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第四章 冬の花
スミレ
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あっという間に冬が終わり、春が来た。よく動く雲の隙間からは暖かい、蜂蜜色の日差しが降り注いでいる。久保明日香は平日の昼間に、私服姿で公園のベンチに座っていた。黒のラウンドネックのカットソーとジーンズ。春だからと明るい色を着ることはないものの、春陽に照らされた頬はほんのりと桃色に色づいている。結果はまだ出ていないが受験が終わってほっとしたのか、肌寒かった時期よりも纏う雰囲気が柔らかくなっていた。
「あすかー!」
公園の入り口で黄色の、目がちかちかするようなパーカーを着た満里奈が手を振っている。隣にいる希美の、揺れるベージュのガウチョパンツが妙に大人っぽく見えた。
二人が土を踏みしめるたびにシャリシャリという砂の音が心地よく明日香の耳に届く。
「二人ともおはよ。ひさしぶり」
「おはよー。ひさしぶり。おはようって言ってももう昼だけどね」
数週間ぶりに会っても満里奈のからかうような笑顔は変わらない。パーカーの下のショートパンツから伸びる足は、相変わらず陸上部らしく引き締まっていた。部活はすでに引退したが、春からも陸上に励むのだから、トレーニングは怠っていないのだろう。
「ほんと、学習期間が始まって以来だから久しぶりだね」
風に靡くミディアムヘアを片手で抑えながら希美がつぶやく。アルバイトは三月の半ばくらいまでは続けるらしく、今までと変わらず、アルバイトに明け暮れる日々を送っているそうだ。
「じゃ、行こうか。合流したからこれから向かうよって流奈に連絡しておくね」
明日香はスマートフォンに文字を打ちながらベンチから立ち上がる。本来なら授業を受けているはずの時間帯。私服姿で堂々と歩けるのは今が家庭学習期間中で登校日がないためだ。
「ありがと、なんだかんだ流奈の家に行くの初めてだよね」
「流奈もばたばたしてたし、あたしたちも受験とかあったからねぇ」
多くの人が働いたり、学校へ行ったりしているはずの平日。静かな時間の中に希美と満里奈の平和な声が溶けていく。
三人はこれから流奈の家に遊びに行く。英司と二人で住んでいた家、今は流奈が一人で住んでいる家だ。あの事件のあとすぐに英司は逮捕となった、流奈は施設で暮らす、という話にもなったが卒業までしかいられないのに今から入所しても慌ただしいだけだと一人暮らしをすることになったのだ。家の契約やら保証人やらに容子がいろいろと力を貸して、なんとか実現することができた。
「流奈もようやくスマホに慣れてきたかな」
「教えるの大変だったんだよ」
満里奈の言葉に希美が軽くため息を混ぜて答える。
「お給料を前借してスマホ買ったはいいけど、ああいう機械にほとんど触ったことないから、電源の入れ方すらわからなかったんだよ。バイト終わった後にみっちり教え込んだんだから」
ふすふすと鼻を鳴らす勢いで喋っているものの、満更でもなさそうだ。
「あれ、そういえば、二人ともバイト休んじゃって大丈夫なの」
「うん、大丈夫、大丈夫。他にも人はいるし、おじさん、ああ見えてすごいんだよ。なんでもてきぱきこなしちゃうんだから」
流奈は一人暮らしが少し落ち着いたタイミングで希美のアルバイト先で働き始めていた。春は進学や就職などでアルバイトが次々にやめていく時期。希美の叔父で店長の松坂義弘は「かわいい姪っ子の友達なら大丈夫」だと言ってろくに履歴書も見ずに採用したらしい。
「いらっしゃい」
インターフォンを押すと白いワンピースを着た流奈が扉を開けた。そのワンピースは明日香が中学生の頃に試しに買ってみたはいいものの、着なくなってしまったワンピースだった。
一度だけ英司の物を処分したり、血の付いたカーペットを新しいものに変えるのを容子と共に手伝ったことがある。その際にあげたいくつかの服のうちの一着だった。
