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ACT.3 ジェフリー - Jeffery
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青い結晶はしあわせな日々に心が安らかだった証。赤い結晶は燃えるような恋をしていた証。紫の結晶は誰にも言えない秘密を抱えていた証。ルフェルは棚に並ぶ結晶を眺めながら、いつ産まれ変わる日が来るのか見えないシャーリーと、もう二度と産まれることのないカーラを思い出していた。
「人間はなぜ……こんなにも早く死んでしまうんだろう」
「……血で血を洗い歴史を紡ぐ生き物だから」
声に振り返ると、ミシャがしなやかなプラチナの長い髪を指に巻き付けながら、浮かない顔で立っていた。
「大天使長……」
「ルフェル、わたしは無慈悲で……流す涙の一粒でさえも惜しむほど、強い女だと思ってる?」
「……いいえ、あなたは大天使長としての役割を正しく果たしただけだ」
「いまは大天使長って呼ばないで。昔みたいに名前で呼んでよ」
ミシャはほんの少し紅潮した頬を膨らませ口を尖らせながら、細く小さな木の枝を幾重にも織り込み作られた棚に大切そうに触れた。
「あなたには、この結晶たちのほうが大事みたいね」
ルフェルはクスリと笑って、ミシャのほっそりと伸びた指先を両の手で優しく包んで言った。
「ミシャ、きみは無慈悲なんかじゃない。きみの優しさは昔から変わらないよ」
「嘘ばっかり」
「純粋で泣き虫だったこどものまま、いまもそのままだ」
「でもジョシュアを果ての森へと追いやったわ」
「だから、そのことを気にしてここに来たんだろう?」
「もう二度と……見たくないのよ」
思わずこぼした言葉にミシャは、しまった、という顔を隠し切れなかった。その様子を見逃さなかったルフェルは、あの時覚えた違和感の正体を確かめようとミシャに訊ねた。
「天使が人間との恋に落ちることは、何より厳しく禁じられているよね」
「……そうね、決して赦されることではないわ」
「でも、大天使長という立場のきみが、わざわざ地上に降りてまで咎めなくてはならないほどのことじゃないはずだよ」
「それは……それはあの時、わたし以外に向かえる者がいなくて」
「そんな嘘を、この僕が信じるとでも思うのかい?」
「……そうよね、ごめんなさい。あなたを騙せるはずがないわね」
「なぜミシャが、わざわざジョシュアを止めに行ったんだ」
「……神々が……第二のルフェルを生まないように、と……」
……なるほど、そういうことか。
ルフェルはあの時覚えた違和感と、周りの雰囲気とは裏腹に過去に釘を刺すディオナの様子にようやく合点がいった。半信半疑の神々と、真実を知るディオナ。地上での過去をすべて忘れたはずの僕に、その凄惨な過去の出来事に、神々が警戒していることをディオナは暗に知らせようとしていたわけだ。
もう二度と起こしてはならない、地上と天空の悲劇 ──
「第二の僕……ねえ…」
「ねえルフェル、あなた本当はどこまで憶えているの?」
「どこまで、とは?」
「その……果ての森に送られた理由とか……」
「ああ、自分では憶えてなくても風の噂がうるさくてね」
そう笑いながらルフェルはミシャの指先をそうっと離した。すると今度はミシャがルフェルの腕を捕まえ寂しそうにぽつりとつぶやいた。
「ルフェル……あなたの罰が終わって、早く天空に戻れる日が来ればいいのに……」
しがみ付くミシャのプラチナの髪を優しくなでながら、ルフェルはさも当たり前のようにサラリと言った。
「僕はいまの仕事が気に入ってるのさ」
「光をもたらす暁の天使と呼ばれ、神々の信頼も篤かったあなたが……魂の案内だなんて」
ルフェルは静かに微笑むとミシャの腕をするりと解き、結晶の間からまた地上へと帰って行った。
───
天空の天使には階級があり、その階級ごとに役割が与えられていた。階級の低い天使には、地上で死んでしまう魂を天空に運んで来ることを、仕事として割り当てられていた。
