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第一章 春の花
ツクシ
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「満里奈せんぱーい。おつかれさまでしたー!」
学校の駐輪場で後輩部員たちが元気よく挨拶して帰っていく。辰野満里奈はまたあした、と手を振って白いスポーツバッグが入った赤い自転車にまたがった。高校の入学祝いに買ってもらったお気に入りの自転車。最初だけ少し重いペダルを踏み、何回か漕ぐと車輪が軽快に回る。春の夜風が汗をかいた肌にひやりと当たって少しだけ寒かった。
陸上部で短距離走をしている満里奈は徒歩では感じられない、風を切って走る感覚が大好きだった。大会前以外、部活は十九時まで。そこから着替えて自転車で家に帰ってだいたい十九時半。満里奈は部活の日は自転車で通学している。部活のない日は友達とだらだら歩いて帰りたいから徒歩だ。
三十年ローンで買った二階建ての一軒家。家の前に停められ黒い軽自動車の横に自転車を止め、家の中に入る。玄関のすぐ横にある階段の一段目に白のスポーツバックを置いてリビングに入った。
「ただいまぁ」
「おかえり」
三歳年上の兄、俊介が返事をしてくれた。大学二年生になった兄は髪を明るい茶色に染め、片耳にピアスを開けている。どこにでもいそうな大学生、という見た目にグレーのスウェットを着ている。
「部活の調子はどうよ」
「まぁまぁかな」
俊介はソファにもたれかかってテレビを見ている。
「ママとパパは?」
「おふくろは風呂。親父は飲み会。メシ、カレーだから。あっためて食べてってさ」
「うん。ありがと」
たしかにお風呂場のほうからシャワーの流れる音がする。コンロの火をつけてカレーの入った鍋を温める。
「お前進路決めたの?」
「体育大にするつもりだけど」
カレーが焦げ付かないようにぐるぐるとおたまで鍋をかき回す。
「まだそんなこと言ってんのかよ。体育大いってどうするんだ? 陸上選手なんてなれるわけないだろ。体育教師にでもなるつもりか?」
俊介は高校までサッカーをしていた。全国大会に出場するほどの選手だったが大学は全く関係ない、近くの大学の経済学部に入った。いまはときどき仲間内でサッカーを楽しんでいる程度らしい。
「そんなのやってみないとわからないじゃない。それに体育教師だって立派な仕事でしょ」
「わかってないなぁ。今どきの子供は言うこと聞かないぞ。お前が教師になるころにはモンスターペアレントとかもっと増えているぞ」
つまらなそうなテレビをつまらなそうに見ながら俊介が悪びれもせず言う。
「ぐちぐちうるさいな! お兄ちゃんには関係ないよ!」
満里奈がおたまをシンクに捨てると、水につけられた二人分の食器にガシャンと当たった。俊介のほうは見ずにリビングを出ていく。階段に置かれたスポーツバッグを持って二階にある自室に駆け込んだ。体育大に行ってどうするんだ、陸上選手になんてなれるわけない、そんなことは自分でも思っていた。満里奈は全国大会に出場したことは中学生の時に一度と、高校一年生の時に一度しかない。どちらも一回戦敗退。そんな自分が陸上選手になる確率よりも、練習中に車にひかれる確率のほうがよっぽど高いだろう。そんなことはわかったうえで体育大と言ったのだ。
満里奈は部屋の電気もつけずにクローゼットから白のジャージを取り出して着替える。紫のスカーフを無造作に投げ捨て、制服をハンガーにかけることもせずに部屋を飛び出した。
街灯がぽつぽつと並ぶだけの寂しい夜道を走る。どこに向かうかもペース配分もなにも考えていない。
走りながらも満里奈の頭はフル回転だった。兄が言っているのは妹を心配してのことなのはわかっている。陸上は自分の趣味として楽しんで、大学や仕事は別に考えたほうがいい。短距離走ではないがマラソン大会なら働きながら出ている人もたくさんいる。好きなことは好きなままで。それでいいじゃないか。わかってはいるけれどそうじゃないんだ、と叫びたい気持ちを我慢して走った。
満里奈自身もまだ体育大を第一志望と決めたわけではなかった。夏の公式大会。高体連で全国出場を果たしたら正式に志望を定めると決めていた。結果がなければ決められないなんて。自分自身に嫌気がさしてしまう。
気が付くと公園についた。誰もいない公園は寂しそうに見えて、歩きに変えて中に入る。体中に酸素を送るために心臓が激しく動いているのがよくわかる。休憩しようとブランコに座った。満里奈は幼いころ、よくこの公園で俊介と遊んだことを思い出した。サッカーをしたり、追いかけっこをしたり。幼稚園の運動会のかけっこで一番をとった。その時に家族が喜んでくれるのがうれしくて走るのも好きになった。小学生のときは学校から帰ると毎日走った。運動会ではいつも一番だった。中学で陸上部に入って、短距離走を本格的に始めた。誰よりも早く走る喜び。ほんのゼロコンマの秒数を縮めるためだけに日々努力をしてきた。それでも、自分より早い人なんてごまんといる。練習するほど、大会に出るほど、痛感した。
