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19-1:感動のキス

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19-3

 トラックが信号で止まるたび降りてやろうと思ったが、イリからの連絡が来るのを今か今かと待ちわびてたら、目的地に着いてしまった…。
「ヘーーークシュ! ヘーッシュ グッシュ… ヘーーックショイィ~! ひぇーーさっぶいのぉ~ おーぃ絵描き生きてるかー ウアッ!」
クシャミしながら寺さんがやって来た。
『風が吹きすさぶ荷台に真冬に乗るもんじゃない…』

 タカオミは鼻水をツララのように垂らし、携帯を両手で握ったままカチコチに凍っていた…。





 石油ストーブにあたり暖かいコーヒーを飲ませてもらった。少しウィスキーが入っているようだった。
稽古場兼事務所には雑用をこなしてる人が、一人二人いるだけで、皆打ち上げに行ったらしくガラーンとしていて、結局イリから電話もメールも無く、タカオミはしょぼくれていた…。
「あの~ 仕事って?」
 まだ、ガタガタ歯が鳴っていた。
「え~ 聞いてねぇーのかよ。次の公演用の書割だよ」
 寺さんも一息つきコーヒーを飲み、タバコを吸っていた。
「かきわり?」
 それは何だろうと素朴な疑問が湧いた。
「おめぇーーー ほんとにシオンに聞いてきたのかぁー めんどくせー奴だなぁ 絵描きってのはほんとなんだろうなー? 美大生ってのはよぉ」
 寺さんは短気だった。
「…それはほんとだけど、人違いですよ… ひとちがい! 俺じゃない誰かと間違えたんですよ おっさんは!」
 タカオミは反撃した。
「うぇ。ほんとか? あちゃー アイリちゃんがそー言うもんだからさー てっきりさー 悪いことしちゃったなぁ」
 コーヒーをすすりながら頭を下げる寺さんだった。

「アイリ! ちゃん?」 
 タカオミはコーヒーを、吹きこぼしそうになって焦った。
最愛の彼女はイリと言ったが、これは呼び名で、本当はアイリと言う名前だったからだ。

「お前をトラックに乗せた子がアイリちゃん。役者だけど、役無いときは色々すんのよ彼らは」
 寺さんは立て続けにタバコを吸う、チェーンスモーカーで、小さくなったタバコの火から新しいのに移した。

「フ、フルネームは?!」
 まさかと思い聞いてしまった。

「んぁ? 惚れたかぁー がっはっはっ」

「ち、違います。親切にしてもらったから」

「ふぅ~~ん ふぅーーん…日向アイリ。良い子だよぉー 舞台女優目指して日々精進してるねー俺がもちっと若かったら口説くんだがなぁー 劇団内恋愛は禁止されてる! …どっちみち無理! がっはっはっはっ」
 本気とも嘘とも取れる言葉だった。
「しかーし。勘違いで連れてきたが! バイトしない? にーちゃん。ていうか頼むこのとーり。お願いします。バイト料50%アップ! プラス豪華夜食プラス。アイリちゃんのメアドでどうだーーー!」

「メアドー? それって、怪しすぎる発言だねー。でも、少しへこたれてるんで…やるよ、りますよ! 今日は予定通り何もできなかったけど、芝居見れて感激してるから、できることあったらやりますよ」
 タカオミに芝居の感動が蘇り、イリから連絡が無いことも蘇った…。

「やっぱアイリちゃんのメアド欲しさか? ウヒヒヒヒヒ」
「その手で何人騙しましたー?」
「うぇーー おっちゃん嘘つかないよー そのメアドにメールすると…。
 いやーんそんなことダメー。とか、
 お食事だけって言いながらアタシ食べる気でしょ~。とか、
 今、ピンクのネグリジェ一枚なのぉ~とか、

 また今度ね~ チュウ♪ とか、
 ハートマークだらけの、メールが来ることになってる!
 全部俺がてきとーに返信するだけだ! アッハッハッハ 見破ったのお前が初めて だー やるな~絵描き がはははは」
「…カマかけただけだったのに。(コラ! おっさん! ネグリジェって何?)アハハハハ」
 タカオミは呆れて笑った。


19-4


 芝居用のセットが所狭しと置かれた、汚い倉庫に寺さんは案内してくれた。

目の前に巨大な布が貼られ、そこに闇の中に浮かぶ林檎が大口を開け舌を伸ばしてるラフが書かれ、背景のビル郡は適度に仕上がっている感じの絵があった。
「でかっ! この絵を手伝う?」
「チッチッチッ おめーのはあっちっちっち」
 後を向いた寺さんが指さした。

