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第七十話 男心と秋の空
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高校生活最後の貴重な夏休みは、骨髄液を抜いたり川に落ちて肋骨を折ったり友人が死に掛けたり、その友人が兄になったりと慌ただしく過ぎ去って行った。もう残された夏休みも十日ほどになって無性に "思い出作り" をしたくなったオレは、とりあえず湊の髪を明るいベージュに染めてみた。
「あのね久御山」
「うわあ……」
「うわあってなんだよ…おまえがこんな風にしたんだろ」
元が美少女だっただけあって、成長したいまでも贔屓目なしに湊はきれいだ。ツヤツヤの黒髪も奥床しくてそそるけど、髪色が明るくなると途端にエロさが増してますますそそる。まあ、黒髪だと陰キャに見えて茶髪だと陽キャに見えるってだけなんだろうか。
「超カッコイイ」
「は?」
「カッコイイというよりは美人? 少し伸びてるのも手伝ってイイ感じに美人」
「おまえに言われると申し訳ないわ」
「デートしよ?」
「えっ……外で?」
「家の中にいたらセックスしてしまうだろ」
「最後の夏休みに天変地異でも起こす気なのか」
いや、オレはセックスでもいいんだけど湊的には外でデートのほうが嬉しいんじゃないか、と思っただけで。
夏休みの間、オレが次から次へと問題を抱えて来たせいで湊とすれ違いになることが多かった。一緒にいて欲しいと思ったときそばにいないという状況がイヤで、湊には無理を言ってオレの家で生活してもらった。湊がここにいてくれるだけで、オレは随分と救われた気がする。
「…夏休み終わるっつっても暑いな」
「そりゃそうだろ…まだ八月なんだし」
玄関の扉を開けた瞬間、身体に纏わり着く熱気にうんざりする。このクソ暑い中、なんで湊は涼し気な顔をしてるんだろう。
家の鍵をポケットにねじ込んで湊の手を取り指を絡めると、少し申し訳なさそうな声で「暑くない?」と湊が訊く。
「暑いよ」
「手、つながなくても大丈夫だよ」
「ノンケじゃないし美人なカレシとイチャ付きたいしドヤりたいからつなぎたい」
「何をドヤるんだよ」
湊は小さく笑いながら、絡めた指を握り返した。
───
「……で、デートの場所がここなわけ?」
「うん、シロくんから一般病棟に移ったって聞いたから」
高校生活最後の貴重な夏休み、オレはまた病院でクレゾールの匂いをかがなきゃならんのか。
いつ来ても大学病院って場所は、外来患者と入院患者と面会者と医療従事者でごった返している。
「あ、ってことはオレの骨髄液、ちゃんとイイ仕事したんだ」
「うん、ちゃんと生着してるんだって」
洸征が骨髄移植を受けたあと、クリーンルームで入院してる関係上オレは見舞いに来たことがない……というか、バタバタし過ぎていて洸征のことなんてすっかり忘れてたってのが正直なところだ。
湊がドアをノックして病室に入ると、割と広めの個室のベッドの上で洸征は雑誌か何かを読んでるみたいだった。湊に気付いた洸征は、雑誌を膝の上で開いたまま湊に腕を伸ばした。
……は?
