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前編 第二章「アリスの旅行」
イルクナーへ2
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「ごめん。イルクナーって――ガブリエラ?」
地面に着いたアリスは目を疑った。
ガブリエラが隠れているはずの木陰。あの隠れるには目立つピンク色の頭は見られず、辺りには気配も感じられない。
――そう、ガブリエラがいないのだ。
アリスが降りてきた場所は間違っていない。森の景色は似通っていて見分けが付きづらい。しかしそうとはいえども、大幅に位置がずれることもない。
アリスは木を伝いほぼ垂直に空へと駆け上がったのだ。流石にそれくらいは分かる。
つまり、このたった一瞬で、ガブリエラが連れさらわれたのだ。
当然だがガブリエラが裏切ったという線も存在する――が、アリスの所有する奴隷契約の魔術で最高位のものを用いたのだ。裏切った場合に走る激痛は、ショック死どころでは済まない。
契約の時点で激痛を味わっているから、そういった恐怖という意味で彼女が裏切る線は薄いのだ。
それにもし裏切り、激痛に耐えて黙っていられるほど強い魔族でもない。痛みに耐えられずそのへんでうめき声が聞こえていてもおかしくない。
となるとつまり、この一瞬で連れさらわれたと言うしか無い。
だが争った声などが聞こえれば、流石のアリスも気づく。しかし低レベルのサキュバスであるガブリエラが、そう簡単に抵抗出来るだろうか。
辺りに数名の足跡が残っていたが、戦闘を行ったようなあれ具合ではない。ただ歩いていた。それだけだ。
ガブリエラにはトロールにねぐらを襲われたトラウマも残っている。それに彼女は背が低く、普通の男と比べれば圧倒的に小さい。男数人に言い寄られれば、怯えて従う他ないだろう。
(まぁこれも旅行の醍醐味かな)
アリスはそっと目を閉じた。頭が冴え、周囲の音がよく聞き取れる。
鳥の声、風の音、草木のざわめき――歩く人の音。一人の少女と、男が数名。
木々が邪魔をして視界を遮り、この辺りには人が居ないと思っていた。しかしやはりこの短い時間で人をさらい、完全に消えられるような連中ではないようで。少し歩いた先に彼らは居るようだった。
「見つけた。ガブリエラ……!」
木々の合間を縫って駆け抜ければ、ガブリエラと彼女を連れ去った男達の後方に付く。
人間程度の徒歩なんて、たかが知れている。追いつくなんて簡単だった。
見た通りはそのへんにいそうな賊と言ったところであった。魔術を用いて観察せずとも、レベルが低いのはすぐに理解できる。
一応魔族であるガブリエラが本気を出せば、この程度の男は蹴散らせるだろに……なんて思ったが、そうはいっていられない。
どんな小さなナイフで脅されようが、殺意や悪意を持って接しれば恐ろしいに決まっている。
だがしかししばらく様子を見ているだけで、アリスは何もしなかった。
賊は真面目にも目的地に到着するまで何もする気はないらしく、ナイフで脅しているものの特段ガブリエラを傷つける様子もない。
そこでふと気付いた。こいつらは懲らしめる程度に痛めつけて、イルクナーまでの道のりを聞けば良いのでは。
絶賛迷子中だったアリスにとって、これはカモネギ案件であった。
そうと決まればアリスは行動に移す。一番アリスに近い男に奇襲をかけた。
「なっ!? どこから来た!」
「おい、女を逃がすなよ!」
「はっはい!」
「チッ……」
そこそこ戦い慣れているのか、連携が取れているようで突然のことのはずなのにしっかりと対処をしている。平凡で平和な世の中からやってきたアリスにとって、参考にすべき人物達だ。
トロールの一件もあって、対人対物で人を破壊しないように加減をする。トロールの時も普通に力を抑えて殴ったつもりだったから、余計に気を付けなければならない。
ナイフ男以外の三人が武器を取り出して、アリスに襲いかかった。ナイフ男以外はメイスなどの殴打武器を持っていて、慣れた動きで立ち回る。
最小限の動きでそれらをかわし、ガブリエラを案じる。
人質として活用されているガブリエラだったが、直接的に「この女の無事を~」ことは言われていない。
ふとガブリエラについている男を見ると、顔は焦っているように見えた。
(まさか、一番下っ端!? 余計にガブリエラが危ない……!)