離れた場所に同じく巨大な布が貼られていて、縦、横の線が無数に引かれた以外は、

「うそ…」
 ほぼ真っ白で、タカオミは腰が引けてしまった…。おっさんは、描くものの元絵を見せながら説明してくれた。
「今度の芝居。合田和左子っていう画家イメージしてくれってご注文。ちょいと古めかしい絵に仕上げてくれたらいい。アレンジも任せる。ついでに言っとくと遠目で見る絵を意識してくれ。書き込むなよ、時間ないから」
 元絵は、ゴシック調の部屋で男女が抱き合うラブシーンだった。
「何日くらい拘束されます? 時間は?」
「うーん。ほんとのバイトが来てても、朝までしかない…」
 寺さんは頭をポリポリかき、タカオミの肩を叩いた…。
「朝までって、朝まで? そんなハードな仕事なのか~ ヒー」
「受けた以上帰らせないからな! がんがれよぉー! ヒッヒッ 画材はそこの棚にあるからよ。寝るんじゃねーぞ! 寝たら死んでると思え! ガーハッハッハ」
 寺さんは脚立に乗り、筆代わりの大きなハケで巨大林檎に下塗りをはじめた。
「うっしゃー いっちょやったるかー 腕が鳴るぜぇ~」
 タカオミは吼え、画材を適当にみつくろい脚立に登ると、てっぺんに付けられた可動式のテーブルに、元絵を置き、財布からイリの写真を取り出して並べた。
『…僕らはまだ終わりじゃないよね?』
 巨大な布相手に元絵も見ないで、絵の位置を決めるアタリを取り始め、バサッバサッと筆の音がしはじめると、目が絵描きになっていた。
『イリ… 睦月アイリ…』
 でも、心の中はイリで溢れ、夢中で筆を走らせた。


19-5


 彼女と今の状態を忘れたくて、描いていたのではなかった。
それはタカオミの存在理由の一つなのだ。
絵を描くことしかできないと彼は思っていた。
一枚でも多く良いものを描くこと。
個展を開くこと。
多くの人たちに見てもらうこと。
そして、成功すること。
それは、幼い頃からの夢。


『成功?… その先は? 傍らにイリが居る? 俺はの夢はただの非現実的な夢? イリはどこにいる? ヒカルさんが言ってた…
”二人にはまだまだ未来があるの…無限なの。その時が来たら、きちんとお別れしなさい。それがどちらかの為だと思えるなら、それが本当の…相手への思いやり。ほんとの愛の形”… 別れる時が来る? …そんなこと考えられない… イリが好きだ! 大好きだ… 今は? 未来は? イリの未来と、俺の未来… 俺はただ信じてる…。 何を? 誰を? 自分を?! 俺はニューヨークへ行く… 行くのか?!』
 巡る思いは頭を真っ白に、ハイにさせていった。


 白い布に筆が走る。
幾重にも、幾重にも筆が舞う。
色を変える。
大きなハケの筆先の微妙な角度で、細かい部分を書き分ける。
筆を洗い、色を作る。
どんどん作り変える。
脚立を降りて眺める。
筆洗用のバケツが汚れると代えに走り、
ストーブの湯でインスタントコーヒーをブラックで飲んだ。
ガブガブ飲みながら、弱い部分をチェックし、登っては直す。
繰り返し、繰り返し、精魂尽きるまで繰り返す。
そして、また繰り返し…イリを想い時間を忘れた。


 脚立を降りチェックしようとしたら、ビニール袋が置いてあった。
サンドイッチ、チョコレート、大盛り弁当にスタミナドリンク。
「豪華夜食!」
 サンドイッチの包装を破りながら、寺さんの方を見ると”仮眠してくる”と、林檎の部分に走り書きがしてあり、声をかけられたことに気づかなかったのだろう、広い作業場に一人になっていた。
寺さんの絵には、もう一言。小さな文字が書かれていて近づくと…
”あいつ。独り言多い~ 怖いんじゃー”と、書かれていた…。
タカオミはどうやら思っていたことを、夢中のあまり全部口にしていたらしく…かじったサンドイッチを喉に詰まらせ、顔は真っ赤に、飲み物を取りに走った…。
作業場の外は風の唸る音がし、まだまだ雪が降っているようだった。


19-6


 小窓から、ほこりっぽぃ空気に朝の光が射していた。

ストーブのヤカンは湯気をシューシュー噴き出し、ふたをカラカラ躍らせていた。
「俺としたことがー! おぃ バイト起きてるよなー!」
 ドタドタと、思いっきり寝過ごした寺さんが走って来た。
「うぐぁーー!」
 寺さんは怒った!
タカオミはどこから引っ張り出して来たのか、布団に包まりスヤスヤ眠っていたからだった。
「起きろ! 寝てる場合じゃないだろぉー!」
 どんなに揺すってもタカオミは熟睡していて起きず、滝のような汗をかき書き割りを呆然と見つめた。
「どーすんだよぉー これぇ~!!!」


