初戀

槙野 シオ

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第六十一話 猫に鰹節

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骨髄採取をするための検査結果は良好だった。HLAの型はもちろん、血液検査、感染症検査、胸部レントゲン、心電図、血圧、呼吸機能など、すべての検査において久御山くみやまには何の問題もなかった。

採取当日、貧血を起こしたときにする輸血用の血液は、自分のものをあらかじめストックしておくそうだ。病院から帰って来た久御山が、興奮気味に話してくれたのでよく憶えてる。

大変だったのは……洸征こうせいくんのほうは、移植のためにかなりしんどい事前準備が必要だそうで、移植当日「ドナーの都合が悪くて採取できません」なんてことが起こると、末代まで祟られてもしょうがないレベルで取り返しが付かないらしかった。なので、ドナーの健康管理は最優先事項。

風邪をひいても、怪我をしてもいけないし、当然感染症なんかにかかってもいけない。事故にあって輸血をするなんてことももってのほかで、いつも以上に体調に気遣う必要があった。


「ねえ、オレ絶対耐えられないと思うんだけど」
「久御山…まだ一日目だよ…」
「でも別に病院から禁欲の指示はされてないし」
桐嶋きりしま先生が言ってただろ」
「オレも湊も病気持ってないし! 検査してるし! 問題ない!」
「切れたり裂けたりしたら困るだろ」
「オレが挿れればいいじゃん」
「一緒だろ、僕が出血しても問題だよ」
「……無理、耐えられない」


結局入院するその日まで、一日五回は同じこと言い続けてたからな、久御山……その情熱を世界平和か二酸化炭素削減にでも向ければ、素晴らしい成果があげられる気がする。

いろんなことを考慮して、久御山の骨髄採取と洸征くんの骨髄移移植は、夏休みに入ってすぐ、ということになった。多分、久御山が受験生だということを桐嶋先生が気遣ってくれたんだと思う。まあ、久御山のことだから授業休んでもなんの問題もなかったとは思うけど。


大学病院で面会の手続きをしたあと、少し緊張しながら僕は久御山の病室の前で立ち止まった。可愛い看護師さんとイチャついてたらどうしよう。いくら久御山でも骨髄採取した当日にそんなことはしないか……いつまで経っても僕の久御山に対する認識は少し偏っていた。

扉に手を掛けそっとスライドさせた時、話し声が聞こえたので慌てて僕は手を止めた。

「…いいよ、賢颯けんそうくん」
「…ん…っ…」
「痛いんじゃない? 無理しないほうが…」

って、むねさん!? 一体何やってんの!? 思いっきり扉をスライドさせ病室に踏み込んだ僕を見て、宗さんは「いいところに」と言って僕に紙袋を差し出した。

「……何これ」
「俺と姉ちゃんとれんさんから、お見舞い」
「中身、何?」
「俺から浅草シルクプリン、姉ちゃんから無印のオーガニックコーヒーのドリップ、漣さんからAmazonギフト券」
「お父さんもお母さんも、なんで僕に預けないんだろう」
「賢颯くん、いいって言うのに身体起こして受け取ろうとするからさ」
「……それで、呻き声…」
「だって、もう置く場所ないんだよ…」

久御山の残念そうな声に部屋を見渡すと、ベッドわきのキャビネットの上も、応接セットのテーブルの上もソファの上も、確かに紙袋や包みで埋め尽くされていた。なんだ、このお見舞いの量……

「どういう連絡網が働いたわけ? 式神でも飛ばしてんの?」
「わからんけど、シロクロとバーのマスターとさかきさん、バイト先の社長と真壁まかべさん、桜庭さくらばだろ、たちばなさんだろ、綾ちゃんだろ、担任と徳田と松永と涼子さん、一ノ瀬と嵩澤たかざわ藍田あいだ、あと一年の」
「もういい、もういい……おまえを見舞うと幸運が訪れる、とか噂にでもなってんだろ…」
「迷惑じゃなかったら、少し俺が引き受けようか? 持ち帰るのも大変だし、生ものは置いておけないから」
「宗さんのプリンは置いてって」