もう数百年も昔、ルフェルの背にまだ十二枚の輝く翼が生えていた頃、天空の毎日はとても穏やかだった。争いもなく、蔓延する疫病もなく、ただただ地上の出来事に気を配っていればいいだけだった。
結晶の並ぶ棚からちょうどいい結晶を選び、生を司る女神ディオナがその結晶に新たな運命と鼓動を吹き込む。
その運命を、間違いなく遂行させることができるであろう地上の女の "子宮" と呼ばれる部分にその結晶を流し込むと、結晶はやがて子宮の内側を保護する膜となり、子に栄養を与える器官となって、人間は子を宿せるようになる。
棚にひしめく結晶は、やがて新たな運命を吹き込まれ、人間として転生するための重要な材料だった。
運命に逆らい、魂を穢す人間も少なくはなかった。
穢れた魂が増えることで地上の秩序が乱れる前に、その魂は早々に天空へと引き戻される。もちろん、天空へ引き戻されるのは穢れた魂ばかりとは限らない。不幸な事故、人間の不摂生が招く病、どこからともなく現れはびこる疫病などにより、否応なしに天空へ帰って来る魂もあった。
子を宿す人間が見付かると、ディオナは数多の結晶の中から相性を見極め結晶を選りすぐり、色付く結晶を浄化により無色透明にしたあと、その結晶に祝福を与え新たな運命と鼓動を吹き込む。十二枚の翼を持ったルフェルは、命を転生させる女神ディオナの側近として、子を宿すに相応しい人間を探し出すという、生命に関わる重要な役目を担っていた。
その頃地上では、天使の姿があちこちで見られた。人間はそれを当たり前のことだと受け入れ、地上の天使たちと良好な関係を築いていた。天使は神の御使いとして、人間の祈りを神々に届けてくれる存在であり、安らぎを与えてくれる存在だった。人間が産まれる時も、また死ぬ時も、必ず隣に天使がいて一緒に祈りを捧げた。
───
どこかに良い "素材" はいないか……子を宿すに相応しい人間は……
久々に訪れた小さな村の小道を歩いていると道沿いの、ある家にひとだかりができているのが見えた。開け放された玄関の扉からはひとがあふれ、あふれ出た者は窓から家の中を窺っている。心なしか、その家の隣にある牧場の牛や羊たちまでもが、何やら不穏な空気に包まれているように見える。
「何かあったのですか?」
ルフェルはそのひとだかりに近付くと、限界まで背伸びをして窓枠に指をかけ、必死に中を覗こうとしているこどもに声を掛けた。
「じいちゃんが、牛の世話をしてるときに倒れて苦しそうにしてるんだ。でもおれ、できることがないからって外に出されちゃって」
「そうだったのですか……それは心配ですね」
「うん……おれ、じいちゃんが大好きなんだ。じいちゃんは物知りで、何でも教えてくれるから」
「では、わたしと一緒に来なさい」
ルフェルはふわりとそのこどもを抱き上げると、家の正面にまわり玄関でひしめく村人たちに、少し場所を融通してくれるよう頼んだ。
じいさんはしあわせ者だなあ、ふたりも天使さまが来てくださるなんて、とみなそれぞれに場所を譲った。部屋にはすでにひとり、最期の祈りを捧げるための御使いがベッドのわきでひざまずいていた。
「じいちゃん!」
ルフェルの腕から飛び降りたこどもがベッドにしがみ付く。
最期の祈りを捧げていた天使は驚いて立ち上がり、それからルフェルに気付くとさらに驚いた。
「……ルフェルさま!? 大天使長さまがなぜ、このような場所に?」
ルフェルは静かにベッドに近付くと、息が詰まり苦しそうに呻く老人に声を掛けた。
「やあ、ジェフリー……僕を覚えているかい?」
息も絶えだえに老人はなんとか薄く目を開き、ルフェルの姿を確かめた。
「……ルフェルじゃないか……おまえさんはまだ……上手く飛べないのか?」
「ジェフリーはすっかり老けたね。あの頃はその子と同じくらい小さかったのに」
「……人間だからな……歳も取るってもんさ」
「その子はジェフリーが大好きなんだ。ジェフリー、何か言葉を掛けてやってくれないか?」
