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弐章
雪柳
しおりを挟む「ーーー背後にいる人物が誰なのかはまだ分からないけど、俺が調べた限りではこのくらいしか…」
戸の向こう側の世界を照らす太陽とは違う、優しく綺麗な光を注ぐ月のような声音が落ちる。
憂いを帯びた表情で目の前に座るのは、青年の友人。
言うべきことを全て言い終えた青年は小さく息を吐いた。
「いや、十分だ。恩に着る、岬」
そう言うなり、青年の友人である佐吉は微笑んだ。
脇に置いてあった書簡を手に取り、目を通し始めている。
こんな昼間から戸を閉め切った部屋で何をしているのかと訊かれたら、青年は何と答えるだろうか。
密会? いや、違う。目の前の男とは隠れて会う間柄ではないのだ。
別にこれが初めてではない。
時折佐吉からは訳ありの仕事を頼まれていたし。
今回は佐吉が仕えている主君の側室・茶々様の命を狙う者の背後関係を暴くために、その側室の部屋の周辺に潜伏していた。
まぁ、二回とも予期せぬ邪魔が入り、予期せぬ事態に陥ってしまったのだが。
「ーーーお前はどう思う? 岬」
「…え?」
話はあれで終わり、自分はもう用済みだと思っていた岬は眉を跳ね上げた。
まさか話を振られるとは。
「どう?って…何が?」
帰り支度を始めていた手を止め、佐吉に向き直る。
佐吉は酷く真面目な顔をしている。それを見た岬は佐吉の心中を察した。
何の話をするのかと思いきや、友人として話題を振ったのではなく、豊臣秀吉に仕えている時の佐吉…三成として、岬に話を振ったのだ。
所謂仕事の時の顔ってやつだ。
「…相当な手練れを寄越しているのかと思いきや、剣の腕はさっぱりだった。それに…」
「それに?」
言いかけて、岬は出かかった言葉を飲み込んだ。
“変な女の邪魔が入って、見つかった” と、危うく言ってしまうところだった。
「…いや、何でもない」
今の段階では何とも言えない、と呟いた。
佐吉こと三成は不服そうな顔をしていたが、「また次に聞かせてくれ」と言うと、仕事を再開した。
岬は荷物を持ち立ち上がると、別れの言葉を口にして部屋の戸を開けた。
そして、戸の向こうへと身を投じ、閉めようとしたその時。
何とも絶妙な時を狙ったかのように、家臣の声が響き渡っていた。
「三成殿!三成殿は何処に居られるー!?急ぎの事態じゃ!」
岬はすぐさま身を翻し、三成に声を掛ける。
「ねぇ、佐吉。何か起きたらしいよ」
書簡に目を落としていた三成は顔を上げた。
特に驚いた様子はない。
何だ、日常茶飯事なのか。と、思った岬は足先を出口へと向けた。
「…分かった。今行こう」
三成は傍に置いていた刀を手に立ち上がると、騒ぎの方へと駆け足で向かう。
その背を見送る岬は何だか胸騒ぎがしたが、気を紛らわせようと頭を左右に振った。
「…何が起きたんだろ」
そう思ってはいても、自分は三成のような立派な仕官ではない。
それに、たとえ自分が騒ぎの中へ行ったとしても、何が出来ようか。
そう言い聞かせて歩き出そうとした瞬間に、偶然にも耳に入った声で岬は動きを止めた。
「早うっ…誰か、匙(さじ)を呼んでたも…!凛が、凛が…っ!!」
騒ぎの方から聞こえたのは、悲痛な叫び声を上げる浅井茶々の声。
その声が呼ぶ名は、彼女に仕える侍女の名前。
ーーーアイツの、名前。
◇ ◇ ◇
「…南の方様が毒薬を振り撒き、茶々様を庇った侍女の意識が無いだと?」
「は、はい」
衝動のままに駆け出し、辿り着いた先は騒ぎの場所だ。
其処には医師と数人の家臣と侍女、険しい表情をしている三成が居た。
その奥には口元を赤く染めた女と、泣いている茶々様の姿、そして目を閉じている凛が居た。
「ひ、秀吉様は本日城を出ておりますうえ、家臣も不在の者が多く…三成殿に。一介の侍女のことですし、事を大きくしない方が宜しいかと…」
「南の方様は舌を噛んで身罷られました」
「侍女の方は毒薬を吸い、口に入ったものも飲んでしまったのでしょうな…」
茶々様は必死にアイツの名前を呼び続けては泣き叫んでいる。
身勝手で気位が高く、貪欲なお方ーーーと、噂されている茶々様だが、とてもそんな人に見えない。
「…三成」
「岬か」
突然現れた俺を見た三成は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに家臣へと視線を戻した。
「…一介の侍女とはいえ、茶々様の侍女だ。この件、私から秀吉様へ報告する。今は医師の判断を待て。…南の方様が図ったこと、その他については私が預かる」
遺体を運べ、という三成の命令で、家臣たちが南の方様を運び出した。
「岬は俺と共に来てくれ」
そう言った三成の言葉に深く頷けば、三成は部屋を出て行く。
恐らく、この後秀吉様を急ぎ城へと呼び戻し、この件を報告するのだろう。
俺を呼んだ理由は、南の方様が持っていた毒薬の出処と、他の側室方を取り調べる為であろう。
「………凛」
去り際に紡いだこの名は、目を固く閉じている少女の名前だ。
茶々様は勢いよく顔を上げた。
「…そなた、凛のお知り合いなのか…?」
「え…」
「わらわの側を片時も離れなかった凛と、お知り合いなのか?」
「…ええ、そうですが…」
まさか茶々様に話しかけられるとは思わず、かなり驚いた。
しかも第一声、第二声が凛のことなんて、どんだけ大切にしているんだか。たかが侍女だろうに。
茶々様は眠る凛の手を握りしめたまま、嬉しそうに頷いた。
「…凛はな、ずっと側に居てくれているのじゃ。十二年も」
「…十二年、」
なんと長い月日だろうか。 いや、城の主君に仕える家臣たちは、それくらいの年数は普通だと思うのだが。
「いつもニコニコと笑っておる。わらわが眠った後は繕い物をし、朝は誰よりも早く起きる子じゃ」
慈愛に満ちた眼差しを、凛に注いでいる。
茶々様のどこが悪女なのか、噂を口々にしていた者たちに是非とも聞いてみたいくらいだ。
「年頃の女子(おなご)と話すどころか、関わりさえ持たぬ凛のお知り合いだと聞いて、驚いてしもうた…」
茶々様は涙ながらに微笑んだ。
思わず見惚れてしまいくらいに美しい笑みで。
「時折会った時に、話を交わす程度ですけどね。…すみません、ではこれにて失礼を」
三成を待たせてはならない為、失礼なのは承知だが話は手短に済ませねばならない。
茶々様に礼を述べ、その場を後にした。
眠っている凛のことを茶々様の口から聞けたのは幸運なことだ。
次に茶々様絡みでアイツが泣いていたら、この話をしてあげればいいかな、なんて。
そんなことを考えている自分に驚いたが、今は別件のことを考えなければならない。
南の方様が毒薬を振り撒いた動機は分かるが、その入手場所は何処なのか。
他の側室様たちの中で、茶々様のお腹の御子の命を脅かそうとする者は少ないないはずだ。
(早く、しなければ。早く調べて、会いに行かなければ)
ねぇ、早く目を覚まして。
お日様みたいに、ずっと笑っていてよ。
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