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前編 第一章「降臨」
敵襲1
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「別にヴァルデマルの寝室でも良かったのに」
「いいえ、なりません。誰も使っていないまっさらな部屋を使うべきです」
ここは元魔王・ヴァルデマルの使っていた寝室――ではなく、まだ誰も使っていない客室だった。来客など存在しない魔王城だが、そんな部屋があるのは不必要な部屋が有り余っているからだ。
ヴァルデマルは魔人になってから睡眠を滅多に取らない。彼用の寝室が用意されているものの、ほぼほぼ未使用。
であればそこで寝ても別に問題はないだろうと彼女は思ったのだ。
だがそれを、この眼前のスライム女が許すはずがない。
誰も使っていないきれいな部屋を寄越しなさい、とヨナーシュに言ったのだ。ヴァルデマルは主でありながら、この城を隅々まで把握しているわけではなく、必然的に記憶していると豪語したヨナーシュにその仕事が回ってくる。
出来るだけ広く豪勢な部屋を選んだつもりだったが、エンプティはそれでも満足がいかなかったようで、少し苛つき気味だった。
ヨナーシュは逃げるように部屋から去ったが、ハインツとエキドナに捕まり防衛に関しての意見交換にあうことになった。
アリスとエンプティが寝室に二人になれば、先程約束した健康管理が始まる。
「――問題ありません、どこも健康的です」
エンプティはアリスの両手を握って、彼女の健康状態を調べていた。はじめは「スライムに戻って全身くまなくお調べ致しましょうか!?」などと騒いでいたが、そもそも今回は戦闘という戦闘もしていない。
唯一被害があったといえば……あの幻惑魔法程度だが、その程度でどうこうなる体でもない。そもそも迷子になった(ベルが少々へこんだ)だけで、体への実害はないのだ。
疲れたといえば確かだが、少し長めに歩いただけでへばるようなアリスでもない。それに疲れたのは精神面だ。
「ありがとう。エンプティは人間態でもひんやりしてるんだね」
「お、お望みとあらば、体温を上げましょうか?」
「いやいいよ。冷たくて気持ちいい。……やっぱり疲れたなぁ、ちょっと横になるよ」
「はい。では外で待機しておりますので、何か御座いましたらお呼びつけ――」
「なんで? エンプティ添い寝してくれるんじゃないの?」
アリスがそう言うと青緑の瞳がカッと見開かれた。顔は恍惚の笑みを浮かべ、美女というよりかはさながら捕食者である。
アリスもアリスで発言してから「失敗した」と心のなかで思った。今は止めてくれる他の幹部もいない。飛びかかられて――いや、この場合ではエンプティが真の姿になってアリスを取り込むかもしれない。
だがそんなことはなかった。
エンプティの崩れた表情は一瞬だけで、すぐに平然とした態度を取り戻す。小さく咳払いをして何事も無かったかのように話しだした。
「……それはとても素晴らしいご提案ですが、申し訳ありません。主様の健康を見守ると誓った私が、そのようなことをしていいはずがありません」
「そうなの?」
「それは……」
「……いいよ、ごめんごめん。じゃあちょっと仮眠するから。用があったら起こしてね」
「はい。おやすみなさいませ」
エンプティは部屋から出ていき、アリスは一人でベッドに潜る。眠るとは言っても、魔族になった身。大して睡眠は必要ないのだが、それはエンプティを始めとする幹部達も承知している。
彼らも人ならざるものであるゆえにそのことは把握しているのだ。
アリスは一人になりたかった。やはり元々はただの人間であったゆえに、しかも働いている時は普通の社員。上に立つことなど――あるといえばあったが、こんな王たる振る舞いを必要とはしなかった。
後輩の育成。その程度で止まっている。
(ヴァルデマル程度が本人の言う通り、勇者を除いた――この世界でも指折りの強い人間だとしたら。私達の力で勇者をねじ伏せるのは楽かもしれない)
アリスはふと思い出した。まだ彼らのレベルを聞いていない。
事前に知っていたこの世界のレベルの最高レベルは199だ。勇者もその程度だろう。
しかしながら、アリスと彼女が率いる幹部達は、そのレベルは200。カンストレベルを超えているとはどういうことだ、と思うかもしれない。