「油断したな!」
「うわっ」
想定外の事実を知ってしまい油断したアリスに一撃。大した痛みも感じないほど弱いものだったが、体勢を崩すには丁度いいものだった。
その一発を皮切りに、二発三発と殴打が直撃する。どれもすべて痛くないが、煩わしい。
アリスはぐるぐると思考を巡らせた。こちらから手を出せなくなる状況に陥るとは思ってもいなかった。何か策はないか、と。
「……よし、これだ。――〈針子の子守唄〉!」
アリスをタコ殴りにしていた男どもが、こぞってドサドサと倒れていく。距離を調節したため、ガブリエラを監視していた男は起きているままだ。
そしてそこでようやくその下っ端らしき男が動く。ガブリエラを引き寄せて、彼女の首元にナイフをあてがった。
「く、くるなぁ! この女がどうなってもいいのかぁ!?」
声は震えていた。いや、そもそもガブリエラを掴んでいる腕も震えている。なんならナイフを持つ手すら震えていて、下手したら本当に首に刺さりそうだった。
そうなればまずい、というより面倒だ。治療魔術を使う必要が増える。減らさなくていい魔力を減らすことになるのだ。
アリスは気怠げにナイフを指差した。そして指先だけ上に向ければ、ナイフは空中へ飛び出すように浮いていく。
突然手元から離れるナイフに男は動揺を隠せず、馬鹿らしく空中に留まるナイフをただ見つめている。
そのスキをついてガブリエラが腕の中から脱出した。
ナイフは空中、約四メートル程度のところで浮遊しており、男がジャンプしようが何をしようが届きそうにない。
魔術や道具を用いないあたり、そういった手立てを持ち合わせていないのだろう。
「うぇーん、怖かったです」
「おぉ、よしよし」
犬猫のようにすりついてくるガブリエラを、慰めるように撫でるアリス。ガブリエラの怪我が無いことを確認したことで一安心する。
移動で足腰がふらついていた彼女だったが、また別の恐怖に当てられて吹っ飛んだのかちゃんと立っていられるようだ。アリスはその様子を見て撫でていた手を止める。
おもむろにしゃがみ込むと、先程の魔術で眠ってしまった男達に触れた。触れられた男はふわりと体が浮いた。
全ての男を浮かせると、アリスは未だナイフを取れず焦っている男を見た。
「ねえ」
「ひ!?」
「まだ仲間いるんでしょう? 案内して」
「は、はい……」
先程の一瞬の盗賊ムーブはどこへやら。アリスに言われたことを、震えながらこなす男になってしまった。いや、これが彼の本来の性格なのだろう。
拠点へ向かう最中に、彼のことを聞かせてもらった。
青年の名前をプロスペロ・メチェナーテと言った。彼もなりたくて盗賊をやっているわけではないという。
少し前に両親が病気で亡くなったらしいのだが、身辺整理をしている最中に押し入ってきた明らかに一般人ではない連中から、借金が大量にあるという話を聞いたらしい。
プロスペロの両親は相当なクズだったようで、自分が死んだら息子が必ず返すと言っていたらしく、それが現実となっていたらしい。
実際はそれまでに両親がある程度稼いでおく、という予定だったらしいが、息子に全てを頼むようなクズがそんな計画的なことが出来るはずもなく。
結局プロスペロは仕事を選べず、難しいが金は稼げる盗賊になってしまったのだった。
「ふーん。それでいいと思ってるの?」
「……い、いえ。でもお金を返すまでは、何とかこれでやりくりしないと……」
「…………」
その健気な様は、まるで前世のブラック企業の社畜だ。なんだかアリスはそんな彼に同情をしてしまいそうになる。
そんな彼の横顔が一層暗くなる。それは目の前の景色を見たからだ。目の前には、彼らのグループがアジトとしている小屋があった。
アリスは瞬時に中の人間の数を〝視る〟。目を凝らせば壁が透け、中の人間が見えるようになった。
(……五人。連れてきたやつで三人とプロスペロで――九人か。思ってたより多いな)
「あ、あれが拠点です」