「おじゃましまーす」
リビングに入った明日香は部屋が以前よりも明るくなっているような気がした。開きっぱなしの、空っぽになった英司の部屋にも春の明るい陽射しが差し込んでいる。
「全然何もないけど座って。コーヒー淹れるから」
流奈はあれから前よりもよく笑うようになった。もともと小動物的なかわいらしさがあったのに、最近はなおさらかわいらしくて明日香の胸をドキドキさせている。自分の服を着ているという事実もなんだか胸を擽った。
三人でソファの前にあるローテーブルを囲むように座るとキッチンから流奈の声が響いてきた。
「ねぇ、ホットにする? アイスにする?」
ホットコーヒーは少し熱い。けれどアイスコーヒーは冷たい。そんな微妙な気温だ。
「私はホットがいいな」
「あたしアイス!」
「わたしも、手伝うよ」
「えと、希美がホットで満里奈と明日香がアイスね。大丈夫だよ、気にしないで座ってて」
立ち上がりかけた明日香は流奈の声に再び腰を下ろした。流奈がコーヒーを用意している間に三人が持ち寄ったお菓子をテーブルの上に広げる。ポテトチップス、グミ、クッキー、チョコレート。今日は勉強会でもなんでもなく、ただ友達同士で集まって遊ぶ会だ。
マグカップを二つ、グラスを二つ乗せたお盆がテーブルの上に置かれる。流奈が明日香の隣に座ると早速お菓子パーティーが始まった。小鳥のさえずりのように、女子高生らしいお喋りが続く。四人で集まるのが久しぶりなこともあって、話題は尽きなかった。
「ねぇ見てこれ」
希美がスマートフォンに映し出された画像を三人に見せる。
「これ液タブっていって絵を描くやつなんだけど、初任給で買おうかと思ってどれにしようかなって最近悩んでるんだよね」
「へぇ、こんなのあるんだ」
機械が苦手な流奈は初めて見たものに目を丸くしている。
「うん、親に初任給は絶対に受け取らないからって言われてさ。私もたまには自分にお金使ってもばちは当たらないかなって思ったんだ」
希美は目を細めてマグカップに口を付けた。そう思えるに至るまでの両親とのやりとりを思い出しているのだろう。希美がそれでいいと言って働いていたとはいえ、少し心配だった明日香はほっと胸を撫でおろした。希美はもう少し、わがままになってもいい。
「初任給と言えばさ、流奈はバイトどうなの? 松坂先輩にいじめられてない?」
満里奈はそのまま開いた口に、指先でつまんでいたポテトチップスを投げ入れる。
「希美すごいんだよ! なんでもてきぱきこなしちゃって! わたし、働くなんて初めてだからすごく助けてもらってるよ」
流奈が希美に熱い視線を送りながら語る。想像していなかった言葉に希美が満里奈の隣で顔を赤くしていた。満里奈はそんな二人をころころと笑って見ながら、またポテトチップスを口に入れた。
流奈は希美や他のアルバイトの面々に仕事を教わりながら、可能な限り長い時間働いている。卒業して業務にも慣れたら何かバイトを掛け持ちしようかとも言っていた。いつになるかわからないけれど進学もしたい。ここの家賃も高いし、引っ越し資金を早めに貯めて引越しもしたいんだよね。だから今はたくさん働きたいの。そう流奈が以前こぼしていたのを明日香は聞いていた。この家にあまりいい思い出もないだろう。何かあったらいつでも相談してね、そんなありきたりな返事しかできなかった。
明日香の手に握られたアイスコーヒーの氷がカランと軽い音を立てた。
「社会人でももらえるような奨学金とか見つけたら教えるよ」
「ありがとう。勉強もちゃんとやらなきゃね。やりたいことたくさんあって最近すごく楽しい」
マグカップを両手で包みながら流奈が言う。以前よりほんの少しふっくらとした頬を持ち上げながら柔らかく笑った。
「……そういえばさ、この間おかあさんと連絡がとれたんだ」
「なんて?」
まだ流奈から搾取しようとしているのか。明日香のこめかみがピクリと動いた。
「ごめんなさいって、それだけ。今度会いたいって言ったら泣いてた」