ブランコをゆらゆら揺らしながら空を見上げると、満月が浮かんでいた。そういえば部屋の電気、つけてないのに割と見えてたな。あれは月明かりのおかげだったんだと気づいた。
「おーい。かえるぞー」
視線を地上に戻すと公園の入り口に俊介が立っていた。スウェットの上にウィンドブレーカーを着て一番上までファスナーを閉めている。
「なんでここにいるってわかったの」
「おまえ機嫌悪くなったらいつもここに来るだろ」
そうだっけ、と思いながら素直にブランコから立ち上がる。
「あ! ジャージ汚れちゃった!」
白のジャージのズボンのポケットのあたり。ブランコのチェーンに塗られた黒い油がべったりついていた。
「いいから、風邪ひくから帰るぞ。メシ食ってる間につけ置きしとけば取れんだろ」
はぁい、ととぼとぼ俊介の横を歩く。これお気に入りなのに。はぁと大きくため息をついた。まぁ仕方がないか。ため息とともにもやもやした気持ちが出て行ったのかとたんに空腹が襲ってきた。カレーが食べたいから、さっさと帰ろう。
カレーをぺろっと二人前食べてお風呂に入る。ジャージを汚したことに母はご立腹だった。外でのスポーツをしている身としてはジャージを汚して怒られるのは日常だ。申し訳ないとは思いつつも聞き流していた。
肩までお湯につかりながらふくらはぎをもむ。疲れがたまらにように毎日マッサージやストレッチを欠かさない。
部屋に戻って床に散らばった制服をハンガーにかける。さっき母が洗ってくれたジャージも部屋に干した。洗濯したての柔軟剤のいい匂いが部屋に充満する。ポケットのあたりを確認すると油汚れはきれいに落ちていた。ベッドの上で軽くストレッチをして布団に入る。部活で走って、帰ってからも走って。さすがに疲れたようで余計なことを考える暇もなく眠りに落ちた。
満里奈は目覚ましが一度鳴ったくらいじゃ起きられない。一度目は無視して十分後にもう一度鳴った目覚ましでやっと起きる。
のそのそと階段を下りてリビングに行くと、朝食が用意されていた。トーストと目玉焼きとデザートのキウイを食べて制服に着替える。紫のスカーフを結び、髪をポニーテールに結わえて日焼け止めを塗る。白いスポーツバッグを肩にかけて家を出ると太陽が温かい日差しを放っていた。
自転車にまたがり学校まで風を切って走る。今日もまた、友達と笑いあってつまらない授業を受ける一日が始まった。
学校の駐輪場で後輩部員たちが元気よく挨拶して帰っていく。辰野満里奈はまたあした、と手を振って白いスポーツバッグが入った赤い自転車にまたがった。高校の入学祝いに買ってもらったお気に入りの自転車。最初だけ少し重いペダルを踏み、何回か漕ぐと車輪が軽快に回る。春の夜風が汗をかいた肌にひやりと当たって少しだけ寒かった。
陸上部で短距離走をしている満里奈は徒歩では感じられない、風を切って走る感覚が大好きだった。大会前以外、部活は十九時まで。そこから着替えて自転車で家に帰ってだいたい十九時半。満里奈は部活の日は自転車で通学している。部活のない日は友達とだらだら歩いて帰りたいから徒歩だ。
三十年ローンで買った二階建ての一軒家。家の前に停められ黒い軽自動車の横に自転車を止め、家の中に入る。玄関のすぐ横にある階段の一段目に白のスポーツバックを置いてリビングに入った。
「ただいまぁ」
「おかえり」
三歳年上の兄、俊介が返事をしてくれた。大学二年生になった兄は髪を明るい茶色に染め、片耳にピアスを開けている。どこにでもいそうな大学生、という見た目にグレーのスウェットを着ている。
「部活の調子はどうよ」
「まぁまぁかな」
俊介はソファにもたれかかってテレビを見ている。
「ママとパパは?」
「おふくろは風呂。親父は飲み会。メシ、カレーだから。あっためて食べてってさ」
「うん。ありがと」
たしかにお風呂場のほうからシャワーの流れる音がする。コンロの火をつけてカレーの入った鍋を温める。
「お前進路決めたの?」
「体育大にするつもりだけど」
カレーが焦げ付かないようにぐるぐるとおたまで鍋をかき回す。
「まだそんなこと言ってんのかよ。体育大いってどうするんだ? 陸上選手なんてなれるわけないだろ。体育教師にでもなるつもりか?」
俊介は高校までサッカーをしていた。全国大会に出場するほどの選手だったが大学は全く関係ない、近くの大学の経済学部に入った。いまはときどき仲間内でサッカーを楽しんでいる程度らしい。
「そんなのやってみないとわからないじゃない。それに体育教師だって立派な仕事でしょ」
「わかってないなぁ。今どきの子供は言うこと聞かないぞ。お前が教師になるころにはモンスターペアレントとかもっと増えているぞ」
つまらなそうなテレビをつまらなそうに見ながら俊介が悪びれもせず言う。
