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壱章
白妙
しおりを挟む「…凛、今から申すことは、そなたの胸の中に留めておいてくれ」
梅は咲き終え、桜は散り、若葉が風に揺れている頃。
艶やかな花々が咲き乱れる着物に身を包んだ茶々様は、紅い唇を薄っすらと開いた。
「…わらわは仇を取るために嫁いだのじゃ。浅井の血を、織田の血を遺すために」
薄紅色の花が描かれた扇を、パタリと閉じる。
朝陽に照らされた横顔はより一層美しく、とても眩い。
茶々様は本当に、輝く光のようなお方だ。
「…はい、茶々様」
茶々様は流れるような動作で立ち上がると、私の目の前まで歩み寄った。
顔を上げずとも分かる。
私に降り注ぐ茶々様の眼差しは強く、気高く、美しい。
「…わらわは秀吉を殺そうとは思っておらぬ。殺したいほど憎んではいるが」
だが、と。 自身でそう言葉を遮った瞬間に、一際強い風が吹き込んだ。
「わらわはわらわの戦い方で、戦う。これからを生きてゆく。秀吉に嫁いだのは、その為の手段じゃ」
だから忘れないでくれ、と茶々様は言った。
共に過ごした、幼少の日々を、今日までの茶々様のことを。
いつか、今の面影が無くなってしまう日が来たとしても、私だけは忘れないでいてほしい、と。
豊臣の者として生きていく覚悟をした茶々様に、私はこれからも尽くしていくのだ。
◇ ◇ ◇
突き刺さる冷たい視線。
陰から浴びせられる心無い言葉たち。
それらの何一つも気にも留める様子無く、私の主は堂々と廊下を進んでいく。
何が彼女を強くしたのか。
何が彼女を変えたのか。
そんなのは愚問だ。時代が彼女を変えたのだ。
ーーー今の時代の頂点に立つ、豊臣秀吉が。
「…凛はここで控えよ」
「はい、茶々様」
去り際に受け取るのは、白い花が描かれた薄藍色の袿。
肩から滑り落ちるように脱いだその着物は、茶々様のお気に入りの着物であり、彼女のお母上であるお市の方の形見だ。
茶々様はいつも、辛いことや困難に立ち向かう日の夜、これを羽織っていた。
これより先は、秀吉様の閨となる。
先日天下人の側室となられた茶々様は、秀吉様からひっきりなしに夜伽を命じられていた。
私の役目は今宵も茶々様を部屋の前まで送り、その後は自室に戻り眠り、翌朝お迎えに上がるのだ。
(…良い夢を見ることが出来ますように)
彼女の袿を胸に抱き抱え、私はその場を後にした。
「あれが浅井の姉妹の長女である茶々様か」
夏の月の晦である今日は、いつになく城の中が騒がしい。
人々の声が交わる回廊で、鮮明に聞こえたのはあの青年の声。
弾かれたように背後を振り返れば、其処には予想通りの人物が居た。
「…岬殿」
「やめてよ、アンタに殿って呼ばれたくない」
そう言って、微かに笑った彼の頬は僅かに赤かった。
恐らくこの城中で行われていた宴会のどこかに参加していたのだろう。
「では、様がよろしいですか?」
「嫌だね」
「なら家の名をお教え下さいませ。そちらに“殿”を付けるのなら、文句は無いでしょう?」
「…文句、あるけど?」
そう言うと、彼は戯けたように笑った。
彼は岬という青年だ。
茶々様と共に秀吉様の養護を受けてから、時折夜に会う謎の青年。
一時は彼を不法侵入者かと思っていたが、どうやら違うようだ。
彼は秀吉様に仕えているらしい。
「今宵は宴会に参加されていたのですか?」
「ああ、うん。仕方なくね」
仕方なく、と言うことは…彼は相当身分が高い人なのだろうか?