プロスペロの声が微かに震えている。やはりやりたくてやっている仕事ではないのだ。それにこんなことを好んでやる連中なんぞ、性格がいいはずもない。
プロスペロも良いように扱われていないのだろう。
アリスは嘆息した。魔族になったからといって、ハインツという良心が必要ではないほどまだまだ甘いようだ。
これで魔王を名乗れるのか少し不安にかられる。
アリスは魔術空間に手を入れる。エンプティの保有するスキルほど優秀ではないが、アイテムを入れておける亜空間のようなものを所持しているのだ。
中から取り出したのは一枚の何も書かれていない紙切れだった。そこにサラサラと文字を書き、そして更に物を取り出す。
それは相当量の金銭だった。
「プロスペロ、これを」
「はい――って、えぇえぇ!?!?」
ずっしり、と重量のあるほどのそれを受け取ると、プロスペロは驚愕した。かばんすら持っていないのに、どこからこんな大量の金銭を取り出せたのか。
金とアリスを交互に見て、混乱していた。
「それだけあれば借金は返せる?」
「え、あっ、は、はい」
「そう。じゃあすぐにでもアベスカに戻って。これを国の人間に見せれば、プロスペロが不利になることは絶対にないから」
そう言って紙を渡す。そこに書かれていたのは、「アリス・ヴェル……」だの、プロスペロには分からない言葉ばかりだった。
だがこんな大金を渡してくる女の言うことならば、とりあえず従っておいたほうがいいのかもしれない。そう思った。
「あ、あの、あなたはどうするんですか?」
「こいつらと小屋の男共を、アベスカに引き渡して旅を再開する」
「いやっ、でも……」
プロスペロは言いかけた言葉を飲み込んだ。先程見た光景を思い出したからだ。
自分では到底頭の上がらなかった強い盗賊たち。それを一瞬で片付けた女性に、何を忠告しよう。
アリスは「あぁその前に」と一言挟む。彼らを殺さなかったのは、ただ道を聞きたかったからだ。
「私達イルクナーに行くつもりだったんだけど、道が分からなくなって。こっちで合ってたと思うんだけど、違うかな?」
「イルクナーですか……。えっと、大丈夫ですよ。そこの草原を行けば、沿岸部が見えます」
「? 上空から見てもずっと草原だったよ?」
「徒歩でしたら一週間以上、歩かないといけないくらい広いですから。それにこのあたりは、丘のように小高くなっているので、沿岸部が見えなかったのかもしれません」
イルクナーの南の多くは草原となっている。アベスカとは違い、特に開拓されているわけではなく、草原に住んでいるのは遊牧民だけだ。
大抵の国民は沿岸部へと集中していて、そこで暮らしているのだ。
このだだっ広い草原にいるのは遊牧民程度ならば、再び全力疾走しても大丈夫だろう、とアリスは判断する。
「そ。ありがと」
「い、いえ! こちらこそ!」
アリスが礼を言うと、プロスペロは大げさにお辞儀をして国の方へと走り出した。
やはり盗賊なんぞやっている場合ではない、真面目な青年なのだ。
アリスはそんな背中を見つめながら、魔王のすることじゃないなぁ、などと心の内に考えていた。
さて、プロスペロに豪語したのだから、彼らを国の機関へと引き渡すということをしなければならない。かと言ってここから城は遠い。
アリスの力を用いて連れて行くのも面倒である。
――考えた結果、あちらから来てもらうことにしたのだ。
「あーあー、ルーシー? 聞こえる?」
『――はい! アリス様!』
「よかった。私の魔力を追える? ちょっと来てほしい」
返事などなく、次の瞬間にはルーシーがアリスの目の前にいた。跪くスタイルで瞬間移動してくると、頭を下げたまま挨拶をする。
その様子を確認すると、面倒な事はいいからと言わんばかりに話を続ける。
「この男達と、小屋にいる男達を連行して。恐らく盗賊だから、国に裁いてもらって」
「はーい」
「あと、プロスペロなる男が後日国に到着する。私の名前を以って、保護と借金返済を保証したから。今そのへんに歩いているだろうけど、回収しなくていいからね」
