初戀

槙野 シオ

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第六十二話 薄氷を履むが如し

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「チビッコ、おまえ大丈夫か!」
澄晴きよはる、そのまま抱き着いたあかん! シャツ脱いで!」
「湊、まだ吐く? もう大事ない?」
「あ…はい……」
「ほな、肩掴まりや」
「ちょ、チビッコ! なんか飲むもの要る!? 水飲む!?」
「…えらい大きいチビッコやなあ澄晴」
「あ、みず……ほし…」
「ボク買って来るから、ちょっと待って!」

どうして綾小路さんがここにいるんだろう……シロくんとクロくんもどうして僕がここにいるってわかったんだろう……大騒ぎで外に出ると車が一台停まっていて、運転席の窓からたちばなさんが心配そうに顔を出していた。何がどうなってこうなってるのかわからないけど、とりあえず……

久御山くみやまに…連絡してくれませんか……あいつが犯罪者になる前に…」
「連絡済みや……先、病院行ってる思うで」


***


「…………こう…さん…?」
桐嶋きりしま……あんた…………こういう趣味なん?」

六本木のクリニックの地下で十七年振りの再会を果たすとか、なんの冗談なんだ……誰がどう見てもマトモな部屋じゃない。俺が見ても持ち主を変態だと思う自信がある。

「えっ、あっ……あの、いえ、あのそうじゃなくて!!」
「十七年の間にSMに目覚めたんかと……えらい部屋やなあ」
「ち、違います! っていうか、えっ!? どうしてですか!?」
「何がやの……」
「えっ、だって……日本に……」
黒檀こくたん白檀びゃくだんが、日本に洸征こうせい呼び寄せた時から考えててん」
「だって……どうして……」
「洸征ももうこどもやない、て黒檀と白檀がゆうから」

……腰が抜けた。ズルズルと背中で壁を擦りながら床にへたり込み、茫然自失となった俺はもう溜息すら出なかった。

「桐嶋、いまの職業はマフィアかなんかなん?」
「そんなわけないじゃないですか…」
「どう見てもそんな風にしか見えへんのやけど」
「普通に開業医ですよ……」
「そんな髪の長い黒スーツの開業医、いてる?」
「目の前にいるじゃないですか…」
「ほんまはマフィアやろ?」
「本当はホストです」
「あない可愛かったのに、ようそないれたもんやな」
「……紅さんは全然変わらないですね」
「あほ言いな、もう四十三やで」


樒廼 紅しきみの こうはあの時となんら変わりない美しさで、その頬を緩めあどけない顔で弾けるように笑った。洸征を連れ国外へ逃げ、連絡先は機密扱い、逃げたことを告げることも許されず、親兄弟でさえ連絡を禁じられた。マンハッタンにいることを知ったのは紅が消息を絶ってから十五年後、シロクロが帰国した時だった。

メディカルゲノムセンター主導で胚細胞クローンのプロジェクトが立ち上がった時、自主的に加わったのは紅自身だ。研究員としての本能なのかもしれないが、当時はその件で俺と紅は毎日のように揉めた。何の力もない一介の大学生にできることはなかったが、命を操作するような人間のエゴを、俺は到底受け入れられなかった。

その俺の頑なな心を溶かしたのは、紅のひと言だった。


「ほな、あんたが父親になってくれたらええやないの」


倫理的によろしくないだの、産まれた子が出生の成り行きを知ったときどう思うかだの、好奇の目に晒されてもいいのかだの、片親だと苦労も多いだの、思い付く限り客観的に否定してみたものの、結局俺は「紅がクローンに取られてしまう」というこども染みた嫉妬をしているだけだった。

惚れた弱味を利用されただけかもしれないし、紅にとってそれは最終手段だったのかもしれない。それでも俺はそのひと言で、紅と産まれて来る「どこの誰とも知れない人間の胚細胞クローン」を「紅の子」として守って行こうと誓った。

