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第二章 夏の花
エーデルワイス
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辰野満里奈は区民体育館に向かっていた。部活を終えてジャージのまま傘をさして歩いている。何度も着替えるのが面倒だと制服は白いスポーツバッグの中に詰め込んだ。くるくるともてあそぶ傘は赤い色。元気がもらえそうな色だからと、自転車も傘も筆箱なんかも赤いものを使っている。さすがにジャージやスポーツバッグを赤にするのは派手かと思い白にした。鮮やかな赤に雨が跳ねる音が満里奈の心臓を締め付ける。
体育館に向かっているからと言って気晴らしにバスケットボールがしたくなったわけではない。目的は「トレーニングルーム」だった。二階建ての区民体育館には学校にあるような体育館、トレーニングマシンが設置されたトレーニングルームがある。満里奈は使用したことはないが空手や柔道のために畳が敷かれた競技室とプールも併設されている。
区民体育館に入り、学生料金の二百三十円を払って受付を済ませる。まっすぐ向かったトレーニングルームは特別広いわけではなく、教室二つ分ほどの広さしかない。むしろ少し狭いくらいだが、健康目的には十分なくらいのトレーニングマシンがそろっている。平日の夜なだけあって人はそこまで多くない。周りにいるのはほとんどが自分より一回り近く年上の大人たち。体育館のほうにはいるのかもしれないがこちらに学生らしき人の姿はなかった。
部活は雨に邪魔されてまともに練習ができない。ここ最近はその分部活が終わったら区民体育館のランニングマシンで汗をかいている。もうどれくらい走ったのかとランニングマシンの走行時間を確認すると三十二分と表示されていた。時速八kmに設定してあるのでおおよそ四km走っていることになる。どうりでと頬を伝う汗を半袖の袖口を引っ張り拭う。しかしどんなに長い時間走っても満里奈は短距離走の選手。瞬発力のトレーニングも大事だ。全速力で走ることはそれぞれがスポーツを楽しんでいる区民体育館では危険なためできない。練習したい気持ちを天候に邪魔されるのはこの時期は毎年のことなのだが今年は特に焦りからかいらだちが募る。しかしそれはどこの学校の選手でも同じことだと割り切るしかない。どんなにいらついても天候を左右できるようになるわけではないのだから。もう少し早い時期に開催してくれたらいいのにと心の中で悪態をつくのも毎年のことだ。
外で走っていたら風を切って景色が流れて、無心で走ることができる。でも今は管理されたエアコンの風とシミのついた代り映えのない古い壁紙の中で走っている。ランニングマシンの上で足を動かしていると次々と不安が浮かんできた。全国大会に行けるかどうか。もし行けなかったらどこの大学に行けばいいのか。子供のころから走ってきた満里奈は走ること以外に何をしたらいいのかわからなかった。満里奈はランニングマシンのスピードを少し上げた。
大学で髪を明るく染めてばっちり化粧をし、ピアスを開け、たいして興味のない講義を受ける。なるべく早いうちから就職活動に励み、卒業して職場で知り合った男性と結婚して寿退職。母として子供を産み育て、妻として夫に献身的に尽くす。そんなよくある「女の幸せ」と呼ばれているもの。そんな道を歩む自分の姿を想像することができなかった。そんなこと考える暇もないくらい、走り抜けてきた。大人は子供に、君は自由だ。何にだってなれる。そう言うくせに、大人一歩手前の年齢になったとたん、現実を見ろ、夢を見るなと急に残酷になる。だったら最初から夢なんて持たせなければいいのに。「きっと将来はオリンピック選手ね」そう、嬉しそうに笑ってくれた母も今は満里奈が「普通」の大学に行くことを望んでいる。もっと早く、誰よりも早く。またランニングマシンのスピードをあげた。
*
次の日、珍しく晴れた。雨続きで落ち込んでいた気分も上がる。グラウンドの整備から始まるが今日は外で練習ができるだろう。満里奈はクラスメイトの机をきれいに拭いてあげたいくらいの気持ちで赤い自転車を走らせた。
「久々に晴れたからってうれしそうだね。そこの小麦粉取って」
明日香が上機嫌の満里奈に話しかける。今は四時間目の授業、家庭科の調理実習の真っ最中だ。今日はシフォンケーキを作る。明日香、満里奈、希美、流奈。この四人に男子が二人いる六人グループで実習をしているが、まともにやっているのは明日香と希美くらいだった。男子二人はなぜかどこにもいなく、満里奈は窓から水たまりが光るグラウンドを眺め、流奈は希美がメレンゲを泡立てている横でぼうっと立っている。
「流奈って料理するの?」
「家のご飯は毎日作っているけどお菓子は作ったことない」
「毎日作ってるの? すごいね!」
