初戀

槙野 シオ

文字の大きさ
上 下
85 / 101

第八十二話 大行は細謹を顧みず

しおりを挟む


「……なんで、俺?」

コーヒーでもれてる間にみなとが説明してくれるんじゃないか、と期待していた五分ほど前の自分を猛省した。湊はガラステーブルの上にこれでもか、と過去問と参考書を重ねて開き、最近ではあまり見ることのなくなった眼鏡姿で我関せず、と無言で受験勉強に着手した。

一番の当事者である藍田あいだは終始頼りない笑顔を振りまきながら、時々、居心地が悪いということをオレの脳内に直接訴えた。

黒い革張りのソファで腕と脚を組みながら、宗弥むねひささんは半ば諦めたような視線をオレに投げ掛ける。

宗弥さんにコーヒーカップを渡し、それから湊の正面に座っている藍田にも同じようにコーヒーカップを渡した。テーブルの上には隙間がなかった関係上、湊の分は床に置き「蹴らないようにな」とひと言付け足した。


「結論から言うと、一番適任だと思ったからなんですけど……」

オレはカップを片手に宗弥さんの隣に腰掛けた。宗弥さんはカップに口を付けたあと、オレのほうに視線を傾け、相変わらず優雅な物腰で穏やかに問い掛けた。

「歳の頃三十前後のサラリーマン、って条件は満たしてるんだけどさ」
「言いたいことはわかります……金を払わなきゃ女から相手にされないような男には見えませんし」
「まあ、ハルは若過ぎるし、れんさんは融通が利かなそうだし、桐嶋きりしま先生じゃ人身売買に見えないこともないしな…」
「オレは身元がバレてるんで、その手の計画は立てられなくて」
賢颯けんそうくんの、もうひとつのバイト関係のひとは?」
「それも考えたんですけど、あんまり素性の知れないひとに頼んで、実際食われても困るなあ、とか」
「……俺が実際食うかもしれない可能性については?」

静かに過去問を解いていた湊がその姿勢を保ったまま、冷静極まりない口調でつぶやいた。

「そうなったら、お母さんと桜庭さくらばさんの耳に入るだけだよ」




── お願いすることは非常に簡単。

宗弥さんは、オレが指定した店で藍田を待っててください。オレと真壁まかべさんは先に店に入って、見えない場所で待機してますんで。藍田が来たら、そのまましばらく話でもしてもらって……その間、オレが真壁さんにあることないこと吹き込んで、最大限危機を煽っておきますから。

「了解。でもさ、その真壁さんってひとがなんの興味も示さなかったらどうするの?」
「100%ないとは思いますけど、そのときはそのまま、藍田とごはんデートでも楽しんでください」

藍田は宗弥さんの優し気な笑顔に安心したのか、小さな声で「よ、よろしくお願いします」と頭をさげた。


***


「寂しくなるねえ……」

注文をするために店員を呼ぶ客の声、酒の勢いもあってか会話の音量がデカくなる集団、忙しく動き回る店員に、殺気立つ厨房……この、超絶賑やかに盛り上がっている居酒屋の一角で、社長は時々思い出したようにこの台詞をオレに告げた。いまので確か五回目だ。

「まあまあ、いままでよくやってくれたじゃないですか」
「ほんとに頑張ってくれたよ」
「明るく送り出してやりましょうよ、社長」
「受験終わったらまた戻って来ますって。な? 久御山くみやま

来ねえよ!

今日をもってバイトを辞めるオレのために、合格祈願を兼ね開かれた送別会だが、社員のみなさんはいつもの飲み会と変わらないテンションだというのに、社長だけはなぜかしんみりしていた。

上京した十五の頃、なかなかバイト先が見つからず困っていたオレを、快く迎えてくれた社長と会社には本当に感謝してるし、辞めるのは正直オレも寂しい。ただ、夜遅くまでオレを待ってる湊の負担を減らし、勉強に専念させてやりたい。いや、オレも一応受験勉強はするけども。


本日八回目の「寂しくなるねえ……」を聴いたところで一次会が終了し、二次会に行く人数を確認していると真壁さんが「あー、俺帰るわ。久御山、受験頑張ってな」と片手をひらひら振りながら帰って行った。

「まだ八時なのに、早くないスか?」
「つっても、ゆきさんが送別会に来たことも奇跡に近いからな…」
「あー、確かに……こういうの、ほんと参加しなくなったもんなあ」
「ひとりにさせとくの、イヤなんだろ。ほら行くぞ」

……いま、社員さんたちの会話に気になる箇所なかったか? オレも一次会で切り上げようと思ってたけど、これは少々探りを入れたほうがよさそうな……


───


声が聞き取りづらいほど大賑わいだった居酒屋とは打って変わって、二次会は社長の知り合いが経営しているというオーセンティックバーだった。こんな、純粋に酒を楽しむような場所はオレにとってまだ敷居が高いんだが……まあ、キャバクラとかだとゆっくり話も聴けないからな、と案内された奥のボックス席に腰をおろした。