「えーっ、いーですケドォ……。アリス様ってば、まーたエンプティに叱られますよぉ?」
犬猫よろしく何でもかんでも拾ってくる子に対して怒る母のように、エンプティはまたなにか小言を言うだろう。
ガブリエラの時だってそうだったのだ。
とはいえ今回は奴隷でもなんでもなく、ただのアリスの名前を利用した国民の保護だ。とはいえ「魔王なのだから自覚を~」などと別の理由で小言を言われそうである。
とりあえずアリスは帰った時の為に、言い訳を考えることにした。
ルーシーには何とか納得してもらい、男達を回収して城に戻ってもらった。
「……じゃあ行こうか」
「はい!」
腕を広げて「おいで」とジェスチャーすれば、ガブリエラが飛び込んでくる。小さい彼女を抱き上げれば、再び〈特殊防壁〉と、今度は念の為透明化魔術を掛けた。
徒歩で一週間前後の距離であれば、アリスの足ならすぐに到着できるだろう。それに一度着いてしまえばこちらのもの。あとは〈転移門〉でどこへでも行き来が可能だ。
しばらく走れば遠方に水辺が見えてくる。いわゆる「海」と呼ばれるものは、最東端にあるト・ナモミ周辺にあるため、この巨大な水辺は川であった。
アリスは徐々に走る速度を落としていく。プロスペロの言っていたとおり小高い丘になっていて、見下ろせば街が広がっている。
上空から見たときに見えなかったのは、距離もそうだが丘で死角になっていたからだろう。
「あとは徒歩ですか?」
「そうだね。これくらいなら歩けるよね?」
「はい!」
地面に着いたアリスは目を疑った。
ガブリエラが隠れているはずの木陰。あの隠れるには目立つピンク色の頭は見られず、辺りには気配も感じられない。
――そう、ガブリエラがいないのだ。
アリスが降りてきた場所は間違っていない。森の景色は似通っていて見分けが付きづらい。しかしそうとはいえども、大幅に位置がずれることもない。
アリスは木を伝いほぼ垂直に空へと駆け上がったのだ。流石にそれくらいは分かる。
つまり、このたった一瞬で、ガブリエラが連れさらわれたのだ。
当然だがガブリエラが裏切ったという線も存在する――が、アリスの所有する奴隷契約の魔術で最高位のものを用いたのだ。裏切った場合に走る激痛は、ショック死どころでは済まない。
契約の時点で激痛を味わっているから、そういった恐怖という意味で彼女が裏切る線は薄いのだ。
それにもし裏切り、激痛に耐えて黙っていられるほど強い魔族でもない。痛みに耐えられずそのへんでうめき声が聞こえていてもおかしくない。
となるとつまり、この一瞬で連れさらわれたと言うしか無い。
だが争った声などが聞こえれば、流石のアリスも気づく。しかし低レベルのサキュバスであるガブリエラが、そう簡単に抵抗出来るだろうか。
辺りに数名の足跡が残っていたが、戦闘を行ったようなあれ具合ではない。ただ歩いていた。それだけだ。
ガブリエラにはトロールにねぐらを襲われたトラウマも残っている。それに彼女は背が低く、普通の男と比べれば圧倒的に小さい。男数人に言い寄られれば、怯えて従う他ないだろう。
(まぁこれも旅行の醍醐味かな)
アリスはそっと目を閉じた。頭が冴え、周囲の音がよく聞き取れる。
鳥の声、風の音、草木のざわめき――歩く人の音。一人の少女と、男が数名。
木々が邪魔をして視界を遮り、この辺りには人が居ないと思っていた。しかしやはりこの短い時間で人をさらい、完全に消えられるような連中ではないようで。少し歩いた先に彼らは居るようだった。
「見つけた。ガブリエラ……!」
木々の合間を縫って駆け抜ければ、ガブリエラと彼女を連れ去った男達の後方に付く。
人間程度の徒歩なんて、たかが知れている。追いつくなんて簡単だった。
見た通りはそのへんにいそうな賊と言ったところであった。魔術を用いて観察せずとも、レベルが低いのはすぐに理解できる。