「湊……ぼくのこと忘れたのかと思ってた」
「まさか……普通の病室に移れてよかったね」
縋るように洸征は湊を抱き寄せ、背中に回されたその腕は愛おしそうに湊を抱き締めた。
「オレの目の前でよくそんなことができるもんだな、洸征…」
「……When did you come here?」
「湊と一緒に来ただろーが……っつーかなんで英語なんだよオレにも気遣えっつの」
「面倒くさいオニイチャンだなあ…」
「おう、喧嘩なら言い値で買うぞコラ」
「湊ぉ……なんかコワイヒトがいるぅ……」
「とにかく離れろこのヤロウ」
湊と洸征の間に割り込みふたりを引き剥がすと、洸征はヘラヘラ笑いながらオレを見上げた。
「ハグなんてあっちじゃ普通のことなんだけど、挨拶にも嫉妬しちゃうんだ?」
「うるせえな、ここは日本でハグは立派なセクハラなんだよ」
「Sexual harassmentって、嫌がらせのことだよね? 湊、嫌がってないと思うんだけど」
「いちいち流暢に発音すんな! 湊がどう思ってようとオレが嫌だっつってんだよ」
「はー……男の嫉妬は醜いだけだよ?」
「醜くて結構……湊もういいだろ、帰るぞ」
ハイハイ、と湊は軽く溜息を吐いて「また顔見に来るから、お大事にね」と洸征に笑顔を見せた。洸征は不満気な声で、
「次はいつもみたいにひとりで来てね」
と聞こえるようにわざとらしくオレを煽った。
病室を出て無言で歩くオレの顔を覗き込みながら、湊が探るように訊く。
「もしかして、怒ってる?」
「あ? 怒ってないように見える?」
「怒ってるように見えるけど、どれを怒ってるの?」
「どれ、って……どんだけ余罪抱えてんだよ」
「何度かお見舞いに来てたこと? ちょっと仲良くなってること? ハグされたこと?」
「なんでおまえのことを怒るんだよ…」
「えっ…洸征くんに腹立ててるの?」
「洸征に、っていうか……オレ以外のヤツが湊に触るのはイヤだね」
「触る、って…ハグなんて挨拶だって言われたから…」
「は? おまえ学校で沓川とか一ノ瀬に抱き着くか? むしろオレに抱き着くか?」
「し、しないけどさ…アメリカで育ってるならそれが普通なのかな、って…」
「おまえな……じゃあ、フランスではキスが挨拶だって言われたらフランス人とキスすんの?」
「ハグとキスは全然違うだろ!?」
「違くねえよ!」
「まったく別物だよ!」
「オレはっ……あー……うん、そうだな……はあ…そっか」
「……久御山? どうし」
「悪い、ちょっと……冷静になりたいっていうか、距離感考えたい」
「え……って、待てよ久御山、どういう意味で」
「ごめん、ちょっと寄りたいとこあるから」
こめかみ辺りの血管が酷く圧迫されたように脈を打ち続け、本来なら脳に送られるはずの血液がそこで停滞してしまった。リノリウムの床を歩く靴音さえ、耳の奥で鳴り続ける鼓動のくぐもった音に飲まれて消えた。うるさい、うるさい、うるさい ──
心臓の音が、うるさくてたまらない ──
闇雲に出口を目指し、扉の向こう側を逃げるように駆け出した。
***
足が竦んで……遠ざかる久御山を追い掛けることができなかった……
そっか、って
冷静になりたい、って
距離感考えたい、って
それは ── 何を納得して、何に動揺して、何の距離感を……って……間違いなく僕との距離感のことだろうけど……
洸征くんの言ったことをそのまま受け入れた僕が、何の後ろめたさもなしにハグされていた僕が、挨拶だよって言われて何も疑わなかった僕が悪い……んだろうか。
ちょっと待て、だって相手は男だよ? しかも久御山の弟だよ? たとえばスポーツなんかで円陣組んだりするよな? 男同士で肩組んだりするよな? 相手が女の子なら無暗に触れるもんじゃないと思うし、ハグだって立派にセクハラだろうけど、男同士だよ!?そんなに、冷静さを失うレベルで慌てたりムカついたりするもんか!?
あれか、僕が同性愛者だからか? 恋愛対象が男だから男に対する警戒心が強いのか? それって男相手なら僕がどうにかなるかもしれない、って疑ってるってことなのか? 普通の男女が異性なら誰でもいいってわけじゃないように、ゲイだって男なら誰でもいいってわけじゃないからな!?