神にとってこの世界の勇者とは、このようなチート行為をしてまで絶対に殺してほしい存在なのだろう。
(……いやいや、でも油断はしちゃいけない。神が言っていたのは一人の男だった――かな。取り巻きがいるかもしれない。気を引き締めて、確実に殺さないと)
いつだってどんなホラーだって最後に勝つのは主人公だ。
ファイナルガールと形容された少女が、体躯も明らかに異なる大柄の殺人鬼に勝つ。
襲い来るゾンビ達と奮闘して、主人公の青年が生き残る。
悪魔と対峙した聖職者が平穏をもたらす。
(であれば私は悪魔の子のように、呪われた名のように、復讐の炎に燃える少女のように、神々に捧げる儀式のように――確実に全員殺そう)
自分は未熟な部類だ。力を持って生まれただけで知恵などなにもない。部下はそれを分かってついてきてくれている。
だったら何でも聞けばいい。お互いに話し合って、どうやれば人間どもを恐怖に陥れられるか意見を言い合えば良いのだ。
決意を改めて固めたところで、テレパシーによる通信が入る。発信元は、防衛担当であるエキドナからであった。彼女から通信が来るということは、城に何かしら異変があったということ。
それは大抵侵入者を知らせる。
ここは元々あのヴァルデマルなる青年の根城としていたのだ。定期的に襲ってくるとか言っていたような……などと思いながら通信に応じた。
「はいよ」
『お休みのところ申し訳ございません、申し訳ございません……。侵入者を発見致しました。現在ルーシー様が幻惑魔法で迷わせ、足止めされております……』
「ヴァルデマルが言ってた魔族の強襲かな?」
『そのように見受けられます……』
「そっか。目の前の問題が向こうからやってきたのは良いことだね。誰一人として殺さないで。その種族との交渉材料になるかも」
『ではそのように、そのように……』
エキドナからの通信を切る。
休息という意味では全く意味を成さない短い時間であったが、アリスにとっては一瞬でも一人になって少し頭をスッキリさせるのが目的の為、多少は目標が成されたというもの。
アリスが使うには少し大きなベッドから下り、扉へ向かう。ドアノブに手を出したところで、アリスはふと違和感に気づいた。
なんとなく察しはついたが、彼女は気にせずドアを開けた。
「やっとお出ましか」
声を上げたのは、外で待機しているはずのエンプティではない。全身が毛に覆われ、鋭い牙と爪を持ち、ふさふさとした毛が尻尾に生えている。
二足歩行が可能な狼――ウルフマンという種族だ。
アリスはこの世界の亜人やその他の種族の知識はない。だから彼らが鎧を身にまとい、武器を携えているのには感銘を受けた。
その程度の知恵はあるのだな、と。
「申し訳御座いません。エキドナの通信より前に……」
「別にいーよ。で、何がしたいの?」
「王のところに連れていけ! 部下が何人か迷っちまってな」
ここにいるウルフマンは全部で五体。ここにいるのが全ての戦力ではないようで、部隊がいくつかに別れていることと、魔力に対する耐性が低いものは迷ってしまったらしい。
当然アリス達は迷わせる為に魔法を展開しているわけで、そこは問題ないだろう。
さて彼らはアリスのことを主だと分かっていないらしい。この距離まで来ておいて彼女の威圧感に気づかないのは、弱者の証拠。
それに彼らの中には「ヴァルデマル」という存在が刻まれているのだろう。彼が勇者に敗れたところを知っているだろうが、新たな強者に跪いたのは知らないようだ。
「どでかい音が城から聞こえてよ。見たらものすげえ穴が空いてるじゃねえか。どっかの部族がやったんだと思ったぜ。だから俺らも便乗させてもらってるって寸法さ」
「それはそれは~、じゃあ案内しますね」
「はぁっ!? アリ――」
「しーっ、丁重にお連れしようね。エンプティ。ふふふっ」
「……」
あまりの愚かさにアリスは面白さを覚えた。いつ気付くのだろうと興味がわいた彼女は、彼らを騙すことにした。
主人が雑魚に敬語を喋り、下に出ればエンプティからは驚愕の声が漏れた。
しかしエンプティが声を荒げて狼どもを止めなかったのは、主が酷く楽しそうに笑っていたからである。
楽しげにしている主を止める部下がどこに居よう。特にエンプティはアリスと約束をしたのだから。