一応魔族であるガブリエラが本気を出せば、この程度の男は蹴散らせるだろに……なんて思ったが、そうはいっていられない。
どんな小さなナイフで脅されようが、殺意や悪意を持って接しれば恐ろしいに決まっている。
だがしかししばらく様子を見ているだけで、アリスは何もしなかった。
賊は真面目にも目的地に到着するまで何もする気はないらしく、ナイフで脅しているものの特段ガブリエラを傷つける様子もない。
そこでふと気付いた。こいつらは懲らしめる程度に痛めつけて、イルクナーまでの道のりを聞けば良いのでは。
絶賛迷子中だったアリスにとって、これはカモネギ案件であった。
そうと決まればアリスは行動に移す。一番アリスに近い男に奇襲をかけた。
「なっ!? どこから来た!」
「おい、女を逃がすなよ!」
「はっはい!」
「チッ……」
そこそこ戦い慣れているのか、連携が取れているようで突然のことのはずなのにしっかりと対処をしている。平凡で平和な世の中からやってきたアリスにとって、参考にすべき人物達だ。
トロールの一件もあって、対人対物で人を破壊しないように加減をする。トロールの時も普通に力を抑えて殴ったつもりだったから、余計に気を付けなければならない。
ナイフ男以外の三人が武器を取り出して、アリスに襲いかかった。ナイフ男以外はメイスなどの殴打武器を持っていて、慣れた動きで立ち回る。
最小限の動きでそれらをかわし、ガブリエラを案じる。
人質として活用されているガブリエラだったが、直接的に「この女の無事を~」ことは言われていない。
ふとガブリエラについている男を見ると、顔は焦っているように見えた。
(まさか、一番下っ端!? 余計にガブリエラが危ない……!)
「油断したな!」
「うわっ」
想定外の事実を知ってしまい油断したアリスに一撃。大した痛みも感じないほど弱いものだったが、体勢を崩すには丁度いいものだった。
その一発を皮切りに、二発三発と殴打が直撃する。どれもすべて痛くないが、煩わしい。
アリスはぐるぐると思考を巡らせた。こちらから手を出せなくなる状況に陥るとは思ってもいなかった。何か策はないか、と。
「……よし、これだ。――〈針子の子守唄〉!」
アリスをタコ殴りにしていた男どもが、こぞってドサドサと倒れていく。距離を調節したため、ガブリエラを監視していた男は起きているままだ。
そしてそこでようやくその下っ端らしき男が動く。ガブリエラを引き寄せて、彼女の首元にナイフをあてがった。
「く、くるなぁ! この女がどうなってもいいのかぁ!?」
声は震えていた。いや、そもそもガブリエラを掴んでいる腕も震えている。なんならナイフを持つ手すら震えていて、下手したら本当に首に刺さりそうだった。
そうなればまずい、というより面倒だ。治療魔術を使う必要が増える。減らさなくていい魔力を減らすことになるのだ。
アリスは気怠げにナイフを指差した。そして指先だけ上に向ければ、ナイフは空中へ飛び出すように浮いていく。
突然手元から離れるナイフに男は動揺を隠せず、馬鹿らしく空中に留まるナイフをただ見つめている。
そのスキをついてガブリエラが腕の中から脱出した。
ナイフは空中、約四メートル程度のところで浮遊しており、男がジャンプしようが何をしようが届きそうにない。
魔術や道具を用いないあたり、そういった手立てを持ち合わせていないのだろう。
「うぇーん、怖かったです」
「おぉ、よしよし」
犬猫のようにすりついてくるガブリエラを、慰めるように撫でるアリス。ガブリエラの怪我が無いことを確認したことで一安心する。
移動で足腰がふらついていた彼女だったが、また別の恐怖に当てられて吹っ飛んだのかちゃんと立っていられるようだ。アリスはその様子を見て撫でていた手を止める。
おもむろにしゃがみ込むと、先程の魔術で眠ってしまった男達に触れた。触れられた男はふわりと体が浮いた。
全ての男を浮かせると、アリスは未だナイフを取れず焦っている男を見た。