「おお……ケニー……」
ケニーはジェフリーの手をぎゅうっと握り締めた。
──
ルフェルは外で、中の天使がジェフリーの魂を連れて出て来るのを待っていた。しばらくすると、わっと家の中がいっそう騒がしくなり、それと同時に天使に伴われてジェフリーが外に出て来た。
「ジェフリー、しあわせな人生だったかい?」ルフェルが訊くと「上々だ」とジェフリーは答えた。
「ケニーのことだけが気掛かりだが、あとは思い残すこともない素晴らしい人生だったさ」
「それは良かった。まさか、ジェフリーの最後に立ち会えるなんて思いもよらなかったよ」
「さて、わしはいまからどこへ連れて行かれるんだね?」
「天空で神々の評価を受けて……いや、仕事を取り上げちゃいけないな」
と、ルフェルはもうひとりの天使を促した。
死んだ人間は天空の "評価の間" に連れて行かれ、神々がその人間の人生を "査定" する。
善い行いをして来た者は "結晶" となり、産まれ変わる時期を待つことができるが、悪い行いをして来た者は "果ての森" に送られ、気の遠くなるような時間をそこで過ごし続けることとなる。
果ての森は名前通り天空の果てにある場所で、別名を "忘却の森" といった。その森は異形の木々が生い茂り、足を踏み入れた者を逃さない。
森を抜け出せば天空に出られることを、天空に住まう者なら誰もが知っていた。しかし森は広く、深く、時間ごとに道の行く先を変化させてしまうため、いくら木々にしるしを付けようと、小石を順に並べて行こうと、森から逃れることなど到底できなかった。
空腹もなく、眠ることもない "魂" は、ただひたすら木々をかき分け歩き続けるか、あきらめてその場所に留まる以外にできることはなかった。
そうして、長い長い時間を森で過ごすことにより、魂は過去の出来事をひとつ、またひとつと忘れてしまう。完全に過去を忘れ、自分が何者であったのかすら思い出すこともできなくなった頃、神の赦しにより魂はやっと結晶化される。
悪い行いをして来た者をその場で結晶化し破壊してしまえば、産まれ変わることもなく手間も掛からない。こうして果ての森に送り込むことは、いわば神々の "慈悲" なのだ。もう一度産まれ変わる機会を与えるための "試練" という名の "儀式" なのだ。
ジェフリーはもちろん、その場で結晶となった。ジェフリーの結晶は澄み渡る美しい空と、そこに浮かぶ真っ白な雲のように、薄青と白のグラデーションを描いていた。結晶の中心に赤く小さな点があったのは、きっとケニーへの思いだろう。
───
八十年ほど昔のことだっただろうか。
ルフェルが "結晶の器" となる女を探しに立ち寄った小さな村。そこで背中に生えた十二枚の翼について、無邪気に声を掛けて来たこども。
「どうしてあなたには十二枚も翼があるの? 他の天使さまには二枚しか生えてないのに」
「僕は二枚ぽっちの翼じゃあ上手く飛べないんだよ」
と、笑いながらルフェルは答えた。
「ふうん、天使さまにも上手にできないことがあるんだねえ」
と、こどもは少しばかりルフェルを憐れんだ。
こどもの受け答えがあまりにも無邪気で、ルフェルはつい声をあげて笑ってしまった。ディオナの祝福を受けたこのこどもは、何て素直で正直で、好奇心にあふれているのだろう。
「きみの名前は?」
「ジェフリー。この先の牧場に住んでるんだ」
「僕はルフェル。ジェフリー、きみの夢はなんだい?」
「おれ、じいちゃんの牧場を大きくしたいんだ」
それからしばらくの間、ルフェルはジェフリーの話し相手となった。雨の日は、ジェフリーが雨に濡れ風邪をひくことのないよう十二枚の翼で屋根を作り、夏の暑い日はその翼でジェフリーを扇いだ。
牧場を大きくしたいというジェフリーから、牧場の羊が仔羊を産んだ話や、牛が一日に食べる牧草の量の多さ、役目を終えた馬が旅立った話、それから自分がどれだけ "じいちゃんを好きか" という話など、さまざまな話を聞きながら、ルフェルは喜び、驚き、悲しみ、笑い、ジェフリーとの時間をとても慈しんだ。