「ったく、本当に情けなかったよな。ヴァルデマルのやつ」
「なんでです? そうなんですか」
「あぁ? お前部下なのに知らねえのかよ」
「はい~。私ずっと部屋で別の仕事してましたので」
「変なやつだな。じゃあ教えてやる。あいつはな――」
ご丁寧に人質に主の失態を喋り始める。本当にこの犬は頭が足りないのだ、とエンプティは心の中で笑う。
この脳の足りない狼男は、本当にアリスがただの部下で何も知らないと思っているらしい。必死に最初から最後までを説明する様は滑稽だ。
などとひとしきり心の中で笑っていたエンプティだったが、ウルフマンの一言。彼女の逆鱗に触れることとなった。
いや、彼女だけではない。この言葉を幹部が聞いていれば、全員が怒り狂っただろう。
「――っつーわけ。こんなこと起きてるのに知らねえのか、やっぱり変なやつだぜ。見た目も奇形みたいで変だしよぉ。他種族が合わさってんのか? 気味悪いな」
「……った」
「ん? 俺に言ったのか、そこの女」
「今なんて言った、このクソ狼がァああぁあ!!!」
エンプティの怒号と同時に、ウルフマンを吹き飛ばすほどの強大なオーラ。
建物がビリビリと揺れている。地震や強風なんて比較にならないほど。廊下の角がビシリと音を立てて、割れた破片が天井から落ちてきている。
それでも城自体が崩れないあたり、ヴァルデマル達が仕事の出来る魔人といったところだろう。
オーラという強風に当てられたウルフマンは、その場に居た誰もが吹き飛んでいた。
だがヴァルデマルについてつらつらと語っていた個体だけが、根気よく二人のそばに残っていた。
あえて残されているのか、それとも吹き飛ぶような低レベルでは無かったのか。
もちろんアリスが吹き飛ぶことはなく。「わぁすごい」なんて他人事のように見ている。
ウルフマンを騙して遊んでいたアリスの喜び具合を知っていたエンプティ。アリスの楽しみを奪ってしまった苦しみに襲われていたが、それ以上に大切なアリスが馬鹿にされたことが彼女の中で多くを占めていた。
幹部であればその玉体を見れば誰もが完璧だと思うだろう。
黒い羊の角も、真っ白な髪も、白黒反転したその瞳ですら。腕で煌めく鱗は美しく、許可が頂けるのであれば触れたいほど完成している美だと。そうエンプティは思っている。
だからこの間抜けの言う罵りが、酷く彼女を怒らせた。
「〈万物形状変化〉」
エンプティは自分のスキルで大鎌を生成した。生成というよりはその名の通り形状変化である。腕の一部を変化させているため、右手と鎌が溶接したようになっている。
鎌も彼女の一部であるため、分離することが出来ないのだ。
エンプティは惜しみなくその大鎌を振るった。美女が振るうような大きさではない大鎌が広い廊下を切り裂いて、目標であるウルフマン目掛けて下ろされていく。
だがその大鎌はウルフマンを切り裂いて、廊下を鮮血で染め上げることはなかった。
金属がぶつかり合う音が響いて、視線を送れば――大鎌はレースの羽衣によって阻止されていた。もちろんそんなものを着ているのは、主であるアリスだけ。
アリスがウルフマンを守ったのだ。
エンプティの顔が「なぜ」と訴えているのは、その場にいる誰もがわかることだった。
「ネタバラシになっちゃったけど、まぁいっか。エンプティ、冷静になりなさいな。新たな魔王軍が必要と話したでしょ。部下になるかもしれない子達を殺すのは、上に立つものとしてよろしくない行為じゃないかな」
「ぐっ、……申し訳、御座いません」
アリスが羽衣で鎌を優しく押しやると、エンプティは理解したのか腕をもとに戻した。
狼たちは驚きのあまり硬直している。
そんなウルフマン達を見つめ、アリスは微笑んだ。
「私が新しい魔王になった――アリス・ヴェル・トレラントだ」
否。微笑んだというよりは、不敵に笑ったように近い。その不気味な容姿から生み出される微笑みが、美しいと形容できるのは彼女の部下だけだ。
見たこともない衣服に、浮遊する謎の布。二種以上混合された未知の種族。
そして愚かなウルフマンが、名を名乗られてようやく気づいた――威圧感。
武器を持つ手に汗が滲む。毛が逆立って、自分が恐怖を感じているのだとようやっとわかったのだ。
震えるウルフマンを見ながら、エンプティは今更気付いた愚か者共を心で罵る。