「ありがと。うちお父さんと二人だからさ」
父親と二人だけ。希美と流奈の会話を聞いていた二人にも例の噂話が頭をよぎる。流奈と一緒にいるとときどき噂の真相を聞いてくる人や、あんまり一緒にいないほうがいいと忠告をしてくる人がいる。もちろん三人はすべて無視しているがこういうふとした会話で気になってしまうときがある。そうなんだ、と希美が会話を終わらせ、実習に参加していないもう満里奈に話しかける。
「ちょっと運動部。変わってよー。疲れちゃった」
「えー、やだよ。疲れるじゃんそれ」
ハンドミキサーではなく泡だて器でメレンゲを泡立てるのはなかなか大変だ。シフォンケーキ用のメレンゲならかなり固く泡立てないと膨らまない。泡立て終わるころには腕がぱんぱんになってしまう。
「ねぇ希美、そのふわふわしたの何? 生クリーム?」
「え、メレンゲ知らないの?」
「メレンゲ?」
流奈はお菓子を作ってるところなど見たことがない。シフォンケーキも教科書に載っている写真で初めて知った。メレンゲを知らないことに驚きぽかんと口を開けている満里奈と希美。その目の前で小麦粉の分量を量っている明日香がてきぱきと指示を出す。
「満里奈、メレンゲ作るの手伝ってあげて。流奈はこっち来て小麦粉ふるって」
はあい、と返事をしてそれぞれが言われたとおりに動く。なんでハンドミキサー使わせてくれないの、と満里奈がぶつぶつ言いながら希美から泡だて器を受け取る。
「明日香。シフォンケーキっておいしい?」
「うん、甘くておいしいよ。口の中でふわってなる」
「なにそれ。どういうこと?」
流奈はふふっと笑う。ふるっていた小麦粉が少し飛んでしまったが、流奈の横顔を見ていた
明日香は気づかなかった。流奈の笑顔は一瞬たりとも見逃したくなかった。
甘い匂いが漂う家庭科室にお弁当を持ち込んでお昼休みを過ごす。本来ならシフォンケーキは焼いた後に型ごとひっくり返して完全に冷めてから食べる。調理実習にそこまでの時間は含まれてはいないので焼き立てのケーキを切り分けて皿に取り分ける。ケーキの横に生クリームを添えて完成。いなかった男子二人がいつの間にか戻ってきていた。
「ほんとにふわってしてる」
メレンゲの泡立てが足りなかったのか膨らみ足りずにつぶれてしまったシフォンケーキを流奈はうっとりしながら食べている。自分たちのせいでうまくいかなかったのかと少し落ち込んでいた満里奈と希美はそんな流奈の様子を見て今日の空のように晴れやかな気持ちになった。
「じゃ、部活行くねー! また来週ね!」
帰りのホームルームが終わり、満里奈が勢いよく教室を出て行った。今日は金曜日、満里奈の大会一日目は来週の水曜日に控えている。この週末は晴れの予報だった。満里奈の最後の追い込み練習が始まった。
体育館に向かっているからと言って気晴らしにバスケットボールがしたくなったわけではない。目的は「トレーニングルーム」だった。二階建ての区民体育館には学校にあるような体育館、トレーニングマシンが設置されたトレーニングルームがある。満里奈は使用したことはないが空手や柔道のために畳が敷かれた競技室とプールも併設されている。
区民体育館に入り、学生料金の二百三十円を払って受付を済ませる。まっすぐ向かったトレーニングルームは特別広いわけではなく、教室二つ分ほどの広さしかない。むしろ少し狭いくらいだが、健康目的には十分なくらいのトレーニングマシンがそろっている。平日の夜なだけあって人はそこまで多くない。周りにいるのはほとんどが自分より一回り近く年上の大人たち。体育館のほうにはいるのかもしれないがこちらに学生らしき人の姿はなかった。
部活は雨に邪魔されてまともに練習ができない。ここ最近はその分部活が終わったら区民体育館のランニングマシンで汗をかいている。もうどれくらい走ったのかとランニングマシンの走行時間を確認すると三十二分と表示されていた。時速八kmに設定してあるのでおおよそ四km走っていることになる。どうりでと頬を伝う汗を半袖の袖口を引っ張り拭う。しかしどんなに長い時間走っても満里奈は短距離走の選手。瞬発力のトレーニングも大事だ。全速力で走ることはそれぞれがスポーツを楽しんでいる区民体育館では危険なためできない。練習したい気持ちを天候に邪魔されるのはこの時期は毎年のことなのだが今年は特に焦りからかいらだちが募る。しかしそれはどこの学校の選手でも同じことだと割り切るしかない。どんなにいらついても天候を左右できるようになるわけではないのだから。もう少し早い時期に開催してくれたらいいのにと心の中で悪態をつくのも毎年のことだ。
外で走っていたら風を切って景色が流れて、無心で走ることができる。でも今は管理されたエアコンの風とシミのついた代り映えのない古い壁紙の中で走っている。ランニングマシンの上で足を動かしていると次々と不安が浮かんできた。全国大会に行けるかどうか。もし行けなかったらどこの大学に行けばいいのか。子供のころから走ってきた満里奈は走ること以外に何をしたらいいのかわからなかった。満里奈はランニングマシンのスピードを少し上げた。
