの荒屋がありまする。一時そこで雨はさけられまする。」
まともに利章の顔を見ることができず、俯き加減に雨宿りできる荒屋のある事をつたえると、
「由宇っ、でかした 案内いたせっ」
雷が近い間は 騎乗を控え、二人は 馬引きながら、なだらかな傾斜の続く落葉樹の林を炭焼き小屋へと急いだ。雨は止む気配を見せず、時折鋭い稲光が二度、三度と辺りを昼間のように照らし一呼吸おいてバキバキバキッと木片を叩き割っているような雷の音が響く。
林の前方に 板葺の片流れの屋根が現れた。とザザザーッ 、再び桶の水をひっくり返したような雨で視界が閉ざされる。
「由宇っ走るぞ! 来いっ」
利章は由宇姫の手を取ると 先程見えた片流れの屋根の方角に向かっていきなり走り出した。
「きゃっ…」
不意をつかれて、咄嗟に若い娘らしい甲高い声を出してしまい、伐悪く利章に引っ張られるがまま、後をついて駆けた。
意外に難なく 由宇の言う荒屋(あばらや)が、目の前にあらわれ 二人は馬の手綱を灌木の枝に引っかけ 小屋に飛び込んだ。
10月の山の気温は平地にくらべてぐっと下がっている。小屋に入ったが 安堵からか、震えが止まらない。由宇の薄桃色の可憐な唇が 暗赤色に変化してるのを見た利章は、
「由宇 近こうよれ 今より火を起こす」
と 言ったものの 利章は今の今まで自分で火起こしした事が無かった。
雨に濡れたせいで体温が下がり、少しふらつきながら 由宇が火打ち石のありかを知っていたので 囲炉裏に藁を盛り カチ カチと火打ちしたが 手の震えで上手く火の粉が藁に飛ばない。
「かせっ」
利章が由宇の手から火打ち石を取り上げ 由宇がしたように見よう見真似で力任せにカチッと擦り合わせると 飛んだ火の花は藁の中に落ち、ボウーッと藁から勢いよく火柱が上がった。由宇は束ねて置いてある枯れ枝を燃え盛る藁の中に 一本 二本と差し込んでいく。
二人の顔が囲炉裏の焔に照らされ、温めてられてくると、やっと身体中の血が活動しだし、由宇姫の唇は元の可憐な薄桃色を取り戻し、頬は赤い紅を刺したが如く染まってきた。
由宇姫の顔色の変化に思わず見惚れてしまう利章がいた。
「由宇 濡れた着物を、乾かすが良い、余は馬の様子をみてくる。」
利章は女子(おなご)の由宇に優しい心遣いをみせ、温まった勢いで小屋の外にでた。
利章の心遣いを嬉しく、恥ずかしく思いながら囲炉裏に近づいて 着物の裾をはだけて中の襦袢に焔を翳す。遠赤外線効果の高い高温の焔は、じわじわと辺りを温めてだし、着衣も乾きが早かった。同時に小屋の室温も上がり 睡魔に襲われそうになる。
…利章様…
着物もほぼ乾いてきた由宇は 利章が外で何をしているのか気になり入口の扉を開けた。
二頭の馬は軒と廁の軒の隙間に胴体を寄せ合う様に並んで繋がれていた。その間で利章が埋まるように、馬の体温で暖を取っている。
「利章様ーぁっ 何をなさっておいでなのですかっ」
由宇姫は小屋から飛び出し利章の腕を捕まえて 小屋に入るよう促した。
利章の着物はまだ濡れている。由宇は申し訳ない思いでいっぱいになった。
「さっ、着物を脱いでくださいっ 拡げれば早く乾きます。」
…とても城で大切に育てられた姫君とは思えぬ、まるで奥女中か乳母のしようじゃ…クク…ク
五男といえど 100万石加賀大納言の若君は、未だかつて己れで着物を着替えた事がない。
由宇が手際よく 着衣を脱がしてくれ 拡げて乾かしている間利章は囲炉裏の近くで由宇姫の外絹を裸の躰に纏い暖を取っていた。
躰は直ぐに温まり、横に寝転んだ利章は うとうとと、居眠りをしだしす。それに気づいた姫は、
「利章様っ眠ってはいけませぬ 外でお付きの衆が我等を探しているやもしれませぬっ 利章さまっ 起きてくださりませっ」
いくらか 利章の躰を揺り動かしていたその時、利章が寝返った拍子に由宇姫の躰が体勢を崩して 利章の躰の上に覆い被さった。
……………アレッ…
横になったまま 二人はほとんど間近で見つめ合い、放蕩三昧に過ごしてきた利章は、躊躇う事なく由宇姫の躰を抱きしめた。
「……厭っ… 」
囁くような姫の拒絶も 利章の耳には、女子(おなご)の甘い誘い文句に聴える。
…この様な侘しき場所で 姫を抱くのも…これまた一興よ…
懐で震えし小雀が如き可愛い姫…姫と躰を重ねるは、余の運命が変わる前触れやもしれぬ…
…今迄は、百万石の大名家に生まれたとは言え、側室腹の部屋住庶子…末は仏門か、兄上達に疎まれるが定めと覚悟して 其の前にせめて百万石を謳歌せねばやりきれぬと、放蕩乱行三昧の幾年であったが、其方とこの幾月か、戯れ 遊び過ごすうちに、大聖寺も奥越も小藩なりの民百姓が豊かに暮らせる政を思案するもまた面白いやも知れず…
「由宇 来月には 仮祝言をあげようぞ、余の奥となれ。奥越は何としても残すよう加賀の父君に 利章から願いでる。由宇は大聖寺に嫁いできても、いつでも奥越を見回ればよい。その時は余も一緒に来よう。」
囲炉裏の焔だけが薄暗い荒屋の中央を照らし ゆらゆらと利章の美しく精悍な面立ちを際立たせて 由宇姫の瞳のその奥に影写している。逞しい利章の素肌に抱かれ夢見心地にまどろむ姫の額に 唇を落とす利章だった。
…姫…
としあ…きら…さま… …
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