「そっか」
緊張の糸がほどけた明日香の短い言葉には見守るような温かい色があった。四人の間に穏やかな沈黙が流れる。ふと満里奈が口を開いた。
「明日で卒業かぁ。なんかあっという間だったね」
少しの間の後、流奈の口がゆっくりと動く。
「うん、ほんと、あっという間」
「あすかー!」
公園の入り口で黄色の、目がちかちかするようなパーカーを着た満里奈が手を振っている。隣にいる希美の、揺れるベージュのガウチョパンツが妙に大人っぽく見えた。
二人が土を踏みしめるたびにシャリシャリという砂の音が心地よく明日香の耳に届く。
「二人ともおはよ。ひさしぶり」
「おはよー。ひさしぶり。おはようって言ってももう昼だけどね」
数週間ぶりに会っても満里奈のからかうような笑顔は変わらない。パーカーの下のショートパンツから伸びる足は、相変わらず陸上部らしく引き締まっていた。部活はすでに引退したが、春からも陸上に励むのだから、トレーニングは怠っていないのだろう。
「ほんと、学習期間が始まって以来だから久しぶりだね」
風に靡くミディアムヘアを片手で抑えながら希美がつぶやく。アルバイトは三月の半ばくらいまでは続けるらしく、今までと変わらず、アルバイトに明け暮れる日々を送っているそうだ。
「じゃ、行こうか。合流したからこれから向かうよって流奈に連絡しておくね」
明日香はスマートフォンに文字を打ちながらベンチから立ち上がる。本来なら授業を受けているはずの時間帯。私服姿で堂々と歩けるのは今が家庭学習期間中で登校日がないためだ。
「ありがと、なんだかんだ流奈の家に行くの初めてだよね」
「流奈もばたばたしてたし、あたしたちも受験とかあったからねぇ」
多くの人が働いたり、学校へ行ったりしているはずの平日。静かな時間の中に希美と満里奈の平和な声が溶けていく。
三人はこれから流奈の家に遊びに行く。英司と二人で住んでいた家、今は流奈が一人で住んでいる家だ。あの事件のあとすぐに英司は逮捕となった、流奈は施設で暮らす、という話にもなったが卒業までしかいられないのに今から入所しても慌ただしいだけだと一人暮らしをすることになったのだ。家の契約やら保証人やらに容子がいろいろと力を貸して、なんとか実現することができた。
「流奈もようやくスマホに慣れてきたかな」
「教えるの大変だったんだよ」
満里奈の言葉に希美が軽くため息を混ぜて答える。
「お給料を前借してスマホ買ったはいいけど、ああいう機械にほとんど触ったことないから、電源の入れ方すらわからなかったんだよ。バイト終わった後にみっちり教え込んだんだから」
ふすふすと鼻を鳴らす勢いで喋っているものの、満更でもなさそうだ。
「あれ、そういえば、二人ともバイト休んじゃって大丈夫なの」
「うん、大丈夫、大丈夫。他にも人はいるし、おじさん、ああ見えてすごいんだよ。なんでもてきぱきこなしちゃうんだから」
流奈は一人暮らしが少し落ち着いたタイミングで希美のアルバイト先で働き始めていた。春は進学や就職などでアルバイトが次々にやめていく時期。希美の叔父で店長の松坂義弘は「かわいい姪っ子の友達なら大丈夫」だと言ってろくに履歴書も見ずに採用したらしい。
「いらっしゃい」
インターフォンを押すと白いワンピースを着た流奈が扉を開けた。そのワンピースは明日香が中学生の頃に試しに買ってみたはいいものの、着なくなってしまったワンピースだった。
一度だけ英司の物を処分したり、血の付いたカーペットを新しいものに変えるのを容子と共に手伝ったことがある。その際にあげたいくつかの服のうちの一着だった。
「おじゃましまーす」
リビングに入った明日香は部屋が以前よりも明るくなっているような気がした。開きっぱなしの、空っぽになった英司の部屋にも春の明るい陽射しが差し込んでいる。
「全然何もないけど座って。コーヒー淹れるから」
流奈はあれから前よりもよく笑うようになった。もともと小動物的なかわいらしさがあったのに、最近はなおさらかわいらしくて明日香の胸をドキドキさせている。自分の服を着ているという事実もなんだか胸を擽った。