「それにしても、久御山が東大に行くとはなあ」
「いえ……まだ行けると決まったわけでは…」
「え、何よ、久御山ってまだ高校生だったの!?」
「このツラで進学校行ってるって、男の敵だろ」
「受験って、大学院? とか、そういうところだと思ってたわ…」

ふっ……自分の存在自体が霞むレベルの超人が身近にいるからな。オレなんか全然男の味方だわ……そんなことより、三年近くも一緒に働いてたっつのに、歳すら憶えられてなかったことのほうがビックリだ。

「まあ、落ちたらうちに就職すりゃいいだけだもんな」
「不吉なこと言わんでください」
「いいじゃねえか、うちで働けば……真壁なんて相当稼いでるぞ?」
「倖さん、稼いだだけ使っちゃうから金ねえじゃん」

その時、静かにグラスの中の丸氷を指でくるくると回していた社長が、ふふっと笑った。

「あいつがあんなに化けるとは、思いもしなかったけどねえ」

その穏やかな声とは裏腹に、社長の表情はどこか寂し気に見えた。


***


「……で? 相談ってのは?」

センター街のど真ん中にあるとは思えないほど落ち着いたカフェの中で、真壁さんは少しいぶかし気な顔を見せた。そりゃそうだ、かれこれ三年近くの付き合いになるが、こうしてふたりきりで逢うことは初めて、かつ、ここはいわば「若干お高めの素敵カフェ」である。

「真壁さん、この前逢った藍田って憶えてます?」
「ん-…? ああ……」

歯切れの悪い返事をしながら、真壁さんは何気なく店内を見渡した。

打ち合わせとおぼしきスーツ姿のサラリーマン、スイーツを楽しみながら談笑する女性客、それらにまぎれてぽつぽつと目に入る、「カップル」と呼ぶには少々ぎこちない男女ふたり組。オレは、藍田の想い人が誰なのかを知らないていで話し続けた。

「なんつーか、その藍田がヤバいっつーか、おかしいっつーか」
「……どういうことだよ」
「好きなひとがいるって言ってたじゃないですか」
「…おう、それで?」
「なんかその相手に、処女とは付き合えないって言われたみたいで」

今まさにコーヒーを口に含んだ真壁さんが、むせた。

「…っ、まあ、そういうヤツもいるんじゃねえか?」
「それはわかるんですけど」

── その時、「いらっしゃいませ」という声と同時に、背の高いスーツ姿の男が店に入って来た。店員との短いやり取りのあと、その男はまっすぐにひとつの席に向かい、腰をおろした。

「へえ……あんな、女に不自由してなさそうな男でも、するもんなんですかねえ」
「は? するって何を?」
「何を、って……パパかつですけど」
「パ……はあ!?」
「あれ、知りませんでした? この店、パパ活の顔合わせで結構使われてるって、クチコミサイトなんかでも有名で」
「知らねえわ! 普通に待ち合わせだろ、あんなの」
「いやいや……あの手の高めな男がデートで使うなら、銀座か六本木にでも行くでしょ」

そうこう話している時、再び「いらっしゃいませ」と声が聞こえ、入口に視線を動かした真壁さんはそのまま、入って来た客から目をらさなかった。

「あれ……藍田じゃん」

藍田は、さっき入って来た背の高いスーツ姿の男が座る席に向かい、深々と頭をさげ、こちら側を背に座った。

「なるほど……その手に出たか」
「いや待て、その手ってなんだよ」

焦ってるのか、真壁さんが少しだけ早口になる。

「処女とは付き合えない、って言われたからじゃないですか?」
「は? で? それとパパ活がどうつながるってんだよ」
「手っ取り早くヤっちゃえば処女じゃなくなる、って話でしょ?」


── パパ活といってもその契約はさまざまで、一緒にごはんを食べる、買い物に行く、映画を観に行く、など健全と呼べるようなものから、飲みにも行けばセックスもする、という大人の付き合いまで、要するになんでもアリだ。すべてはふたりで取り決めた契約に基づいて行われる。

ナンパや援助交際と違う点は、アプリやサイトを介することが多く、男側は有料会員である可能性も高いため、「食い逃げ」や「拉致監禁」といった危険性がぐっと低くなる。もちろん、そもそもカラダの関係を求めていない男性会員も存在するし、女側にしてみれば「素敵なお店でディナーを奢ってもらったうえに、お小遣いまでもらえる」と来ればかなりうまい。

兄活あにかつとか秘書活ひしょかつなんてものまであるらしいですよ」
「どうでもいいわ、その情報」
「……でもまあ、こうなっちゃったんならしょうがないか」
「こうなっちゃった、って」
「藍田があのイケメンとヤっちゃって、晴れて処女じゃなくなれば、片想い中の相手も拒まないってことでしょ?」
「……は? おまえ、あのまま放っとくつもりなのか?」
「いや、何しでかすかわからない藍田をどうすればいいか、真壁さんに相談しようと思っ」

オレの話なんてもう耳に入らなくなったのか、真壁さんは舌打ちをしながら立ち上がった。あえて見えない席に座ってたっつのに、わざわざ自分から姿現すくらい焦ってんのかねえ……まあ、計算どおりではあるんだけど、ここまで順調に事が運ぶと逆に怖くなるな……