それから僕は久御山に確認を取りながら、お見舞いの品を仕分けた。大体みんなお菓子だな……そりゃそうか、久御山に花渡しても仕方ないもんな。

「じゃあ、これだけ宗さん持ってってくれる?」
「了解、ざっと見積もって……三万くらいかな? 買い取るよ」
「え、宗弥むねひささんいいですよ、そんな」
「そこで遠慮されると、次から対等に付き合えなくなるでしょ?」
「あー…はい、じゃあお願いします」
「交渉成立、俺もAmazonギフト券送っておくわ」

ふっ……宗さん、また株上げてやがる……ここで現金渡さないってのが好感度増し増しだよなあ。久御山がどう思うかを完全に把握してる。そして宗さんは「お大事にな」と爽やかな笑顔で帰って行った。

「相変わらずの格好良さですこと」
「何よ湊、嫉妬してんの?」
「宗さんに嫉妬なんかしても、どうせ太刀打ちできないよ」
「まあ、できた男だよね宗弥さん」

久御山、宗さんのこと好きだからなあ……あらぬ方向に発展する心配はしてないけど、すぐそばに格好いい男の手本みたいなひとがいるのも、なかなか落ち込むもんだよ、まったく。そうやって拗ねていると久御山のスマホがピコンと鳴り、宗さんからギフト券のコードが送られて来た。まったく!! もう!!!


「湊ぉ……セックスしたいぃ…」
「うん、明後日退院だから、それからね」
「もう採取したから無罪放免じゃん…」
「おまえは何の罪でとがめられてたんだよ……針刺したばっかりで痛いだろ」
「痛いけど…もう一週間以上出してないんだよ!?」
「それは、そこまで悲痛な声をあげるほど大変なことなのか?」
「大変なことじゃない!? オレが一週間出してないなんて!」
「……確かに、骨髄採取がなければ天変地異の前触れだよね…」
「ほらな? だから湊」
「さすがに叱られるわ」


───


造血幹細胞移植から一週間、クリーンルームにいる洸征くんの顔だけでも見たくて、僕は大学病院で面会の手続きを済ませた。まだ病室内には入れないけど、外のガラスから顔を覗くことはできるはずだ。

造血幹細胞移植をするために、洸征くんは自分の免疫なんかをすべて薬で取り除いている。さらな状態の身体に健康な細胞を移植してゼロから生まれ変わる、といったイメージに近い。大量の化学療法、放射線照射で弱っている身体は、感染が起こりやすく、貧血や出血、嘔吐や脱毛ととても大変な状態になる。

久御山の細胞がうまく機能すれば、いずれ洸征くんも普通に生活できるはずだ。


── ほな訊くけど、紅や桐嶋のどこに悪いとこがあったん?


「……藤城、こんなとこで何やってんだ」

なんとなく、衰弱し切っている洸征くんを見る勇気が出なくてクリーンルームのある病棟のロビーで座り込んでいると、目の前に現れた桐嶋先生が訝し気な声で僕に言った。

「ほら……あ、コーヒー飲めんのか?」
「飲めます……ありがとうございます」

桐嶋先生はわざわざ自販機でカップのコーヒーを買って僕に手渡すと、僕の隣に腰をおろした。

「…洸征くん、どんな感じですか?」
「まあ、あんなもんだろ……悪くはねェから安心しな」
「どれくらいで退院できるものなんですか?」
「幹細胞が生着せいちゃくして、口から飯が食えるようになれば……まあ二、三か月くらいだな」
「結構掛かりますね……元気になってくれるといいんですけど」
「…なれるさ、そもそも洸征はクローンだからな」
「桐嶋先生は……久御山のことも赦せないんですか?」
「……あ?」
「洸征くんのお母さん……桐嶋先生の恋人だったって」
「…はっ、二十年くらい昔の話だ」
「もう、過去の話ですか? 全部赦せてるんですか?」
「おめェ、何が言いてェんだ?」
「桐嶋先生が……何かよくないことを考えてるんじゃないかって」
「……だとしたら、なんだよ」
「久御山に手を出すなら、僕も黙っていませんよ、ってお伝えしておこうと思って」
「ほう、おめェに何ができるんだ?」