ウルフマン達は指示すらしていないのに、自ずと膝を地に付けアリスの前に傅いた。頭を深く下げて、震える声で話す。
「我らが魔族を統べし王……ご無礼をお許し下さい……」
「いいえ、なりません。誰も使っていないまっさらな部屋を使うべきです」
ここは元魔王・ヴァルデマルの使っていた寝室――ではなく、まだ誰も使っていない客室だった。来客など存在しない魔王城だが、そんな部屋があるのは不必要な部屋が有り余っているからだ。
ヴァルデマルは魔人になってから睡眠を滅多に取らない。彼用の寝室が用意されているものの、ほぼほぼ未使用。
であればそこで寝ても別に問題はないだろうと彼女は思ったのだ。
だがそれを、この眼前のスライム女が許すはずがない。
誰も使っていないきれいな部屋を寄越しなさい、とヨナーシュに言ったのだ。ヴァルデマルは主でありながら、この城を隅々まで把握しているわけではなく、必然的に記憶していると豪語したヨナーシュにその仕事が回ってくる。
出来るだけ広く豪勢な部屋を選んだつもりだったが、エンプティはそれでも満足がいかなかったようで、少し苛つき気味だった。
ヨナーシュは逃げるように部屋から去ったが、ハインツとエキドナに捕まり防衛に関しての意見交換にあうことになった。
アリスとエンプティが寝室に二人になれば、先程約束した健康管理が始まる。
「――問題ありません、どこも健康的です」
エンプティはアリスの両手を握って、彼女の健康状態を調べていた。はじめは「スライムに戻って全身くまなくお調べ致しましょうか!?」などと騒いでいたが、そもそも今回は戦闘という戦闘もしていない。
唯一被害があったといえば……あの幻惑魔法程度だが、その程度でどうこうなる体でもない。そもそも迷子になった(ベルが少々へこんだ)だけで、体への実害はないのだ。
疲れたといえば確かだが、少し長めに歩いただけでへばるようなアリスでもない。それに疲れたのは精神面だ。
「ありがとう。エンプティは人間態でもひんやりしてるんだね」
「お、お望みとあらば、体温を上げましょうか?」
「いやいいよ。冷たくて気持ちいい。……やっぱり疲れたなぁ、ちょっと横になるよ」
「はい。では外で待機しておりますので、何か御座いましたらお呼びつけ――」
「なんで? エンプティ添い寝してくれるんじゃないの?」
アリスがそう言うと青緑の瞳がカッと見開かれた。顔は恍惚の笑みを浮かべ、美女というよりかはさながら捕食者である。
アリスもアリスで発言してから「失敗した」と心のなかで思った。今は止めてくれる他の幹部もいない。飛びかかられて――いや、この場合ではエンプティが真の姿になってアリスを取り込むかもしれない。
だがそんなことはなかった。
エンプティの崩れた表情は一瞬だけで、すぐに平然とした態度を取り戻す。小さく咳払いをして何事も無かったかのように話しだした。
「……それはとても素晴らしいご提案ですが、申し訳ありません。主様の健康を見守ると誓った私が、そのようなことをしていいはずがありません」
「そうなの?」
「それは……」
「……いいよ、ごめんごめん。じゃあちょっと仮眠するから。用があったら起こしてね」
「はい。おやすみなさいませ」
エンプティは部屋から出ていき、アリスは一人でベッドに潜る。眠るとは言っても、魔族になった身。大して睡眠は必要ないのだが、それはエンプティを始めとする幹部達も承知している。
彼らも人ならざるものであるゆえにそのことは把握しているのだ。
アリスは一人になりたかった。やはり元々はただの人間であったゆえに、しかも働いている時は普通の社員。上に立つことなど――あるといえばあったが、こんな王たる振る舞いを必要とはしなかった。
後輩の育成。その程度で止まっている。
(ヴァルデマル程度が本人の言う通り、勇者を除いた――この世界でも指折りの強い人間だとしたら。私達の力で勇者をねじ伏せるのは楽かもしれない)
アリスはふと思い出した。まだ彼らのレベルを聞いていない。
事前に知っていたこの世界のレベルの最高レベルは199だ。勇者もその程度だろう。
しかしながら、アリスと彼女が率いる幹部達は、そのレベルは200。カンストレベルを超えているとはどういうことだ、と思うかもしれない。
神にとってこの世界の勇者とは、このようなチート行為をしてまで絶対に殺してほしい存在なのだろう。