「ねえ」
「ひ!?」
「まだ仲間いるんでしょう? 案内して」
「は、はい……」
先程の一瞬の盗賊ムーブはどこへやら。アリスに言われたことを、震えながらこなす男になってしまった。いや、これが彼の本来の性格なのだろう。
拠点へ向かう最中に、彼のことを聞かせてもらった。
青年の名前をプロスペロ・メチェナーテと言った。彼もなりたくて盗賊をやっているわけではないという。
少し前に両親が病気で亡くなったらしいのだが、身辺整理をしている最中に押し入ってきた明らかに一般人ではない連中から、借金が大量にあるという話を聞いたらしい。
プロスペロの両親は相当なクズだったようで、自分が死んだら息子が必ず返すと言っていたらしく、それが現実となっていたらしい。
実際はそれまでに両親がある程度稼いでおく、という予定だったらしいが、息子に全てを頼むようなクズがそんな計画的なことが出来るはずもなく。
結局プロスペロは仕事を選べず、難しいが金は稼げる盗賊になってしまったのだった。
「ふーん。それでいいと思ってるの?」
「……い、いえ。でもお金を返すまでは、何とかこれでやりくりしないと……」
「…………」
その健気な様は、まるで前世のブラック企業の社畜だ。なんだかアリスはそんな彼に同情をしてしまいそうになる。
そんな彼の横顔が一層暗くなる。それは目の前の景色を見たからだ。目の前には、彼らのグループがアジトとしている小屋があった。
アリスは瞬時に中の人間の数を〝視る〟。目を凝らせば壁が透け、中の人間が見えるようになった。
(……五人。連れてきたやつで三人とプロスペロで――九人か。思ってたより多いな)
「あ、あれが拠点です」
プロスペロの声が微かに震えている。やはりやりたくてやっている仕事ではないのだ。それにこんなことを好んでやる連中なんぞ、性格がいいはずもない。
プロスペロも良いように扱われていないのだろう。
アリスは嘆息した。魔族になったからといって、ハインツという良心が必要ではないほどまだまだ甘いようだ。
これで魔王を名乗れるのか少し不安にかられる。
アリスは魔術空間に手を入れる。エンプティの保有するスキルほど優秀ではないが、アイテムを入れておける亜空間のようなものを所持しているのだ。
中から取り出したのは一枚の何も書かれていない紙切れだった。そこにサラサラと文字を書き、そして更に物を取り出す。
それは相当量の金銭だった。
「プロスペロ、これを」
「はい――って、えぇえぇ!?!?」
ずっしり、と重量のあるほどのそれを受け取ると、プロスペロは驚愕した。かばんすら持っていないのに、どこからこんな大量の金銭を取り出せたのか。
金とアリスを交互に見て、混乱していた。
「それだけあれば借金は返せる?」
「え、あっ、は、はい」
「そう。じゃあすぐにでもアベスカに戻って。これを国の人間に見せれば、プロスペロが不利になることは絶対にないから」
そう言って紙を渡す。そこに書かれていたのは、「アリス・ヴェル……」だの、プロスペロには分からない言葉ばかりだった。
だがこんな大金を渡してくる女の言うことならば、とりあえず従っておいたほうがいいのかもしれない。そう思った。
「あ、あの、あなたはどうするんですか?」
「こいつらと小屋の男共を、アベスカに引き渡して旅を再開する」
「いやっ、でも……」
プロスペロは言いかけた言葉を飲み込んだ。先程見た光景を思い出したからだ。
自分では到底頭の上がらなかった強い盗賊たち。それを一瞬で片付けた女性に、何を忠告しよう。
アリスは「あぁその前に」と一言挟む。彼らを殺さなかったのは、ただ道を聞きたかったからだ。
「私達イルクナーに行くつもりだったんだけど、道が分からなくなって。こっちで合ってたと思うんだけど、違うかな?」
「イルクナーですか……。えっと、大丈夫ですよ。そこの草原を行けば、沿岸部が見えます」
「? 上空から見てもずっと草原だったよ?」