……って、なんとか腹立てて自分を鼓舞しようと思ったけどやっぱりダメだ。
久御山は……僕との距離が近過ぎるって思ったんだろうか。僕は久御山に近付き過ぎてる? 踏み込んで欲しくないところまで踏み込んでしまってる? 久御山に余計なことを考えさせて、必要以上に気を遣わせてる? 少し……離れたほうがいい?
僕だって、久御山がいないと生きて行けない。
でもそれは……久御山がしあわせでいることが大前提だ。
おまえがしあわせじゃないなら……一緒にいる意味なんてない。
ないんだ、久御山 ──
***
「最悪だな……」
このクッソ暑い中走りながらどこへ行こうか、どこへ行けばいいのか考えて……たどり着いた場所がここって。友達の家とか行き付けの店とか一切思い付かないなんて、どんだけオレは世の中と隔絶されてんだって話だ。
見つからないよう忍び込んで、重い扉をそっと開けた。目の前に広がる屋上庭園の幻想的な佇まいに、ここが東京なんだってことを忘れそうになる。手すりの上に腰掛け、ぶらぶらと脚を揺らしながら地上を見下ろした。
あの時……ここで湊の背中を見つけた時、本当に心臓が止まるんじゃないかと思った。でも、いまは ──
ゴミゴミしてんなあ、と思うだけで怖くもなんともねえな。
怪我すりゃ痛いし病気になりゃしんどいけど、いままで一度も死んだことがないから感覚がわからないんだろう。だとしたらなんで……湊がいないと生きて行けないなんて思って、湊を失うのが怖いだなんて思うんだろう。高校一年になるまで、オレは湊がいなくても生きていられたのに。
たとえば湊が他の誰かを好きになったとしたら、オレは湊を手放せるんだろうか。その場合、オレは不幸かもしれないけどきっと湊はしあわせになる。好きなひとのしあわせを願うことが本当の愛だ、なんて言うけどさ……果たして、そうか?
そりゃあ好きなひとにはしあわせでいてもらいたい。でもそれは、見えないどこかでって話じゃない。しあわせでいてもらいたいって言葉の前には省略された(自分の隣で)って言葉が常にある。もちろん、隣で悲しい顔しかさせられないなら、見えないどこかで笑っててくれたほうがいいんだろうけど。
オレは湊をしあわせにしたいのかな。本当に湊のことが好きなのかな。それは恋愛としての「好き」なのかな。単純に、自分を特別扱いしてくれる湊が大事なだけなのかな。嫉妬って、なにも恋愛に限って生まれるもんじゃないよな。オレをひとりの人間として認めてくれるから湊が必要なだけなのかな。
可愛くてきれいで、意地っ張りなくせに弱々しくて、それなのに芯が強くて自分を曲げない湊を、オレは ──
いきなり背中を突き飛ばされ、その瞬間はっきりと死を覚悟した。前のめりになる身体と、ゆっくり流れて行く景色……なんだ、やっぱり怖くもなんともねーじゃねーか。
「こんなところで何してんだ、不法侵入者」
そのまま勢いに身を任せようと力を抜いたオレのジーンズのベルトを……桐嶋が思いっ切り引き寄せた。
「内臓口から出たらどーすんだよ!」
「責任持って詰め込んでやるよ……で、何してんだ」
「……別に、なんとなく」
「なんとなく、で飛び降りなんかされたらたまったもんじゃねェ」
「いや、あんたが突き飛ばしたんじゃねえか」
「不動産の査定額に響くからな、本気で飛びたきゃ余所に行けよ」
「あんた、紅さんの前じゃ猫五、六匹かぶってんのにいないと元に戻るんだな」
「…っ…………藤城から連絡あったぞ」
「なんだって? 連絡付かないって?」
「見つけたら "自宅に戻る" って伝えてくれ、とさ」
「……そっか」
もしかして、いよいよ飽きられたか?