大学で髪を明るく染めてばっちり化粧をし、ピアスを開け、たいして興味のない講義を受ける。なるべく早いうちから就職活動に励み、卒業して職場で知り合った男性と結婚して寿退職。母として子供を産み育て、妻として夫に献身的に尽くす。そんなよくある「女の幸せ」と呼ばれているもの。そんな道を歩む自分の姿を想像することができなかった。そんなこと考える暇もないくらい、走り抜けてきた。大人は子供に、君は自由だ。何にだってなれる。そう言うくせに、大人一歩手前の年齢になったとたん、現実を見ろ、夢を見るなと急に残酷になる。だったら最初から夢なんて持たせなければいいのに。「きっと将来はオリンピック選手ね」そう、嬉しそうに笑ってくれた母も今は満里奈が「普通」の大学に行くことを望んでいる。もっと早く、誰よりも早く。またランニングマシンのスピードをあげた。
*
次の日、珍しく晴れた。雨続きで落ち込んでいた気分も上がる。グラウンドの整備から始まるが今日は外で練習ができるだろう。満里奈はクラスメイトの机をきれいに拭いてあげたいくらいの気持ちで赤い自転車を走らせた。
「久々に晴れたからってうれしそうだね。そこの小麦粉取って」
明日香が上機嫌の満里奈に話しかける。今は四時間目の授業、家庭科の調理実習の真っ最中だ。今日はシフォンケーキを作る。明日香、満里奈、希美、流奈。この四人に男子が二人いる六人グループで実習をしているが、まともにやっているのは明日香と希美くらいだった。男子二人はなぜかどこにもいなく、満里奈は窓から水たまりが光るグラウンドを眺め、流奈は希美がメレンゲを泡立てている横でぼうっと立っている。
「流奈って料理するの?」
「家のご飯は毎日作っているけどお菓子は作ったことない」
「毎日作ってるの? すごいね!」
「ありがと。うちお父さんと二人だからさ」
父親と二人だけ。希美と流奈の会話を聞いていた二人にも例の噂話が頭をよぎる。流奈と一緒にいるとときどき噂の真相を聞いてくる人や、あんまり一緒にいないほうがいいと忠告をしてくる人がいる。もちろん三人はすべて無視しているがこういうふとした会話で気になってしまうときがある。そうなんだ、と希美が会話を終わらせ、実習に参加していないもう満里奈に話しかける。
「ちょっと運動部。変わってよー。疲れちゃった」
「えー、やだよ。疲れるじゃんそれ」
ハンドミキサーではなく泡だて器でメレンゲを泡立てるのはなかなか大変だ。シフォンケーキ用のメレンゲならかなり固く泡立てないと膨らまない。泡立て終わるころには腕がぱんぱんになってしまう。
「ねぇ希美、そのふわふわしたの何? 生クリーム?」
「え、メレンゲ知らないの?」
「メレンゲ?」
流奈はお菓子を作ってるところなど見たことがない。シフォンケーキも教科書に載っている写真で初めて知った。メレンゲを知らないことに驚きぽかんと口を開けている満里奈と希美。その目の前で小麦粉の分量を量っている明日香がてきぱきと指示を出す。
「満里奈、メレンゲ作るの手伝ってあげて。流奈はこっち来て小麦粉ふるって」
はあい、と返事をしてそれぞれが言われたとおりに動く。なんでハンドミキサー使わせてくれないの、と満里奈がぶつぶつ言いながら希美から泡だて器を受け取る。
「明日香。シフォンケーキっておいしい?」
「うん、甘くておいしいよ。口の中でふわってなる」
「なにそれ。どういうこと?」
流奈はふふっと笑う。ふるっていた小麦粉が少し飛んでしまったが、流奈の横顔を見ていた
明日香は気づかなかった。流奈の笑顔は一瞬たりとも見逃したくなかった。
甘い匂いが漂う家庭科室にお弁当を持ち込んでお昼休みを過ごす。本来ならシフォンケーキは焼いた後に型ごとひっくり返して完全に冷めてから食べる。調理実習にそこまでの時間は含まれてはいないので焼き立てのケーキを切り分けて皿に取り分ける。ケーキの横に生クリームを添えて完成。いなかった男子二人がいつの間にか戻ってきていた。
「ほんとにふわってしてる」
メレンゲの泡立てが足りなかったのか膨らみ足りずにつぶれてしまったシフォンケーキを流奈はうっとりしながら食べている。自分たちのせいでうまくいかなかったのかと少し落ち込んでいた満里奈と希美はそんな流奈の様子を見て今日の空のように晴れやかな気持ちになった。
「じゃ、部活行くねー! また来週ね!」
帰りのホームルームが終わり、満里奈が勢いよく教室を出て行った。今日は金曜日、満里奈の大会一日目は来週の水曜日に控えている。この週末は晴れの予報だった。満里奈の最後の追い込み練習が始まった。
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