蕾の花

椿木るり

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第一章 春の花

ミツマタ

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 放課後、黒崎流奈くろさきるなは机に乗せたバッグに頭を沈め、何をして時間を潰そうかと悩んでいた。行きたいところも行くところもない。でも早い時間に家に帰りたくない。もうすでにチャイムがなってから一時間が経過し、教室には誰もいなくなっていた。

 開きっぱなしの窓から桜の匂いを含んだ風が流れ込んで、肌を滑っていく。肌寒さを感じて席を立ち、窓に手をかけるとグラウンドに誰かいるのが目についた。

 三年生の教室は四階。四階からグラウンドは遠くて誰がいるのかまでは見えないが、三人の女子生徒だということは分かった。その三人が今まさに、快晴の下で「青春の一ページ」を作り上げている最中だ。

 うらやましいとも、輪の中に入りたいとも思わない。けれど、ぼうっと過ごすよりかは退屈しのぎになると、眺めていることにした。窓は開いたままなのに不思議と風の冷たさは気にならない。むしろ鼻をくすぐる桜の匂いが心地よくすらあった。

 遠目でよくわからないけれどグラウンドの三人は楽しそうに見えた。全然休まずに走り続けるポニーテールの女の子。それを見守るベンチの二人。座っているうちの一人はバッグからスケッチブックを取り出して絵を描き始めた。なぜあんなに走っているのか、絵なんか描いて何になるのか、流奈にはさっぱりわからない。

 時間を忘れて眺めていると、少しずつ遠い空の向こう側がオレンジ色に染まり始めた。どうやら練習は終わったらしく、軽くストレッチをして校舎に戻っていくのが見えた。座っていた二人もベンチから立って校門の方へ向かう。わたしもそろそろ帰ろう。流奈は窓際から離れて机の上のスクールバッグを肩にかけた。

 当たり前だが廊下に誰もいない。薄暗い不気味な廊下に、ゴム製の靴底のキュッという音が反響する。玄関を潜り抜けた時に後ろから足音が聞こえた気がしたが、振り返ることなく、歩き続けた。

 オレンジ色に溶け込む街並みは何年たっても代り映えしない。家から一番近い公立高校。たったそれだけの理由で決めた学校から自宅までの距離は歩いて二十分程度。間違いなく二年間何一つ変わっていない二十分を歩ききり、生まれた時からずっと住んでいる二LDKのマンションに辿り着いた。

 扉を開けてもおかえり、なんていう優しい声が聞こえてくることはなく、時計の秒針の音だけがむなしく流奈の帰宅を迎えた。廊下を抜け、リビングを抜け、ベッドと学習机と透明の衣装ケースしかない殺風景な自室にバッグを置いた。

 流奈の細い指が紫色のスカーフを解き、胸当てのボタンをはず。スカートのファスナーを下ろした時に長い黒髪がさらりと流水のように流れた。

 脱いだ制服をハンガーにかけ、衣装ケースから取り出したジャージに着替える。少し幼めな顔つきの流奈がジャージを着ると中学生のようにも見えた。

 着替え終わって、脱衣所に寄って靴下を洗濯機に入れて、台所に向かい夕飯の支度を始める。毎日同じ道を歩き、同じことを繰り返す。流奈の日常のすべてが流れ作業と同じだった。何も変わり映えのしない、生きるための作業をこなすだけの日々。


 *


 時刻は十八時半、夕飯がおおかた作り終わった頃、鍵が開く音がした。急いで玄関に向かい、三つ指ついて出迎える。これも毎日の作業のひとつだ。
 
 「おかえりなさい、お父さん」

 現場で建築の仕事をしている父、英司えいじが流奈を見下ろす。流奈にとってこの三十秒が一日の中で一番長い時間だった。帰宅後の父親の機嫌が普通か悪いかで、夜の時間の過ごし方が変わってくるからだ。

 背が高く、仕事で鍛えられた体は今年で四十三歳を迎えるようにはとても見えない。頑丈な筋肉で覆われた体は女の流奈はもちろん並みの男でも敵わないだろう。
  
 ドスッ!
 
 三つ指ついて頭を下げている脇と太ももの隙間から、英司の足が流奈のみぞおちを蹴りあげる。流奈のあばら骨がきしきしと悲鳴を上げ、胃からは酸っぱい液体が逆流しそうになるも何とかこらえた。
 
 「お出迎え、遅くてごめんなさい、お父さん」
 
 英司は丸まってみぞおちを抑えながら謝る流奈を容赦なく踏み、蹴り続ける。無抵抗の流奈の体はごろんと横向きに転がってしまった。

 どいつもこいつもバカにしやがって、とぶつぶつ低くつぶやく英司。自分のストレスと怒りを無関係の娘にぶつける。真っ赤に血走る眼球は、流奈を娘ではなくサンドバッグ、もしくはそれ以下と認識していた。
 
 引きずられるように連れていかれ、殺風景な部屋のベッドに投げ飛ばされた。簡素な作りのワイヤーベッドがぎしりと悲鳴をあげた。

 作業服のベルトを外す音と英司の荒い呼吸の音が部屋に響く。

 流奈は強引に立たされた時に痛めた腕を無理やり動かして服を脱ぎ、一糸まとわぬ姿で四つん這いになった。もちろんこれも英司からのいいつけ。この家には流奈が守らなければならないルールが山ほどある。一つ破れば殴られ、すべて守っていても父親の機嫌が悪ければ殴られる。これに耐えることも流奈の生きるための作業だった。