まあ、そういうことならクソ暑いところで考えごとなんかする必要もないし、とっとと帰ろう。
「……桐嶋、ひとつ訊いていい?」
「なんだよ」
「他の男が目の前で紅さんをハグしたらどうする?」
「その男の素性を調べ上げたのち、薬漬けにして二度と近付けないようにする」
「じゃあそれが女だった場合は?」
「変わらねェよ、男だろうと女だろうと」
「アメリカじゃあハグなんて挨拶なのに?」
「郷に入っては郷に従えだろ、俺は日本育ちなんだよ」
「……あんた、自分の心が狭いなーとか思ったこと、ない?」
「ないな……紅さん以外のことならすべて譲れる広ーい心の持ち主だからな」
な、なるほど……その考えはなかった……
───
同じことをぐるぐる考えながら家に戻り鍵を開けようとしたとき、玄関の扉が開いて中から湊がデカいバッグを抱えて現れた。なんというタイミングの悪さ……
「おかえり、久御山」
「うん……いまから帰んの?」
「うん、部屋片付けてたらちょっと遅くなった」
「そっ、か……気付けてな」
「うん、じゃあ……元気で」
元気で、って……なんだそりゃ。おまえの家はここから電車で十分程度の距離にあんだろ。そんな、永遠の別れみたいな言い…
「湊……オレから離れる…のかな」
「ああ……うん、そのほうが」
「なんで?」
「なんで、って……嫌なんだろ?」
「何が?」
「恋愛感情みたいなものに振り回される自分が」
「……どうして」
「伝わるんだよ、なんとなく……形のないものに振り回されるの、しんどいんだろうな、って」
「オレは大事だよ? 湊のことが大事だよ!?」
「うん、でもさ久御山」
「でも? でも、なんだよ」
「それ、恋じゃないから……大丈夫だよ久御山」
「大丈夫、って……何が…」
「恋愛じゃないからそんな深く考えなくていいよ、って意味だよ」
じゃあな、と湊はオレの肩をポンと叩いて帰って行った。
そっか、恋じゃ……なかったのか。
オレは靴紐がほどけなくて、ブーツを履いたまま玄関に転がった。
「あのね久御山」
「うわあ……」
「うわあってなんだよ…おまえがこんな風にしたんだろ」
元が美少女だっただけあって、成長したいまでも贔屓目なしに湊はきれいだ。ツヤツヤの黒髪も奥床しくてそそるけど、髪色が明るくなると途端にエロさが増してますますそそる。まあ、黒髪だと陰キャに見えて茶髪だと陽キャに見えるってだけなんだろうか。
「超カッコイイ」
「は?」
「カッコイイというよりは美人? 少し伸びてるのも手伝ってイイ感じに美人」
「おまえに言われると申し訳ないわ」
「デートしよ?」
「えっ……外で?」
「家の中にいたらセックスしてしまうだろ」
「最後の夏休みに天変地異でも起こす気なのか」
いや、オレはセックスでもいいんだけど湊的には外でデートのほうが嬉しいんじゃないか、と思っただけで。
夏休みの間、オレが次から次へと問題を抱えて来たせいで湊とすれ違いになることが多かった。一緒にいて欲しいと思ったときそばにいないという状況がイヤで、湊には無理を言ってオレの家で生活してもらった。湊がここにいてくれるだけで、オレは随分と救われた気がする。
「…夏休み終わるっつっても暑いな」
「そりゃそうだろ…まだ八月なんだし」
玄関の扉を開けた瞬間、身体に纏わり着く熱気にうんざりする。このクソ暑い中、なんで湊は涼し気な顔をしてるんだろう。
家の鍵をポケットにねじ込んで湊の手を取り指を絡めると、少し申し訳なさそうな声で「暑くない?」と湊が訊く。
「暑いよ」
「手、つながなくても大丈夫だよ」
「ノンケじゃないし美人なカレシとイチャ付きたいしドヤりたいからつなぎたい」
「何をドヤるんだよ」
湊は小さく笑いながら、絡めた指を握り返した。
───
「……で、デートの場所がここなわけ?」
「うん、シロくんから一般病棟に移ったって聞いたから」
高校生活最後の貴重な夏休み、オレはまた病院でクレゾールの匂いをかがなきゃならんのか。
いつ来ても大学病院って場所は、外来患者と入院患者と面会者と医療従事者でごった返している。
「あ、ってことはオレの骨髄液、ちゃんとイイ仕事したんだ」
「うん、ちゃんと生着してるんだって」
洸征が骨髄移植を受けたあと、クリーンルームで入院してる関係上オレは見舞いに来たことがない……というか、バタバタし過ぎていて洸征のことなんてすっかり忘れてたってのが正直なところだ。
湊がドアをノックして病室に入ると、割と広めの個室のベッドの上で洸征は雑誌か何かを読んでるみたいだった。湊に気付いた洸征は、雑誌を膝の上で開いたまま湊に腕を伸ばした。
……は?