 事務所の方から声がし、劇団関係者数名が酔っ顔でこっちへやって来ていた。
「寺さーん。朝からスイマセンねー 時間の無い仕事ばっかで~ これ良かったら食べてくれーぃ ヒック」
 劇団の演出家兼代表の、徳永が差し入れの袋を持ち上げて言った。
「仕事なんかほっぽって、おっさんも来れば良かったのに~ ヒック ヒック ウィー ほら、これこれも食べてね~ ヒック」
 シオンが頭にネクタイを巻き、寿司折をブラブラさせて言った。
「これがこんどの芝居のメインイメージ。巨大林檎だ~ アタシこれに食べられちゃうのぉ~ うふふふふふ~♪」
 日向アイリも差し入れの酒瓶を置き、寺さんの絵をしげしげと眺めた。
「うわ! 見ちゃダメ! コラ起きろ絵描きぃー 徳永さんちょっとした不手際がぁーー」
 寺さんは起きないタカオミの尻の辺りを蹴たぐったが、微動だにしなかった…。


19-7


「不手際?」
 徳永は差し入れを置きながら、寺さんがオーバーに見ないでと動く後の絵を、首をかしがせたまま眺め、アイリは寝てる絵描きに気づいた。
「あぁ~ 寝てるぅー 小道具で絵描き君が寝てる~ あははははは ヒック」
 アイリも酔っていて、何かがおかしいらしく腹を抱えていた…。
「おい。後輩~起きろー 寿司食えすし~貧乏学生のお前にはもったいないけどなー ヒック ヒック」 
 シオンはてっきり後輩だと思い起こそうとすると、
「アイリーーー!!! 好きだ~~♪」
 いきなりタカオミが跳ね起きて叫び、そのまままた眠ってしまった…。
「は~ぃ♪ あれ~ 寝言だー あははははは」
 挙手したままアイリが言った。
「うわぁ~~っ 当分会いたくない奴が何故ここにいるぅ~ 誰がこの絵描き連れて来た~~!」
 シオンがひっくり返って驚くと、
「間接的に、おめぇーのせい…」
 寺さんは頭を抱えていた。
「えぇーーー? 俺の後輩じゃないよーこいつ。こいつは絵描きだー こいつですよー徳さん! 指二本のパンフ絵の大画家さまですぜ~ で、こいつなにやらかしたん? ヒック!」
「うわーーー ステキィ~♪」
 歓声を上げたアイリに、
「おぉ~~ さすがー」
 シオンも顔を上げその絵を見た。
「おっかしぃーな~ こんな絵。発注したっけ~ ヒック」
 徳永さんは相当酔っていて、差し入れを置いたはいいが、顔が上げられず奇怪な体制でさっきからずーっと、その書き割りを凝視していた…。
「スイマセン すんません アレンジしても良いとは言ったんですがー! 俺も、見てはいたんだけど、すっかり任せたままでー 寝坊したらこんななっちゃてて… ハハハ…
 (しかし… こりゃー力作だ… 看板屋の俺とは違う…)」
 寺さんもすっかりタカオミの絵に、引き込まれてしまった。


19-8


 皆が見る、タカオミが描いた巨大な書き割り。
時間が無いにも関わらず、細密に塗りこまれ完成してるように見えたが、
あの”恋人たちの部屋”に、ゴージャスなベッドが置かれ、誰かが丸まって眠るシーツの盛り上がりと、右側に翼を閉じた天使のイリが悲しげに目を伏せ、ベッドには黒衣の天使が腰掛け眠る誰かを、羽で覆い囁きかけていた…。
そう、寺さんが渡した元絵とは、全く別の絵に仕上がっていたのだ!
『あっ! いけない…』
 そっと絵に近づいたアイリ。
思わずそれをなぞってしまい、指を離すと赤い絵の具が着いていた。
『ついさっき寝ちゃったんだねぇ~ 寝顔可愛いなぁ~♪』
「これってあの部屋じゃん…」
 シオンが言った。
「あの部屋?」
 アイリが聞いた。
「片思いの相手と相合傘書くと、恋が100%叶うっていう占いババァの部屋。 しかし! アイリ~お前ら… ヒック ヒック 絵描きて実は超手出すの早い軟派野郎だったのか? スヤスヤ眠りやがってー でも、起きないうちに退散しよ… ヒック!」
「へぇ~♪」
 アイリがなぞったのは、まさに相合傘だった。

絵の中の奥の壁に、タカオミとアイリの名が巨大な相合傘におさまっていたのだ。

 徳永は、絵を見たままのかっこで眠ってしまい…

寺さんはこっそり出て行ったシオンに八つ当たりしようと後を追い、
そして、アイリ…。

『あっつぃ』
 石油ストーブの真っ赤な炎。
下から閉じたボタンを外し、コートを脱いだ。
着てる服はセクシーなパーティドレス姿でじっと絵を見つめていた…。

そして、枕元に膝をつき、してる黒いチョーカーをなぞった…。
「ん」
 ベッド上の盛り上がったシーツをめくり…
『アタシはだーれだ…』
 黒い天使はそこを抜け出し、寝てる誰かの唇に唇を重ねた…。
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