産まれる日を心待ちにしていた紅の、時折覗かせる母親の顔。

「いまから入院して産んで来るわ」と笑いながら言った紅は、そのまま帰って来なかった。極秘のプロジェクトに立ち会い出産や見舞いなんて気の利いたものは何ひとつない。ただ待つことしかできなかった俺の元に舞い込んだしらせは、世の中のすべてを疑い、呪うに充分過ぎる内容だった。

未だ鮮明に脳内にこびり付く、送られて来たUSBメモリの中身。一体誰が、どんな目的でこんなむごいことを? 紅は生きているのか? こどもは?

捜す? 調べる? 戦う?
どこを、何を、どうやって?

金も地位も権力もない大学生にできることは、泣いて呑んでくだを巻いて殴られて吐くくらいのものだった。

医師国家試験を経て医師免許を取得したあと、初期臨床研修でMGCに配属された。勿論、偶然なんかじゃない。とにかく内部に潜り込まなければ、何の手掛かりも得られないと思ったが、潜り込んでからも手掛かりを得られることはなかった。ただ、人脈ができたことは大きな収穫だった。

当時の研修指導医だった織田医師の研究対象である狐森 黒檀きつねもり こくたん白檀びゃくだん ──


俺は二十も年下の双子の "奴隷" として、これから先の人生を売った。


***


「ケンソー、命に別状ないさかい落ち着きよし…」
「……落ち着いていられるわけねえだろ」
「イライラしててもなんも変わらへんよ」
「わかってるよ!」

診察室の前にある待合いの椅子に浅く腰掛け、握り締めた手の震えを止めようと深呼吸を繰り返した。赦さない。それが誰であっても。どんなことをしてでも地獄を見せてやる。その時オレは心底そう思っていた。

診察室の大きな扉が開き、整形外科の医師に伴われ出て来た湊は、想像どおり何事もなかったような顔をしていた。

「ご家族の方は……」
「はい」 「はい」 「はい」 「はい」 「はい」

なぜかオレ、シロクロ、綾ちゃん、橘さん全員が立ち上がった。

「ご、ご兄弟ですか…? あー、えーと、左手のひと差し指、中指、薬指の第二関節に脱臼がありましたが、整復して手のひらから動かないようシーネで固定してあります。手術をする必要もありませんでした。三週間は左手を使わないよう、ご家族の方も手伝ってあげてください」
「脱臼……? 折れてないんですか?」
「折れてませんし、靭帯や腱、筋肉、皮膚の損傷もありません」
「それは、安心していいんでしょうか」
「痛いことに変わりはないので……一応後遺症の心配もありますし」
「……そうですか」
「痛み止めと、解熱鎮痛剤、強い痛み用に座薬を出しておきます」

二日後に経過を診せてください、お大事に、と言って整形外科の医師は診察室へと戻った。

「久御山、クロくん、シロくん、綾小路さん、橘さん、ご迷惑をお掛けしました。ありがとうございます」
「チビッコ、痛い? 大丈夫?」
きよ、藤城はもうおまえより大きいよ」
「いま、麻酔が効いてるので痛くはないです」
「じゃあ痛くないうちにごはん食べに行かない?」
「うち、お好み食べたい」
「もんじゃは?」
「どっちもある店探そうか」

湊は笑ってるけど、さすがにオレは笑えなかった。みんな、それぞれ思うところはあるだろうが、表向きは何事もなかった顔で入口の自動ドアを通り抜けた。どうすることもできない気持ちを持て余し、それでもはっきりとわかる怒りが身体を支配する。そして、視線の先の光景に、胸の奥が大きく震えた。