「湊……ぼくのこと忘れたのかと思ってた」
「まさか……普通の病室に移れてよかったね」
縋るように洸征は湊を抱き寄せ、背中に回されたその腕は愛おしそうに湊を抱き締めた。
「オレの目の前でよくそんなことができるもんだな、洸征…」
「……When did you come here?」
「湊と一緒に来ただろーが……っつーかなんで英語なんだよオレにも気遣えっつの」
「面倒くさいオニイチャンだなあ…」
「おう、喧嘩なら言い値で買うぞコラ」
「湊ぉ……なんかコワイヒトがいるぅ……」
「とにかく離れろこのヤロウ」
湊と洸征の間に割り込みふたりを引き剥がすと、洸征はヘラヘラ笑いながらオレを見上げた。
「ハグなんてあっちじゃ普通のことなんだけど、挨拶にも嫉妬しちゃうんだ?」
「うるせえな、ここは日本でハグは立派なセクハラなんだよ」
「Sexual harassmentって、嫌がらせのことだよね? 湊、嫌がってないと思うんだけど」
「いちいち流暢に発音すんな! 湊がどう思ってようとオレが嫌だっつってんだよ」
「はー……男の嫉妬は醜いだけだよ?」
「醜くて結構……湊もういいだろ、帰るぞ」
ハイハイ、と湊は軽く溜息を吐いて「また顔見に来るから、お大事にね」と洸征に笑顔を見せた。洸征は不満気な声で、
「次はいつもみたいにひとりで来てね」
と聞こえるようにわざとらしくオレを煽った。
病室を出て無言で歩くオレの顔を覗き込みながら、湊が探るように訊く。
「もしかして、怒ってる?」
「あ? 怒ってないように見える?」
「怒ってるように見えるけど、どれを怒ってるの?」
「どれ、って……どんだけ余罪抱えてんだよ」
「何度かお見舞いに来てたこと? ちょっと仲良くなってること? ハグされたこと?」
「なんでおまえのことを怒るんだよ…」
「えっ…洸征くんに腹立ててるの?」
「洸征に、っていうか……オレ以外のヤツが湊に触るのはイヤだね」
「触る、って…ハグなんて挨拶だって言われたから…」
「は? おまえ学校で沓川とか一ノ瀬に抱き着くか? むしろオレに抱き着くか?」
「し、しないけどさ…アメリカで育ってるならそれが普通なのかな、って…」
「おまえな……じゃあ、フランスではキスが挨拶だって言われたらフランス人とキスすんの?」
「ハグとキスは全然違うだろ!?」
「違くねえよ!」
「まったく別物だよ!」
「オレはっ……あー……うん、そうだな……はあ…そっか」
「……久御山? どうし」
「悪い、ちょっと……冷静になりたいっていうか、距離感考えたい」
「え……って、待てよ久御山、どういう意味で」
「ごめん、ちょっと寄りたいとこあるから」
こめかみ辺りの血管が酷く圧迫されたように脈を打ち続け、本来なら脳に送られるはずの血液がそこで停滞してしまった。リノリウムの床を歩く靴音さえ、耳の奥で鳴り続ける鼓動のくぐもった音に飲まれて消えた。うるさい、うるさい、うるさい ──
心臓の音が、うるさくてたまらない ──
闇雲に出口を目指し、扉の向こう側を逃げるように駆け出した。
