蕾の花

椿木るり

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第四章 冬の花

カランコエ

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 クラスの半分くらいの生徒が欠席にならない限り、授業はいつもと変わらず進む。一人欠席したくらいならもはや、仲がいい人同士でなければ気が付かないくらいだ。

 辰野満里奈たつのまりなはいつもなら船を漕いでいるはずの現代文の授業でも、今日はしっかり起きていた。起きていたからと言って聞いているとは限らない。満里奈の意識はずっと、空いた流奈るなの席に持っていかれ、授業は全くといっていいほど聞いていなかった。

 空席を見つめる満里奈の頭の中では、一限目の前に明日香から聞いた話が繰り返し再生されていた。机に肩ひじを付きながら、目を閉じて流奈が見たであろう光景を想像してみる。

 頭から血を流す父親、自分の手に握られた、血の付いた灰皿。うまく想像ができなかった。人間が血まみれになった所なんて映画ぐらいでしか見たことがない。チープな血糊を被った役者。あんなのはフィクションだ。

 でもこれは現実。警察、傷害罪、逮捕。いろいろな言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消えていく。流奈が逮捕されて二度と会えない。そんな、妄想に近い恐れまで浮かんできた。

 満里奈だって流奈の家庭には何かある、そんなことはわかっていた。それでも事件の概要はあまりにもショッキングで、自分はどうしたらいいのか全く分からなかった。きっと、詳しくは言っていない、隠していることもあるのだろう。ふいに、不安や恐怖とは違う感情が襲ってくる。

 なんだかいつもあたしのことを蚊帳の外にして三人でなにか秘密を持っているような気がする。満里奈にはその秘密がなにかわからないし、三人ではなくていわゆる、三角関係的な秘密なのかもしれないとも思っていた。仲間外れにされているわけではないけれど、ほんの少しだけ感じていた疎外感、というには未熟な感情が不安を押しのけてじわじわと胸の内に広がっていく。

「じゃあ続きは辰野、読んで」

 急に自分の名前を呼ばれてはっとする。開いた瞼の先で、教師がこちらをじっと見つめていた。寝ていると思われちゃった。満里奈が読み上げる行がわからず焦っていると、隣の席の生徒が小声で教えてくれた。

 その後の授業もずっと集中できず、何度か教師に小言を言われる羽目になったが、友達のおかげでなんとか乗り切り、あっと間に時間が流れていった。

 昼休み、机は三つ。半年と少し前は三人で笑いあっていた。それがはるか昔のことのように思えて、一人が欠けた空間はぽっかりと、穴が空いているみたいだった。

 満里奈は普段の流奈の昼休みの様子を思い浮かべる。菓子パンはおいしくなさそうに食べるくせに、お菓子はおいしそうに食べていた。小さな口を小動物みたいに動かして、特にチョコはおいしそうに食べていたな。保健室で寝ていた日、明日香あすかからもらったチョコがとてもおいしかったんだと、夏休みに二人で勉強した時、そっと教えてくれた。