「……桐嶋、てめえ…」

病院の玄関で俯き佇む桐嶋の姿に、オレを構成する60%の水分と残りの炭素、酵素、水素、窒素、カルシウム、リン、カリウムすべての分子が沸騰した。

不穏な空気を感じ足を止める湊たちを余所に、オレは桐嶋に歩み寄った。殴ってやろうとか蹴ってやろう、とか具体的なことは何ひとつ浮かばなかったが、とにかく見ないフリだけはしてやれなかった。そして胸ぐらを掴もうと腕を伸ばしたところに、見知らぬ女が割って入った。

その女はオレに向かって左腕を差し出し、指を曲げたり伸ばしたりしながら穏やかに笑った。

「久御山 賢颯くん」
「……そうですけど」
「桐嶋に仕返ししたいなら、本人痛め付けてもあかんえ。一番効き目があるのは、わたしの指を折ることや」

……もしかして、この頭のおかしなことを笑顔で言ってるのは……

「樒廼 紅さん? 洸征の?」
「はい、黒檀と白檀と洸征がお世話になってます……折らへんの?」
「……湊、先に行って店決まったら連絡して」
「了解、じゃあ行きますか」

湊たちは、なるべくオレたちのことを気にしない素振りで歩いて行った。まあ、オレが女のひとの骨を折ったりしないと信じてるんだろうけど。


「アンタ、桐嶋のナニ? どういう関係?」
「そやなあ……妻になる予定やったけど、十七年延期中、ゆうとこかな」
「……妻? は? 紅さん、桐嶋と付き合ってんの?」
「桐嶋に別れたつもりがないなら、まだ付き合ってんちゃうかな」

どういうことだ。事の経緯がさっぱりわからん。洸征の母体が元MGCの研究員だった紅さんで、洸征にクローンとしての利用価値がないからと母子共々国外に追いやられ……追いやったのは久御山のばーさんだろうが……その時、紅さんは桐嶋と付き合って……

「オレはいま、最悪な事実を知ってしまったんじゃないかと思ってるんだけど」
「最悪な事実て?」
「桐嶋……あとで連絡する…」
「…あ、ああ…わかった…」


さっきまでの激しい感情が嘘のように静まり返った。

多分、シロクロなら "本当のこと" を知ってる気がした。


***


「久御山、顔色悪いけど大丈夫?」

店で待っていると、普段から肌の白い久御山が血の気の一切ない作り物のような白い顔で現れた。桐嶋先生と酷く揉めたんだろうか……それでも久御山は「大丈夫よ」と言って笑う。

「ケンソー、お好みともんじゃ、どっち?」
「あー…焼きそば」
「どないやねん」

久しぶりに逢う橘さんは何も訊かずに普段通り振る舞ってくれたけど、綾小路さんは現場に踏み込んだことも手伝って、さっきからなんとなくソワソワと落ち着かない。とはいえ、ありのままを話すわけにも行かないからなあ…

「チビッコ、なんであんなとこにいたの?」
「澄、そういうのもう少し落ち着いてからにしたら?」
「でも」
「あー、えっと……プレイの一環というか」
「プレイ!? チビッコが!? 桐嶋先生と!?」
「澄、声大きいよ」
「ちょっと好奇心で…拘束プレイ、みたいな…?」
「……チビッコ、そういうの興味あったんだ」

なるほどねえ、と納得する綾小路さんと、苦笑いの僕、そんなわけないだろっていう顔の橘さんと、完全スルーでお好み焼きを突つくシロくんクロくん、そして上の空の久御山。

「でもさ、チビッコ」
「はい」
「プレイと拷問て違うから、いくらドMでも病院沙汰になるようなことはしちゃダメだよ」
「……はい」

きっと綾小路さんの中で僕は、SM緊縛スカトロプレイOKなドMってことになったんだろうな……


ご飯を食べ終わって店を出たあと、久御山は「先に帰ってて」と言ってシロくんとクロくんと一緒にどこかへ行ってしまった。なんとなく嫌な予感がするけど、いま僕にできることは先に帰って久御山を待っていることだけだ。