(……いやいや、でも油断はしちゃいけない。神が言っていたのは一人の男だった――かな。取り巻きがいるかもしれない。気を引き締めて、確実に殺さないと)
いつだってどんなホラーだって最後に勝つのは主人公だ。
ファイナルガールと形容された少女が、体躯も明らかに異なる大柄の殺人鬼に勝つ。
襲い来るゾンビ達と奮闘して、主人公の青年が生き残る。
悪魔と対峙した聖職者が平穏をもたらす。
(であれば私は悪魔の子のように、呪われた名のように、復讐の炎に燃える少女のように、神々に捧げる儀式のように――確実に全員殺そう)
自分は未熟な部類だ。力を持って生まれただけで知恵などなにもない。部下はそれを分かってついてきてくれている。
だったら何でも聞けばいい。お互いに話し合って、どうやれば人間どもを恐怖に陥れられるか意見を言い合えば良いのだ。
決意を改めて固めたところで、テレパシーによる通信が入る。発信元は、防衛担当であるエキドナからであった。彼女から通信が来るということは、城に何かしら異変があったということ。
それは大抵侵入者を知らせる。
ここは元々あのヴァルデマルなる青年の根城としていたのだ。定期的に襲ってくるとか言っていたような……などと思いながら通信に応じた。
「はいよ」
『お休みのところ申し訳ございません、申し訳ございません……。侵入者を発見致しました。現在ルーシー様が幻惑魔法で迷わせ、足止めされております……』
「ヴァルデマルが言ってた魔族の強襲かな?」
『そのように見受けられます……』
「そっか。目の前の問題が向こうからやってきたのは良いことだね。誰一人として殺さないで。その種族との交渉材料になるかも」
『ではそのように、そのように……』
エキドナからの通信を切る。
休息という意味では全く意味を成さない短い時間であったが、アリスにとっては一瞬でも一人になって少し頭をスッキリさせるのが目的の為、多少は目標が成されたというもの。
アリスが使うには少し大きなベッドから下り、扉へ向かう。ドアノブに手を出したところで、アリスはふと違和感に気づいた。
なんとなく察しはついたが、彼女は気にせずドアを開けた。
「やっとお出ましか」
声を上げたのは、外で待機しているはずのエンプティではない。全身が毛に覆われ、鋭い牙と爪を持ち、ふさふさとした毛が尻尾に生えている。
二足歩行が可能な狼――ウルフマンという種族だ。
アリスはこの世界の亜人やその他の種族の知識はない。だから彼らが鎧を身にまとい、武器を携えているのには感銘を受けた。
その程度の知恵はあるのだな、と。
「申し訳御座いません。エキドナの通信より前に……」
「別にいーよ。で、何がしたいの?」
「王のところに連れていけ! 部下が何人か迷っちまってな」
ここにいるウルフマンは全部で五体。ここにいるのが全ての戦力ではないようで、部隊がいくつかに別れていることと、魔力に対する耐性が低いものは迷ってしまったらしい。
当然アリス達は迷わせる為に魔法を展開しているわけで、そこは問題ないだろう。
さて彼らはアリスのことを主だと分かっていないらしい。この距離まで来ておいて彼女の威圧感に気づかないのは、弱者の証拠。
それに彼らの中には「ヴァルデマル」という存在が刻まれているのだろう。彼が勇者に敗れたところを知っているだろうが、新たな強者に跪いたのは知らないようだ。
「どでかい音が城から聞こえてよ。見たらものすげえ穴が空いてるじゃねえか。どっかの部族がやったんだと思ったぜ。だから俺らも便乗させてもらってるって寸法さ」
「それはそれは~、じゃあ案内しますね」
「はぁっ!? アリ――」
「しーっ、丁重にお連れしようね。エンプティ。ふふふっ」
「……」
あまりの愚かさにアリスは面白さを覚えた。いつ気付くのだろうと興味がわいた彼女は、彼らを騙すことにした。
主人が雑魚に敬語を喋り、下に出ればエンプティからは驚愕の声が漏れた。
しかしエンプティが声を荒げて狼どもを止めなかったのは、主が酷く楽しそうに笑っていたからである。
楽しげにしている主を止める部下がどこに居よう。特にエンプティはアリスと約束をしたのだから。
「ったく、本当に情けなかったよな。ヴァルデマルのやつ」
「なんでです? そうなんですか」
「あぁ? お前部下なのに知らねえのかよ」