立ち上がった真壁さんはまっすぐ藍田の席に向かい、オレもその背中にそっと続いた。いくら真壁さんでも、お高めな素敵カフェでいきなり宗弥さんをしばいたりはしないだろうが、絶対にしばかないという保証もない。

宗弥さんと藍田が談笑するテーブルで立ち止まった真壁さんは、ポケットに突っ込んでいた手を引き抜くと、向かい合うふたりの視線を遮るように腕を伸ばし、控えめにテーブルを叩いた。あくまでも、控えめに。

突然割り込んだ真壁さんに驚いたふたりは、当然その腕の主を見上げたが、ポケットから手を出した瞬間イヤな汗が背中を伝ったオレのことには、ふたりともまだ気付いてないみたいだ。

事前に打ち合わせてはいるものの、真壁さんがどういう行動に出るのか、まではさすがに予測できない。イイ大人なんだから滅多なことはないだろう、と自分を落ち着かせてみるも、この前社長から聴いた "昔の真壁さん" を思い出すと、やっぱり安心はできなかった……


真壁さんは、無言で藍田の腕を掴み立ち上がらせたあと、宗弥さんに視線を移した。いま真壁さんの前にいる宗弥さんは、パパ活中のサラリーマンだ。しかも、藍田とヤることが前提の。

真壁さんが藍田をどう思っているのかによっては、金にモノを言わせて藍田に手を付ける男なんて、敵でしかない。再びオレの背中にイヤな汗が流れる。


「……悪いな」

真壁さんはひと言、宗弥さんにそう告げると、藍田の腕を掴んだまま歩き出し、その真壁さんに引きずられるように藍田は連行され店から消えた。大きな騒ぎにはなっていないものの、目付きの悪いデカい男が女子高生を引きずって歩く姿に、店内は少しざわめいたがすぐに落ち着きを取り戻した。

さっきまで藍田が座っていた席に腰をおろすと、溜息を吐くオレを見ながら宗弥さんが笑う。

「随分とワイルドなひとだな」
「正直、いきなり宗弥さんを殴ったらどうしよう、とハラハラしました…」
「一体どういう煽り方をすれば、そういう心配に至るんだよ…」
「ま、とりあえず作戦は上手く行ったはずなんで……ありがとうございます」
「じゃあ、落ち着いたところで飯でもどう? 賢颯くん晩飯まだだろ?」

こっちの面倒に付き合ってくれた挙句、こんなことが言えるなんて、本当に宗弥さんってデキた男だなあおい。今度真壁さんに逢ったとき、ちゃんと本当のことを話して宗弥さんの汚名をそそごう……


***


「……座れよ」
「すわ…えっ…あの、どこに……」
「あ? 床でもソファでもベッドでも、どこでもいいだろ、んなもん」
「え、あ、はいっ…」

モノトーンで統一されてはいるものの、天井にはきらびやかなシャンデリア、壁には巨大なテレビが埋め込まれ、数人は寝られるであろう主張の激しいベッドと、革張りの高級そうなソファに圧倒された藍田は、入口の扉の前で立ち尽くすことが精一杯だった。何より、ラブホテルという場所など初めてなのだ。

脱いだ靴を揃えた藍田は、その場で背筋を伸ばし正座をしてみたものの、やはり落ち着かない。

── た、助けて久御山くん……わたし、この先の計画、聞いてないよ…


ソファに座っていた真壁は、半分ほど吸った煙草をガラスの灰皿に押し付け、溜息を吐きながら立ち上がり、藍田の目の前まで来ると目線を合わせるようにしゃがんだ。

「で? いくら?」
「……いくら?」
「あの優しそうな色男にいくらもらうつもりだったんだ、って訊いてんだよ」
「え…っと……それは…」
「三万? 五万? 初めてならプレミア付いて十万くらいか?」

── く、久御山くん……どう答えればいいの!? そこまでレクチャー受けてないよ!?

「ま、いいか……とりあえず、倍でどうだ?」
「…ば、倍…とは…」
「二十出すっつってんだよ」
「はい?」
「商売の邪魔したようなもんだからな。俺が二十万でおまえさんを買うわ」
「しょ、商売って…あの、わたし」
「……俺にどんな夢見てんのか知らねえけどな」

真壁は立ち上がり、カチャっと音を鳴らしながらベルトを緩め、藍田を見下ろしながら続けた。

「泣きわめいたら途中でめてもらえる、なんてあめえこと考えてんじゃねえぞ」

── く、く、久御山くん!? えっ、あの、どういう設定になってるの!? 商売って何!? わたし、いまどういう役柄なの!? こんなことなら事前に台本渡してよう!!!


久御山から「パパ活のていで」と聴いていたはずの藍田は、そもそも "パパ活" という単語が何を指すのかを知らなかった。指定された日時に指定されたカフェで宗弥と逢えば "なんだかよくわからないけれどすべてうまく行く" と思えるくらいには、久御山に対し絶対的な信頼を寄せていた。ただそれだけだった ──
しおりを挟む

処理中です...