橘さんが送ってくれると言うので、久御山の家まで送ってもらった。車から降りるとき、「悩み事とかあるなら、連絡してね」と橘さんは穏やかに笑った。


***


「で、訊きたいことて何?」

クロはキッチンに立つと、サイフォンを用意してフラスコに水を注ぎ、アルコールランプに火を点けた。お手軽なコーヒーメーカーを使わないところがすごいな、となんだか感心してしまった。シロは何もせず、そのままダイニングの椅子に腰をおろす。役割分担ってヤツなんだろうな。

「桐嶋と紅さんのことなんだけど」
「……高いで?」
「おいくら万円だよ」
「そやなあ……ゆうてケンソー忘れてへん?」
「何を?」
「前の仕事、まだ報酬もうてへんけど」
「ああ……いつでもいいよ、オレは」
「ケンソーの家に一式置いてあるさかい」
「は? この前持ち込んだ荷物って、脱がせる用の服なの!?」
「そや? なんや思ててん」
「開けてないからわかんねっつの! いつ引き取りに来るんだって思ってたよ!」

シロはMacBookを開き、カタカタとキーボードを叩いた。クロからマグカップのコーヒーを受け取り、無暗むやみに加速する鼓動を落ち着かせようと、コーヒーをすする。

「桐嶋と紅のことやったら、ケンソーの想像どおりやで、多分」
「大学生の桐嶋と、研究員だった紅さんは付き合ってたってこと?」
「そやな、元々大学の先輩と後輩や」
「じゃあ一悶着あったんじゃないの? 紅さんが……国外に追いやられたって時」
「あったゆえばあったし、なかったゆえばなかったな」
「どういう意味?」
「……いつかケンソーに見せよ思てたけど」

シロはMacBookの画面をくるっとオレのほうに向けた。QuickTime…?

「先ゆうとくけど、見たら引き返せへんで」
「……引き返せない?」
「ほんでも見る勇気あんねやったら」
「勇気とかわからんけど……知る必要はあると思ってる…」

勇気ってなんだよ……そこまで念押す必要のある動画だってのか。スナッフフィルムの類だったとしても驚きはしないが……再生ボタンをクリックすると、まず薄暗い部屋の壁が映し出された。病室……?


「……な…に……これ…」
「十七年前の三月二十日午後二十二時、MGCの特別室での映像や」
「被害者は樒廼 紅、加害者は……当時、久御山 佐和の秘書だった沢渡が雇った玄人ヤクザや」
「この五人は曾根崎組一心会系組員で、この仕事のあと消息不明なってるわ」
「三月二十二日、紅は洸征を連れて成田から出国」
「三月二十七日、この動画が収められたUSBメモリが、桐嶋の家に届いた」
「なあ、ケンソー……桐嶋が久御山 佐和とその周辺・・・・を恨むのも……当たり前や思わへん?」


足元からすっと、自分の存在そのものが消滅したような感覚を覚えた。


***


もう二十時になるのに、久御山はまだ帰って来ない。よほど込み入った用事だったのかな。桐嶋先生と紅さんのことだと思ったけど、また別の話だったのかな。

モヤモヤ考えていると電話が鳴り、心臓が口から飛び出しそうになった。

「……もしもし?」
「…桐嶋だけど」
「あ、お疲れさまです」
「…発熱とか嘔吐とかは」
「ありません、大丈夫です」
「あー…いま、久御山は? …ちょっと連絡付かなくて」
「久御山、まだ帰って来てないです…夕方用事があるってシロくんとクロくんと一緒に」
「……シロクロと? どこに行ったか訊いてねェのか」
「訊いてないですけど、急用ですか?」
「久御山が……危ねェ…」
「ちょ、危ないって、桐嶋先生!? どういう」

切れた……ちょっと待て、久御山が危ないって……どうして? シロくんとクロくんと一緒なら心配するようなことは……

それから久御山に電話を掛けてみたけど、つながらなかった。
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