小さくて無邪気で可愛いジェフリー。
きみの夢は、ちゃんと叶ったんだね。
ルフェルは静かに、天空へと旅立ったジェフリーに思いを馳せた。
「人間はなぜ……こんなにも早く死んでしまうんだろう」
「……血で血を洗い歴史を紡ぐ生き物だから」
声に振り返ると、ミシャがしなやかなプラチナの長い髪を指に巻き付けながら、浮かない顔で立っていた。
「大天使長……」
「ルフェル、わたしは無慈悲で……流す涙の一粒でさえも惜しむほど、強い女だと思ってる?」
「……いいえ、あなたは大天使長としての役割を正しく果たしただけだ」
「いまは大天使長って呼ばないで。昔みたいに名前で呼んでよ」
ミシャはほんの少し紅潮した頬を膨らませ口を尖らせながら、細く小さな木の枝を幾重にも織り込み作られた棚に大切そうに触れた。
「あなたには、この結晶たちのほうが大事みたいね」
ルフェルはクスリと笑って、ミシャのほっそりと伸びた指先を両の手で優しく包んで言った。
「ミシャ、きみは無慈悲なんかじゃない。きみの優しさは昔から変わらないよ」
「嘘ばっかり」
「純粋で泣き虫だったこどものまま、いまもそのままだ」
「でもジョシュアを果ての森へと追いやったわ」
「だから、そのことを気にしてここに来たんだろう?」
「もう二度と……見たくないのよ」
思わずこぼした言葉にミシャは、しまった、という顔を隠し切れなかった。その様子を見逃さなかったルフェルは、あの時覚えた違和感の正体を確かめようとミシャに訊ねた。
「天使が人間との恋に落ちることは、何より厳しく禁じられているよね」
「……そうね、決して赦されることではないわ」
「でも、大天使長という立場のきみが、わざわざ地上に降りてまで咎めなくてはならないほどのことじゃないはずだよ」
「それは……それはあの時、わたし以外に向かえる者がいなくて」
「そんな嘘を、この僕が信じるとでも思うのかい?」
「……そうよね、ごめんなさい。あなたを騙せるはずがないわね」
「なぜミシャが、わざわざジョシュアを止めに行ったんだ」
「……神々が……第二のルフェルを生まないように、と……」
……なるほど、そういうことか。
ルフェルはあの時覚えた違和感と、周りの雰囲気とは裏腹に過去に釘を刺すディオナの様子にようやく合点がいった。半信半疑の神々と、真実を知るディオナ。地上での過去をすべて忘れたはずの僕に、その凄惨な過去の出来事に、神々が警戒していることをディオナは暗に知らせようとしていたわけだ。
もう二度と起こしてはならない、地上と天空の悲劇 ──
「第二の僕……ねえ…」
「ねえルフェル、あなた本当はどこまで憶えているの?」
「どこまで、とは?」
「その……果ての森に送られた理由とか……」
「ああ、自分では憶えてなくても風の噂がうるさくてね」
そう笑いながらルフェルはミシャの指先をそうっと離した。すると今度はミシャがルフェルの腕を捕まえ寂しそうにぽつりとつぶやいた。
「ルフェル……あなたの罰が終わって、早く天空に戻れる日が来ればいいのに……」
しがみ付くミシャのプラチナの髪を優しくなでながら、ルフェルはさも当たり前のようにサラリと言った。
「僕はいまの仕事が気に入ってるのさ」
「光をもたらす暁の天使と呼ばれ、神々の信頼も篤かったあなたが……魂の案内だなんて」
ルフェルは静かに微笑むとミシャの腕をするりと解き、結晶の間からまた地上へと帰って行った。
───
天空の天使には階級があり、その階級ごとに役割が与えられていた。階級の低い天使には、地上で死んでしまう魂を天空に運んで来ることを、仕事として割り当てられていた。
もう数百年も昔、ルフェルの背にまだ十二枚の輝く翼が生えていた頃、天空の毎日はとても穏やかだった。争いもなく、蔓延する疫病もなく、ただただ地上の出来事に気を配っていればいいだけだった。
結晶の並ぶ棚からちょうどいい結晶を選び、生を司る女神ディオナがその結晶に新たな運命と鼓動を吹き込む。