「はい~。私ずっと部屋で別の仕事してましたので」
「変なやつだな。じゃあ教えてやる。あいつはな――」
ご丁寧に人質に主の失態を喋り始める。本当にこの犬は頭が足りないのだ、とエンプティは心の中で笑う。
この脳の足りない狼男は、本当にアリスがただの部下で何も知らないと思っているらしい。必死に最初から最後までを説明する様は滑稽だ。
などとひとしきり心の中で笑っていたエンプティだったが、ウルフマンの一言。彼女の逆鱗に触れることとなった。
いや、彼女だけではない。この言葉を幹部が聞いていれば、全員が怒り狂っただろう。
「――っつーわけ。こんなこと起きてるのに知らねえのか、やっぱり変なやつだぜ。見た目も奇形みたいで変だしよぉ。他種族が合わさってんのか? 気味悪いな」
「……った」
「ん? 俺に言ったのか、そこの女」
「今なんて言った、このクソ狼がァああぁあ!!!」
エンプティの怒号と同時に、ウルフマンを吹き飛ばすほどの強大なオーラ。
建物がビリビリと揺れている。地震や強風なんて比較にならないほど。廊下の角がビシリと音を立てて、割れた破片が天井から落ちてきている。
それでも城自体が崩れないあたり、ヴァルデマル達が仕事の出来る魔人といったところだろう。
オーラという強風に当てられたウルフマンは、その場に居た誰もが吹き飛んでいた。
だがヴァルデマルについてつらつらと語っていた個体だけが、根気よく二人のそばに残っていた。
あえて残されているのか、それとも吹き飛ぶような低レベルでは無かったのか。
もちろんアリスが吹き飛ぶことはなく。「わぁすごい」なんて他人事のように見ている。
ウルフマンを騙して遊んでいたアリスの喜び具合を知っていたエンプティ。アリスの楽しみを奪ってしまった苦しみに襲われていたが、それ以上に大切なアリスが馬鹿にされたことが彼女の中で多くを占めていた。
幹部であればその玉体を見れば誰もが完璧だと思うだろう。
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だからこの間抜けの言う罵りが、酷く彼女を怒らせた。
「〈万物形状変化〉」
エンプティは自分のスキルで大鎌を生成した。生成というよりはその名の通り形状変化である。腕の一部を変化させているため、右手と鎌が溶接したようになっている。
鎌も彼女の一部であるため、分離することが出来ないのだ。
エンプティは惜しみなくその大鎌を振るった。美女が振るうような大きさではない大鎌が広い廊下を切り裂いて、目標であるウルフマン目掛けて下ろされていく。
だがその大鎌はウルフマンを切り裂いて、廊下を鮮血で染め上げることはなかった。
金属がぶつかり合う音が響いて、視線を送れば――大鎌はレースの羽衣によって阻止されていた。もちろんそんなものを着ているのは、主であるアリスだけ。
アリスがウルフマンを守ったのだ。
エンプティの顔が「なぜ」と訴えているのは、その場にいる誰もがわかることだった。
「ネタバラシになっちゃったけど、まぁいっか。エンプティ、冷静になりなさいな。新たな魔王軍が必要と話したでしょ。部下になるかもしれない子達を殺すのは、上に立つものとしてよろしくない行為じゃないかな」
「ぐっ、……申し訳、御座いません」
アリスが羽衣で鎌を優しく押しやると、エンプティは理解したのか腕をもとに戻した。
狼たちは驚きのあまり硬直している。
そんなウルフマン達を見つめ、アリスは微笑んだ。
「私が新しい魔王になった――アリス・ヴェル・トレラントだ」
否。微笑んだというよりは、不敵に笑ったように近い。その不気味な容姿から生み出される微笑みが、美しいと形容できるのは彼女の部下だけだ。
見たこともない衣服に、浮遊する謎の布。二種以上混合された未知の種族。
そして愚かなウルフマンが、名を名乗られてようやく気づいた――威圧感。
武器を持つ手に汗が滲む。毛が逆立って、自分が恐怖を感じているのだとようやっとわかったのだ。
震えるウルフマンを見ながら、エンプティは今更気付いた愚か者共を心で罵る。
ウルフマン達は指示すらしていないのに、自ずと膝を地に付けアリスの前に傅いた。頭を深く下げて、震える声で話す。
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