***
足が竦んで……遠ざかる久御山を追い掛けることができなかった……
そっか、って
冷静になりたい、って
距離感考えたい、って
それは ── 何を納得して、何に動揺して、何の距離感を……って……間違いなく僕との距離感のことだろうけど……
洸征くんの言ったことをそのまま受け入れた僕が、何の後ろめたさもなしにハグされていた僕が、挨拶だよって言われて何も疑わなかった僕が悪い……んだろうか。
ちょっと待て、だって相手は男だよ? しかも久御山の弟だよ? たとえばスポーツなんかで円陣組んだりするよな? 男同士で肩組んだりするよな? 相手が女の子なら無暗に触れるもんじゃないと思うし、ハグだって立派にセクハラだろうけど、男同士だよ!?そんなに、冷静さを失うレベルで慌てたりムカついたりするもんか!?
あれか、僕が同性愛者だからか? 恋愛対象が男だから男に対する警戒心が強いのか? それって男相手なら僕がどうにかなるかもしれない、って疑ってるってことなのか? 普通の男女が異性なら誰でもいいってわけじゃないように、ゲイだって男なら誰でもいいってわけじゃないからな!?
……って、なんとか腹立てて自分を鼓舞しようと思ったけどやっぱりダメだ。
久御山は……僕との距離が近過ぎるって思ったんだろうか。僕は久御山に近付き過ぎてる? 踏み込んで欲しくないところまで踏み込んでしまってる? 久御山に余計なことを考えさせて、必要以上に気を遣わせてる? 少し……離れたほうがいい?
僕だって、久御山がいないと生きて行けない。
でもそれは……久御山がしあわせでいることが大前提だ。
おまえがしあわせじゃないなら……一緒にいる意味なんてない。
ないんだ、久御山 ──
***
「最悪だな……」
このクッソ暑い中走りながらどこへ行こうか、どこへ行けばいいのか考えて……たどり着いた場所がここって。友達の家とか行き付けの店とか一切思い付かないなんて、どんだけオレは世の中と隔絶されてんだって話だ。
見つからないよう忍び込んで、重い扉をそっと開けた。目の前に広がる屋上庭園の幻想的な佇まいに、ここが東京なんだってことを忘れそうになる。手すりの上に腰掛け、ぶらぶらと脚を揺らしながら地上を見下ろした。
あの時……ここで湊の背中を見つけた時、本当に心臓が止まるんじゃないかと思った。でも、いまは ──
ゴミゴミしてんなあ、と思うだけで怖くもなんともねえな。
怪我すりゃ痛いし病気になりゃしんどいけど、いままで一度も死んだことがないから感覚がわからないんだろう。だとしたらなんで……湊がいないと生きて行けないなんて思って、湊を失うのが怖いだなんて思うんだろう。高校一年になるまで、オレは湊がいなくても生きていられたのに。
たとえば湊が他の誰かを好きになったとしたら、オレは湊を手放せるんだろうか。その場合、オレは不幸かもしれないけどきっと湊はしあわせになる。好きなひとのしあわせを願うことが本当の愛だ、なんて言うけどさ……果たして、そうか?