 ベッドが軋むたびにずり落ちていた黒のジャージと下着がついにばさりと音を立てて、ベッドから落ちた。私服は男物のジャージが二着とワンピースを一着。下着が数枚。それしか持っていない。中学生のころはもう少し服を持っていたが「あばずれが着る服だ」と言ってほとんど捨てられてしまった。透明なごみ袋に詰め込まれた服が、上半身と下半身に分けられて踏みつぶされた死体のように見えて、それがきっと、将来の自分の姿なのだと感じた。その記憶は今も流奈の頭の片隅に置かれている。

 流奈の裸体は肋骨が軽く浮きあがるほど細く、血管が透けるほど白い。申し訳程度の胸の膨らみと、幼い子供のように毛の生えていない女の部分。そんな子供と大人の中間の体には痛々しい青あざがこれでもかとついている背中にあるたばこを押し当てた痕も、流奈の人生がいかに凄惨であったかを物語っていた。

 なんの準備もしていない体がいきなり男を受け入れれば激痛が走るが、もうその痛みにも慣れてしまった。

 初めてがいつだったかはもう覚えていない。気がついたら流奈は父親に殴られていた。幼いころから躾と称して殴られる毎日。母親は毎日、夫の顔色をうかがい媚へつらい、少しでも機嫌を損ねそうなことをしたらすぐに流奈のせいにした。それでも時折優しく頭をなでてくれたので、流奈は英司ほど母親のことが嫌いになれなかった。

 そんな日々がある時から別のものに変わった。

 胸が少しずつ膨らんできた小学校高学年の、ある日の平日。英司が仕事に行っている間に母がこっそり流奈に学校を休ませた。一緒にショッピングモールへ行ってブラジャーを買いに行ったのだ。物なんてめったに買ってもらえないし、初めてのブラジャーは大人になれた気がして流奈は目の奥をキラキラと輝かせた。大人になったらこの地獄から抜け出せるかもしれない。だから早く大人になりたい。この頃はまだ、そんな淡い希望を抱いていた。

 ブラジャーを買ってもらったあたりから英司は流奈の体をにやにやと見るようになった。まだ流奈にはそれがどんな顔なのかわからず、なんだか不気味だな、くらいにしか思っていなかった。成長とともに体は少しずつ大人の女になる。母がいない日、珍しく英司に、こっちにおいでと声をかけられた。なあに、お父さん。滅多に聞けない父の優しそうな声に心を弾ませて傍へ寄った。

  両親の寝室に連れていかれると、急に腕を掴み布団の上に投げ飛ばされた。殴られる、体を硬直させて身構えるも拳は飛んでこない。不思議に思って緊張を緩ませると、頭上からさきほどと同じ優しい声が降り注いだ。
 
「いいか、これから起きることはだれにも言うなよ。もちろん母さんにもだ。父さんはお前のことが大好きなんだ。お前のことを愛しているって今まで何百回も言ってきたよな。父さんの愛ならなんでも受け止められるよな?」

 そこまで言うと、英司は実の娘の胸を揉み始める。肌に触れ、舐め、荒い吐息を漏らす。何が起きているのかわからない幼い流奈は大量の汗をかき、小刻みに体を震わせていた。英司はひとしきり幼い体を堪能すると無理やり中に入ろうとしてくる。流奈は体が半分に引き裂かれるような激痛に叫び声をあげそうになる。

 一瞬、痛みから解放された。

 安堵した瞬間に体をひっくり返され、四つん這いにされる。頭をシーツに押し付けられ、先ほどの非ではない痛みが体の奥底まで走った。叫び声はおろか呼吸すらうまくできない。

 英司は流奈から流れる赤い血など気にもせず、獣のように夢中で腰を振っている。枕に押し付けられた顔は涙と鼻水と涎が混ざってぐちゃぐちゃだった。

 この日から流奈の体は成長しなくなった。身長も伸びず、胸はもそれ以上は膨らむことがなかった。高校生になった今も子供を産む体にはなれていない。
 
 初めて犯されたあの日。結局痛みに耐えられなかった流奈は気を失ってしまった。目が覚めた時にシーツについていた赤い血を今も鮮明に覚えている。もちろん汚してしまったシーツは自分で洗った。

 もう痛みで気を失うことも血が出てくることもない。自分は父のいろいろな欲を満たすだけの道具。母は娘を犯す夫が怖くなったのか。道具になり果てた娘が怖くなったのか、高校入学まで見届けて出ていった。母がいなくなった日、流奈の部屋にあった小さなメモ長の切れ端にはごめんなさいと、震えた字で書かかれていた。

 大人なることすら英司に奪われてしまった。ここからは一生出ていけない。地獄から逃れることはできないのだと、諦めていた。英司が勢いよく腰を押し付ける。満足したのか、英司はさっさと部屋を出てリビングでたばこをふかし始めた。

 流奈は仰向けになって手足を伸ばす。天井の顔のような三つのシミが自分をあざ笑っている気がした。
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