三人でソファの前にあるローテーブルを囲むように座るとキッチンから流奈の声が響いてきた。
「ねぇ、ホットにする? アイスにする?」
ホットコーヒーは少し熱い。けれどアイスコーヒーは冷たい。そんな微妙な気温だ。
「私はホットがいいな」
「あたしアイス!」
「わたしも、手伝うよ」
「えと、希美がホットで満里奈と明日香がアイスね。大丈夫だよ、気にしないで座ってて」
立ち上がりかけた明日香は流奈の声に再び腰を下ろした。流奈がコーヒーを用意している間に三人が持ち寄ったお菓子をテーブルの上に広げる。ポテトチップス、グミ、クッキー、チョコレート。今日は勉強会でもなんでもなく、ただ友達同士で集まって遊ぶ会だ。
マグカップを二つ、グラスを二つ乗せたお盆がテーブルの上に置かれる。流奈が明日香の隣に座ると早速お菓子パーティーが始まった。小鳥のさえずりのように、女子高生らしいお喋りが続く。四人で集まるのが久しぶりなこともあって、話題は尽きなかった。
「ねぇ見てこれ」
希美がスマートフォンに映し出された画像を三人に見せる。
「これ液タブっていって絵を描くやつなんだけど、初任給で買おうかと思ってどれにしようかなって最近悩んでるんだよね」
「へぇ、こんなのあるんだ」
機械が苦手な流奈は初めて見たものに目を丸くしている。
「うん、親に初任給は絶対に受け取らないからって言われてさ。私もたまには自分にお金使ってもばちは当たらないかなって思ったんだ」
希美は目を細めてマグカップに口を付けた。そう思えるに至るまでの両親とのやりとりを思い出しているのだろう。希美がそれでいいと言って働いていたとはいえ、少し心配だった明日香はほっと胸を撫でおろした。希美はもう少し、わがままになってもいい。
「初任給と言えばさ、流奈はバイトどうなの? 松坂先輩にいじめられてない?」
満里奈はそのまま開いた口に、指先でつまんでいたポテトチップスを投げ入れる。
「希美すごいんだよ! なんでもてきぱきこなしちゃって! わたし、働くなんて初めてだからすごく助けてもらってるよ」
流奈が希美に熱い視線を送りながら語る。想像していなかった言葉に希美が満里奈の隣で顔を赤くしていた。満里奈はそんな二人をころころと笑って見ながら、またポテトチップスを口に入れた。
流奈は希美や他のアルバイトの面々に仕事を教わりながら、可能な限り長い時間働いている。卒業して業務にも慣れたら何かバイトを掛け持ちしようかとも言っていた。いつになるかわからないけれど進学もしたい。ここの家賃も高いし、引っ越し資金を早めに貯めて引越しもしたいんだよね。だから今はたくさん働きたいの。そう流奈が以前こぼしていたのを明日香は聞いていた。この家にあまりいい思い出もないだろう。何かあったらいつでも相談してね、そんなありきたりな返事しかできなかった。
明日香の手に握られたアイスコーヒーの氷がカランと軽い音を立てた。
「社会人でももらえるような奨学金とか見つけたら教えるよ」
「ありがとう。勉強もちゃんとやらなきゃね。やりたいことたくさんあって最近すごく楽しい」
マグカップを両手で包みながら流奈が言う。以前よりほんの少しふっくらとした頬を持ち上げながら柔らかく笑った。
「……そういえばさ、この間おかあさんと連絡がとれたんだ」
「なんて?」
まだ流奈から搾取しようとしているのか。明日香のこめかみがピクリと動いた。
「ごめんなさいって、それだけ。今度会いたいって言ったら泣いてた」
「そっか」
緊張の糸がほどけた明日香の短い言葉には見守るような温かい色があった。四人の間に穏やかな沈黙が流れる。ふと満里奈が口を開いた。
「明日で卒業かぁ。なんかあっという間だったね」
少しの間の後、流奈の口がゆっくりと動く。
「うん、ほんと、あっという間」
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