「徒歩でしたら一週間以上、歩かないといけないくらい広いですから。それにこのあたりは、丘のように小高くなっているので、沿岸部が見えなかったのかもしれません」
イルクナーの南の多くは草原となっている。アベスカとは違い、特に開拓されているわけではなく、草原に住んでいるのは遊牧民だけだ。
大抵の国民は沿岸部へと集中していて、そこで暮らしているのだ。
このだだっ広い草原にいるのは遊牧民程度ならば、再び全力疾走しても大丈夫だろう、とアリスは判断する。
「そ。ありがと」
「い、いえ! こちらこそ!」
アリスが礼を言うと、プロスペロは大げさにお辞儀をして国の方へと走り出した。
やはり盗賊なんぞやっている場合ではない、真面目な青年なのだ。
アリスはそんな背中を見つめながら、魔王のすることじゃないなぁ、などと心の内に考えていた。
さて、プロスペロに豪語したのだから、彼らを国の機関へと引き渡すということをしなければならない。かと言ってここから城は遠い。
アリスの力を用いて連れて行くのも面倒である。
――考えた結果、あちらから来てもらうことにしたのだ。
「あーあー、ルーシー? 聞こえる?」
『――はい! アリス様!』
「よかった。私の魔力を追える? ちょっと来てほしい」
返事などなく、次の瞬間にはルーシーがアリスの目の前にいた。跪くスタイルで瞬間移動してくると、頭を下げたまま挨拶をする。
その様子を確認すると、面倒な事はいいからと言わんばかりに話を続ける。
「この男達と、小屋にいる男達を連行して。恐らく盗賊だから、国に裁いてもらって」
「はーい」
「あと、プロスペロなる男が後日国に到着する。私の名前を以って、保護と借金返済を保証したから。今そのへんに歩いているだろうけど、回収しなくていいからね」
「えーっ、いーですケドォ……。アリス様ってば、まーたエンプティに叱られますよぉ?」
犬猫よろしく何でもかんでも拾ってくる子に対して怒る母のように、エンプティはまたなにか小言を言うだろう。
ガブリエラの時だってそうだったのだ。
とはいえ今回は奴隷でもなんでもなく、ただのアリスの名前を利用した国民の保護だ。とはいえ「魔王なのだから自覚を~」などと別の理由で小言を言われそうである。
とりあえずアリスは帰った時の為に、言い訳を考えることにした。
ルーシーには何とか納得してもらい、男達を回収して城に戻ってもらった。
「……じゃあ行こうか」
「はい!」
腕を広げて「おいで」とジェスチャーすれば、ガブリエラが飛び込んでくる。小さい彼女を抱き上げれば、再び〈特殊防壁〉と、今度は念の為透明化魔術を掛けた。
徒歩で一週間前後の距離であれば、アリスの足ならすぐに到着できるだろう。それに一度着いてしまえばこちらのもの。あとは〈転移門〉でどこへでも行き来が可能だ。
しばらく走れば遠方に水辺が見えてくる。いわゆる「海」と呼ばれるものは、最東端にあるト・ナモミ周辺にあるため、この巨大な水辺は川であった。
アリスは徐々に走る速度を落としていく。プロスペロの言っていたとおり小高い丘になっていて、見下ろせば街が広がっている。
上空から見たときに見えなかったのは、距離もそうだが丘で死角になっていたからだろう。
「あとは徒歩ですか?」
「そうだね。これくらいなら歩けるよね?」
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ファンタジー
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「ごめんなさい!もう戻る事も出来ないから、この世界で楽しく過ごして下さい。」と、言われたのでゆっくり生活をする事にした。
現役看護婦の私のゆっくりとしたどたばた異世界生活が始まった。
ゆっくり更新です。はじめての投稿です。
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