「ぐちぐちうるさいな! お兄ちゃんには関係ないよ!」
満里奈がおたまをシンクに捨てると、水につけられた二人分の食器にガシャンと当たった。俊介のほうは見ずにリビングを出ていく。階段に置かれたスポーツバッグを持って二階にある自室に駆け込んだ。体育大に行ってどうするんだ、陸上選手になんてなれるわけない、そんなことは自分でも思っていた。満里奈は全国大会に出場したことは中学生の時に一度と、高校一年生の時に一度しかない。どちらも一回戦敗退。そんな自分が陸上選手になる確率よりも、練習中に車にひかれる確率のほうがよっぽど高いだろう。そんなことはわかったうえで体育大と言ったのだ。
満里奈は部屋の電気もつけずにクローゼットから白のジャージを取り出して着替える。紫のスカーフを無造作に投げ捨て、制服をハンガーにかけることもせずに部屋を飛び出した。
街灯がぽつぽつと並ぶだけの寂しい夜道を走る。どこに向かうかもペース配分もなにも考えていない。
走りながらも満里奈の頭はフル回転だった。兄が言っているのは妹を心配してのことなのはわかっている。陸上は自分の趣味として楽しんで、大学や仕事は別に考えたほうがいい。短距離走ではないがマラソン大会なら働きながら出ている人もたくさんいる。好きなことは好きなままで。それでいいじゃないか。わかってはいるけれどそうじゃないんだ、と叫びたい気持ちを我慢して走った。
満里奈自身もまだ体育大を第一志望と決めたわけではなかった。夏の公式大会。高体連で全国出場を果たしたら正式に志望を定めると決めていた。結果がなければ決められないなんて。自分自身に嫌気がさしてしまう。
気が付くと公園についた。誰もいない公園は寂しそうに見えて、歩きに変えて中に入る。体中に酸素を送るために心臓が激しく動いているのがよくわかる。休憩しようとブランコに座った。満里奈は幼いころ、よくこの公園で俊介と遊んだことを思い出した。サッカーをしたり、追いかけっこをしたり。幼稚園の運動会のかけっこで一番をとった。その時に家族が喜んでくれるのがうれしくて走るのも好きになった。小学生のときは学校から帰ると毎日走った。運動会ではいつも一番だった。中学で陸上部に入って、短距離走を本格的に始めた。誰よりも早く走る喜び。ほんのゼロコンマの秒数を縮めるためだけに日々努力をしてきた。それでも、自分より早い人なんてごまんといる。練習するほど、大会に出るほど、痛感した。
ブランコをゆらゆら揺らしながら空を見上げると、満月が浮かんでいた。そういえば部屋の電気、つけてないのに割と見えてたな。あれは月明かりのおかげだったんだと気づいた。
「おーい。かえるぞー」
視線を地上に戻すと公園の入り口に俊介が立っていた。スウェットの上にウィンドブレーカーを着て一番上までファスナーを閉めている。
「なんでここにいるってわかったの」
「おまえ機嫌悪くなったらいつもここに来るだろ」
そうだっけ、と思いながら素直にブランコから立ち上がる。
「あ! ジャージ汚れちゃった!」
白のジャージのズボンのポケットのあたり。ブランコのチェーンに塗られた黒い油がべったりついていた。
「いいから、風邪ひくから帰るぞ。メシ食ってる間につけ置きしとけば取れんだろ」
はぁい、ととぼとぼ俊介の横を歩く。これお気に入りなのに。はぁと大きくため息をついた。まぁ仕方がないか。ため息とともにもやもやした気持ちが出て行ったのかとたんに空腹が襲ってきた。カレーが食べたいから、さっさと帰ろう。
カレーをぺろっと二人前食べてお風呂に入る。ジャージを汚したことに母はご立腹だった。外でのスポーツをしている身としてはジャージを汚して怒られるのは日常だ。申し訳ないとは思いつつも聞き流していた。
肩までお湯につかりながらふくらはぎをもむ。疲れがたまらにように毎日マッサージやストレッチを欠かさない。
部屋に戻って床に散らばった制服をハンガーにかける。さっき母が洗ってくれたジャージも部屋に干した。洗濯したての柔軟剤のいい匂いが部屋に充満する。ポケットのあたりを確認すると油汚れはきれいに落ちていた。ベッドの上で軽くストレッチをして布団に入る。部活で走って、帰ってからも走って。さすがに疲れたようで余計なことを考える暇もなく眠りに落ちた。
満里奈は目覚ましが一度鳴ったくらいじゃ起きられない。一度目は無視して十分後にもう一度鳴った目覚ましでやっと起きる。
のそのそと階段を下りてリビングに行くと、朝食が用意されていた。トーストと目玉焼きとデザートのキウイを食べて制服に着替える。紫のスカーフを結び、髪をポニーテールに結わえて日焼け止めを塗る。白いスポーツバッグを肩にかけて家を出ると太陽が温かい日差しを放っていた。
自転車にまたがり学校まで風を切って走る。今日もまた、友達と笑いあってつまらない授業を受ける一日が始まった。
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