…れ、急に目眩めまい……? 地面が……グラグラする……寝不足ってことはないと思うんだけど…貧血、かな……


───


ん……なん…だっけ……病院のロビーで…桐嶋先生と話を……

「目ェ覚めたか?」
「……?」

どこだ、ここ……なんでこんな知らない場所で……手枷? は? なんで僕は拘束されてるんだ? どう見たってここ、ヤバい部屋なのでは? 天井や壁から垂れさがってる鎖とか手枷とかロープとか、ナニ? 実物見るの初めてなんですけど、ディルド付きの三角椅子とか。趣味部屋か!? SM好きなのか!?

「移植も済んだことだし…そろそろ頃合いかもしれねェな」
「頃合いって……復讐ってヤツですか?」
「復讐ねェ……そんな美しいもんでもねェよ」

桐嶋先生は煙草に火を点けると、床に転がる僕の前まで来てしゃがんだ。自由が利かないのは手足だけみたいなので、もがきながら身体を起こす。

「久御山 賢颯に恨みはねェよ」
「当たり前だ……久御山は何も知らないし何も悪くない」
「あの血筋に嫡男として産まれたこと自体が罪なんだよ」
「罪!? 産まれてすぐ見捨てられ幽閉された久御山のどこに罪が!?」
「そうだな……でもな、どうしても消えねェんだわ」

── 賢颯がいなければ……アイツが作られなければ、洸征も、こうも苦しまずに済んだんじゃねェかって……洸征はもっと別の形で産まれたんじゃねェか、紅はしあわせに暮らせたんじゃねェか、病気で苦しんだり、傷付けられたりしなかったんじゃねぇか、そうすれば俺だって……もっとマトモだったんじゃねぇか、ってな。


「久御山が不幸になれば、紅さんは喜ぶんですか? 桐嶋先生はしあわせになれるんですか?」
「正論なんてもんはな、最初っから破綻してんだよ!」
「アンタがしあわせにならないと、紅さんは死ぬまで不幸なままだよ!」
「わかったようなこと言ってんじゃねェぞ!」
「愛するひとが悲しむことをしようっていうアンタの気持ちなんてわかんねえよ!」
「はっ……紅が悲しむ? それすら俺には見ることができねェのに?」
「想像力の乏しいひとだな、アンタ……いくら金持ってても心は貧しいままか」
「好きなだけののしりゃいい…馬鹿にして蔑んで見下せばいい」

後ろ手で拘束されている僕の背中側に回った桐嶋先生は、僕の左手を掴んで指の付け根や関節を確かめるように指先でつまんだ。当然、こんな格好じゃ抵抗なんてできるはずもない。

「骨ってな硬くできてるもんだが、力を入れる方向さえ考えりゃ簡単に折れるんだ」
「……だから?」
「おめェ、快楽に耐性はあっても、痛みに対する耐性はからっきしだろ」
「試してみればいいんじゃないの」
「自分のせいでおめェが傷付きゃ、賢颯はさぞかし苦しむだろうな」
「僕は……傷付いたりしない」


── ゴキッ…


「っ…!!!!!」
「痛ェよなあ……賢颯が見たらどう思うかねェ」
「…ぐ…うぅ…あ……っ…!」

はーっ、はーっ、はーっ、はーっ、はーっ……

骨…折れるって、こんなに痛いんだ…はあっ…あ…全身から一気に汗が噴き出し、身体の中にあるすべての臓器が膨れ上がって破裂しそうな感覚に吐きそうになる。

「スマホのロックコード……ああ、賢颯の誕生日ね」
「なに…するつもり…」
「いまの動画、送るんだよ」
「やめろ…久御山は…っ……関…係ない」
「……ライブ配信してやろうか」
「馬鹿なのかアンタ…自分で犯人バラすような真似して」
「馬鹿じゃなけりゃこんなことしてねェんだよ!」
「じゃあ残りも折れよ! まだ十九本も残ってんだろ!」
「馬鹿はおめェだよ! これで賢颯は手負いの獣同然なんだよ! もう理性なんざ働かねェ!」