そりゃあ好きなひとにはしあわせでいてもらいたい。でもそれは、見えないどこかでって話じゃない。しあわせでいてもらいたいって言葉の前には省略された(自分の隣で)って言葉が常にある。もちろん、隣で悲しい顔しかさせられないなら、見えないどこかで笑っててくれたほうがいいんだろうけど。
オレは湊をしあわせにしたいのかな。本当に湊のことが好きなのかな。それは恋愛としての「好き」なのかな。単純に、自分を特別扱いしてくれる湊が大事なだけなのかな。嫉妬って、なにも恋愛に限って生まれるもんじゃないよな。オレをひとりの人間として認めてくれるから湊が必要なだけなのかな。
可愛くてきれいで、意地っ張りなくせに弱々しくて、それなのに芯が強くて自分を曲げない湊を、オレは ──
いきなり背中を突き飛ばされ、その瞬間はっきりと死を覚悟した。前のめりになる身体と、ゆっくり流れて行く景色……なんだ、やっぱり怖くもなんともねーじゃねーか。
「こんなところで何してんだ、不法侵入者」
そのまま勢いに身を任せようと力を抜いたオレのジーンズのベルトを……桐嶋が思いっ切り引き寄せた。
「内臓口から出たらどーすんだよ!」
「責任持って詰め込んでやるよ……で、何してんだ」
「……別に、なんとなく」
「なんとなく、で飛び降りなんかされたらたまったもんじゃねェ」
「いや、あんたが突き飛ばしたんじゃねえか」
「不動産の査定額に響くからな、本気で飛びたきゃ余所に行けよ」
「あんた、紅さんの前じゃ猫五、六匹かぶってんのにいないと元に戻るんだな」
「…っ…………藤城から連絡あったぞ」
「なんだって? 連絡付かないって?」
「見つけたら "自宅に戻る" って伝えてくれ、とさ」
「……そっか」
もしかして、いよいよ飽きられたか?
まあ、そういうことならクソ暑いところで考えごとなんかする必要もないし、とっとと帰ろう。
「……桐嶋、ひとつ訊いていい?」
「なんだよ」
「他の男が目の前で紅さんをハグしたらどうする?」
「その男の素性を調べ上げたのち、薬漬けにして二度と近付けないようにする」
「じゃあそれが女だった場合は?」
「変わらねェよ、男だろうと女だろうと」
「アメリカじゃあハグなんて挨拶なのに?」
「郷に入っては郷に従えだろ、俺は日本育ちなんだよ」
「……あんた、自分の心が狭いなーとか思ったこと、ない?」
「ないな……紅さん以外のことならすべて譲れる広ーい心の持ち主だからな」
な、なるほど……その考えはなかった……
───
同じことをぐるぐる考えながら家に戻り鍵を開けようとしたとき、玄関の扉が開いて中から湊がデカいバッグを抱えて現れた。なんというタイミングの悪さ……
「おかえり、久御山」
「うん……いまから帰んの?」
「うん、部屋片付けてたらちょっと遅くなった」
「そっ、か……気付けてな」
「うん、じゃあ……元気で」
元気で、って……なんだそりゃ。おまえの家はここから電車で十分程度の距離にあんだろ。そんな、永遠の別れみたいな言い…
「湊……オレから離れる…のかな」
「ああ……うん、そのほうが」
「なんで?」
「なんで、って……嫌なんだろ?」
「何が?」
「恋愛感情みたいなものに振り回される自分が」
「……どうして」
「伝わるんだよ、なんとなく……形のないものに振り回されるの、しんどいんだろうな、って」
「オレは大事だよ? 湊のことが大事だよ!?」
「うん、でもさ久御山」
「でも? でも、なんだよ」
「それ、恋じゃないから……大丈夫だよ久御山」
「大丈夫、って……何が…」
「恋愛じゃないからそんな深く考えなくていいよ、って意味だよ」
じゃあな、と湊はオレの肩をポンと叩いて帰って行った。
そっか、恋じゃ……なかったのか。
オレは靴紐がほどけなくて、ブーツを履いたまま玄関に転がった。
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