 たくさんの思い出が一気に蘇って、もう一生会えないような気がして、目の奥が熱くなる。奥に溜まった涙はふりかけのかかったご飯と共に喉を通って落ちていく。

「あたしたち、三人で何話してたんだっけ」

 黙々と弁当の中身を口に運ぶ二人に聞いてみた。

「満里奈が保健室で流奈っていきなり呼んだから、それが仲良くなるきっかけになったよね」

 明日香も昨日までのことを懐かしんでいたのか、食事の手を止めて、穏やかな声で話し始めた。満里奈の質問の答えではないけれど、明日香の一言から会話が弾む。

「わかる! あの時の流奈、ぽかーんて感じの顔してて、面白かったなぁ」
「甘いもの食べる時はにこにこうれしそうにしてるし」
「無表情っぽいけど案外表情豊かだよね」

 希美のぞみが楽しそうに、明日香が表情を思い出しながら。口々に流奈のいいところを言い合う。ひとしきり盛り上がり再び、沈黙が流れた。

「大丈夫、きっとお母さんがなんとかしてくれるよ」

 目線を落としていた明日香がすっと、二人と目を合わせる。

「……うん、また、四人で集まれるよね」

 満里奈の不安げな問いは、昼休みの喧騒の中に消えていった。


 *


 静かな教室に三人だけ。部活の掛け声や、吹奏楽部が鳴らす音が心地よく耳に届く。窓の外にはオレンジ色の水彩絵の具を垂らしたような夕焼けが広がっていた。

 満里奈が埃のついた窓枠にそっと触れると、ひんやりと指先に冷たい感覚が走る。満里奈が外を眺める横に明日香が立ち、すぐ近くの席に希美が座っている。

 放課後残れるか、と明日香に聞かれたのは帰りのホームルームが終わった直後。

『三人とも用事がないなら教室に残っていなさい』

 そう明日香のスマートフォンに容子ようこから連絡が来たらしく、何かあったのか聞いてみても明日香もわからないとしか答えられなかった。

 もともとこの日は三人に予定はなかったが、例えアルバイトや部活があったとしてもきっと無理やりにでも時間を作っただろう。

「流奈の話かな……」

 くるりと、窓に背を向けて満里奈がつぶやく。普段であれば会話がない時間も、それぞれが好きなように過ごす、心地の良い時間だった。だが今日のそれはそんなに居心地のいいものではない。沈黙をなんとか破ろうとした満里奈の言葉に、二人はなんともいえない表情で視線を合わせただけ。続く言葉はない。

 ちょうど三人の絡み合った視線がほどけた時、教室の戸がガラガラと音を立てた。

「流奈!」

 ガタン、と希美が立ち上がる。たくさんの机を挟んで満里奈の真向かいに立つ流奈は駆け寄った希美に手を引かれ、教室の中に足を踏み入れる。

 満里奈はこちらに向かって歩く流奈の姿に目が離せなかった。少しだけ大きい明日香の服を着て、夕陽を真正面から浴びる絆創膏だらけの顔。その顔に笑っているのか悲しんでいるのか、なんともわかりづらい表情を浮かべている。

 流奈が促されるまま、先ほどまで希美が座っていた席に腰掛けた。

「心配したよ」

 椅子を引く音に夢でも見ていたような心地から引っ張り上げられ、かすれた声でそう言う。ごめんね、ともっとかすれた、小さい声が返ってくる。

「お母さんからの連絡、何かと思ったらこういうことだったんだね」
「うん、もし時間が間に合いそうなら学校に行きたいってお願いして、それで連絡してもらったの。ちょっと遅くなっちゃったけど、待っててくれてありがとう」

 明日香と話す流奈の表情が昨日までと違うような気がした。押さえつけていた錘が取り除かれたような、軽い、柔らかい感じ。

「明日香から昨日のこと聞いたよ」

 希美が控えめに言うと流奈がゆっくりと唇を動かし始めた。あ、違う、柔らかいとかそういうのじゃない。満里奈は直感的にそう思った。

「心配かけてごめんなさい。ありがとう。さっき明日香のお母さんと一緒にいろんな人と話をしたんだけど、とりあえずわたしが捕まるようなことはないって」

 そこで一旦切ってごくりと唾を飲み込む。まるであふれそうになる感情を押さえつけるかのように。

「お父さんも、警察の人に保護されたらしくて、多分そのまま逮捕になるって、それで――」

 流奈の目からぼろぼろと大粒の雫が零れ落ちた。涙にオレンジ色の光が反射してキラキラと宝石のように輝いている。え、あ、そんな言葉にならない言葉を口にしながら、流奈は手の甲で目元を拭った。ぐしぐしと、明日香の服を汚さないように袖口を気にしながら。

 とめどなく溢れる涙にだんだんと子供みたいな嗚咽が混ざっていく。眉間にしわを寄せ、震える唇。濡れた顔を隠すように流奈の背中がどんどん丸く、頭が下に崩れ落ちていく。手で顔を覆ってしまった流奈の頭をそっと撫でながら満里奈が声をかけた。

「流奈、また勉強教えてね。あたし馬鹿だから、大学に受かってても授業についていけないかもだからさ。ジュースもまたおごるよ」

 満里奈の声も震えている。

「ジュースなんていらないよ、いらないから、みんな、わたしと一緒にいて……!」

 ぐっと顔を上げて三人と目を合わす。頬のガーゼはすっかり涙を吸い込み、絆創膏は湿って剥がれかけている。それでも涙は止まらない。今まで泣けなかった分をまとめて流しているのではと思うほどだ。

 明日香が流奈を抱きしめ、希美が手を握り、満里奈が肩に頭を乗せて寄り添った。三人の目にも涙が浮かび、四人の体温が混ざり合う。

 夕焼け空に夜色の絵の具が滲み、完全下校のチャイムが鳴り響くまで、四人はそうしていた。
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