人のことを探るのは好きではないし、得意ではないが、名前以外何も知らない彼のことが気になるのだ。
彼は何者? 秀吉様のお城に入ることが叶う身の上なのだから、公家や武家、あるいはお奉行様なのかしら。
月の光に照らされている彼の横顔を、チラリと見上げる。
よく見てみれば、とても綺麗な人だ。
ジッと見つめていたら案の定目が合ってしまい、私は慌てて視線を泳がせた。
そんな私を見て、彼は吹き出すように笑った。
「少し、話そうか。アンタの茶々様は今宵お召しだから、アンタは暇だろうし」
暇とはなんだ、暇とは。
私にも他の仕事というものがある。 まぁ、そう急ぐものではないけれど。
庭へと歩き出した彼に誘われ、私はその後に続いた。
夏の夜風が彼の髪をサラサラと揺らす。
彼は緑色の葉をつけた桜の木の前で足を止めると、体ごと此方を振り向いた。
「…名前、教えてよ」
この前は聞けなかったからさ、と。
涼やかな声音で私に言った。
「凛、です」
「……リン?」
「はい。鈴ではなく、凛とする…の方の凛です」
彼はへぇ、と頷いた。
自分から聞いてきたくせに興味は薄いようで、何だかムッとした。
「…凛、ね。いい響きじゃん。名前の通り、凛と咲く花のようだ」
「は、花…?わ、私が…?そんな大層な名前じゃ…」
彼は熱を持った私の頬に触れると、意地悪く微笑んだ。
「花って言っても……白詰草だけど?」
「なっ…」
白詰草なんて、一年中彼方此方に生えている雑草のようなものじゃないか。
というか、花ではなく草だし。
熱を持った頬を、パタパタと手で扇いだ。
ああ、恥ずかしい。何て調子の良い女なんだ、私は。
花の種類を言っていないのに、花のようだと言われただけで顔を赤くさせるなんて。
「…アンタ、やっぱり面白いね」
扇いでいた手を、掬うように掴まれた。
季節外れと言ってもいいくらいに、冷たい手。
その温度とは真逆に、触れ方や声音がとても優しくて、治まっていた鼓動が再び速くなる。
「アンタに似合う名前だと思うけど?」
「からかうのはもうやめてください」
ふいっと顔を背ければ、今度は顔ごと彼の方を向かせられた。
「アンタ、目逸らすの好きだよね」
「別に好きではありません」
「ふぅん」
彼はまたも興味が無さそうに、気のない相槌を打つ。
そんな顔でそんな返事をするのなら、聞かなければいいのに。
興味が無いのでしょう? 私のことを面白がるだけで、本当はどう思っているのやら。
彼はよくわからない人だけれど、不思議と無言が続いても気まずくなかった。
彼が話さなくても、私も話さなくても。
彼が纏う不思議な雰囲気は、何故か居心地がいい。
「…あの、岬様…?」
「様なんて、要らない。名前で呼んで」
「でも、そういう訳には…」
彼は私の顔を見て、ため息を吐いた。
きっと、見透かされている。
私が家柄や身分を気にしていることを。
「俺がいいって言ってるんだから、いい」
そう言われたら私はもう何も言えない。
ぎゅっと唇を引き結んで、彼の顔を見つめた。
夜風で頬の熱は冷めたはずなのに、身体は熱を持ったまま、さっきよりも温度が上がっていくばかりで。
心臓がいつにも増してトクトクと動いていて、目の前に居る彼の瞳と視線が交わった瞬間、大きく鼓動が跳ねた。
「じゃあ…岬さん、ですか?」
恐る恐るその名を呼べば、彼は笑う。
「嫌だ。岬がいい」
「そ、そんな、呼び捨てなんて…」
いくら彼が構わないと言ったとしても、そういう訳にはいかない。
親しき中にも礼儀あり、という諺があるように、身分や家柄を気にしないにしても、その名を呼び捨てる訳にはいかないのだ。
縋るように彼の琥珀色の瞳を見つめたが、彼は頷いてはくれず、笑みを深めるばかりで。
「…俺がアンタに名を何と呼ばせようと、誰にも関係ない。身分なんて関係ない。ただ、呼んでほしいだけ」
そう言った彼は、凄く泣きそうな顔をしていた。
(…そんなの、見せられたら、断れないじゃない…)
そんな寂しそうな顔で名前を呼んでほしいと言われたら、首を横に振れない。
意を決して、深く頷いた。
「……み、岬…」
「聞こえない。もっと大きな声で」
「岬」
「もう一度」
ーーーああ、なんて意地が悪いんだろう、貴方は。
まだ、出逢って間も無いのに。
片手で数えるほどしか月日は経っていないのに。
「岬」
「…うん」
名前を呼んだだけでにっこりと笑った彼に、私は心を奪われてしまったのかもしれない。
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