***


ソファでゴロゴロする以外、何もやる気が起こらない。テレビもつまらんしエロ動画は見飽きた。

湊は用事あるって出掛けてるし、こーんな暑い日に外に出る元気なんかないし……用事って、多分洸征のところなんだろうけど、オレが気にするとか思ってんのかな……お見舞いくらいなら、別になんも思わないのに。早く帰って来ないかな……ほお、湊からLINE……以心伝心か? 遅くなる、とかなら暴れるぞコラ。

「…動画?」

わざわざ動画って……可愛い猫でも見つけたんだろうか。ダウンロードに時間掛かるんですけど? 頑張れWi-Fi……


 『骨ってな硬くできてるもんだが、力を入れる方向さえ考えりゃ簡単に折れるんだ』
 『……だから?』
 『おめェ、快楽に耐性はあっても、痛みに対する耐性はからっきしだろ』
 『試してみればいいんじゃないの』
 『自分のせいでおめェが傷付きゃ、賢颯はさぞかし苦しむだろうな』
 『僕は……傷付かない』


「……なんだ、これ」


 『っ…!!!!!』
 『痛ェよなあ……賢颯が見たらどう思うかねェ』
 『…ぐ…うぅ…あ……っ…!』


── 殺す。

理由はいい。とにかく殺す。

部屋の様子からすると、多分六本木のクリニックの地下。電車で四十分弱、この時間はタクシーのほうが混むだろう。四十分あれば逃げられる可能性も……いま、六本木付近に知り合いはいるか? それより大学病院に行って洸征を危険に晒すほうが早い。シロクロに言ってクリニックに…

その前に、シロクロは敵か? 味方か?

考えろ、使えるものがないか。ひとでも、物でも、金でもいい。現地に踏み込める人間……誰か、誰か、誰か。


「…ごめん、久御山だけど頼みたいことが」


***


「…っ…はっ…はーっ……まだ……十七本…あるよ…っ…はあっ」
「頑張るねェ……健気なもんだ」
「久御山……怒らせて、どうしたいの……犯罪者にでも…するつもり?」
「そうだな…それが一番手っ取り早い」
「僕が生きてる限り……あいつはちゃんと…立ち直る」
「いざとなったら……殺すさ」
「アンタの不幸も……終わらないよ…それ」

話す内容や口調とは裏腹に、桐嶋先生の顔は暗く沈んでいるようで、いつもの自信に満ちあふれた尊大な雰囲気は一切感じられなかった。その時、そんなところに扉が? と驚くような場所……つまり、革張りの黒い壁の一枚がスルっと開き、知った顔が入って来た。

「邪魔するで」
「……クロ? なんでここに」
「あーあーあーあー……ほんま、加減ゆうもんを知らんやっちゃな」
「堪忍え、湊……すぐ病院行こな」
「シロまで、一体なんなんだよ…」
「うちらは洸征が大事やけどもやな」
可愛かいらし湊をいじめられるんも、気い悪いねん」
「ゆうても、あんたにはよう世話んなったさかい」
「交換、と行こか」
「おめェら、さっきから何言って」


痛い…というか熱い……指に心臓があるみたいにガンガン脈打って、ああ、もう千切ってしまいたい…気持ち悪い…怒りに支えられてた気合いとか根性とか、冷静になるにつれ……って、誰だろう……すごくきれいな……あれ、どこかで見たような気が……部屋の入口で立ってるひと、絶対逢ったことある…よな…

クロくんに手枷と足枷を外してもらい、なんとか立ち上がった僕は覚束おぼつかない足取りで入口へと向かった。う…歩く振動で……吐きそう……でもこのひと見たことある…

「…チビッコ、何やってんのこんなとこで」
「…!?」

いきなり目の前に現れた綾小路さんにぶつかった衝撃で、僕は人生において三番目くらいにやっちゃいけないことを思いっきりしでかした。
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