その運命を、間違いなく遂行させることができるであろう地上の女の "子宮" と呼ばれる部分にその結晶を流し込むと、結晶はやがて子宮の内側を保護する膜となり、子に栄養を与える器官となって、人間は子を宿せるようになる。
棚にひしめく結晶は、やがて新たな運命を吹き込まれ、人間として転生するための重要な材料だった。
運命に逆らい、魂を穢す人間も少なくはなかった。
穢れた魂が増えることで地上の秩序が乱れる前に、その魂は早々に天空へと引き戻される。もちろん、天空へ引き戻されるのは穢れた魂ばかりとは限らない。不幸な事故、人間の不摂生が招く病、どこからともなく現れはびこる疫病などにより、否応なしに天空へ帰って来る魂もあった。
子を宿す人間が見付かると、ディオナは数多の結晶の中から相性を見極め結晶を選りすぐり、色付く結晶を浄化により無色透明にしたあと、その結晶に祝福を与え新たな運命と鼓動を吹き込む。十二枚の翼を持ったルフェルは、命を転生させる女神ディオナの側近として、子を宿すに相応しい人間を探し出すという、生命に関わる重要な役目を担っていた。
その頃地上では、天使の姿があちこちで見られた。人間はそれを当たり前のことだと受け入れ、地上の天使たちと良好な関係を築いていた。天使は神の御使いとして、人間の祈りを神々に届けてくれる存在であり、安らぎを与えてくれる存在だった。人間が産まれる時も、また死ぬ時も、必ず隣に天使がいて一緒に祈りを捧げた。
───
どこかに良い "素材" はいないか……子を宿すに相応しい人間は……
久々に訪れた小さな村の小道を歩いていると道沿いの、ある家にひとだかりができているのが見えた。開け放された玄関の扉からはひとがあふれ、あふれ出た者は窓から家の中を窺っている。心なしか、その家の隣にある牧場の牛や羊たちまでもが、何やら不穏な空気に包まれているように見える。
「何かあったのですか?」
ルフェルはそのひとだかりに近付くと、限界まで背伸びをして窓枠に指をかけ、必死に中を覗こうとしているこどもに声を掛けた。
「じいちゃんが、牛の世話をしてるときに倒れて苦しそうにしてるんだ。でもおれ、できることがないからって外に出されちゃって」
「そうだったのですか……それは心配ですね」
「うん……おれ、じいちゃんが大好きなんだ。じいちゃんは物知りで、何でも教えてくれるから」
「では、わたしと一緒に来なさい」
ルフェルはふわりとそのこどもを抱き上げると、家の正面にまわり玄関でひしめく村人たちに、少し場所を融通してくれるよう頼んだ。
じいさんはしあわせ者だなあ、ふたりも天使さまが来てくださるなんて、とみなそれぞれに場所を譲った。部屋にはすでにひとり、最期の祈りを捧げるための御使いがベッドのわきでひざまずいていた。
「じいちゃん!」
ルフェルの腕から飛び降りたこどもがベッドにしがみ付く。
最期の祈りを捧げていた天使は驚いて立ち上がり、それからルフェルに気付くとさらに驚いた。
「……ルフェルさま!? 大天使長さまがなぜ、このような場所に?」
ルフェルは静かにベッドに近付くと、息が詰まり苦しそうに呻く老人に声を掛けた。
「やあ、ジェフリー……僕を覚えているかい?」
息も絶えだえに老人はなんとか薄く目を開き、ルフェルの姿を確かめた。
「……ルフェルじゃないか……おまえさんはまだ……上手く飛べないのか?」
「ジェフリーはすっかり老けたね。あの頃はその子と同じくらい小さかったのに」
「……人間だからな……歳も取るってもんさ」
「その子はジェフリーが大好きなんだ。ジェフリー、何か言葉を掛けてやってくれないか?」
「おお……ケニー……」
ケニーはジェフリーの手をぎゅうっと握り締めた。
──
ルフェルは外で、中の天使がジェフリーの魂を連れて出て来るのを待っていた。しばらくすると、わっと家の中がいっそう騒がしくなり、それと同時に天使に伴われてジェフリーが外に出て来た。
「ジェフリー、しあわせな人生だったかい?」ルフェルが訊くと「上々だ」とジェフリーは答えた。
「ケニーのことだけが気掛かりだが、あとは思い残すこともない素晴らしい人生だったさ」
「それは良かった。まさか、ジェフリーの最後に立ち会えるなんて思いもよらなかったよ」
「さて、わしはいまからどこへ連れて行かれるんだね?」
「天空で神々の評価を受けて……いや、仕事を取り上げちゃいけないな」
と、ルフェルはもうひとりの天使を促した。
死んだ人間は天空の "評価の間" に連れて行かれ、神々がその人間の人生を "査定" する。
善い行いをして来た者は "結晶" となり、産まれ変わる時期を待つことができるが、悪い行いをして来た者は "果ての森" に送られ、気の遠くなるような時間をそこで過ごし続けることとなる。
果ての森は名前通り天空の果てにある場所で、別名を "忘却の森" といった。その森は異形の木々が生い茂り、足を踏み入れた者を逃さない。
森を抜け出せば天空に出られることを、天空に住まう者なら誰もが知っていた。しかし森は広く、深く、時間ごとに道の行く先を変化させてしまうため、いくら木々にしるしを付けようと、小石を順に並べて行こうと、森から逃れることなど到底できなかった。
空腹もなく、眠ることもない "魂" は、ただひたすら木々をかき分け歩き続けるか、あきらめてその場所に留まる以外にできることはなかった。
そうして、長い長い時間を森で過ごすことにより、魂は過去の出来事をひとつ、またひとつと忘れてしまう。完全に過去を忘れ、自分が何者であったのかすら思い出すこともできなくなった頃、神の赦しにより魂はやっと結晶化される。
悪い行いをして来た者をその場で結晶化し破壊してしまえば、産まれ変わることもなく手間も掛からない。こうして果ての森に送り込むことは、いわば神々の "慈悲" なのだ。もう一度産まれ変わる機会を与えるための "試練" という名の "儀式" なのだ。
ジェフリーはもちろん、その場で結晶となった。ジェフリーの結晶は澄み渡る美しい空と、そこに浮かぶ真っ白な雲のように、薄青と白のグラデーションを描いていた。結晶の中心に赤く小さな点があったのは、きっとケニーへの思いだろう。
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八十年ほど昔のことだっただろうか。
ルフェルが "結晶の器" となる女を探しに立ち寄った小さな村。そこで背中に生えた十二枚の翼について、無邪気に声を掛けて来たこども。
「どうしてあなたには十二枚も翼があるの? 他の天使さまには二枚しか生えてないのに」
「僕は二枚ぽっちの翼じゃあ上手く飛べないんだよ」
と、笑いながらルフェルは答えた。
「ふうん、天使さまにも上手にできないことがあるんだねえ」
と、こどもは少しばかりルフェルを憐れんだ。
こどもの受け答えがあまりにも無邪気で、ルフェルはつい声をあげて笑ってしまった。ディオナの祝福を受けたこのこどもは、何て素直で正直で、好奇心にあふれているのだろう。
「きみの名前は?」
「ジェフリー。この先の牧場に住んでるんだ」
「僕はルフェル。ジェフリー、きみの夢はなんだい?」
「おれ、じいちゃんの牧場を大きくしたいんだ」
それからしばらくの間、ルフェルはジェフリーの話し相手となった。雨の日は、ジェフリーが雨に濡れ風邪をひくことのないよう十二枚の翼で屋根を作り、夏の暑い日はその翼でジェフリーを扇いだ。
牧場を大きくしたいというジェフリーから、牧場の羊が仔羊を産んだ話や、牛が一日に食べる牧草の量の多さ、役目を終えた馬が旅立った話、それから自分がどれだけ "じいちゃんを好きか" という話など、さまざまな話を聞きながら、ルフェルは喜び、驚き、悲しみ、笑い、ジェフリーとの時間をとても慈しんだ。
小さくて無邪気で可愛いジェフリー。
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